骨とベガ

五条先生の元で世話になる前、僅かな期間だけ俺と津美紀の世話をしてくれていた女性がいた。毎日小学校が終わり家に着いた頃に現れて、夜が更けていくと仕事に向かうその人は、親の知り合いだと名乗ったことを今でも覚えている。なまえさん――世話になってた頃は小学生男子特有の恥ずかしさもあり、生意気にもババアと呼んでいたが――は、五条先生に世話になり始めると、家に姿を見せなくなって。後日、津美紀が彼女に渡していた合鍵が無言でポストに入れられていたので、もう恵と津美紀に会う気がないことを幼いながらに察した。

なまえ、さんっ」
「やべ、見つかった」

虎杖とふたりで稽古をつけてもらおう、と真希先輩たちを探し高専内を歩いていると、約十年ぶりに彼女の姿を見つけた。恵の顔を見るなり逃げようとする彼女を逃がすものか、と走って近づいていって、細い手首を掴む。なんでここにいるのか聞きたくても、こんなところでなまえさんに会えると思っていなかったせいか、口がわなわなと動くだけで音を発せずにいた。

「大きくなったねぇ、恵」

それ以上の言葉が続かない恵を見兼ねたのか、気を遣ったのかわからないが、困ったように感慨深そうになまえさんは笑って言う。呪霊が見えていたことを彼女に話したときに見た表情と同じそれに安堵を覚えた。あの頃はよく着ていた派手なワンピースが落ち着いたグレーのワンピースとネイビーのジャケットに服装が変わっている。落ち着いた姿を見るのは初めてでなんとなく心臓のあたりがざわざわとした。

「アンタ、今までどこに、」

条件反射で掴んだ手首から、彼女と自分の視線の高さの違いに気づいた。この人はこんなに小さかっただろうか。最後の記憶では彼女を見上げて話していた記憶しかない。それが今はどうだ。津美紀よりも小柄だということを初めて知った。手を振り払おうとするなまえさんを逃さないように、腕を掴む力をさきほどよりも少し強くする。

なまえー、悟が探してたよ……ってなにこれ修羅場?」
「まさか。ないない」

なまえさんを探していたらしい家入さんが俺と彼女の姿を見るなり、面白おかしそうに揶揄うような声色で声をかけてきた。
即座に修羅場を否定されて、なんとなく面白くない。彼女にとっての俺はその程度なのかと勝手に凹む。こっちはずっとアンタのことを忘れずにいたというのに。

「あぁ、彼のことだったの。なまえが言ってたのって」
「そうそう。まさかクソジャリがこんなに大きくなってるとは思わなかったわ~しかもなんの因果か、父親そっくりだし」
「は?」

何をどう家入さんに話していたのか気にならなくはないが、この場をやり過ごそうとしている気配を感じてそれを阻止する。
喧嘩腰に言葉を投げつければ、彼女が恵の知っている彼女ならばこの先の展開を読むことは容易い。

「ハァ?口の利き方に気をつけろクソガキ」
「ババアに言われたくないっすね」
「伏黒こんなキレイな人に何言ってんだよ」

虎杖のフォローに気を良くしたのかなまえさんが口角を上げてニンマリと笑う。いいねーそういうストレートに言ってくれる子は好きだよ、と嬉しそうに言う彼女に苛立ちを覚えて、腕の骨からみしり、と音聞こえそうな力加減で手首を掴んでいた。

「痛ぇな。放せよクソガキ」
「なんであれから一度も来てくれなかったんすか」
「五条さんがしゃしゃって来るならわたしはお役御免だから」
「なんで五条先生が、」
「呼んだ?」

言葉の応酬が止まらず、ヒートアップしそうになったところで水を差すように五条先生が現れる。彼の後ろには真希先輩たちの姿も見えた。さっきは全然見つからなかったのにどこにいたんだか。

「呼んでねーよクソが」

五条先生が姿を見せると同時になまえさんの口の悪さが加速する。よほどこの人のことが嫌いなんだろうな、と思った。なまえさんは良くも悪くも感情表現が素直だ。好きなものは好きだと表現するし、嫌いなものは嫌いだと表現する。

