本当のくちづけは額だけに

長い間、行方をくらませていると思っていた父親が帰宅したかと思えば、知らない女のひとを連れて帰ってきた。いつもであれば出稼ぎと出稼ぎの間に一週間程度家に滞在して、それからでかけるのがいつものことだ。けれど、今回はいつもと違っていた。津美紀の母もあまり家に居ることがないが、たまたまその日に居て、父親の連れてきた女のひとを見るなり発狂したように大声をあげて父親を怒鳴る。
事情を説明してようやく津美紀の母は納得したようで、父親の連れてきた女のひとを俺と津美紀に紹介した。

「恵、津美紀、俺の従姉妹のなまえだ。仲良くしろよ」
なまえです。恵くん、津美紀ちゃん、よろしくね」
「よろしくおねがいします」
「……ます」

突然目の前に現れたなまえという女のひとは、父親の従姉妹らしい。今までそういう人間の話が全然なかったから、てっきり父親に親戚はいないのかと思っていた。けれど、そうではないらしく。父親は自分の家から勘当されていて、従姉妹に会うことも許されていなかったそうだ。彼女の家族がいなくなってしまったことで、父親が引き取ることになりこうして一緒に暮らすことになった。
最初は様子を伺っていた津美紀の母も彼女に対して、恵の父親がなんのやましい感情を抱いていないことを理解したのか態度が軟化し、今では自分が働いている間に彼女に津美紀と恵の面倒見をお願いしているほどだ。

なまえちゃん」
「めぐ、どうしたの」
「お腹すいた」

なんと呼んでいいのか分からず津美紀とどうしよう、と言っていたら、父親が名前で呼んでやれというので、津美紀と二人で彼女の名前にちゃん付けで呼んだ。すると、とてもうれしそうに笑ってくれた。それにこっちも嬉しくなって、彼女の名前を何度も呼ぶようになって。名前で呼ばれてもちゃん付けで呼ばれることがなかったからうれしい、と彼女は言う。そんなことあるのだろうか、と疑問には思ったが、目の前の彼女が嬉しそうにしているので、きっとこれでいいのだろう。

「もうおやつの時間だね?津美紀も誘っておやつを買いに行こうか」
「ん」

おいで、と差し出された手を掴んで、昼寝をしていた津美紀が眠っている部屋に向かう。家族が増えたことですっかり部屋が手狭になってしまったと思った。眠るときは父親と津美紀の母が同じ部屋で眠り、津美紀と恵となまえちゃんが同じ部屋で眠る。そろそろ引っ越すか、なんて父親が言っていたので、そのうち引っ越すかもしれない。

「津美紀ー?おやつ買いに行くよ」
「はーい」

呼びに来る前に起きていたらしい津美紀が部屋から出てきて顔を出す。寝起きだからか顔がぽやぽやとしているような気がした。なまえちゃんはポケットから財布を出して中身を確認している。いつもおやつを買いに行くときは彼女がお金を出してくれていた。本人曰く父親や津美紀の母から事前にお金はちゃんともらっている、とのことらしい。

なまえちゃん、今日は大きい方のスーパーに行きたい」
「良いよ。めぐもそれでいい?」
「いい」

なまえちゃんは俺の名前をめぐみ、と呼ばずにめぐ、と縮めて呼ぶ。女の子みたいでいやだな、と思わないこともないが、嬉しそうに呼んでくれるから我慢していた。津美紀は津美紀、とちゃんと呼ぶのに、なぜ俺だけがめぐ呼びなのか聞けば、本人はけろっとだってかわいくない?と言ってのける。彼女にとって俺や津美紀は庇護の対象でかわいいものらしい。そういう存在が近くにいなかったから、二人がかわいくて仕方がないのだ、といたずらが成功した子どものように笑った顔が目に焼き付いた。
連れられるままになまえちゃんを挟んで右手を俺が、左手は津美紀が繋いでアパートを出る。外に出ると、ご近所に住んでいるおばさんが声をかけてきた。いつも下世話な視線をなまえちゃんに向けるそのひとのことは好きではない。なまえちゃんが学校に行っていないのがおかしい、とか穀潰しがいて大変だね、なんてことを言ってくる。確かに彼女は大体家に居るが、父親と一緒に出掛けてお金を稼いで帰ってくることもまぁまぁあるのだ。家にお金を入れてくれているのに、そんなことも知らずに憶測でなまえちゃんを責める姿勢なおばさんがきもち悪いと思う。たまに背中に変な虫みたいなのをつけているときもあるし。嫌な感じがするからそういうときは徹底的に避けるようにしているけれど。

