※途中胸糞が悪くなる表現があります
なまえが直哉の三歩後ろを歩くようになったのはおそらく直哉が十歳でなまえが十一歳のときだったと記憶している。直哉としては大人たちが言う〝男の三歩後ろを歩かれへん女は死んだらええ〟という言葉を伝えたつもりだったが、なまえは何を都合よく解釈したのか直哉の後ろにいたら守ってもらえると理解したらしかった。
先を歩く直哉に置いていかれないようにのろのろとついてくる彼女の姿は、傍から見たら愛くるしいものだっただろう。そんな女が自分の後ろについてきていると思うとどこか誇らしい気持ちがあった。元々身体が弱く、家からあまり出ることのなかったなまえが直哉の前に連れてこられたのは偶然で。彼女の両親が直哉の父親である直毘人に用があって本家にやってきた。その際にいつも彼女を預けている使用人が家族の危篤とかで面倒を見られる人間が居らず、禪院家まで連れてきたというのは後で知ったことだ。
「直哉様。御当主様よりこちらのお子さんのお相手をするように、とのお達しです」
「……誰やの、こいつ」
直哉の回りを世話する老爺に連れてこられたのは、色素が薄いのか直哉の濡羽色とは異なった桃茶山の髪を持つ同じ年くらいの女で。自身と同じような髪色の人間を見ることが多かったからか、目の前の女が持つ髪色に興味が引かれた。老爺に背中を支えられておずおず、といった様子で女は視線を上げて直哉を見る。顔を認識すると周囲では見ない容貌が整った女だと思った。いつも周囲から浴びる視線と違う種類のそれになんとなく心臓が落ち着かない。
「みょうじ家の末娘のなまえさんですよ」
「なまえです。初めまして、直哉様」
ぺこり、と頭を下げたなまえの姿は気品が漂っていて流石みょうじ家の女だな、と思う。そういえばみょうじ家の末娘と言えば呪力量は多いけれど、身体が弱く家から出るのもままならない、という話を聞いたのを思い出した。
「自分、身体弱いんとちゃうっけ」
「今日は調子がいいので。家にひとりでいる方が危険だと両親が」
「ふぅん、大事にされとるんやな」
「直哉様、私は下がります。なまえさんのご両親と御当主様のお話が終われば迎えに来るそうです」
「おん、わかった」
菓子や茶はあとでほかの者が持ってきますので、と言葉を残して世話係の爺は下がったのを確認して、なまえを自室に誘い入れる。自分のテリトリーに他人が入ってくるのは好きではないが、連れてこられてしまったあとなので諦めた。正直、この家に居ればプライバシーもクソもない。直哉が少し可笑しいことをすれば、数時間後にはいろんな人間が知っているような状況だ。監視をしているつもりがあるのかないのかは知らないが、自分の言動は常に見られていると認識している。
直哉の部屋は畳の床でその上のなまえが正座で腰を下ろした。所作の美しさに思わず見惚れる。普段相手にしているようなガサツな女たちや、付け焼刃で無理やり上品な所作を身に着けようとして失敗した女たちとは大違いだ。生まれや育ちは見ればわかる、と直哉に言った指導係の言うとおりだったな、と思う。幼心ではそんな違いなんてあるわけないわ、と思っていたが、こうやってちゃんとしている人間を見るとあながち間違いではなかったと理解する。直哉はなまえに向かい合うように座るが自室なので足を崩して座った。だらしないと言われるかもしれないが知ったこっちゃない。
手持ち無沙汰ななまえの親が来るまで相手をしろ、と言うのは分からなくもないが、一体何をして暇を潰せと言うのか。見るところ動きやすい着物でもなさそうだし、身体が弱いという事前情報まである。そんな人間との時間の潰し方を知るはずもない。目の前の女との共通点など歳が近いことくらいしか見つからないのだ。
「なまえはなにして遊びたい?」
「直哉様のやりたいことでええですよ」
やりたいことと言われても正直困る。普段の直哉であれば鬼ごっこでもするか、と言うところではあるが、目の前の女は身体が弱いのだ。走ったりすることなど以ての外だろう。これが同年代の格下の家の子どもなどであれば適当なことを言えるけれど、それもみょうじ家の人間相手なのでできない。面倒くさい役目を押し付けてきよってからに、と父である直毘人に内心で恨み言を言う。
「俺は特にない。せやからなまえに聞いてんの」
「そういわれても、直哉様のお言葉に従うように、って言われてます」
「さよか。普段はなにして時間潰してんの」
「だいたい本を読んだりしてますかね」
「ふぅん」
せめて相手に多少は合わせてやろうと思ったが、本を読むことは嫌いではないがそれではなんだか物足りない。というかお互いが本を読んでいたらそれは相手をしていると言えるのか疑問が残るところではある。なんせ直毘人直々に相手をしろ、と言われたのだ。つまりはきちんと客人として扱えをいう話なのだろう。わざわざ直哉にお願いするくらいのちゃんとした客人。そこらに捨て置いていい家の人間であればこんなことすら言わなかったはずだ。
