単純な女、と言うのは自分のことを言うのだろう。きっと絵心にとってはささいなあの言葉を後生大事に胸に抱いて実行しようとするのだから。
大学生になって心掛けるようになったことがある。なるべく胸を張って猫背にならない。はきはき話すようにする。これを実践するだけで見違えるほど世界は変わった。けれど実践するきっかけが絵心の言葉に感化されて、と言うのが自分がいかにちょろい女かよくわかる。
念願かなって入学した大学での生活はなまえが思い描いていたよりも随分充実していた。多数ある学科の中でも女子の少ない学科に入って。女子の数が少ない学科ではあるけれど、その数少ない女子ともお友達になれたので円満な学生生活は送れているだろう。
今日も学科の女の子たちと人魚がモチーフになっているコーヒーショップに向かう予定だ。
期間限定のフラペチーノが今日から発売なので。いちご味だというそれを発表されたときからずっと楽しみにしていた。
二限目の講義を終えてなまえを含めた女子四人で教室を後にする。
いつもつるんでいる面子だ。教室から出るときに同じ学科の男子に昼食に一緒にカフェでもどうか、と誘われたけれど友人の一人が断った。
学科内でチャラいという評判のその有名な男子の相手をしなくていいというのは安心する。
高校時代も当たり障りのない関係しか異性と築いてきていないのでああいうのには慣れていないのだ。
学校を出て一番近くのコーヒーショップに向かう。
コーヒーショップに到着すると、なまえたちと同じように今日発売のフラペチーノを目当てにしているのか普段よりも多くの利用者が居た。なんとかタイミングよく空いた四人席に滑り込んで陣取る。
注文は二人ずつ行くことにして自分はあとで行かせてもらうことにした。先に注文に行ったふたりの姿を見ながらスマートフォンを手に取って写真や動画などをメインに投稿できるSNSをチェックする。
相互フォローになっている友人たちの投稿を眺めていると自分たちと同じでフラペチーノを早速飲んでいるようだった。その投稿にいいねボタンを押していると先に買いに行った友人たちが戻ってくる。
手にはトレーを持っていて、フラペチーノとブルーベリーレアチーズケーキが乗っている。
それを見て自分もタルトを食べるのもありか、と見当をつける。今朝は寝坊してしまって朝ご飯をろくに食べていない。
空腹のままフラペチーノは無謀かな、と思っていたけれどまぁなんとかなるだろう、と気楽に考えていた。
自分の胃が強靭であることを願うしかない。まだ飲み物を買いに行っていない友人を連れたって二人でレジへと足を運ぶ。ガラスケースに入っているフードを眺めながらどれを食べるか悩んだ。タルトも美味しそうだし、ドーナツも捨てがたいし、シナモンロールだって美味しそう。どれが胃にダメージを与えないだろうか、と考えあぐねていると一緒に来ていた友人が声をかけてくる。
「どうしたの?」
「朝からなにも食べてないからなにか食べようかなって」
「え、大丈夫?」
「うん。寝坊しちゃって」
「あ、だから髪の毛結んでたんだ」
「そういうこと」
普段は髪を下ろしているけれど、寝坊した今日は流石に髪の毛を整えている時間がなかった。だから、髪の毛をコテで巻く時間がなくて髪を結ぶことで誤魔化したのだ。
結局シナモンロールを食べることにしてレジでシナモンロールといちごのフラペチーノを頼む。レジで会計を済ませて受け渡し口で出てくるのを待った。その間に友人とさっきの講義のここがやばかったね、なんて他愛もない話をする。順番を待っているとなまえの番がやってきてフラペチーノとフードを乗せたトレーを渡された。トレーを受け取って席で待っている友人たちの元へと向かう。
全員フラペチーノを無事購入したのを確認して席に座り、せーの、と示しを合わせてフラペチーノのストローに口をつける。健康に悪そうな甘さが口に広がってそれが癖になりそうだ。フラペチーノを一旦脇に置いて次はシナモンロールを食べることにする。久しぶりにこのコーヒーショップでシナモンロールを買った気がした。表面につやつやとしたクリームチーズ入りのフォンダンがかかっていて美味しそうである。
フォークでシナモンロールを切り分けてフォークを口へ運んだ。しっとりした生地とシナモンの風味が口の中で広かる。口いっぱいにシナモンロールを頬張っていると友人たちに笑われた。
「なんかあんたの食べる姿ってリスみたいだよね」
「わかるー! なんか小動物っぽい!」
「え、え、そう、かな?」
「うん」
急な指摘に思わず挙動不審な言動をしてしまった。こんなはずではなかったのに。背筋を伸ばす、背筋を伸ばす。
それを意識しておどおどした自分は封印する。自信を持った態度でいないと。
話題はすぐに自分から他のことへと移り変わっていった。
今日の講義のここが難しかった、とか、あの講義のレポートが終わる気配がしない、とか。そんなことを話していると友人の一人があ、そういえば、と話を切り替えた。
「合コン行かない?」
「合コン?」
「そう。友達に声かけられててさ」
「わたしパース」
「わたしも」
友人のうち二人が真っ先に断った。
二人とも彼氏がいたりいい感じの人がいると言っていたので出会いを求めてはいないのだろう。自分もそれに便乗しようと口を開きかけたところに、話題を振ってきた友人に手を掴まれる。
「え」
「お願いあんたは一緒に行ってくれるよね? お願いだよ誰か一人連れていくって言っちゃったんだよ」
「え、えー」
「そこをなんとか! お願い! いてくれるだけでいいから。これも何かの出会いだと思って、ね? 頼むよ~!」
「……そこまで言うなら」
友人の圧の強さに折れた。そこまで言われてだめだよ、と言える我の強さはなかったし、普段からお世話になっている友人のためならまぁいいか、と思えたのでよしとする。それに合コンと言う場に多少の興味もあった。社会勉強の一環だと思って初めての合コンに参加することにする。
合コンの作戦─当日の服装など─はまた後日打ち合わせをすることになった。話はころころと転がって学科に居る両片想いの男女の話に切り替わる。
男側が付き合ってください、と言えば済む話なのになぜそれをしないのか。それが不思議だね、と友人たちと言い合った。
本日の目的だったフラペチーノを飲む会を無事に終えてコーヒーショップを後にする。時間を確認すると四限目の始まる時間まであと三十分ほど、と言った時間だ。
学校に戻って次の授業に出る準備をしなければならない。四限目の授業に限って校舎の外れにある棟での授業だし準備が必要になるのはなんなのだろうか。
普通の本校舎での講義とかがよかった、と友人たちとぼやきながら学校へと戻っていく。
§
合コンの前日は参加する友人と二人でお揃いのワンピースを買いに行った。花柄のガットジャガード生地にぼかされた花柄がプリントされている。
女子大生にしては大人っぽすぎる気もしたけれど友人にこれくらいの方がいいよ、とアドバイスをされたのでその通りにした。
普段着ないテイストの服装に自信のなさが顔を出すけれど、それは見なかったことにする。
合コンでこの装いって気合入っているのかな、と思われたりしないだろうか。ただ居るだけの予定なのにそれは申し訳ないな、と思う。
なまえがターゲットになることはないと思うがもしそうなったときはどうしたらいいのだろうか。
そういうときの交わし方というか対応方法がわからないので事前に友人に聞いておく必要があるだろう。
こういうとき自分の経験の浅さが浮き彫りになって嫌になる。元から自信を持っている人や男性経験のある人であればこんなことで悩まないのだろうか。所詮今の自分はハリボテでできている見掛け倒しの人間だ。
絵心に言われたからそうなりたいと思って、そうなろうと努力をしているだけの自分。本当の自分など高校生のときから何も変わっていない。
そういう自分を変えたくて頑張っているわけだけれど。
慣れない場所に行ってなにかしら得られるものはあるだろう。あるだろう、と思いたい。何事も経験とは言うので。