「相変わらずなまえは言葉が汚いなぁ」
「うるせえ。あっ!真希!元気かぁ~?」
なまえが高専に来るなんて珍しいじゃん。親父のとこに居なくていいのか?」
「おめーの父親のおつかいだよ」
「そういうことか」

真希先輩と親しそうにするなまえさんに違和感を覚えながら、二人のやりとりを見る。五条先生が虎杖に手招きをしてなまえさんの前に来るように指示する。虎杖はなまえさんの前で立ち止まって礼儀正しく挨拶をした。

「虎杖悠仁です!初めまして」
「ご丁寧にありがとう。初めまして、禪院なまえです。今日はたまたま高専に来てるだけで、普段はあんまり近寄らないけどよろしくね」
「は……禪院……?」
「あ、あー……」

やっちまった、という表情を浮かべるなまえさんになんとなく事情を察した。俺は、今この瞬間まで、彼女が禪院家の人間だなんて思いもしなかったのだ。少し考えれば分かりそうなものなのに。てっきり、彼女は母に言われて俺たちの世話しに来ていたと言っていたので、津美紀の母がそう言ったのだと勝手に思っていた。

「アンタ、禪院家の人間だったんすか」
「そうだよ。ちなみにアンタの世話をするように言ったのも甚爾――アンタの父親だから」
「あいつがそんなことを頼むなんて信じられない」
「信じられないのはわかるけど、残念ながら事実だわ」

予想していなかった現実に後頭部を殴られたような気持ちを覚える。訳ありな雰囲気を察してか黙っていた周囲の沈黙を裂くように真希先輩が口を挟んだ。

なまえは禪院家の人間なのは事実だぞ。なんならクソ親父の補佐してるしな」

禪院家の当主補佐なんて、中核も中核じゃないか。呆気に取られていると、なまえさんが目を泳がせながら、浮気を恋人に問い詰められている人間みたいに言い訳を始める。

「いや、恵たちの世話をしてる頃は家から出ててな?戻る気もなかったから、言わなかっただけで」
「家出てるのに俺たちの世話はしに来たんすか」
「甚爾とは家のことは関係なく仲がよかったからな。従兄弟の頼みは流石に聞くさ。元々世話になってたし」

突然目の前に並べられた事実に頭がこんがらがる。なまえさんは、父親の従姉妹で、禪院家の人間で、現行当主の補佐。呪霊が祓えるのだから、呪術師だとは思っていた。けれど御三家の人間だなんて思っていなかったのだ。五条先生に御三家の集まりに連れて行かれたときも、いなかったし。彼女はたまたま両親の顔見知りの呪術師で、それで両親に頼まれたから、来てくれていただけだと。

「ついでに言うと僕や硝子の一つ下の高専生だったっていうのもあるよね」
「五条まじで黙ってくんない?」

どんどん増やされる彼女の情報に頭を抱えたくなる。彼女のことを知った気でいたのに、何も知らなかったのだと見せつけられて、目眩でも起こしたようにくらくらとした。
なまえさんに会えたら話したいことがたくさんあったはずなのに。

「時間作ってやったら?」
「残念。呪物を高専に運びに来ただけだから、このあと御当主の任務の付き添い」
「親父もタイミング悪りぃな」
「元々ここで恵に会うことは想定外だったしな」

彼女は恵の現状を把握しているのに、自分は彼女の現状も過去に世話をしてくれていたときのことも何も知らないのだ。たった数ヶ月を大事な思い出として胸に仕舞い込んでいたのに、相手にとってはなんでもない義務的なものだったと自覚させられる。

「じゃあ、帰るわ。騒がせてごめん。硝子先輩また飲み行きましょ」
「おっけー。仕事空いてる日連絡する」
「よろしくです。真希もまたな。真依が気にしてたから少しくらい実家に顔出してやんな」
「やなこった」

べー、と舌を出す真希先輩に呆れたようにため息を一つついて、それから体の向きを変えた。視線が交わる。

「恵も、じゃあね」

背伸びをしたなまえさんに頭を撫でられて、昔の感情が想起された。俺はこうされるのが嫌いじゃなかった。
手首を掴んでいた自身の手はもう添えられているだけのようなもので、いとも簡単に振り解かれる。去っていく背中はあの派手なワンピースを着ていた頃となにも変わっていないと思った。