「まぁ、えぇわ。話相手にでもなってや」
「直哉様がそれでよければ」
ありきたりではあるが、好きな食べ物から初めて、いろいろな話をした。けれど、特にこだわりを持って生きていないのかなまえの答えは無難なものばかりで。苦痛なこの時間が早く終わればいいのに、と思いながら、会話を続けた。途中、なまえの年齢がひとつ上だと分かったので、敬語が煩わしいからやめろ、と言って辞めさせる。
どうでもいい話題のときは無難な受け答えしかしなかったなまえが、術式の話題になると反応が変えた。やはりこの世界に身を置いているだけあって、こういう話題の方がよかったらしい。最初から様子見などせずに共通点から攻めるべきだったな、と反省する。
「直哉様の術式はえぇなぁ」
「なに、急に」
「投射呪法って攻撃もできるしある程度防御もできるやないですか」
他人に褒められるのは悪い気はしない。直哉の術式は直毘人とまったく同じなので、周囲はこれで禪院家は安泰ですね、なんて笑っている。しかし、直哉からすれば自分の術式が発現するまでもし術式がなかったらどうしよう、と常にぴんと張った糸の上を歩かされているような緊張感と共に過ごしていた。ようやく投射呪法が発現されて安堵の息を吐いたことを知っているのは世話係の爺だけだろう。
「まぁなぁ。なまえの術式はなんやったん」
「わたしは……内緒です」
「はぁー?ここに来て内緒とかなめてんのかお前」
「うそですうそです。でも、内緒にしてな?」
「しゃあないなぁ」
向かい合うように座っていた直哉の身体になまえが身を寄せて、内緒話をするために直哉の耳元に顔を近づけてきた。なまえの息が直哉の耳を掠めてくすぐったい。
「あのね、わたしの術式は鳥を操るんよ」
「……それだけ?」
「それだけ。だから言いたくなかってん」
みんなに術式のこと言うと、すぐにそういう反応されるのが悲しい、となまえは目を伏せながら言う。みょうじ家と言えばどちらかと言えば縁結びの関係に強い術式の印象が強い。そういう物理に関する方面でくるとは思わなかったのだ。なまえの一番上の兄も人と人の縁を操作できる術式で、それを有効活用するためにどこかの有名な縁結びの神社に婿入りした、とかなり前に聞いた記憶がある。
「わたしだけ術式がおかしいねん。他の家族みたいに〝縁〟が見えへん」
「〝縁〟?」
「そう、お父さんもお母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんもみぃんな〝縁〟が見えるって言うけど、わたしは見えへん」
「まぁ、そういうこともあるやろ」
「だから、お父さんもお母さんもわたしを外に出したがらへんのよ」
縁が見える、というのが直哉にはどういうことかわからないが、なまえだけ家の中で仲間外れなことだけはわかった。自分だけ家族と異なる術式が発現したとなると古くからある家ならば真っ先に不義を疑われて離縁されているところだろう。そうなっていないのはみょうじ家が禪院家よりも厳しくない家柄だからかもしれない。他の家では禪院家のような家訓を掲げていないのだ。
「なまえはみょうじのうちの子でよかったなぁ」
「……そうやね」
同意の言葉を吐いたくせに寂しそうな顔をする理由は考えずに見なかったふりをする。少なくとも禪院家よりは地獄ではないと思ったからそう口にしただけで、深い意味はなかった。
「まぁでも、なまえは弱そうやもんな。俺の後ろに居ったらええんちゃう?」
「えぇの?」
「ええよ」
目を輝かせて嬉しそうにするなまえの姿を見て気分がよくなる。女と言うのはやはりなまえのように後ろをついてくることになんの疑問を持たない人間が一番だ。
気分がよくなったところで直哉となまえの会話を聞いていたのかわからないが、タイミングよく見覚えのある女中がお茶と茶菓子を持ってきた。いつもの来客用のお茶と、その隣には薄水色の練り切りが盆の上に載っているのが見える。薄桃色などの練り切りを目にすることが多いので、目が引かれた。なまえも同じように目が引かれたようで盆をじっと見つめている。
「お二人とも楽しそうでしたね」
「そうか?いつも通りやろ」
「わたしは直哉様とお話しできて楽しいですよ」
女中の言葉に答えたなまえの表情には喜色が滲んでいた。彼女の言葉を聞いた女中は満足そうに笑って、茶と菓子を置いて部屋を後にする。直哉の部屋に備え付けられている卓袱台にお茶の入った陶器と練り切りの乗った皿が並んで置かれていた。
「食べよか」
「うん。わたし水色の練り切りって初めて見た」
