ブルーエクスタシーの現実

キャバレーでの勤務が終わって、今日は寄り道せずに帰ろう、と決意をして店を出る。先輩キャストたちにお先に失礼します、と言えばみんなまた明日ねー、なんて言葉を返してくれた。明日の勤務は何時からだったっけな、20時だったかななんて考えながら店の外に出ると人の姿が視界に入る。こんな時間に人がいるなんて珍しい、と思ってその人の隣を素通りしようとしたところで声をかけられた。思わず足が止まる。こんな客いただろうか、と逡巡してみても思い当たるような人はいない。記憶違いでなければおそらく初対面のはずだ。訝し気に視線を送ると、先方が口を開いた。

「オメェが、禪院なまえか?」
「そうだけど」

店で使っている名前ではなく本名で呼ばれて、ますます疑いの目が強くなる。こんな知り合いはいなかったはずだ。だとすると考えられるのは、禪院の手の内の人間か、高専関係者。後者に関しては今更接触してくるとは思えないので、前者の可能性が濃厚だろうか。身構えつつ目の前の人をじっと見る。おそらく甚爾と同じくらいの年代の男性。記憶を巡らせてみてもこんな知り合いはいないと断言できる。

「依頼をしたい」
「依頼?なんの?」
「呪術関係の、だ」
「生憎呪術師は辞めてるんだよね」
「伏黒甚爾からの紹介だと言っても?」
「…………用件だけ聞く」

孔、と名乗ったその人は甚爾とは術師殺しをしていたときからの知り合いだと言う。そんな人がわたしに何の用があるのかよくわかなかった。あと、なぜ呪術師を辞めているわたしにわざわざ依頼をしに来たのかも。

「本当なら高専にでも依頼した方がいいのはわかってる。だが、今うちが関わってる案件上高専と接触するのはまずい。そこで前に聞いたオメェのことを思い出したわけだ」
「ふぅん」
「相手はかなり金払いのいいクライアントだ。受けてくれないか?」
「悪いけど術師殺しならできないよ」
「その辺は甚爾にも言われたから心得てる。頼みたいのは呪いを祓ってほしい」
「で?高専に頼みたいのに頼めないってことはその呪いになにか秘密でも?」
「――呪詛師にかかっている呪いを祓ってほしい」
「そういうことね」

なぜ昔甚爾に話を聞いただけのわたしを探してわざわざ依頼をしに来たのか分かった。呪いを受けている呪詛師自体が呪詛返しにでもあったことは推測できる。確かに呪詛師にかかった呪いの解呪となれば、高専に持っていくと自分たちに足がついてしまうわけだ。それは御免被りたいと。

「それで?その報酬はいくらもらえる?」
「前金でこのくらいだ。解呪できればこの額にさらに二倍出すと言ってる」
「じゃ、交渉成立。詳細はまたこの住所にでも送っておいて。メールアドレスはこれ」
「助かる。依頼書は書面の方がいいか?」
「うん、あとで処理もしやすいしそれでお願い」
「わかった。仕事終わりに悪かったな」
「ほんとだわ。帰って寝かせて」

孔さんと別れて時計を見ると終電の時間はとっくの昔に過ぎていた。送りの車を出してもらえばよかったな、と後悔する。渋々適当にタクシーを捕まえて乗り込んだ。家までの最寄りを告げれば運転手は了解の返事をする。久しぶりに禪院なまえとして会話をしたのでなんとなく疲労感を覚えた。背中をタクシーの後部座席のシートに凭れさせて身をゆだねる。
甚爾の名前を久しぶりに聞いた気がした。最後に聞いたのはいつだったか思い返せば、もしかしたら五条に甚爾のことを聞かされたときかもしれない。心地のいい人間と嫌いな人間が同時に想起させられてなんとも言えない気持ちになった。