今まで経験していなかったことを経験するというのは新しい自分を構築する結果に繋がると思っている。
事前の打ち合わせを済ませていざやってきた合コンの日。普通に平日だったので朝から夕方までは授業だ。
いつもは着ない花柄のワンピースを着てきたからか学科のいろんな人に声をかけられた。
なんならチャラいで有名の例の彼にも絡まれて辟易とする。あなたに見せるために着て来たわけじゃないから、と言いそうになったのをぐっと我慢した。曖昧な笑みを浮かべてやり過ごそうとすると一緒に行く友人が助け舟を出してくれる。
今日の合コンだってこういうことが起こるかもしれないのに、と少し自信がなくなった。合コンでもこうやって助けてもらうしかないのだろうか。
それがすこし情けないと思う。自信満々な自分ってどうやったら手に入れられるのだろうか。
授業を終えて会場である大学から電車で五駅行ったところにある肉バルが合コン会場だった。
お肉が食べられることを喜びつつ肉バルって馴染みのない場所なので不安が過る。
なんか大学で行かない方がいい場所、みたいな候補であがっていたようなそうじゃないような。
友人の腕に自分の腕を絡めてぴったりとくっつく。
女子の面子はなまえと友人以外にもう二人女性が居た。友人とその女性二人は顔見知りのようで自分を置いてきぼりで会話が繰り広げられている。
どうやらみんな同じ高校出身らしい。
なまえだけはぶられているような感覚に陥る。行き場のない感覚に早く合コンが始まって終わってくれないかな、と失礼なことを考えた。
昨日までの前向きな気持ちがどこかへ行ってしまっていることに気づいて凹む。
男性陣も友人や女性たちと同じ高校の男子が幹事らしく、その人脈で集まった面子だと聞いている。
男性陣ももうすでに到着しているようで店の中に咲きに入っているとのことだった。頼まれてやってきた合コン相手の大学名には聞き覚えがある。
そういえば絵心が進学した大学じゃなかったっけ、とまるで未練のように切り離せない彼に関する情報を思い出した。店の中に入り友人が店員に予約の名前を告げると案内をされる。仕切られた八人掛けの掘りごたつの席に通された。
女性陣から遅くなりましたぁ、なんて声をかけながら仕切りの中に入ればすでに男性が四人、適当な席に腰を下ろして居る姿が目に入る。
男性陣の顔を確認しようとひとりひとり顔を見れば、ひとりの人間を視覚で認識すると同時に頭も動きも止まった。ここにいることがふさわしくない人がこの場に居る。神経質そうな見た目にやる気のなさそうな雰囲気。彼の熱がどこにあるかを知っているからこそ、こんなところに居ることが信じられなかった。
女性陣も空いている席に座ってから一旦全員飲み物を頼む。参加者全員未成年なのでオーダーはノンアルコールだけだ。自分はこういう場ではいつもジンジャエールを頼むのでその定石に従った。少しするとオーダーした飲み物もやってきたのでそれを受け取ってから軽く自己紹介を始める。
汐路なまえという名前と学部。それから最後に今日楽しみにしてましたぁ、なんてかわい子ぶって笑顔を振りまく。これも事前に打ち合わせをしておいた内容だ。
「絵心甚八。スポーツ科学部」
よろしくも何もなかった。まぁ、そういうことを言う人じゃないというのは理解していたことだ。絵心の素っ気ない態度に幹事である男子がすかさずこいつ無愛想でごめんねー気にしないでやって、とフォローを入れていた。
全員の自己紹介を終えて乾杯、と幹事が音頭を取ったのでそれに合わせてグラスの飲み口をカチン、と前や隣の人のグラスと当て合う。
一口ジンジャエールを飲んで口にしゅわしゅわとした舌触りを感じた。周囲は近くの男女で話し始めている。自分から一番近いところに座っているのは無愛想だった男子─もとい絵心だ。
「絵心くん合コンなんて来るんだ」
「……幹事に借りがあるんだよ」
「へぇ、意外」
借りを作らないようなタイプの人間だと思っていたのに。絵心も人間なのだなぁ、と感心してしまった。
なんというか、なまえの中での絵心のイメージは隙が無くて、サッカーにすべてを捧げていてそれ以外どうでもいいと思っている人、というものだ。
この合コンの場は〝それ以外〟に属する場だと思うだけにこんなところに居ることに違和感しかない。そんな絵心を連れ出せる幹事の彼は絵心に一体何をしたのか聞いてみたい。聞けないだろうけれど。
盛り上がる周囲の空気に馴染めているような馴染めていないような。
絵心と高校時代と同じようなテンションで話を続ける。絵心も他の人間と話すくらいなら顔見知りのなまえと話す方がいい、というのでその言葉に甘えることにした。
おかげで自分に誰かが言い寄ってきたらどうしよう、という心配は取り越し苦労に終わったわけだけれど。
絵心と話す時間は高校時代のあの気持ちを蘇らせてだめだ。もう二度と会うことがないと思っていたら、あのまま昇華できるだろうと思っていたのにそうは問屋が卸さなかった。どんどん昇華されるはずだった感情が沸きあがってくる。少し無愛想だけれど合理的に話をするけれどなんだかんだやさしさを持ち合わせているこの人のことが好きだ。きっと絵心はなまえのことなど何とも思っていないだろうけれど。自分勝手に抱いていた恋情が息を吹き返す。この恋はいつになったら自分の中から溶けてなくなってくれるのか。もうわからない。ただ目の前に絵心が居て自分と話をしてくれる。それが心底嬉しかった。
合コンでなまえと絵心以外の人間は一巡したらしく周囲の視線が自分と絵心に刺さる。そういえば他の人と話していなかった。マナー違反だったのかもしれない。他の人とも話さなきゃ、と思っているところに絵心が立ち上がる。もう帰るのだろうか、と思っていると自分の左腕を捕まえられて引っ張り上げられ立ち上がることになった。
「え、絵心くん?」
「この子と俺、ここで帰るから」
じゃあ、あとは皆さんで楽しんで、と言ってその場を後にしようとする。
先に行ってしまった絵心を謳歌悩んで合コンになまえを誘ってきた友人を見るとぐっとサムズアップしていた。どうやらここで帰ってしまってもいいらしい。会費は最初に幹事に渡してあったのでそのまま鞄をひっつかんで絵心の後を追う。後ろからきゃー、と楽しそうな声が聞こえてきて何故だかわからなかった。なにか面白いことでもあったのだろうか。店の外に出ると絵心がガードレールに凭れて待っていた。
「待たせてごめん」
「別に、大丈夫」
「えーっとこのまま解散、って感じであってる?」
「それもそうだけど、これ」
「ん?」
絵心がスマートフォンを手に持って画面をこちらに見せてくる。メッセージアプリのQRコードが表示されていた。
「これ、」
「会えたのもなにかの縁だし」
「いいの?」
「いいよ」
自分のスマートフォンを鞄から取り出してQRコードを読み取って友達追加をする。〝絵心〟と簡素に書かれている名前に絵心らしいなぁ、と思った。まさか自分のメッセージアプリに絵心の連絡先が追加される日が来るとは思わなかった。高校のときは連絡先を交換するような間柄ではなかったので。高校のクラスメイトの連絡先も数人しか知らない。一緒にお弁当を食べていた子とか委員長とか。元々コミュニケーション能力が乏しいので自分から連絡先を交換してほしいと言えるタイプではなかった。
けれど、大学に入ると同時に自分のマインドを変えたことと今つるんでいる友人たちの手前もあって人と連絡先を交換するようになった。親しくない人でも連絡先を聞かれたら答えて繋がっていく、と言った感じだ。だから大学に入ってから大幅に人の連絡先が増えた。その中に今絵心の連絡先が入った。
今この瞬間、手の中にあるスマートフォンがこの世で一番大事なものになった気がする。
連絡先を交換し終わると絵心の用事が終わったはずなので解散かな、と思っていると声をかけられた。
「駅まで送る」
「わたし地下鉄だよ。絵心くん何線なの?」
「都営だけど」
「駅の方向反対じゃない? いいよここで解散で」