「俺もや」
「直哉様でも初めてってあるんやね」
「お前俺のことなんやと思っとんの」
睨みつけながらそう言ってやれば、えー、となまえが視線を斜め上に上げて誤魔化すように話題を変えようとする。こういう時間も悪くはないかもしれない、と少しだけ思った。直哉が関わる同年代の人間はいつも直哉に頼んでもいないのに平伏す。なまえも直哉を立てては来るが、平伏すまではいかない。それが新鮮だと思うのだ。
結局、なまえの両親が彼女を迎えに来たのは直哉が相手をし始めて三時間後のことだ。そして、その翌日に数多の許嫁候補になまえの名前が追加されていることを知った。
⁑
直哉と初めて出会ってからなまえは定期的に外に出ることを許されるようになった。と言っても、家と禪院家の屋敷の間を往復しているだけであるが。今まで全く外に出ることが許されていなかったので、すごい進歩だと思う。両親としては相変わらず家の恥なので外に出したくないようだが、直哉に気に入られたらしく気づけば許嫁候補のひとりになっていたのだ。彼がなまえに会いたいと言えば従うほかないので、両親も何度も禪院家に行くことを許した。
禪院家に足を運ぶのは月三回と決められていて――決めたのはなまえの両親なのか先方なのかはわからないが――、それをこれまで律義に守っている。十一歳で直哉に出会い、気づけば四年も経過していた。出会った頃はなまえの方がわずかに高かった身長も中学生になれば、直哉にすぐに追い越されて驚いたのを覚えている。すっかり成長期で自身よりも幾ばくか上がった目線の高さに彼は異性なのだなぁ、と感心した。
許嫁候補に与えられる定期的な顔合わせの機会をなまえはとても楽しみにしている。外に出る回数が増えたことも嬉しいが、何よりも直哉がなまえのようなつまらない女とおしゃべりをする時間をわざわざ取ってくれるのが嬉しかった。
「あ゛ー……なまえが一緒に居って一番楽やわ」
「そうですか?」
「また敬語に戻ってんで」
「ごめんて」
顔合わせの時間はもっぱら初めて出会った直哉の部屋で、なまえは畳の上に正座をして座ると直哉が膝の上に頭を乗せてくる。世間ではこれを膝枕と言うらしい。すぐ上の姉に聞いたことなのでおそらく間違ってはいないだろう。
彼の形のいい左耳が見下ろせばそこにあるのはなんだか不思議な気分だ。中学を卒業するころにはピアスを開けたい、と言っていたが、本当にするのだろうか、なんてことを考えながら形のいい直哉の頭を撫でる。両親はなまえをみょうじ家の癌として扱うが、兄や姉はそうでもなかった。純粋に妹をかわいがってくれていると感じる。だから、両親に小言を言われても平気だ。
「どうしたん、今日なんかテンション低いで」
「大丈夫」
「大丈夫ちゃうやろ」
話してみぃ、と言う直哉の言葉に促されて出かけざまにあったことを話す。両親から会いに行くことを辞めろ、と言われていること。お前が許嫁などになれるわけもないのだから早く候補から抜いてもらうように告げてこい、と言われていること。それでもわたしにとってここにくることが今の唯一の楽しみであること。それらを伝えると膝の上に頭を乗せたまま身体の向きを変えて、なまえの顔を見上げられるように仰向けになった。両手を伸ばされて直哉の手が自身の頬を包む。だんだん男性らしい手になっているなぁ、なんて関係ないことを考えた。
「なまえが俺の後ろついてきてくれたら嬉しいけどなぁ」
「ふふ、わたしも直哉様の後ろをついていきたいなぁ」
それは叶わないらしいですけど、と心の中で呟いた。自身の前を歩いてくれる人なんてきっと直哉しかいないと思う。他の人間をそもそもなまえは知らない。世界は自分と両親、兄弟、直哉、直毘人、直哉の使用人の数人くらいで完結してしまう。だから直哉しかいないとも言えてしまうが。
他の人間を自分の世界に入り込ませることができたらこの考えも変わるのだろうか。けれど、それは両親が許さない。彼らはなまえにみょうじ家の中で生きて死ね、と直接的ではないけれど言うのだ。この家から出ることは許さない、と。下手したら婚姻すらままならない可能性すらある。なまえひとりくらい外に出さなくても支障がない程度には子どもがたくさんいるのだ。
「直哉様」
「ん?」
「なんでもない」
「なんやの。今日のなまえは変やな」
「そうかもしれん」
顔合わせの時間は初めのころと同じで三時間程度で終わる。なまえとしてはもう少し話したいな、と後ろ髪を引かれる思いで毎度話を切り上げていた。また次会える日はあとで連絡するわ、と直哉に見送られて彼の部屋を出て、屋敷の玄関まで辿り着けば見覚えのない男が経っているのが目に入る。なまえの履いてきた草履を出していくれるようで。二十代くらいの若い男でこんなひといたやろか、と思ったが気に留めなかった。
