一番最初に可哀想な女やと思ったのは多分五歳だか六歳くらいの頃で。傍流に相伝を持って生まれてきた女児がいると、すでに術式も顕現していると、大の大人たちがはしゃぐ姿を見てくだらんなぁ、と幼い時分に感じていた。女でよかったな、と笑ったのは父だったか、叔父だったか。これで男として生まれていたなら今頃禪院家が二分していたことだろう。
人伝に聞いた不幸にも相伝を継承した彼女の名前を口の中で転がしてみる。何か特別なもののように思ったのは、自分にないものを持っているからかもしれない。直哉は相伝の術式を持って生まれてくることができず、上の兄たちも相伝の術式を持っていなかった。
その中で、直哉と同年代に相伝を持って生まれてきた女。喉が出るほど欲しかったその才能に嫉妬するなと言われる方が無理だ。今からでももらうことができるのなら、自分も兄も相伝を手に入れることだろう。
母親にこれから顔を合わせる子には今までで一等優しくするのよ、なんて言われてやってきたのは、奥ゆかしい日本庭園を有した禪院家の別邸だった。会合などで使われるこの別邸は入ることのできる人間が限られているが、直哉も何度か来たことがある。普段は本家で暮らしており足を踏み入れるのは親戚に時節の挨拶をしにくるときくらいだ。荘厳な雰囲気が漂うこの場所に来ると子どもながらに緊張もしたし、あまり長くこの場に居たいとは思わない。ここは謀略と残虐の巣窟なイメージがどうしても拭えなかった。大人たちはここで悪巧みをしてあいつを殺そうだの、あいつを生かそうだのそんな話をしているのだ。
屋敷に入れば、使用人で女将が自分と両親を迎え入れる。手を引かれるままに旅館の奥に入っていけば、そこにはひと目で高価なのがわかる着物に身を包んだ同じ年くらいの子どもがいた。使用人らしき老年の女性が彼女に何かを告げている。こいつが相伝を受け継いだなまえか、と見当をつける。禪院家の血筋だと一目でわかる漆黒の髪に、ふくふくとした柔らかそうな頬が目に留まった。横顔しか見えないのではっきりと瞳の色までは見えない。
案内をした使用人と母親は大人だけで話があるから、と直哉と目の前の子どもを置いて部屋を出ていく。
鞠を持って手でころころと遊んでいる子どもが自分に気付いていないようなので、こちらから声をかけた。もちろんやさしくするように、と言われたのでいつもよりも声の柔らかさを意識して声を発する。
「おまえがなまえ?」
「どちらさまですか」
直哉が名前を呼んだことで目の前の子どもが振り返った。先ほどは見られなかった顔の造形がはっきりと見える。大きくてつぶらな瞳に、禪院家の人間の割に表情のキツさを感じなかった。傍流だしこんなものなのかもしれない。本家筋の人間たちは大体顔の雰囲気で分かる。目の前の子どもは半分くらいしか禪院家らしさを感じなかった。
舌っ足らずな口調で当たり前のことを返事した子どもの言葉が、何かをなぞっているのは感じ取れる。おそらく世話付きの人間にそう告げるように言われたのだろう。本人が意味をわかっているのかいないのかはわからないが。なまえから視線を逸らさずに話を続ける。
「だれにそういえっていわれたん」
「ばあやがしらないひとにこえをかけられたら、こうききなさいっていってたよ」
「ふぅん。ぼくは直哉や。禪院直哉」
「なおやくん……なおちゃんってよんでもいい?」
「すきにしぃ」
小さな口から紡がれた自分の名の音が身体を震える。まるで彼女の中に自分が溶け込んだみたいだ。何も知らないであろう子ども。どうしてここにいるのかも、これから自分がどうなるのかもよくわかっていないのだろう。急な環境の変化に引き取った当初は体調を崩したとも聞いた。
突然家族と引き離されれば仕方のないことだとは思うが、これは相伝を持って生まれてきてしまった彼女の運が悪かったとしか言いようがない。本家でも最初はなんで傍流に相伝が、なんて雑言が飛んでいたくらいだ。
この場を設けられたのは簡単な話で。なまえの許嫁の候補を決めるために、上は当主である直毘人ほどの年齢の男から下は生まれたばかりの赤ん坊まで顔合わせをさせられていた。もちろん直哉も母親が候補にねじ込んでいたし、なんなら上の兄たちまでねじ込んでいて。誰かが彼女の琴線に触れたらいいと思っているらしい。もっとも、母親の思惑では年齢の近い直哉が有力だと思っているようだが。