「もう夜遅いし、女子ひとり帰らせるほど甲斐性なしじゃないつもりだけど」
「でも、」
「こういうときは素直に送られとくもんだよ」
「……じゃあ、お願いします」
こちらが納得したところで絵心が隣に並ぶ。そのまま自分の最寄り駅である地下鉄の駅を目指す。 店から地下鉄の駅までは徒歩十分ほどだ。十分ぽっちだから送るなんて言わなくてよかったのに。
自分のせいで絵心が遠回りで帰る方がいやだな、と思った。
元々なまえは会話が弾むタイプの人間じゃないし絵心も同じような部類の人間だろう。駅までの道のりは話をしながら歩いた。でも話が一段落すると黙ってただ歩く。この時間を苦痛だとは思わなかった。
なまえも絵心も言葉が多い方ではない。それが心地いいと思う。
会話をしたりしなかったりを繰り返す中で気付けば目の前に駅が見えた。ここまで送ってもらえばもう大丈夫だろう。お礼を言おうとしたところの出鼻をくじくように絵心が話しかけてきた。
「合コンに来たとき」
「うん?」
「少し印象変わってて驚いた」
「そう? だとすれば絵心くんのおかげかな」
「なにかした記憶はないけど」
「卒業式の日、言ってくれたでしょ。〝上向くことも覚えてみたら?〟って言ってくれたの、実行中なの」
「そんなこと言ったっけ」
絵心の言葉に寂しさを覚える。やっぱりあのときの言葉は絵心にとって取るに足らない些細なことで。それを後生大事にしているのは自分だけだった。でもなんとなく分かっていたことだ。絵心は気が付いたことを口にしただけで、それ以上でもそれ以下でもない。ただ自分が真に受けただけ。それを寂しいと思うだなんて驕りだ。けれど絵心のおかげで変わるように意識を変えて実行に移して、それを見た絵心が変わったと言ってくれるのならばそれは成功と言えるのだろう。
「大学デビューって言ったらいいのかな? そんな感じ」
「ふーん」
説明をすると興味がなさそうな返事が返ってきたので秒で興味が失せたらしい。早い。
「まぁ、今の方が印象良いと思うよ」
「ありがとう」
これまでの努力が報われたような気持ちになった。変わる努力をし始めて思ったことは高校時代のなまえは本当に根暗だった、ということだ。そりゃ揶揄いやすい存在だっただろう。おどおどして、下を向いて、自信なんてあるわけはなくて。そんな自分を一度破壊して新しい自分を生み出す。そうすることで得られたものはたくさんあるし、こうして絵心からの評価ももらえた。出来すぎなくらいだ。
「でも、絵心くんにそう言ってもらえてよかった。これからも頑張ろうって思えるから」
「……無理しすぎない程度にね」
「うん」
気遣いに笑みを浮かべて答える。こういうふとした優しさが垣間見える瞬間が好きだ。こういうところが変わらないな、と思った。
駅の改札前まで送ってくれた絵心に手を振って改札内に通過していく。通過してから振り返ると絵心は背を向けて歩いていた。ここでなまえが見えなくなるまで待つタイプじゃないことは分かっていたことだ。
少しだけ期待してしまったことが恥ずかしい。何度恥ずかしさを覚えればいいのか。学習しない自分を嘲笑する。
駅の階段を降りてホームへと向かった。電車が行ったばかりのようで次の電車が来るまで待つことになる。スマートフォンを開いて通知を確認すると合コン会場へ置いてきた友人から明日詳細教えてよ、とメッセージが届いていた。それになにも面白いことはないよ、と返信する。続いて絵心とのトーク画面を開いて一言連絡を入れた。今日はありがとう、久しぶりに会えてよかった、と。ただそれだけを簡素に伝える。この連絡先を使うことはないだろうから。でも絵心とこうしてか細いとは言え繋がっているものがあると思えば嬉しい、と思う。この繋がりを使う日は来ないだろうけど。
ホームに次の電車が来る旨のアナウンスが流れてすこしすると電車がやってくる。それに乗り込んで家に帰っていった。
§
交換した絵心の連絡先が使われることはなかった。あのとき送ったメッセージに気をつけて帰って、と返信が来たけれどそれっきりだ。
予想通りの展開でいっそ笑えて来る。これなら連絡先を交換しない方がよかったかも、とぼやきたくなるものだ。
使われることのなかった連絡先が使われる日がやってきた。もうすぐ成人式、という年末の忙しい時期のことだ。アルバイトを終えて家に帰りながらスマートフォンを触っていると、メッセージアプリに通知が来ていることに気づいた。中身を確認すると絵心からで。驚きのあまりスマートフォンを下に落としそうになった。
おそるおそる内容を確認すると成人式に来るかどうかの確認だった。それに行くよ、と返せば、すぐに既読がついてわかった、と返ってくる。なんの確認だったのだろうか。そういう絵心が来るのか知りたくなって同じ質問を送る。すると行けたら行く、と短い返事が来た。短い言葉の応酬を終えてメッセージアプリを閉じる。スマートフォンを触る手が急に震えた。
絵心から連絡が来た。まさか来ると思っていなくて動揺のあまり手に血が通っていないような感覚だ。さっきの光景が信じられなくてもう一度メッセージアプリを起動して絵心とのトーク画面を開く。やっぱり成人式に行くかどうかの確認が来ている。なぜ、どうして、そんなことを聞くのか。
疑問が頭の中を埋め尽くした。
高校のクラスメイトと久しぶりに会えるな、とほくほくとした気持ちで居たところを頭から水でもかけられたような気分だ。目が覚めるって感覚はこういうことを言うのかもしれない。
考えれば考えるほど脳のキャパシティーを超えそうなほどぐるぐると考えてしまって。誰かに話を聞いてほしくなって、絵心のことを知っている普段つるんでいるグループのメンバーの一人に連絡を取った。
彼女への詳細の説明は不要なので─合コンの翌日に根掘り葉掘り聞かれてすべて答えたため─、片想いをしていた例の相手から連絡が来た、とメッセージアプリ経由で連絡するとすぐに通話がかかってきた。
周囲に人がいないことを確認してそれに出る。
「もしもし、」
「ねぇ! ちょっと! どういうこと?」
「なんか急に連絡来て……。成人式は行くのかって」
「あのときのあいつでしょ? 今更そんな連絡? なんなの?」
「落ち着いて。普通に気になったから聞いてきただけじゃないかなぁ。クラスで同窓会とかもあるだろうし」
「それにしたって連絡は最初のときだけでしょ? それが一年以上放置して連絡してくるって面の皮厚すぎない? そいつ」
「落ち着いて」
怒っている友人を宥めながらどういう意図かな、などと二人で予想を立ててみるけれど、絵心という人間が特殊すぎて自分たちでは予想を立てることができなかった。
とりあえず当日会えたら理由を聞いてみよう、ということで話は落ち着いたのでよしとする。
「あんたさぁ」
「ん?」
「そいつのことまだ好きなの?」
息を吹き返した恋だって一年近く連絡が来なければまた溶けてしまうものだ。溶けて消えてしまったはずだった。
それがこうして動揺してしまっているのだからそうじゃないのかもしれない。
もうよくわからなかった。
「分かんない」
答えられることはそれだけだった。
「好きなのは好きだけど。高校のときみたいに焦がれているかと言われたら違う気がする」
「そっか。まぁ、当日何もないかもしれないし気楽に考えたら? 本当にただ気になっただけかもしれないし」
「そうだよね。気楽に考えることにする。聞いてくれてありがとう」
「どういたしまして」
友人にお礼を言って通話終了のボタンを押す。人に話を聞いてもらってさきほどの動揺は落ち着いたような気がする。うん、今回の連絡は絵心の気まぐれだったということにしておこう。
成人式の後に高校三年生のときのクラスメイトで同窓会をすることになっていて、それに参加する予定で居る。幹事にも参加で返事をしてあった。絵心はそういう場には来なさそうだなぁ、と思う。いやでもサッカー部員が多くいたクラスだから万が一参加しないとも言い切れなかった。成人式の会場か同窓会の会場で会えたら聞いてみよう、と算段を立てる。
まぁ、そもそも会えない可能性の方が高いと思っているが。