「すみません、用意してくれはったみたいで」
「ええんですよ。あ、自分が代わりになまえさんの家まで車を出すように言われましたのでよろしくお願いします」
「はぁ、うちの者を呼んで待っていても構いませんよ」
「そないなことさせたら私が怒られます。乗ってください」
人の好さそうな顔をしている男に促されて履いてきた草履に足を通して車まで案内される。禪院家でも見ない車であるし、自分の家でも見ない車だ。どこかの人に頼んだのだろうか。後部座席を開けられ乗るように言われて乗り込もうとしたところで、口を何かに覆われてなにかの香りを嗅いだところで意識が途絶えた。
身体に違和感を覚えて目を覚ますと男が覆いかぶさっているのが理解できる。先ほど車を出すといった男だ。視線をわずかに巡らせて場所を把握しようとするけれど暗がりでよくわからない。埃っぽさからおそらくどこかの蔵のようなものだとは見当が佃。
男に組み敷かれていて抵抗を試みるも相手がダメージを負っている気配はない。身体もなにやらうまく動かないようで相手にされるがままになっている。なんで。どうして。こんなことに。
名すら知らない男がなまえの着ていた着物を脱がせていく。これからなにをされるか想像できないほど馬鹿ではないつもりだ。まさか、自分がこんな目に合うなんて。抵抗も虚しくいいようにされていると、なまえを抱く男は楽しそうな色の声を隠さずに鋭利な言葉を浴びせた。
やれ、お前が――家のお嬢様より美人なのがいけないだの、直哉がなまえから離れないのはお前があの人を呪っているからだの、みょうじ家の女がでしゃばるなんて身の程を知れだの。言いがかりでしかない内容を浴びせられてなまえの心が折れないはずもなく、知らない男に身体を暴かれる気持ち悪さと同時に身体が穢されて直哉に顔向けできなくなってしまった自分を恥じた。
嗚呼、神がこの世界にいるなら是非問いたい。わたしがなにをしましたか、と。ただの許婚候補のひとりで、たまたま直哉と波長が合って、彼に気に入られて、そのまま共に生きていただけなのに。
覆いかぶさる男の熱が、自身の中に入り込んでくるのが気持ち悪くて嘔吐する。男はそんな醜態を晒しているなまえの姿にすら興奮しているのか、熱の質量が増すばかりだった。内側から身体を揺さぶられて、いろんな意味での気持ち悪さが身体の中をかけ巡る。このまま舌を噛んで死んでしまえたら、このまま吐瀉物で喉をつまらせて窒息死できたら、なんて思考ばかりが頭の中を占拠した。早くこの行為が終わってほしいと思うと同時に、自身の人生すら終わって欲しいと願う。
十五歳で他人に蹂躙されることの理不尽さと不快さを理解するとは思っていなかった。気を失えたらどんなに良かっただろう。それすらもできない自分に腹が立つ。終わって、終わってと願いの言葉が口から出ていた。殺してほしいと思う、もういっそ死んでしまった方が幸せなんじゃないか、と思わずにはいられなかった。男は何度が熱を吐き出したあとなにかを言っていたがなまえには聞き取る気力すら残っていない。茫然自失としている彼女を置いて男はどこかに行ったようだ。
やっと行為が終わったことに安堵してなまえは意識を手放す。直哉の声が遠くに聞こえたような気もしたけれど、それはきっと自身の願望だろう。
意識が戻れば視界に入ったのは見慣れた自分の部屋の天井だった。色が剥げた木目を見て胸を撫でおろす。自室の襖を開けられて寝たままで視線だけを動かすと、姉が泣きそうな顔をしてなまえを見ていた。大きな声で名前を呼ばれて抱きしめられる。姉のぬくもりを享受していると、姉の声を聞きつけたらしい母も姿を現し、姉ごと抱きしめられた。目が覚めてよかった、と泣いているふたりをよそに意識は別のところに飛んでいる。
汚れてしまった。汚されてしまった。――穢されて、しまった。
真っ先に浮かんだのはそれだった。知りもしない男に蹂躙されて、わたしの存在価値はなくなってしまったらしい。傷物になった女は許嫁候補から外されるし、もう二度と外に出ることすら叶わないんだろうな、と思う。
母たちが経緯を聞いてくるかと思いきやある程度はすでに掴めているそうで、特に何も聞かれなかった。元から可哀想ななまえがもっと可哀想になって終わっただけだ。
生きていることに意味を見出せずに死のうとする度に家族や使用人に見つかっては止められる。そんなことばかりを繰り返していると、父に呼ばれて出向けば用件は二つ。直哉の許嫁がとある御令嬢に内定したことと呪術高等専門学校に行くことを勧めることだった。
「この家を出ていきってこと?」
「ちゃうよ。環境を変えてみたらどうや、って言うとんのや」
「変えたところでなんも変わらんやん」