母親は直哉たち兄弟に奇貨居くべし、と囁いた。相伝の女を自分たちの血に取り込めば次の相伝を産むことなど容易いと考えている。
自己紹介――といってもお互い名前を名乗っただけだが――を終えたところで、いつの間にか戻ってきていた使用人がふたりで庭園で遊んできはったらどうですか、と声をかけてきた。その言葉に従ってなまえの手を掴み、ここに来る途中に見かけた庭園へ連れ出す。
「ここでまりつきしよか」
「うん!」
直哉の提案に嬉しそうに頷いてなまえは手に持っていた鞠をつき始めた。あんたがたどこさ、の歌詞で始まる童歌を歌いながら、トントンと鞠をついている姿はただの害のない子どもにしか見えない。きらびやかな着物だけが浮いているように見えるほどだ。
本当はただの普通の子どもだったはずなのだろう。親に愛されて、後継者争いなんかには無縁の世界で、のびのびと暮らしていくはずだったと思うと哀れだと思った。〝禪院家に非ずんば呪術師に非ず 呪術師に非ずんば人に非ず〟という家訓を掲げているこの家で呪力があったのは幸福だろう。けれど相伝の術式を持ったが故にこんな血みどろの血生臭い世界に放り込まれて、その渦中に引きずり出されていることにも気づかない。ああ、かわいそうやなぁ、と思う。
「つぎ、なおちゃんのばんね」
「おおきに」
鞠つきに満足したらしいなまえは持っていた鞠を直哉に差し出してくる。それを受け取って同じようについて見せればきゃらきゃらと楽しそうに笑った。年齢の近い候補は直哉以外いないと聞いているので、未だ自我だなんだが芽生えるまでのこいつを取り込んでしまえばきっと直哉たちに有利に働くのだろう。
「なまえは仲良いやつはおんの?」
「なかいい?」
「仲良しさんってこと」
「んー?」
鞠をつく手を止めずに交友関係を聞き出そうとすれば、要領を得ない回答に少しだけ苛立ちを覚える。相手は女、優しくしろと母親から言われている、我慢、と自分に言い聞かせた。うーん、と唸りながらはっきりとした答えは返ってこなかった。聞き方が悪かったのだろう。相手はガキや、と思い直して聞き方を変える。
「ぼく以外に会うたひとはおんの?」
「いるよぉ」
誰々さんと、誰々さんと、誰々さんと、と指を折って数えながらなまえは出会った男の名前を紡いでいった。今のところ名前の聞いたことがある年齢差が激しい人間ばかりで、ほっと胸を撫で下ろす。しかし祖父と孫ほどの年齢の差がある男も数名名前が挙がったのにはさすがに直哉も内心引いた。いくら胎として将来扱うからと言って、初潮が来なければ胎もクソもないだろう。あと十年も生きているつもりの老体たちに気持ち悪さを覚えた。
「ぼくとどっちが好き?」
「なおちゃんのほうがすきー」
「じゃあぼくがなまえのいちばんな」
「わかった!」
素直に言うことを聞いたなまえの頭を撫でてやろうと鞠つきを辞めて鞠を持ち主に返す。そのまま頭をなでてやると嬉しそうに笑ったので、気分は悪くはない。世話係のばあさんは頭を撫でたりはしないらしい。むしろこの家に来て初めて頭を撫でられたいうなまえに内心ほくそ笑んだ。
洗脳といえば聞こえは悪いが、彼女の内に入り込むは直哉が思っていたよりも簡単なのかもしれない。
「なまえはなんて言ってここに連れてこられたん」
「んとね、わたしのじゅつしき?はゆうめいなものだから、ほんけでおべんきょうするのがいいっておとうさんがいってた」
「ほぉか。勉強が終わったら帰るん?」
「うん。わたし、おとうさんのやくにたちたいから、おべんきょうがんばるの」
「なまえはえぇ子やねぇ」
「んふふ」
褒めてやれば笑みを浮かべて声を出して笑う。こんな家に生まれ落ちていなければ幸せだったろうに。まだなににも染まっていないなまえに腹立たしさを覚える。早くこのクソみたいな家に染まってしまえばいい。地獄を純真無垢なままで居続けるなど不可能なのだから。
⁑