成人式の日はよく晴れて式を執り行うには文句の言い様がない天候だった。
母のおさがりの御所車が描かれている振袖を身に纏う。着物なんてめったに着る機会がないので背筋が伸びた。親に玄関先で見送られて家を出て、駅まで歩き電車を乗り継いで成人式の会場である市民会館へ向かう。
市民会館の最寄り駅へ到着するとなまえと似たような人が多くいて、成人を迎える人間ってこんなにいるのだなぁ、としみじみと思った。
早く着きすぎたのかまだ会場の中には入れないようで、会場の外をうろうろとしていると高校時代のクラスメイトが固まっているのが見える。そちらに近づいていって声をかければ、みんな迎え入れてくれた。
「久しぶりー! え、雰囲気変わったね?」
「久しぶり。そうかな? そうかも」
「垢抜けたって感じする」
「高校時代本当に芋臭かったもんね」
「そこまで言ってないよ~」
垢抜けた、と言われて嬉しくなった。この場でも自分の努力は実っているということを再確認できたので。上を向いて生きるようになってこんなに変わると思っていなかった。これも全部あのときの絵心のおかげだけれど。
クラスメイトたちと近況を話していると式の後に行われるクラス会の話になった。場所と時間は事前に指定されているから知っていたけれど、どうやら幹事をしている男子のバイト先らしい。
だから少しだけ会費が安くなっているとかなんとか。それにそうなんだ、と返事をして、年末から自分の心の端っこに住み着いて時たま揺さぶってくる絵心のことを聞くことにした。
「そういえば、絵心くんって」
「あぁ、絵心がどうしたの?」
「姿が見えないけど、クラス会来るのかなって」
「どうだろ? 誰か聞いてる?」
「え、わかんない」
みんな口を揃えてクラス会に絵心が来るのかわからない、という。つまりやはり今日彼がこの場に来ることはないのでは、と見当をつけた。あの確認はなんだったんだ、と肩透かしを食らった気分だ。
絵心が成人式に来ることはなさそうなので、連絡が来たことは忘れて成人式を楽しむことにした。
成人式が終わって一旦家に帰り振袖から洋服に着替えた。脱いだ振袖は母に渡せばすぐにクリーニングに出す、と言って準備をし始める。大事に扱っているところを見るに母の思い出がとても詰まっているのだろう。
振袖を脱いだ拍子に乱れた髪を整えてから紺シフォンワンピースに白いボレロを羽織る。服装に上品さを意識しているのは成人したからと言うのもすこしある。
高校時代とは違った自分をクラスメイト達に見せたいと思ったのだ。
変わったことを褒められたいとかそういうのではなくて、ただ現状報告したいというか。現状を報告してなまえの変化の方向性が不自然じゃないと確認したいというか。そうして安心したいのだ。
今までの自分は何も間違えていなかった、と。
身なりを整えている間にちょうど振袖をクリーニングに出せる状態になったらしい母が駅まで送ってくれる、というのでその言葉に甘えた。クラス会は十八時からで、今はちょうど十七時。
繁華街にある店なので近くにカフェがあったはずだ。早く着きすぎた場合はそこで暇を潰せばいいと当たりをつける。母の運転する車に揺られながら駅に到着するのを待った。
スマートフォンで大学の友人からのメッセージに返信していると母が声をかけてくる。
「あんた、免許持ってるんだからたまには運転したら?」
「家の車大きくて怖いんだもん」
「小さい車買う? 置く場所はあるんだし」
「今はいいかな」
急に車を買うか、と言われても困る。今のところ車が必要なところへ行くこともないので。合っても宝の持ち腐れだろう。車を要らない、と言えば母との会話はそこで終わってしまった。
外を見るとちょうど駅に着いたところだったのでそのまま下ろしてもらう。帰りは遅くなることを告げて先に寝ておくようにお願いしておいた。家の鍵は忘れずに持って来てあるので大丈夫だろう。
改札を通って成人式の会場があった駅とは反対の方向の電車に乗る。クラス会の会場である繁華街にある店の駅までは五駅ほどだ。電車が到着したので乗り込むと電車内にはほどほどに人がいる。目に留まった空いている席に座ってスマートフォンを手に持つ。大学の友人から来ていたメッセージの続きに返信をしながら、周囲に目をむけた。おそらくなまえと同じように午前中に成人式に参加していたらしい振袖のグループを見る。楽しそうに話している姿に、なぜだか大学の友人たちに会いたくなった。
結局みんなでメッセージアプリのグループトークで自撮りを貼って終わってしまったのが寂しい。どうせなら当日にあってわーきゃー騒ぎたかったのだ。
残念ながら普段つるんでいる面子がなまえ以外全員上京組だから会えないのだが。各々地元で成人式に参加してその写真を共有することしかできない。振袖姿で写真を撮りたかったね、というのがここ最近の口癖だった。友人たちとの終わらないメッセージに反応をしていると、すぐに目的の駅に到着する。慌てて席から立ち上がって電車を降りた。自分が降りたと同時に扉がしまったので危ない。駅のホームから階段を降りて改札に向かえば、背後から声をかけられる。驚いて振り返るとさきほど成人式会場で会ったクラスメイトの姿があった。彼女はクラスのムードメーカーで誰にでも隔たりなく接してくれる人間だ。そんな彼女が自分に声をかけてくれたことに納得すると同時に、気付かれたことに驚いた。先ほどと服装も変わっているし、髪型も変えてあるのに。
「お疲れ様」
「お疲れさまー。ひとり?」
「うん。そっちも?」
「そう。早く着きすぎちゃった」
「わたしも」
同じ立場にお互い笑い合っていると彼女の視線がなまえの頭のてっぺんからつま先までを舐め回すように見られた気がした。あまりいい気分ではない。でも気のせいかもしれないのでおくびにも出さなかった。
二人で当たり障りのない会話をしながら繁華街をうろうろとする。どうしてこうなったのか。これならもうすこしあとかもう少しまえに来ておけばよかった、と思ってしまったのだ。さほど仲良くない人とのウインドウショッピングというのはなかなか疲れるものであることを初めて知った。大学の友人たちとの楽しいウインドウショッピングとは雲泥の差だ。
なんとか時間を潰してクラス会の開始時間の五分前になったので、会場である居酒屋に向かうことにした。道中話すのは専ら大学の話で。ムードメーカーの彼女はなまえの話を聞きたがった。まるでそれを探られているように感じるのは自分の性格が悪いからだろうか。
会場に到着してようやくムードメーカーの彼女と別れることが出来た。ムードメーカーなだけあって彼女が到着するなり、彼女の周りには囲うように人が集まったのだ。
昔から影の薄い自分はひっそりと会場の端っこにいることにした。
居酒屋は大衆居酒屋と言った感じで大きく仕切られている部屋をなまえたちがクラス会で使うようだ。
隅に置かれている椅子に腰を下ろして周囲の様子を伺う。すっかりムードメーカーの彼女はこの場の中心人物となっていた。
今日は仲が良かった委員長と話したいと思ってクラス会に参加したので彼女がやってくるのを待つ。成人式でもまた後でね、と言い合ったところなのでもうすぐやってくるだろう。
スマートフォンでメッセージアプリを確認して委員長とのトークを呼び出す。未読がひとつ残っていて中身を確認するともうすぐ会場に到着するよ、というものだった。それに待ってるね、と返信を返して、ついでに大学のグループトークを確認するとメッセージがいくつか溜まっていたのでそれに反応しておく。
クラス会の開始時間になると同時に委員長はやって来た。待ち望んだ姿に嬉しくなっていると挨拶を終えた委員長がなまえの元へとやってくる。
「お疲れさま」
「お疲れ様ー。待たせてごめんね」
「ううん。大丈夫。会えてよかった」
「わたしも会いたかったー」
抱き着いてきた委員長を抱きとめてハグを交わす。