「東京の方の高専に入れてもらえるようにお願いしとる。あっちは禪院家の力は京都ほど強ないから」
「そこまでしてくれんくてええ」
「ええから。気晴らしに行ってきぃ。たかが四年やすぐ終わる」
四年も生き長らえるくらいならさっさと死んでしまいたい、と口に出せば父に殴られるだろうか。生きていることに意味を見出せないことが環境を変えたからといって変わるとは思えない。四年間過ごしたところでどうせこの家に戻ってくるだけなのだろう。意味のないことをしてどうしろと言うのか。
高専の件は決定事項だから、と父に言われて渋々了承し、自室に戻った。自室の床畳に寝そべってただ虚空を見つめる。なにも考えたくないのに気づけば直哉のことを考えていた。
お門違いだと分かっているが、彼の許嫁が自分以外の誰かに決まったことを寂しいと思う。このまま直哉に会うことも許されず、外に出ることも叶わず、朽ちて死ぬくらいなら今のうちに死んでしまおうか、なんて思ったところで、彼はやってきた。
最後に会った日から数日しか経っていないのにお忍びでやってきた直哉がみょうじ家の屋敷に姿を見せる。よく顔を合わせた世話係の爺に一時間だけですよ、と釘を刺されて屋敷の中に入ってくた。突然の来訪者に使用人たちが驚くかと思えばその様子もないので、もしかしたらなまえにだけ知らせていなかっただけかもしれない。
なまえが屋敷の中で憩いの場にしている中庭がよく見える縁側に直哉を通して二人で腰を下ろす。今までは彼のすぐ隣に座っていたけれど、あんなことがあったので人間がふたりくらい隙間を空けてなまえも腰を下ろした。家着なのでいつも会っていたときよりは動きやすい。
使用人が持ってきてくれたお茶を受け取って、直哉のすぐそばに置けば頃合いを見計らっていたのか口を開いた。
「これからどうするん」
「そうですね……ちょうどいい頃合いなので高専にでも入ろうと思っとります」
「なんで敬語に戻っとんねん」
「わたしはもう直哉様と親しくしたらあかんので」
はっきりとなまえが告げると直哉はなんとも形容し難い表情を浮かべた。一度縮めた距離を広げることになるなんて誰も予想していなかっただろう。淡々と話すなまえは直哉が最後にみた姿とは異なっていて、やつれたような雰囲気があった。彼女になにがあったかは爺から聞いたが、こんなことになっているとは予想外で。まるで他人になってしまったように思う。
高専に入る、と言うがなんとなく嫌な予感がしてあえて直哉は確認した。
「もちろん京都校やんな?」
「いいえ。父が東京にしたらどうやって言うてはるんで、そっちの方向で考えてます」
「なんでや」
「直哉様かて嫌でしょ。こんな〝使い古された〟女」
そう言ったなまえの瞳は昏くてどこを見ているのかもわからないようなものに変貌していた。
処女信仰があるわけではないが、なまえの大切なものが踏みにじられて気分は悪い。なまえをこんな風にした犯人も知っているし実行犯の男は私刑にはした。それでも諸悪の根源を根絶させることはできない。直哉では力が足りないのだ。
言葉をなんとかひねり出そうと探している途中でなまえが口を開いた。つられるように彼女の顔を見るとそこにはなにもかも諦めたような表情が窺える。
「直哉様。わたしたちここで終わりにしましょ」
「はぁ?エイプリルフールはまだ先やで、なまえ」
「――家の娘さんが許婚に内定しはったでしょう。わたしはお役御免ですよ」
「……そんなん俺がひっくり返す」
「あきませんよ。未来の奥さんは大事にせんと」
そう言って笑ったなまえは完全に直哉の知らないなにかになっていた。線引きをされたのだと思う。直哉からは彼女との縁を切りたいなどこれっぽっちも思っていないのに。でもそれが許されないのが自分の生家であるという自覚もある。
「わたしは弱くて馬鹿な女やったんです」
誰も責めたりなどしていないのに、怒られて反省する子どもみたいな弱々しい声でなまえは言葉を紡いだ。それを聞き逃さないようにすることくらいしか今の直哉にはできなくて。所詮自分も家の宿命からは逃げられないのだと現実を突き付けられた。
「せやから、直哉さんはもっとちゃんとしてる女性と幸せになってください」
泣きそうになりながら目の前でそう言い切った女が、なにを考えているかなど直哉には死ぬまで理解できないのだろう。傍から見れば気丈かもしれない。もしかしたら元から直哉のことなどそこまで好きじゃなかったのかもしれない。有り得ないのに、そんなことを考えてしまう。
ふたりで過ごした時間は確かに心地よくて、ちゃんと存在していたはずなのに、まるで最初から存在していなかったと言われているように感じた。