なまえが禪院家にやってきて数年が経過した。日々別邸で術式の訓練に勤しむ彼女に時間が許す限り会いに行くようにしていたおかげで、彼女の許嫁の座に収まることができ、母も喜んでいたし直哉もほっとしている。十種影法術を持って生まれてきたなまえであったが、訓練を続けていくにあたって彼女の術式は本家本元のものではないとだんだん明るみになった。それでも、この本家の中で彼女が一番十種影法術に近い術式なので追い出されたりするようなことはなかったが。むしろ本家本元でないからこそ丁寧に扱わずによくなったともいえる。胎としての役目を遂行できるだけの健康体でいてもらわなくては困るのだ。
なるべく多くの時間をなまえと過ごしたことで気づけば彼女は自分にだいぶ心を許すようになっていた。幼いころは父に会いたいと泣きそのたびに直哉が抱きしめ、もう術式の勉強なんて頑張れないと言えば一緒に訓練するからがんばろ、なんて声をかける。彼女の中の〝やさしい兄〟というポジションは確立できているのは自分でも理解していた。なおちゃんなおちゃん、と自身の名前を呼んでくる彼女は、彼女の世話係の婆さんの指導の賜物なのか男の三歩後ろを歩く男を立てるような女に育っていっているのを肌で感じる。
このまま順当に言えば直哉となまえは無事に結婚し世継ぎを生むことも問題ないだろう、と今後のことを頭の中で描いていた。彼女は自分を心酔している節がある。それが幼いころに彼女に対して劣等感を抱いていた直哉の心に優越を与えているとは知りもしないのだろう、と思うと愉快で仕様がない。
「なんや、結局劣化版かいな」
そう言ったのは、なまえの術式が本家本元の十種影法術とは異なっていることが分かったときのことだ。週に一度だけ通っている小学校の課題を二人で彼女の部屋で並んで解いていたときに、廊下で二人が部屋の中にいることにも気づいていない使用人たちの噂話が聞こえてきた。なまえ様、結局は正式な十種影法術ではないそうよ、なんて愉しそうに話している女たちの声に反吐がでるな、なんて思っていると、隣で顔を青白くさせているなまえの姿が目に入る。未だ直哉には知られていないと思っていたのかもしれない。課題を解く手が震えていることに気づかないふりをして、意地悪く世間話でもするような声色で言ってやった。
「なおちゃん、ごめんなさい」
「なにが?」
「ちゃんとした、十種影法術使えなくて」
「ええよ」
「え?」
震える手を自分の手で握ってやり、そのまま顔の距離を近づけた。そして洗脳するように言い聞かせる。
「なまえ。お前は俺の言うことだけ聞いといたらええねん。本家本元ちゃうくても、お前の影法術もちゃんと文献には残っとるんやから。贋物ってわけちゃうやろ。たまたま、本家本元やなかっただけや」
「なおちゃん、わたしのこと嫌いになったりしない?」
「せぇへんよ」
悪意を隠した笑みを浮かべてやるとなまえは安堵の息を吐いて、甘えるように直哉に凭れかかってきた。緩やかにではあるが、落ちてきているな、と感じる。もっと深く深く落ちてきてほしいと思った。直哉のいる地獄までさっさと落ちてこいと呪いのように願う。
劣化版であっても受け入れたことが功を奏したらしく、なまえはことあるごとに直哉に自分のことを共有するようになった。彼女の父親から月に一度の手紙が来たらその内容、初潮を迎えた日まで教えてきたときはさすがに驚いたが。許嫁ではあるが、正式に婚約までは至っていないためカップルが行うキスからその先などは一切行っていない。手を繋いだり、抱きしめたりそのくらいはしているが、それも彼女からすれば兄に抱き着いているようなものだろう。
一度、なお兄ちゃんと呼ばれたことがあったそれだけは断固拒否した。入り込むのに適していたから兄のようなポジションになっただけで、別になまえの本当の兄になりたいわけではないのだ。こちらは幼少期から虎視眈々と彼女の夫に収まることだけを考えていたのだから。ここでキスのひとつでもしてやれば兄としては脱却できたかもしれないがそれは時期尚早だと判断した。
なまえとの婚約を確実なものにしてから接触をしないと逃げられかねない。女と言うのは性的な視線などに敏感だ。実際、なまえに夜這いを仕掛けようとしたじいさんがいたが、今はもう誰も屋敷内で姿を見かけなくなった。