高校時代にこういったスキンシップはしたことがないけれど、大学でこういうスキンシップが多いせいでそれに慣れてしまった。大学の友人たちと同じノリで接してしまって反省していると、委員長は不思議な顔をすることなくぎゅうっと抱き着いてくる。この距離感で関わることを許されたらしい。今まで入ることのなかったラインを超えたような気がする。
飲み会が開始されてみんな思い思いのドリンクを頼んでいった。なまえも周りに乗っかってジンジャーハイボールを頼んだ。委員長はカシスオレンジを頼んでいるようだった。飲み会は高校時代に関わっていたグループに分かれていて、騒がしいのがムードメーカーの彼女が居るグループで、静かに飲んでいるのが高校時代も騒がしくなった面子だ。サッカー部だった人たちなどは騒がしいグループで飲んでいた。
委員長と互いの大学での話をしながら高校のときのこういう出来事もあったね、と会話に花を咲かせる。心地のいい時間を過ごせる人間とはいつになっても同じように過ごせるのだな、と実感した。
この会が始まって一時間経過するけれど、絵心が現れる気配はなくやっぱりあのメッセージは気まぐれだったのだな、と思う。会えると思っていなかったと言えば嘘になる。もしかしたら会えるかも、と思ったことは一度や二度どころではない。
もしかしたら、もしかしたら、と祈るような気持ちで毎日絵心からやってきたメッセージを指でなぞっていた。こんな思いするくらいなら期待させないでほしかったけれど。
委員長と話しながら飲むお酒は楽しくてどんどん飲み進めていった。ジンジャーハイボールから始めて、シャンディガフにカルーアミルク。飲めるお酒は全部飲んだと言っても過言ではないかもしれない。尽きない話題に比例するようにお酒を飲めば限界がやってくることを見落としていた。
酩酊状態って今の状態を言うんじゃないか、とどこか冷静に見ている自分もいる中で、酔っているという状態に気持ちよくなっている自分も居て。やけ酒ではないけれど少しだけ自棄になって飲んだ酒に飲まれてしまったようだ。二次会があるとかないとかいう話をしている騒がしいグループの人たちを見ながらまた一口日本酒を飲む。大学の友人たちと飲んでいるときにも言われたけれど、なまえは酔うとほどほどに顔色に出るらしい。そして今もそうなのか委員長からお酒をストップするように言われている。
飲んでいる身としては気持ち悪いとかないし、このまま飲み続けても一切問題がないのに。
日本酒の代わりに水を渡されてちびちびと飲んでいると、飲み会がお開きになる時間になっていた。
会費の精算を終えて店を出る。店を出たところで騒がしかったグループがまた騒がしくなった。なんだなんだ、と思って見て見るとそこには待っていたはずの人の姿があって。なんで今更来てるんだ、と内心で毒を吐く。こちらの心をかき乱すだけかき乱して平然としている姿に腹が立った。
もっと早く来てたら少しは話せていたかもしれないのに。そう思うのは自己中心的すぎるのだろうか。
今このタイミングでこの場に現れたということは絵心は二次会に参加するのだろう。さっき二次会には参加せずに帰る、と言ってしまった。今更参加したいというのもあからさますぎて躊躇する。今日はもう大人しく帰るしかないのだろう。せめて絵心と少し話したかったなぁ。
騒がしいグループと話し終わったらしい絵心がこちらにやってくる。自分の後ろに誰か残っていたっけ、と振り返ると誰もいない。近づいてきた絵心が声をかけてくる。
「君だよ、君」
「え、絵心くん」
「顔真っ赤じゃない? 大丈夫なの、それ」
「あぁ、気持ち悪いとかは全然ないから。それに最後らへんは水だったし」
質問に答えながら絵心との距離感は変わらないな、と思う。絵心はすこしだけ考える素振りを見せてそれから提案をしてきた。
「俺、試合が終わって今来たんだよね」
「そうみたいだね」
「飲むの付き合ってくれない?」
「わたしが?」
「うん」
「まぁ、わたしでいいなら」
二人きりだとちょっと思われるところがあるかもしれないから委員長も誘ってみる。
「委員長も行く?」
「いやいや、そこは二人で行きなよ……! わたし明日朝早いし、ね!」
慌てた様子で断ってくる委員長の姿を不思議に思いながら断られて物は仕方がない。
絵心と二人で飲み直すことにした。二次会に行くクラスメイトたちとも委員長とも別れ、絵心の斜め後ろをついていって繁華街を歩く。
店の客引きにどんどん声をかけられるけれど、絵心は迷いのない足取りで先を進んでいくのでそれに離されないようについていった。
絵心は繁華街を抜けて住宅街が近くにある通りに入っていく。角を曲がってすこしだけ歩くとバーが見えて絵心がその中へと足を踏み入れたのでなまえもそのあとに続いた。
中に足を踏み入れるとカウンター席になっていて絵心が奥の席に座る。その隣に座ればおしぼりを差し出された。差し出してきた人物を見ると穏やかそうな母親ほどの年齢の女性で。この店の店主だろうか。バーテンダーの服装を姿に惚れ惚れとした。かっこいい女性だ。おしぼりを受け取ってメニューを見せてもらっていると、メニューを見ることなく絵心が注文する。
「オーナー、豆腐サラダ」
「はいはい。絵心くんってばそれ好きだね」
「美味しいし効率的に栄養が摂取できる」
「そんなこと言って。彼女さんも引いちゃうわよ、ねぇ?」
「え、あ、はい?」
「適当に返事しない」
「いや、どう返事していいかわからなかったから、つい?」
「あっそう」
彼女、と言われた言葉にどきり、とする。
そうか、自分って絵心の彼女に見えるんだ、とすこしだけ嬉しくなった。こんなことで嬉しくなっただなんてすべてを知っている友人から怒られそうではあるけれど。
オーナーが準備のために奥に引っ込んで行く姿を見ながら思い浮かんだ疑問を口にする。
「よく来るの?」
「大学の先輩たちと二回来ただけ」
回答に絵心も人付き合いとかするんだな、と思ったけれど、借りを返すという理由のためだけに合コンに来ることがあるのだからおかしくはないか、と勝手に腑に落ちる。大学の先輩と一緒に居る絵心はどんな風なのか少し見てみたい気持ちもあった。どうせ先輩たちの中でも自分を保っているんだろうな。
「無愛想に栄養のいいものだけ食べていくのよ。態度が態度だったから一回で覚えちゃったわ」
もしこれで常連だったら商売あがったりだわ、なんてサラダを持ってきて笑うにオーナーにそうなんですね、と相槌を打つことしかできない。
無愛想にも栄養がいいものだけしか食べないにも納得しかない。
「儲かってるって先輩に聞いてるよ。なに言ってんの」
前に来たときも人がいっぱいだったの覚えているんだよ、と吐き捨てるように言う絵心にそういうものなのか、と納得してしまう。確かになまえたち以外意にも人が数人いて所せまし、といった雰囲気を感じ取れた。
絵心とオーナーの言葉の応酬が終わって出されたサラダを食べることにする。用意された箸を手に取って皿にサラダを取り分ける。一口分だけサラダをすくって口に運ぶ。レタスと水菜の瑞瑞しさと豆腐のふんわりとした触感に驚きで目を見開く。ドレッシングはクリーミーだけど玉ねぎペーストが入っているのか香ばしさもあった。あまり食べたことのない味で不思議な気分だ。
口をもごもごさせながらサラダを食べて一段落したところでオーナーにそういえば飲み物は、と問いかけられてドリンクをまだ頼んでいないことに気づいた。絵心に流されて気付いていなかったけれどこういう場ではまず一杯頼まなくてはいけないことを知っている。ドリンクのメニューをください、とメニュー表を受け取って中を見る。カクテルにジンにウォッカ、ラム、テキーラ。それからソフトドリンク。普段飲むことの少ないお酒に心躍るけれど先ほど飲んだばかりなんだよね、と気がかりがある。
ここはおとなしくソフトドリンクにするべきか。考えあぐねていると絵心がメニュー表を取り上げた。
「まだ見てるのに」
「好きなの飲めばいいじゃない」
「さっきたくさん飲んだのになーって思ってるだけ」
「酔ってるの?」
「全然?」
「じゃあ飲んだらいいよ」
「えー。絵心くんは?」