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閉鎖された世界から父の勧めで東京の呪術高等専門学校に入学することになったのはいいが、京都駅から新幹線に乗った時点でなまえは音を上げそうだった。今まで生きてきて移動は車が多かったし、そもそも家に出ることが少なかったのだ。それが突然外に出て東京の学校に行って寮生活をしろ、だなんてなかなか父は無茶なことを言ってきたのを東京駅を降りた頃に理解する。
東京駅のひとの多さに辟易しながら兄姉にもらった地図やらなんやら見ながら移動した。荷物の大半は宅配で送ってあるので、なまえの荷物は大きめのリュックがひとつだけ。服装も洋装で良いと言われて家を出る一ヶ月前からひたすら洋装を着る練習をした。これまでは困ったら使用人が助けてくれたけれど、高専に行けば誰も助けてくれない。自分でできることは自分でしないと、と言ってきたのは高専を卒業した――といっても京都校――一番上の姉だ。姉自身も入学して最初になかなか苦しんだらしい。そういう経験談を聞いていたのでなにも知らない状態で行くよりかは心構えができていると思う。
なんとか呪術高等専門学校に辿り着くころには陽は傾いていて、昼から夕方に差し掛かろうと空の端に橙が見え始めていた。予定では昼過ぎには到着する予定だったのに、まさかこんな時間になろうとは。両親に寮に着いたら電話をしなさい、と言われていたので急いで連絡しないと心配しているかもしれない。
校門のところに強面の男性が立っていて、辺りを伺うように視線をきょろきょろとさせていた。なにか探しているのだろうか、なんて思いながら近づいていくと、なまえの顔を見て驚いたようだ。サングラスをしているので表情はよくわからないが、雰囲気がそんな感じがする。
「みょうじなまえさんか?」
「あ、はい」
「君の担任になる夜蛾だ。到着が遅かったので心配していた」
「申し訳ありません。何分家の外に出るのがほとんどなくて……」
「いや、話は聞いている」
夜蛾、と名乗った男性はなまえの担任の教諭だそうで。事情を聞いているのかなまえと一定の距離を保って会話をしてくれているようだった。あのできごとがあってから男性と近距離で話すことに抵抗があったし、男性とふたりきりで車に乗れなくなったのだ。家族などはまだ良いが、それでも兄たちがなまえの頭を撫でようとしたりすると身構えてしまう。もう直哉とは縁を切ったから怯える必要などないのに。
案内されるままに高専の敷地内に入っていき、寮まで案内される。道中に同級生が三人いること、内ひとりは女性なので仲良くするといいこと、ここにいる人間はみんな安全なので安心してほしいこと、と言われた。同年代の異性は大丈夫かどうかはわからないが、自分なりに努力したいとは思う、と夜蛾に伝えるとそうか、と小さく笑うだけだった。
直哉と最後に会ったときに話はできていたから、同年代の異性ならまだかろうじて大丈夫かもしれない。なまえの恐怖の対象は十歳以上年の離れた異性だ。僅かな希望を持って学校生活に望みたいと思う。
寮に到着して寮母に挨拶し、そのまま電話を借りた。家の電話番号を押して掛けるとワンコールで母が出たのが分かる。なにもなかったか真っ先に心配されて、その声を聞くとなまえも傷ついたが母も傷ついたのだな、と思った。道中何もなかったことと遅くなったのは道に間違えたり乗り換えを間違えたからだと告げれば、電話越しの母は安心したようだった。電話の途中で寮母に挨拶したいから代わるように言われ、そのまま電話を寮母に渡す。寮母と母の電話は五分もしない間に終わって、寮母がなまえの自室になる部屋に案内した。
四年間過ごす寮内の設備を説明しながら案内された女子寮に着けば、すでに荷物が届いているのが目に入る。段ボールがみっつだけがぽつんと静かに佇んでいた。高専に来るにあたって真っ先に学んだのは着物はかさばることと、洋服はかさばらないことだ。寝間着などは兄姉の指示でジャージなるものをいくつか入れてあるし、取り急ぎ春夏用の洋服だけ持ってきた。母が秋に差し掛かるころに秋冬物を姉と吟味して送るから、と言っていたのを思い出す。着てみたい服はあれば自分で買って着てみたらいい、と言ったのは二番目の姉だ。これまでの人生如何に自分が家族や家に甘えて生きてきたのかが、ここに来るまでの準備期間でよく理解できた。世の同年代はこんなにちゃんとしているのか、と思ったのは両手では足りない。
夜蛾から少人数なので入学式は行われないが、初登校の日は明日だと聞いている。教科書などは明日配布らしいので、筆記用具と制服を来て教室に来るように言われた。自室のクローゼットを開けて見れば黒の詰襟の上着にひざ下丈のスカートが掛けられている。こういうスカートをプリーツスカートだと言うのを教えてくれたのはすぐ上の姉だ。彼女は俗世の知識が豊富で、同級生の中で浮いちゃうかもしれないから、とさまざまなことを教えてくれた。世間知らずな妹が恥をかかないようにしてくれたのだろう。