ようやく相伝を産みやすいはずの胎を逃がすようなきっかけは作るべきではないのだ。逃げられては元も子もないのだから。
逃げることなど選択肢に入れなくなるくらいでろでろに甘やかして、彼女の内に入り込んで。計画通りに事が運んでいて笑いが止まらなくなるときがあった。こうして直哉の母も父を手に入れたのだろう。父である直毘人には愛人が多かったがどの相手とも子は残さなかった。母がうまくコントロールしていたのだろう。未だに認知していない子どもが出てこないのだからさすがだと感心せざるを得ない。彼女はどこか父に似ているような気がした。カリスマ性などはないけれど、禪院家にいる割にはどこかフラットに物事を見れるタイプだ。同じようの育ったはずなのに不思議ではあるが。歪んで歪んで薄暗いものに飲み込まれて身動きが取れなくなればいい。
中学生になるといつのまにかなまえは二級術師になっていて、任務に駆り出されることが多くなった。直哉もほどほどに任務に行くことはあるがまだ準二級なので、なまえほどの頻度ではない。中学には通っていなかった。小学校に週一で行くのも億劫だったのに、任務まで入ってきてしまえば、学校に行く必要性が見いだせなかった。中学が義務教育であることを感謝するばかりだ。それに周囲の大人たちも猿の中に混じって学ぶ必要はない、なんて嘯いていた。任務、訓練、たまになまえと外出に行くかなまえの住む別邸でのんびりと過ごす。それが直哉となまえのルーティンになりつつあった。
その日はたまたま夢見が悪く、夜遅くにお手洗いに行った。ついでに喉が渇いた気がするから台所にでも向かうか、と本家よりもこぢんまりとしたつくりになっている廊下で足を進めていると、台所に行くまでの途中にある洗面所になまえがいる。今日は遠方まで任務が入っており、帰ってこられないかもしれない、なんて言っていたのに。明日は休みだからどこかに行こう、と約束をしていた。そのために直哉は今日の夜から明日は別邸で過ごすことを家族に告げて出てきていたのだ。
「なまえ、どうしたん」
ザーザーとずっと蛇口から水が流れている。直哉の声に気づいていない彼女はひたすら手を洗っていた。真っ赤になっているのにずっと手洗いブラシで手を洗っている。彼女の後ろに立って肩越しに顔を覗き込めばようやくそこで直哉の存在に気づいたらしい。なまえの目にはいつもの光がなかった。うわごとのように直哉に話しかけてくる。
「なおちゃん。どうしよう。手の汚れが落ちないの。ずっと真っ赤に染まってて……取れない……取れないよ」
そう言いながらも手洗いブラシを動かす手は止めず、このままだと荒れて血が出てしまいそうだ、と思いなまえの手から手洗いブラシを取り上げた。
「落ち着き、俺が洗ったるから手ぇ貸し」
今日の任務がどういったものだったのかは知らないが、この女が初めて呪詛師とは言え人を殺したのだと理解する。そういった汚い仕事はさせないようなことを当主が言っていたような気もするが、気が変わったのだろうか。禪院家に入ればこんなこと日常茶飯事で。今までが相伝の術式を持っているからと優遇されていたにすぎない。本家本元の術式ではないと分かった今、そこまで甘やかす必要はないと大人たちの間で結論付けられたのだろうと推測する。目の前の現実を受け入れる以外に自分たちに残された道はないのだ。もっと、もっと、深く落ちてきてほしいと思った。直哉がいるのは最底辺の地獄だ。なまえにもここまで落ちてきてもらわないと不公平だと思うのは仕方がないと思う。
どんどん地獄の底に近づいている許嫁に内心ほくそ笑んでは頬が緩まないように口元を引き締めた。あぁ、ええなぁ。自分もこいつも自由などありはしないのだ。雁字搦めにされた血の呪いから逃げる気すら起こらない。
後ろから抱きしめるようになまえの手を取って丁寧に洗ってやる。指一本一本を洗い、次は手のひら、その次は手の甲。最後に手首を洗ってやればようやく落ち着きを取り戻したらしい。目に光が戻っていた。
「ありがとう、なおちゃん」
「今日はもう疲れたやろ。寝てまい」
「……一緒に寝てくれる?」
「かまへんよ」