「あらぁ。津美紀ちゃんたちお買い物?」
「えぇ、まぁ」
「あなた相変わらず学校に行っていないのねぇ。恥ずかしくないのかしら?」
「別に。甚爾さんたちは行きたくなったら行けばいい、と言ってくれているので」
「だからってねぇ?」

じろじろと他人の家に口出ししてきて、何様なのだろうか。高校はギムキョーイクじゃないって父親たちも言っていたし、なまえちゃんも学校行くより働いてお金入れるほうがいい、と納得した上で今の生活をしているのに。おばさんの心無い言葉にかっと頭の中が熱くなって、思うままに言葉を発していた。

「うちのことはおばさんには関係ないだろ」
「めぐ」
「そうよ、おばさんにはうちのことは関係ないんだから口出ししないで」
「津美紀も。やめなって」
「いやだ!なまえちゃんのこと馬鹿にしてほしくない!」
「そうだよ!」

おばさんも俺と津美紀に言い返されると思っていなかったのか、そそくさと逃げるように家に戻っていった。なまえちゃんがいてくれるおかげで、俺たちがどれだけ助かっているのかも知らないくせに。あれこれ言ってほしくない。
怒りで興奮してしまったからか肩を震わせていると、なまえちゃんが俺と津美紀をまとめて抱きしめてきた。津美紀や俺とは違って、どちらかと津美紀の母に近いやわらかい感触に包まれてほっとする。感情が高ぶっていたからか目元が熱くなって涙がこぼれそうになった。

「ありがとうね、めぐ。津美紀も。嫌な思いさせちゃってごめん」
なまえちゃんが悲しくないならいい」
「悲しくないよ。めぐも津美紀も一緒にいてくれるじゃん」
「おかし買いに行こう」
「そうだね。今日はふたりともかっこよかったからお菓子二つ買っていいよ」
「いいの?」
「うん。お母さんとお父さんには内緒ね」
「うん!」

いつもより多く買うことを許されたお菓子に津美紀と二人で喜んでいると、なまえちゃんが俺と津美紀のおでこに口づけを落とした。なんだか恥ずかしくなっておでこに熱が集まる。

「本当に、ありがとうね。ふたりとも」
「ううん。わたし、なまえちゃんのこと大好きだもん」
「おれも」
「わたしもふたりのこと大好きよ」

あまり家に親がいないので、なまえちゃんは俺と津美紀の保護者の代わりのようなもので。幼稚園のお迎えにだって来てくれるし、ご飯だって作ってくれる。最初は上手じゃなかった料理も、今ではすっかり美味しいごはんを用意してくれるようになった。なまえちゃんはうちにくるまで自分で食事を用意したことなんてないからこんなに大変だとは思ってなかった、なんて言って笑って。今までどういう生活だったのか聞いたことはあるけれど、楽しい生活ではなかったよ、と寂しそうに笑うだけだった。

なまえちゃん」
「なあに、めぐ」
「今日の夜はハンバーグ食べたい」
「お!いいよ。作ろう。津美紀は何食べたい?」
「私マカロニサラダ!」
「いいねー。お菓子買うついでに晩御飯の食材も買って帰ろうか。重かったらふたりとも持つの手伝ってくれる?」
「うん」
「もちろん!」

手を繋ぎ直してまたスーパーまでの道を歩いていく。夕日に染まる道には大きい影と両脇に小さな影が二つあって、手を繋ぐことでひとつになる。ふと、なまえちゃんの影が液体のようにたぷん、と揺れたような気がしたけれど、左手で目をこするとなにもなかったから気のせいだったようだ。ハンバーグが晩ごはんで食べられると思うと嬉しいと思いながら、ふくふくとした気持ちでスーパーを目指した。