明日の用意をしつつ、寮母に教えられていたシャワーの使い方を思い出しながらシャワー室に向かった。
自分の身体をさっぱりさせて、下着を身に纏ってジャージに着替える前にシャワー室にある姿鏡で自分の姿を見る。外見はなんの変化もないのに、なまえの中の大事なものはもう失われていて。それを思い出すとあのときの恐怖を思い出して吐き気を覚える。慣れないことが連続して起きたから弱っているのだろう、と見当をつけた。こういうときは早く自室に戻って眠るに限るしかない。
自室に備え付けられたベッドに寝転がって慣れない寝心地を感じながら、目を瞑る。明日のことを考えて緊張がなまえの身体に走るが、とにかく眠らなければ、と目を閉じ続けていればいつの間にか眠っていた。
登校初日の朝は寝坊もせずに決めていた時間にきちんと起きられた。寝不足な感覚があるのは否めないが、緊張でうまく眠れなかったのだから仕方がない、と割り切る。朝食は食堂を利用しようかとも思ったが、そんな気力もなく二番目の兄が送ってくれていたゼリー飲料で済ませた。女子寮から食堂まで移動してそのまま教室に行くのが億劫だったのだ。
制服に着替えて、髪を整え筆記用具などを持って教室に向かう。教室に着けばまだ誰もおらず一番乗りだった。教室に並ぶ机の数は昨日夜蛾が言っていたように四つ。どこに座ればいいのか分からず、ひとまず下座に該当する扉近くの席に座った。教室の時計を見れば時刻は七時四十五分を指していてまだまだ時間があることを知る。夜蛾は八時三十分までに来ればいいと言っていた。どうせなら校舎内を散歩してみればよかっただろうか、と思ったが、迷ったら間に合わなくなる可能性があるので遅れるくらいなら早い方がいいだろう、と気にしないことにする。
「あれ、一番じゃなかった」
「あ、えと、」
ガラッ、という音と共に姿を現したのはなまえよりもずいぶん背が高い男子学生だった。黒髪に長めの前髪とお団子頭が特徴的だな、と思う。すでに人がいるとは思っていなかったのか、男子学生は驚いた顔をしてなまえを見た。背は高いけれど、目の前の人は同年代、直哉様と一緒、と内心念じ続けていればなんとなく大丈夫そうな気がする。
「夏油傑。よろしく」
「みょうじなまえです、よろしくお願いします」
夏油と名乗った男子学生はそのままなまえの座っている隣の席に座った。びくり、と身構えてしまうけれど、兄たちと至近距離で話したときよりはましだ。挨拶として頭を下げると、隣に座る彼は少し思案してからなまえに声をかけた。
「もしかして、関西の人?」
「やっぱりわかるんや……」
「まぁ、イントネーションが独特だよね」
「気ぃつけるね……」
どうせ東京まで来たのだから京都弁の訛りも直せたら、と思っていたがそう簡単にはいかないらしい。普通に話したつもりだったが、夏油から指摘されるということはできていないということだ。あんなに練習したのになぁ、と落ち込む。
「みょうじさんは京都校にはいかなかったの?うちって一応京都校もあるんでしょ?」
「んー……心機一転に東京に行ってみたら?って親が言うて」
「へぇ」
さすがに京都で権力を持っている禪院家とその婚約者の家から睨まれているからです、とは言えなかった。一度別件で姉の夫が禪院家に行った際になまえに対しての罵詈雑言が凄まじかったそうだ。あんなところ縁切って正解やで、と怒りながら姉の夫に言われたのは記憶に新しい。自分の落ち度だったから仕方がない、と時間をかけて割り切ろうとしているところで。それを出会ったばかりの他人に話せるほど強くはない。
「なにはともあれ、よろしく」
「こちらこそ」
夏油が手を差し出してきたので疑問符を頭の中で浮かべていると、握手だよ、と笑われた。誰かと握手をしたことが記憶にない――もしかしたら小さい時分ではあったのかもしれないが――ので、新鮮な気持ちになる。なるほど、普通の学生はこうやって親交を深めていくのか、と脳内に記述する。
本来の集合時間まで時間があるので夏油と話していると一般家庭育ちだということがわかった。一般家庭というものとの関わりが薄いなまえはいろいろなことを質問してしまったが、それに嫌な顔をせずに答えた夏油の好感度が上がる。気づけば最初は使っていた敬語も取れていた。
「しかし、本当に箱入り娘なんだね、君って」
「そうかもしれん。ここに来るまでの一ヶ月普通のひとはどうするんかそればっかり勉強してたんよ」
「私の質問は役に立ちそうかい?」
「とっても。分からんかったらまたいろいろ聞いてもええかな?」
「もちろん」