幼い頃は泊まり込む際にいつも同じ布団に入り込んで眠っていた。さすがに小学校の高学年になる辺りで周囲から止められて別の布団で眠るようになったが。甘えるように肩に顔を寄せてきたので、形のいい頭をなでてやるとそのまま微睡に身をゆだねているところだった。そんな彼女を姫抱きにして自分が使っている寝室まで運ぶ。
さきほどまで自分が眠っていた布団になまえを寝かせてその隣に並ぶように寝転がった。明日の朝は早めに起こして風呂に入らせた方がいいだろう。あとは使用人が起こしに来る前に起こさないとまた騒ぎになりかねない。直哉が正式な許嫁に決まったと言っても、なまえの夫の座を狙うものは後が絶えなかった。
「寝顔はいつまでも変わらんなぁ」
少しこけてしまった頬を撫でながら、すでに寝ている彼女の体温が低いことに気づいて抱きしめた。腕の中で寝息が聞こえてきて昔に戻ったような錯覚を覚える。
夜が明けて使用人が来る前になまえを起こし風呂に入らせた。眠り眼をこする姿に昨日のことなど夢だったんじゃないか、と思ったが、相変わらず手を凝視しては手洗いに行こうとするのでその度にもう落ちとるで、と言うのは直哉の役目だ。
このままだと今後も繰り返しそうだと思い、なにか方法がないか考える。そこで思いついたのは些細なことだ。風呂から上がってきたなまえの世話をしてそのまま着替えさせご飯も食べさせる。直哉が甲斐甲斐しく世話をしているのを見たなまえの世話係である婆さんが昔に戻ったみたいですねぇ、なんて鈴がなったようにころころと笑った。
なにもかもを済ませてから出かける予定はなしにし、家で待っているように伝える。動くのも億劫なのか素直に頷くなまえの姿を確認し、婆さんに部屋に居させるように指示を出した。車を呼び目的地を告げて運転手が走らせる。新京極の付近で下ろしてもらい、目的の店に行っていろいろと購入しさっさと店を出る。中身の入ったビニール袋がガサガサと音が鳴った。
四条通りを適当に走らせて待っておくように言ってあったので、帰りの車はすぐに捕まる。車に乗り込んで別邸に戻ってもらうように頼んだ。
なまえの待つ別邸に戻ってきて挨拶も適当に彼女の自室に向かえば、行儀悪く座卓に頭を預けてぼうっとしているようだった。そんな彼女に近づいておでこを指で弾く。さすがに痛かったのかのろのろと起き上がって直哉にじとりとした視線を向けた。素直なことが多い彼女が直哉に従順じゃない目を向けてくるなんて滅多にない。新鮮やなぁ、なんて内心で独り言つ。
「なおちゃん、本気でやるの?」
恐々とした声でビニール袋から取り出して差し出したピアッサーと直哉の姿を交互に見て、なまえは怖気づいた表情を浮かべている。突然ピアス開けるからお前やって、なんて言われたらこうなるのも仕方がないかもしれない。普段もっとおぞましいものと渡り合っているのだから、これくらいでビビんなや、とは思うが。
「ええから。お前は俺の耳にピアッサーで刺したらええねん」
「痛そうだよ」
「呪霊の攻撃受けたときよりは痛ないわ」
未だに震えている彼女の手に自分の手を重ねてピアッサーを耳たぶに挟ませる。バツン、と大きい音が鳴って、耳に違和感を感じた。血が出ているのか出ていないのかはわからないがあとで確認した方がいいだろう。右にひとつ、左にひとつ。それから軟骨にも開けさせた。耳たぶよりも盛大に血が出てしまったようでなまえが声にならない悲鳴を上げている。少し愉快になってきたと言えば最低だ、と罵られるかもしれない。
直哉の耳を開け終わったところで、開けている最中にずっと緊張していたらしい彼女の肩から力が抜けたのが分かった。別にピアスごときでそんな戦々恐々とせぇへんでも、と思ったが口にはしなかった。身を寄せて自分よりも薄いからだを抱き寄せる。昨日の夜よりも温かくなっている体温を感じながら、耳元で囁いてやった。
「な?お前が呪詛師を殺した手で俺にいくらピアス開けようがなぁんもあらへん。人はそんな簡単に死なん」
「うん、」
抵抗する素振りを見せない彼女の見えないところで余分に買ってきていたピアッサーで耳に穴を開けてやる。突然耳元で大きな音が聞こえて飛び上がった姿はまるで犬猫のようだと思った。これでお揃いやな、としたり顔で笑いかけると、照れたような笑みを返される。