「俺は明日も練習だからソフトドリンク」
「なにそれ。わたししか飲まないじゃん」
アスリートの絵心は飲まずに先ほどまで浴びるように飲んでいた自分がさらに飲む。なんだか自分だけダメ人間になっているような感覚を覚えた。
「一杯くらいいいんじゃない? さっき飲んでないのもあるんでしょ」
「それはそうだけど……」
さきほどの店は大衆居酒屋だったのでどちらかと言うとサワー系が多かったし、カクテルもこういうところと違って少し薄められていただろう。
こういうバーのお酒は濃いので飲んでみたい気持ちは正直強い。
こんなところに来ることもうないかもしれないし、絵心の言う通り一杯だけ飲んでみることにする。
メニューを見たときから気になっていたカクテルの名前を口にする。どんな味なのか皆目見当もつかない。
「じゃあ、ウォッカリッキーをひとつ」
「俺はウーロン茶」
「はーい」
オーナーにオーダーを通して目の前でお酒を作ってくれる。モスコミュールだとかファジーネーブルだとかも目に留まったけれど、それらは大衆居酒屋でも飲むことはできる。だからこそ馴染んでいないお酒の名前が目に焼き付いた。
作られていくお酒を眺めながら話はお互いの近況だった。相変わらず絵心はサッカー三昧のようで安心する。自分の近況を絵心に説明すると本当にただの巷の大学生で笑えてしまった。授業にサークル活動に友達と遊ぶ。典型的な大学生だ。
話をしているとカクテルが完成したのか目の前に置かれる。無色のウォッカの中にライムが入っていて爽やかな見た目だ。
「おぉ」
「それでよかったの?」
「うん。見慣れない名前だから飲みたかったの」
「ならいいけど」
絵心の方にもウーロン茶を置かれて今更ながらにグラスの飲み口をぶつけて乾杯をする。
「なんの乾杯」
「久しぶりに会えたことに?」
「それはそうか」
ウォッカリッキーを口に運んで一口飲む。キリッとしたクリアなウォッカにライムのさわやかな酸味と炭酸の清涼感が口の中を刺激した。一口で度数が高いと分かる味だ。けれど飲みやすくてどんどん飲んでしまえそうでもある。注意しながら飲まなきゃ、と自分を律することにした。
お酒だけではなくつまみにアスパラベーコンを頼んだりして軽く食べて飲んでを繰り返す。途中途中の会話もとても穏やかなもので、高校時代を想起された。
楽しい時間の経過は早いもので、気付けばグラスは空になっていた。絵心のグラスもちょうど空になっていて。
そろそろお開きかな、と思っていると案の定絵心がそろそろ行こうか、と声をかけてくる。この時間が終わると思うと残念で仕方がない。
お会計はお酒を飲んだ自分が多めに出す、と言ったけれど聞いてもらえず割り勘になった。ソフトドリンクよりもアルコールの方が断然高いので申し訳ないと思う。
「女の人に多く出させてるとか俺の外聞が悪いでしょ。割り勘くらいがちょうどいいよ」
「わたしの方が絶対に高いのに……」
「気にしないでよ」
その場で別れるかと思いきやそのまま駅に向かって歩いていくことになっていた。二人並んで車の来る気配のない一方通行の道路の真ん中を歩く。手が触れそうで触れない距離がもどかしい、と思ってしまうのはなまえが未だに絵心のことが好きだからだろうか。
「試合、」
「うん?」
「試合、見に来てよ」
「見に行っていいの?」
突然の申し出に驚愕して目をまるまるとさせてしまう。試合、高校のとき以来見ていない試合。それを見に来てほしいと言われた。それを嬉しいと思う。絵心の大事な部分を垣間見せる権利をまたもらえたような気分だ。別に許可など要らないことは知っているけれど。だけど、自分でわざわざ絵心の大学のサッカー部について調べたりする度胸はなかった。それが、いま、本人から観戦の許可を貰えて。喜ぶなと言われる方が無理だ。
「いいよ。次の試合の予定また送る」
「待ってるね」
ちょうど駅まで到着して今度こそそこで別れることになった。絵心は来た道を戻っていったので送らせてしまったんだな、とあとから気付いて。やっぱりバーの前で解散すればよかったな、と小さな後悔をした。そのちっぽけな後悔を胸に抱いたまま絵心からメッセージが届くのを心待ちにする。いつ連絡をくれるだろうか。落ち着かない気持ちのまま意味もなくスマートフォンを触った。
§
絵心から試合の連絡はすぐにやってきた。指定されたのは東京郊外のスタジアムで。電車やバスで乗り継いでいくには少し交通の便が悪かった。せっかく免許があるのだから、と親に車を借りて一人で運転していくことにする。
母の愛車だから扱いには気をつけなければならない。
「ひとりで大丈夫?」
「多分」
「お母さんついていこうか?」
「やめてよ恥ずかしい」
心底いやだったので思わず低い声が出た。
「あんたの彼氏見てみたいんだもの」
「彼氏じゃないから!」
「照れちゃって」
茶化してくる母を置いて借りた車のキーと差し入れになるかわからないスポーツ飲料を持って家を出る。
駐車場に向かって蛇腹を開けて母の愛用しているセダンに乗り込んだ。
シートの場所やミラーの位置を調節してそれからカーナビに目的地を入力した。ブレーキを踏みながらシフトレバーをドライブに変更してエンジンをかける。
エンジンがかかったのを確認してゆっくりとブレーキから足を放して徐行で駐車場を出た。
カーナビに案内されるまま目的地を目指せば車で三〇分ほどで。
ひさしぶりのひとりの運転と思えばちょうどいい距離感だったのかもしれない。駐車場に車を止めて車のキーと財布を小さなポシェットに入れる。
スポーツ飲料とポシェットを持って車を降りた。
スタジアムに到着するともうすぐ試合が始まる、と言ったタイミングだったようでそのまま観客席に向かって腰を下ろす。
大学生になった絵心のユニフォーム姿を初めて見た。青のような紫のようなそんな色合いのユニフォームに身を包んでいる絵心はもちろんなまえの記憶にあるものと異なっていて違和感を覚える。
高校時代のユニフォームは白色だったので。試合が始まるホイッスルが鳴り響いてフィールドに意識を向けた。
久しぶりに見たフィールドの絵心は相変わらず自分の視線を捉えてはなさない。敵のファウルで転ばされた姿など見たときは息が止まった。
試合自体は絵心の大学が二対〇で勝利を収めていて、それも余裕があるように見える。
サッカーのことは詳しくわからないがきっと絵心の居る大学は強いのだろう。
試合が終わって帰る準備を始めている選手たちに近づいていくファンなどの姿が見えたのでなまえもその波に乗る。
スポーツ飲料を片手に持って近づいていけばこちらに気づいたらしい絵心が視線をこちらに向けて手招きをしてきた。
それに引き寄せられるようにすぐ隣に立ってスポーツ飲料を絵心に手渡せばすんなりと受け取られる。
お疲れ様、と声をかける前に絵心が口火を切った。
「車って言ってたけどちゃんと来れたの」
「来れたよ、ばかにしてる?」
「してない。でも運転下手そうな印象はある」
「ばかにしてるじゃん」
ひとりで運転していく、と言ったのが印象に残っていたらしい。そういえば昨日のメッセージでも電車で来ても少し歩くけどそこまでじゃない、とか言われていたことを思い出した。しかし乗り継いだりする手間を考えると車の方がいいと思ってしまったのだ。
「……どうだった? 久しぶりに」
「相変わらず絵心くんはかっこいいなぁって」
「あ、そう」
「聞いといてなにそれ」
自分から問いかけて置いておいてその反応ってない、と頬を膨らませると絵心の口元がすこしほころんだ気がした。それに目を奪われていると絵心と自分の元に近づいてくる。ジャージ姿から察するに絵心のチームメイトだろう。
「絵心に客って珍しいじゃん」
「先輩」
「なに、彼女?」
「まぁ、はい」
思わず顔を上げて絵心を見た。きっと今のなまえは大層驚いた顔をしていることだろう。彼女。彼女。彼女。彼女、と言われて否定しなかった。つまり、それは。好きだ、も、付き合って、も、なかった。
でも彼女と言われて嬉しかったのは事実で。絵心の彼女と言うポジションに収まることが許されるのであればそこに収まりたいと思う。