依頼の実行日はキャバレーが休みの日でお願いした。さすがに仕事終わりや仕事前に解呪をする余裕はない。実際今回の件はちょっとした小遣い稼ぎのような気持ちのほうが強いし。
呼び出された都会の喧騒も聞こえない静かな町に行けば、孔さんが出迎えてくれた。連れていかれたのは静かな町のはずれで、廃墟となったビルがあり、そこで呪詛師は身を隠しているのだという。連れて行かれるままに後ろについていけば、だんだんと空気が悪くなっていくのを感じた。呪霊の禍々しさが隠しきれておらず、澱んだ空気が漂っている。

「ここだ」

先に部屋の中に入っていった孔さんのあとに続くと、中にはコンクリートの床にうずくまるように横たわっている人間の姿が目に入った。ひゅーひゅー、と息がなっているのだけが聞こえる。意識なんてもうないんじゃないのか。横たわっている呪詛師に近付く前に自分の式神である獏を呼び出す。獏は夢を食べるという言い伝えのある動物だけれど、わたしの獏は夢も食べるがそれ以外にも呪いも食べた。食べた呪いは獏の中で消化されて呪力として術者に還元される。
獏にあの人の呪いを食べて、と念じれば、獏はとことこと足を進めて呪詛師の前に立った。それから鼻で呪霊を口元までを引き寄せ咀嚼していく。虫の息だった呪詛師の呼吸がだんだんと安定したものに変化していった。しばらく見守っていると獏はやり切った、とでも言わんばかりになまえの元に戻ってきて頭をなまえの足に摺り寄せてくる。

「ありがとう、もう大丈夫」

獏に礼を告げながら頭を撫でてたから術式を解除した。事の一部始終を見ていた孔さんは不思議そうな表情を浮かべているのが分かる。影法術を見るのは初めてだったのだろうか。甚爾は術式を使えなかったから肉弾戦しかできないし。

「これで終わりか?」
「うん。これでもう大丈夫だと思う」
「そうか」

呪詛師に孔さんが近づき、呼吸と意識を確認していた。呪詛師の呪いだけを全部食べていったはずなので、問題はないはず。呪詛師の身体のいたるところを確認してから孔さんが戻ってきた。

「どう?」
「あぁ、問題ねぇ。助かった。報酬は前に教えてもらった口座でいいか?」
「うん、よろしく」
「また頼む」
「術師殺し以外なら、応相談で」

笑みを浮かべながらそう答えると、孔さんは了解、と笑った。このあとクライアントと話すらしい孔さんを呪詛師と置いてきて廃墟を出る。
廃墟の外に出ると少し雨が降っていて、すこしいやな気分になった。さいわい、折り畳み傘は持っていたので鞄から出すだけで事足りるが。青に白の花柄が入っているこの傘は高校入学の祝いで甚爾が買ってくれたものだ。色と柄が気に入っていて、ずっと大切に使っている。物持ちは悪くない方なので、壊れる気配は今のところない。
甚爾が孔さんになにを言ったのかわからないが、こうして甚爾に繋がるなにかに触れられるのは嫌じゃなかった。術師殺しはしないように言ったというのが気にはなったけれど、真相を聞くことができる相手はもういない。
傘を差して駅までの人っ子一人いないのどかな道を歩き、駅に到着するころには雨がさきほどよりも強くなっていた。電車に乗り込んで都会の喧騒の中に戻っていく。
新宿で乗り換えるために電車を降りると、屋根越しに空を見れば雨は止んでいるようだった。最寄り駅に通じる路線に乗り込めば携帯電話が震える。明日のシフトのことでのメールかな、と思って受信箱を起動させるとそこには先ほど別れた人物からのメールだった。さっそく次の依頼のメールが来ていて笑ってしまいそうになる。都合よくわたしのことを使おうとしてるなぁ、と感じたが、この勘はおそらく外れていないはずだ。仕事のシフトを確認してから日程調整でお願いする旨を記入して返信する。
返信を終えて窓越しに外を見るとわたしの持っている折り畳み傘と同じような綺麗な青色が視界に入った。