こじ付けだと理解はしていた。些細なことでも、馬鹿みたいなことでもなまえが自分から離れられなくなるなら、なんでもいいのだ。
⁑
訃報というのは突然やってくるものだ。呪術師をしていれば任務で死にました、なんてよくある話で。そう、あくまで呪術師をしていれば、の話だ。
任務に明け暮れているなまえと二人で休日に海に行こうか、という話になり朝から運転手に車を走らせ天橋立までやってきた。まだ夏になる前の季節だったため海には人もまばらで閑散としている。海にこれまで来たことがなかったらしいなまえは犬のようにはしゃぎながら、波打ち際に手をかざして濡れるのを楽しんでいた。靴は脱がないように事前に告げてある。
屋敷では着物だが今日は海に来るということもあり白のワンピースを身に纏っていた。見慣れない洋装の姿に一瞬思考が固まったのは言うまでもない。なんでまた急に海なんて、と思ったけれど先日任務で車が高速道路を走った際に海が見えたそうで。それで行きたい、と言うのだからなかなかわがままを言うようになったと思う。気分転換したい気持ちはわからなくもないので許容しているが。
数時間海で遊び、ついでに車で天橋立まで乗せて行ってもらった。非術師が多くいて萎えた気分にはなったがなまえの気分転換が目的なので我慢する。彼女が禪院家に来てからすでに十数年経過しているというのに、観光のひとつもさせていなかったのだから相変わらずあの家に女の人権はない。
迎えの車に乗り込んで帰路に就いた頃、なまえに持たせていた携帯電話が鳴った。
「急な任務か?」
「どうかな、ちょっと出るね」
「おん」
目の前で携帯電話――一応直哉と同機種の色違いのものだ――を取り出し、通話ボタンを押してもしもし、と電話に出る。その姿を尻目に外の景色を見ていると、電話をしていた彼女の声が変化した。
「え?どういうことですか」
「なまえ?」
「――すぐに戻ります」
顔色がいつかのように青白くなっているのに気が付いた。よくない知らせでも入ったか、と見当を付けながら、恐る恐る声を掛ける。
「どうしたん」
「なおちゃん、おとうさん、しんじゃった」
いつかの夜のように光を失った目で直哉を見てくるなまえは、薄暗いものに包まれているような気がした。運転手に急いで屋敷に戻るように言い、震えて冷たくなっている彼女の手を掴むことしかできない。呪術師から足を洗って禪院家の呪具管理をしていたはずの彼女の父が死んだという事実を受け入れるのは難しかった。死ぬような任務は入れられないはずだし、呪具の管理で死ぬこともなくはないが、彼女の父は現役時代一級術師にまで上り詰めたと記憶している。そんな男があっさり死ぬなどあり得るのだろうか。疑問が浮かぶと同時に嫌な予感が頭をよぎったが、そうじゃないことを願うばかりだ。
彼女の父の遺体は呪具を管理している武器庫から本家のとある一室に移されていた。顔に覆い打ちを被せているが、その下はぐちゃぐちゃになっているので見ない方がいい、と言ってきたのは当主の直毘人だ。そんな言葉があったのにも関わらずなまえは覆い打ちを取り顔を見る。直哉も直視するのは躊躇うほど顔の原型は留められていなかった。それから目に留まったのは首や腕、足に残ったあざのようなものだ。わずかに残穢が残っていることから呪詛師の犯行なのはわかる。そしてなんの不運か彼女の世話係をしていた老婆もこの知らせを受けた翌日に亡くなった。彼女はただの脳梗塞による死亡である意味天寿を全うしたようなものだろう。
真相は闇の中であるが、なまえという存在を生み出した彼女の父へ恨みや嫉みを抱いたどこどこの人間が呪った、ばあやもそれに巻き込まれた、などという噂が囁かれるようになりそのまま該当者が姿を消したことで、それが真実のような扱いになっていた。
気落ちしているであろう彼女の部屋に向かえば、ぼうっと縁側から外の景色を眺めている姿が目に入る。ようようと近づいていけば、直哉の気配に気づいたらしいなまえが振り向いた。視線は合っているようで合っていない。どこかうつろでうわごとのようになにかを言っている。
「なまえ、こっち見ぃ」