先輩とやらは絵心にいいねー、と笑いかけてから頭をぐしゃぐしゃと一撫でしてその場を去っていった。
「……わたし、彼女らしいですけど」
「彼氏いないんでしょ」
先日飲んでいた時の話を覚えていたらしい。
確かにいませんけれども。ささいな話を覚えていてくれて嬉しいとは思うが。勝手に彼女にされていて思うところがないわけじゃない。けれどそれ以上に嬉しいと思ってしまった自分が悔しい。
「居ませんけどぉ。なにか?」
「じゃあ俺でいいじゃないの」
「……絵心くんはそれでいいわけ」
「いいから否定しなかったんだけど」
「そっか。じゃあ、いいか」
これから彼氏と彼女ということで、と手を差し出せばその手を取られてぎゅうっと握られる。一回り以上大きい手に包まれる自分の手を見ながらこのぬくもりが自分のものになったんだな、とじわじわと実感し始めた。顔にじんわりと熱が集まり始めた気がする。
「今日はもう帰るの?」
「あ、うん。親の車だから早く返さないと」
「そう」
正直まだ絵心と話したいというか一緒に過ごしたい気持ちはあるが、親に遅くならないと言って出てきてしまったので仕方がない。今日はおとなしく帰ることにする。
駐車場に向かおうと絵心に別れをつければ、絵心が近くのチームメイトに一声かけた。
「彼女のこと送ってくるから」
「すぐ戻って来いよー」
「うん」
じゃあ行こう、と声をかけられて駐車場まで見送られることを理解した。一緒にいられる時間が増えて頬がゆるみそうになる。気付かれないように自分の顔をもにもにと揉んでいるとさっさと行くよ、と急かされた。
駐車場に向かう途中に話すことは試合を見ていた感想ばかりで。素人の感想なので絵心から聞けば幼児の感想と大差ないだろうが、それでも言いたくなってしまった。
車の前に到着して車に乗り込む前に絵心にお礼を言う。
「試合、誘ってくれてありがとう」
「別に。見せたいと思っただけだし」
「それが嬉しいんだよ」
「……そう。帰り、気をつけてね」
「うん」
「帰ったら連絡して」
まるで彼氏みたいなことを言う絵心が可笑しくて笑ってしまいそうになるが、実際に彼氏になったんだった、と我に返る。笑わなくてよかった。
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
親のようなことを言う絵心が面白くて声を上げて笑いそうになるのをなんとか堪える。
安全運転で帰ってね、と言われてそれにはいはい、とおざなりな返事をすれば額を小突かれた。こういう気安い関係になったことが未だに信じられない。
絵心に見送られるまま車に乗り込んで駐車場を出る。来た道を戻るだけだけれど、来たときよりも心が軽いのは絵心と付き合えたからだろう。高校生の自分に教えてあげたいと思う。
きっと過去の自分は絵心と付き合えた、と言っても信じないだろうが。それでも現実は付き合えているのだから、人生何が起こるのかわからないものだ。
カーナビの横にセットしてあったスマートフォンが震えてメッセージの受信を教える。絵心かな、と思って画面を確認すると絵心とのことをすべて知っている友人からのものだった。
「あ」
進展があれば伝えると言っていたけれどすっかり忘れていた。なんて言って彼女に説明したらいいだろうか。また怒られるような気がしている。怒られてでもいいから絵心と付き合えたことを喜ぶ自分はひどい人間なのかもしれない。
絵心と付き合うようになって試合に足を運ぶ回数が増えた。スタジアムというのは都心よりも外れたところにある場合が多く、電車やバスを乗り継いでいくにはすこし不便なところが多い。そのたびに親の車を借りて応援に行くようになったけれど、そろそろ親との使用のタイミングが被ることが増えてきた。いい加減自分の車を買うべきなのかもしれない。遊ぶ以外に使い道のなかった自分のバイト代を使う日がやってきたのだろう。
貯金してあった通帳を開くと結構な額は貯まっている。車って買うにはいくらかかるんだろうか。車好きの母に聞いてみることにして、通帳を片手に掴んでリビングに居る母の元へと向かった。
母の話によると車を買う、と言っても簡単なことじゃないらしい。車体のグレードに保険にエトセトラ。思っていたよりも考えなくちゃいけないことが多くて驚いた。中古車にしようと思っていたけれど、お金は出すから新車を買え、と言われたのでその言葉に甘えることにする。
買う車に目星をつけていくつかピックアップした。なまえの中で有力候補なのは女性向けと謳われている軽自動車。五人乗りの割にコンパクトなサイズ感が良い。かかる費用を試算して親が出してくれるという金額と自分の貯金額を合わせるともう少しアルバイトを頑張る必要がある。
しばらく多くシフトに入るようにしようかな、と見当をつけた。絵心を驚かせるために未だ言わないでおくことにする。
いつのまにか絵心のことを甚八と呼ぶようになって、彼もなまえ、と名前を呼んでくるようになった。彼氏彼女という関係は続けられたままで、なんなら深まっていると言っても過言ではない。
正直やることはやった。初めては痛いというけれどそこまで痛くなくて驚いたものだ。それを友人たちに言うと付き合った経緯とかもろもろクソだけどいい彼氏じゃん、と褒められたのは今になっても不思議だった。
試合を見に行って、直帰できるという日がたまになるのでそういうときは車でどこかにご食事に行く。
車に乗っているのでもちろんなまえはノンアルコールで、絵心もアスリートなのでノンアルコール。健康だ。
スタジアムから車を三〇分ほど走らせて大きなショッピングモールにやってきた。ちょうど先日SNSで紹介された店の系列店が入っていると知って来たかったのだ。絵心は食事ができたらなんでもいい、というので自分の希望を通させてもらった。
目当ての店に到着すると絵心が入り口で店の看板をじっと見る姿が目に入る。お気に召さなかったのだろうか。どうしたの、と声をかけると淡々とした声が返ってくる。
「焼肉……?」
「嫌だった?」
「いや?」
「ここのパンケーキが映えるんだよね」
「焼肉なのにパンケーキ」
「甚八はお肉でタンパク質取れるからいいでしょ」
「タンパク質効率的に取るなら鶏肉なんだけどね」
さも当たり前のように言われたことに反抗しつつにおどけて言葉を返す。
「アスリートじゃないから詳しいことはわかりませ~ん」
「お前ね……」
呆れた様子の絵心を尻目に店員に声をかけるとそのまま店内に案内された。窓際の見晴らしのいい席に通されて少しテンションが上がる。
席に腰を下ろしてテーブルの上に置かれているメニュー表を手に取る。すぐにパンケーキに行ってもいいけれど、絵心が肉を食べるのであればそれに合わせて自分も軽く食べようかな、と思った。
「どうする?」
「上カルビ定食にする。そっちは?」
「わたしも定食頼もうかなぁ」
「パンケーキ食べるんじゃなかったの」
「でも甚八がお肉食べるなら一緒に食べたいじゃない?」
何とはなしに告げると目の前でこれ見よがしにため息を吐かれた。
失礼な奴だな。
「俺の一口分けてやるからパンケーキの容量空けてなよ」
「いいの?」
「いいよ」
じゃあ店員呼ぶから、と言って近くを通った店員を呼び止めて絵心は上カルビ定食と食後にパンケーキを頼んだ。定食のときに取り皿などは二つずつ用意してほしい、と添えるのを忘れずに。このひとのこういうところが好きだなぁ、と思う。独りよがりに見えて結局はいろいろなことを考えてくれている、はずだ。自分がないがしろにされていると感じたこともない。サッカーに勝とうだなんて端から考えていないのもあるかもしれないが。絵心にとっての最上はサッカーで、自分はその次くらいにいればいいなぁ、と言った気持ちだ。
料理が運ばれるのを待っている間に話そうと思っていた話題を切り出す。
「車買おうと思ってて」
「なんでまた。今も車持ってるでしょ」
「あれは親の。いろんなところに行けるし、甚八の試合も応援に行きやすくなるし」
「まぁ、お前の好きにしたらいいけど」
「車選ぶとき、付き合ってね」
「はいはい」
店員が注文していた定食とパンケーキがそれぞれやってくる。パンケーキがなまえの目の前に置かれて思わず目を輝かせてしまう。焼肉屋のパンケーキ、というと想像がつかないけれど、そこが面白いらしい。
紹介していたテレビがそう言っていた。見るからにもちもちしていそうなパンケーキに色とりどりのフルーツが散りばめるように置かれている。そこに生クリームとソースがかかっていた。
これだけ見ると普通のパンケーキだけれど、かかっているソースがこの店の特色だ。フルーツソースの中に隠し味として焼肉のタレが入っているのだという。
どんな味なのか気になって仕方がなかった。SNSを見ると賛否両論で自分がどちらになるのか楽しみでもあったのだ。
パンケーキに目を奪われていると目の前に取り皿分け終わった肉を差し出される。絵心の存在をすっかり忘れていた。
「ありがとう」
「先にこっち食べたいでしょ」
「うん。パンケーキはあくまでデザートだからね」
お肉を受け取ると続いて箸も差し出される。
箸を受け取って早速お肉を食べるために使う。口に運んだカルビが美味しくて頬がゆるむ。美味しい肉の味がした。
結局肉をふた切れ貰ってどちらも美味しくいただいて。パンケーキの前哨戦にはちょうどいいだろう。
いよいよパンケーキを食べようとフォークとナイフを手に取った。パンケーキを食べやすいサイズに切り分けて食べる。
焼肉のタレがどういう作用を起こすのかわからなかったけれど、いざ食べてみると焼肉のタレかな、と思う程度でなにも知らずに食べたら気付かなかっただろう。
ほんのり焼肉のタレの味がするなぁ、くらいのものだ。
ドキドキしていたのに肩透かしを食らった気分だ。普通のパンケーキとあまり変わらないじゃないか。
思っていることが伝わったのか絵心が聞いてくる。
「どうだったの、目当ての味は」
「思ったよりフツー……?」
「なにそれ」
こちらの言葉が面白かったのかふは、と笑う絵心に目を囚われる。
絵心の口元がやや緩んでいる姿はまぁまぁ見てきたけれど、こうしてはっきりと音に出ているところは初めて見た気がする。
今まで見たことのなかった姿にきゅんと胸が高鳴った。食べていたパンケーキの味がわからなくなってしまいそうになったのはなまえだけの秘密だ。
さっきまで楽しく見ていた試合も、楽しみにしていたパンケーキも、全部絵心の笑みを前に霞んでしまった。
買う車の目星をつけ、ほぼほぼ決まっている状態で絵心を伴って駅から歩いて自動車販売店に向かう。
朝から呼び出したから迷惑だったか問えば、朝から走り込みをしていたのでそうでもない、とのことだった。迷惑になっていないのならよかった、と胸を撫で下ろす。
店に到着して店員に出迎えられて車を見に来たことと希望のものがあれば今日にも購入したい、という旨を伝えると中へと案内された。四人掛けの席へ案内されてなまえが下手の奥の席に座って、絵心がその左隣に座る。資料を取りに行っていたらしい店員が戻ってきてなまえ分たちの座る席から机を挟んだ反対側に座った。いくつかカタログを出してくれた中に目星をつけていたものもある。そのカタログを手に取って、開く。やっぱり愛らしくて直感的に好きだと思う。
この車とあと似た規模の車があれば見せてほしい、と言って車が展示されている駐車場まで案内された。
一番最初に見たのはなまえが目星をつけていた車種だ。
「事前に見たときから思ってたけど、やっぱりこの車かわいい!」
「シート狭くない?」
「そりゃ甚八には狭いかもしれないけど」
自分も使う想定で口を出してきたことが可笑しかった。確かに絵心も助手席には乗るだろうが。
結局、決めてあった車を購入することにした。まだやらなきゃいけないことは残っているが、これで所謂マイカーと手に入れたことになる。大学生にしてマイカー持ちというのはすこし違和感があるけれどそれもまたいいだろう。
自動車販売店を出て駅までの道のりを歩いていると、あっちの車でもよかったんじゃない、と言ってくる絵心の言葉などスルーした。
「まぁ、お前が主に使うものだから納得のいくもの買えたならいいよ」
最後は折れた絵心ににんまりと笑みを浮かべてしまう。最初からそう言えばよかったのに。
「これで甚八の試合にも気兼ねなく行けるしよかったよかった」
「俺は電車とかバスでもいいって言ってるけどね」
「車の方が楽なんです~」
「知ってる」
車の恩恵を受けるようになって絵心もだんだん公共交通機関を使え、と言わなくなってきたのには気づいていた。
なまえの手元に車がやってきていくつも絵心の試合を見に行って、絵心を彼の家まで送って、という日々が自分の日常に溶け込んだ頃、それは起こった。いつものように試合会場から絵心を拾って彼の家まで送る。彼の家の前で車を停めたところで絵心が話を切り出してきた。海外へサッカーをしに行く、という話で。
「海外……?」
「そう、ドイツのチームから声かかってて」
「すごいじゃない」
「挑戦しようと思ってる」
「いいと思う」
応援する以外の選択肢はなかったし、思い浮かばなかった。
サッカーにすべてをかけている人がもっと上のステージに挑戦する権利を得たというだけでもすごい。挑戦する他ないと思った。
「車まで買わせたのが申し訳ないけど……」
「そんなこと気にしてたの? 車は普通に日常でも使ってるから気にしないでいいよ」
「ならいいのか……?」
「いいんだよ」
そんなこと気にしないでいいんだよ、ともう一度念を押す。
絵心の人生の大事な挑戦に必要じゃないことなんて考えなくていいのだ。
なまえは短い期間だろうと絵心と付き合うことができて幸せだったと思っているし、それだけで充分なのである。見送りには来ないでいい、と言われたのでここが関係の終着点だと思った。海外に行けばなまえのことなど絵心は忘れてしまうだろう。
だから、それでいいのだ。
自分は絵心への感情を昇華するのに時間はかかるだろうが─これまでの経験上分かっている─、ちゃんと思い出にできるはずだ。
「……行ってくる」
「行ってらっしゃい」
まるで祈るように唇に口づけを落とされた。
唇はすぐに離れてそれから抱きしめられる。
痛いくらいの強さを噛み締めた。この人と触れ合うことはもうないのだと改めて実感する。
最後に車内で交わしこの瞬間をしばらく忘れることはできなさそうだ、と胸に刻んだ。
ふたりで過ごしたささやかで穏やかな時間も、車で少し遠くへ出かけて笑い合った時間も、ピッチを駆け抜けるかっこいい姿を見つめた時間も、すべて今この瞬間で終わりを迎えてしまうのだ。それを寂しいと思うし、悲しいと思うし、でも絵心を見送ることを誇らしいとも思う。そういう選択を選ぶことの出来た自分を褒めてやりたい。元々泣いて縋るような女ではないけれど、それでも送り出すということをすんなり受け入れられてよかった。絵心の邪魔になることはないだろうけれど─邪魔に思ったらきっと捨て去ってしまう人だと思うから─、それでも邪魔にならなくてよかったと思うのだ。知らない人がなまえのことを見たら負け惜しみでしょ、と言われることもあるかもしれない。海外に挑戦できるような男を手放すなんて馬鹿みたい、と嗤われるかもしれない。自分の夢のために妥協しない絵心だからこそ心惹かれたのだ。それを曲げたらそれはもう絵心じゃない、と言い切ってしまえる。所謂解釈違い、というものかもしれない。絵心はなんの気兼ねもなく海外に挑戦してくれたらそれでいいのだ。それだけでいいのだ。足枷になるなんて烏滸がましい。
でも、ひとつだけわがままを言うことが許されるのなら、ふ、とした瞬間になまえのことを思い出してほしいと思う。ああ、ああいう女もいたな、と。絵心にとって忘れかけた思い出になることができたらそれは大層幸せなことだろう。
いつかこの恋を終わらせて次に好きな人ができますように、と祈る。いつまでも女々しく絵心のことを引きずってはいられないのだ。この恋を笑い飛ばせるくらいになればいい。そう思った。