彼女の隣にしゃがみこみ、顎を掴んで自分の方を向かせて視線が交わるまで瞳をじっと見つめる。少ししてようやく彼女の目と自身の目が合った。目の前にいるのが直哉だと分かった途端、なまえは直哉に抱き着いて癇癪を起した子どものように声を上げる。
「なおちゃん捨てないでお願いなおちゃんしかもういないのおとうさんもばあやも死んじゃったもうだれもわたしのまわりにはいてくれないの」
――あぁ、やっとだ。やっと堕ちてきた。そう思った。自分の中で巣食っていたドロドロとしたものが嬉しそうに笑っているような気がする。
「しゃあないなぁ。俺だけは最後までお前の側に居ったるわ。その代わり約束やで」
「約束?」
「〝俺はお前を置いてかんから、お前は俺を裏切るな〟。わかった?」
「いいよ。なおちゃんがいてくれるならそれでいい」
「約束やで?」
ゆびきりげゆまんうそついたらはりせんぼんのーます、と幼い頃のときのように自身の小指となまえの小指を絡ませた。これで縛りは結ばれる。このときに彼女の中で直哉は唯一になれたと思った。
⁑
彼女の父が死んでから特に直哉となまえの生活に変化はなく、二人で変わらない日々を過ごしていたし、これからもこのまま結婚まで行くのだろうと思っていた。なまえが直哉と同じ呪術高等専門学校の京都校に入学するために二人で準備をしていたときのことだ。休みを利用して本家に戻って来てそのままなまえの住む別邸にやってきていた。後輩として高専に彼女が入ってくる。どうせ高専にいても家にいてもお互いの立ち位置や態度が変わることはないが。
どれを寮に持っていくか選別しているところでなまえが当主に呼ばれたのは知っている。しっかり励んで来いとでも言われるんやろな、と予想を立てて後ろ姿を見送った。高専を卒業すればいよいよ婚約も本格的になり、結婚までこぎ着けられる。ここまで長かったものだ。十年前から囲い込んでようやく努力が実を結ぼうとしている。なまえを手に入れることができれば直哉の次期当主としての立場は確実なものになるのだ。
「なおちゃん」
「どうしたん?」
直毘人の元から戻ってきたなまえは浮かない顔をしていて、あからさまに落ち込んでいるのが分かった。一体何を言われたんだか。言われたことを問いかければ直哉も予想をしていなかったことを告げられて、思わず思考が一時停止した。
「わたし、東京の高専行かなきゃいけなくなった……」
「なんでまた」
「五条悟に好きにさせるなって」
「しゃあない爺様ばっかやなぁここは」
呆れて物も言えない、というのはこういうことを言うのだと思った。五条悟の噂は禪院家に居てもいつも聞こえてくる。むしろ御三家にほど響き渡るとでも言えばいいのか。やれ五条家の麒麟児だの、五条家きっての天才だの。聞こえてくるのは華々しい功績ばかりだ。そんなやつと直哉たち当主の息子が比べられないはずもなく。あちらさんは相伝の術式と六眼を持って生まれて来とるのに禪院は、なんて今まで死ぬほど聞かされてきた言葉だ。だから直哉は五条悟が大嫌いである。
「なおちゃんと一緒に京都校だと思ったのに」
「諦めぇ。上の指示には従わなあかん。お前がよぉわかっとるやろ」
「うん……。ねぇ、電話とかしていい?」
「しゃあないなぁ。えぇよ」
直哉が教え込んだおかげでなまえも五条悟は嫌いなはずだ。むしろそうなるように仕向けた。五条悟と彼女がどうこうなるとは微塵も思っていないが、自分の目の届かないところに行ってしまうと思うとやきもきしてしまう。ここでなまえが違う男が良いなんて言い出したら自分の長い時間をかけて築いてきたものが水の泡になりかねない。それだけは避けなければならないので、多少のわがままには目を瞑ることにする。
「わたしのこと置いていかないでね」
「置いてかへんよ。〝約束〟したやろ」
「そうだったね」
答えがお気に召したのか笑みを浮かべた彼女はいつもと何か違うような気がした。いつもよりも大人っぽくて、達観したようなそんな笑み。
「なおちゃん。なおちゃんもわたしがいないとダメなんだから、浮気とかしないでね」
彼女を捕らえていたと思っていたけれど、同じように彼女に捕らえられていたのかもしれない、と思った。まぁ、それは然して問題ではない。地獄で生き抜くための奇貨はすでに直哉の手の内にあるのだから。