一人目の同級生がいいひとそうでとても安心した。他の二人も同じくらいいい人だといいのに、と思っていると、また教室の扉が音を立てて開けられる。そこには自分よりも小柄な女子生徒の姿を視界が捕らえた。
「え、二人もいる。まじかよ。真面目か?」
「……君は?」
「家入硝子。よろしく」
「私は夏油傑だ、よろしく」
「みょうじなまえです、よろしくお願いします」
さきほどの夏油にしたのと同じように家入に向かって頭を下げる。すると面を食ったような顔をして家入がなまえを見た。それから夏油に視線を向けて、なまえを指差しながら質問する。
「もしかしていいとこのお嬢?」
「大正解」
突然始まったクイズに置いてけぼりにされて唖然としていると、家入が夏油となまえに近づいてきて、夏油に席を替わるように言う。なんで私が、なんて言いながら夏油が席を立って、空いた席に家入が座った。なまえの隣に家入が座り、そのさらに隣に夏油が座る。残った空席は窓際の一席だけだ。
「改めてよろしく」
「よろしくお願いします」
夏油が差し出してきた手を真似するようになまえから家入に手を差し出すと、家入はそれに応じて握手をする。初めて自分から同級生に握手をできた、と嬉しくなった。なまえの考えていることが分かるのか、夏油も家入も微笑ましそうに彼女を見る。
二人目の同級生もいいひとそうで安心し、安堵の息を吐いた。同年代の同性の関わりなど異性以上にないので、とても嬉しいと思う。異性はたまに縁談まがいのことをして顔を合わせることが多かった。同年代の同性はどうしても直哉の許嫁の座を争うライバルしかいなかったので、関わることはない。蹴落とし蹴落とされる世界に友情なんて言葉は存在していなかった。
最後のひとりはまだかな、なんて夏油や家入と話ながら他愛もない話をしていると、教室の時計が八時三十分を差していることに気づく。最後のひとりはまだ姿を現さない。寝坊でもしたかな、と言う家入の言葉にどうやろねぇ、と返答したところで教室の扉が開いた。
見えたのは月白の髪に白藍の瞳を隠すようにかけられたサングラス。猫のように首根っこを夜蛾に捕まれて現れた男には見覚えがあった。直哉が嫌いだ、と何度も言っていた五条家の跡取りで数百年ぶりに生まれた六眼と無下限の抱き合わせの男だ。名前をすぐに思い出すことはできなかったけれど、夜蛾が五条家跡取りを机に座らせたことで解決した。
「今遅れてきたのは五条悟。お前たちの同級生だ。四人しかいないから仲良くするように。じゃあ、夏油から自己紹介してくれるか」
「はい」
なまえたちの名前を知らないのは五条だけなので実質五条への自己紹介になっている。最初に五条の隣に座っている夏油が名前を言って、その次に家入。最後になまえの番が回ってきた。
「みょうじなまえです、よろしくお願いします」
「みょうじつったら禪院家とめちゃくちゃ癒着があるところじゃん。なんでここにいんの」
名前を聞くなりほかの二人と違って五条はなまえに噛みついてきた。五条の言わんとしていることはわかるし、なまえもあんなことが起きていなければ高専の京都校に通っていたと思う。今のなまえは言わば脱走中なのだ。ほとぼりが冷めるまでの時間稼ぎのためにここにいるに過ぎない。
「あぁ、社会勉強みたいなもんです。どうせなら遠くに行ってみたら、と親に言われて」
「ふぅーん。禪院家がみょうじの子どもを自分たちの範疇外に出すとは思えないけど」
「わたしの術式しょうもないんで。禪院家の目にも止まらんのですよ」
「カワイソ。俺には関係ないけど」
興味を無くしたらしい五条がなまえから視線を逸らした。六眼でじっと見つめられると何もかも暴かれているようで落ち着かない。五条の麒麟児になまえのことが認識されているとは思わないが、みょうじ家を認識していることは驚いた。そして結局ここでも禪院の名前が聞こえてくることを残念に思う。ここに来ればそういうのが聞こえてこないと思ったのに。五条達から見えないところでため息をひとつ吐いて気持ちを切り替える。
幸先のいい学校生活の始まり、とは言えないが他の二人とは仲良くしたいと思った。せっかく今まで関わることのなかった同級生だ。大事にしたい。
五条には関わらず家入や夏油とのんびり関わっていこうと思っていたのに、彼との関係が変化したのは高専に入学して季節が二つ過ぎた秋のことだ。それなりに古くから家にはそれなりのルールがあると察してくれたらしい夏油や家入のおかげで、なまえは五条とそこまで密接にかかわらずに学校生活を送っていた。
ときたま家入がなまえの言動が五条と一致するときがあるから、呪術界の由緒ある家柄のやつは同じようなことをするんだね、と笑ってきたのは未だに根に持っている。だってメントスなんてお菓子も知らなかったし、コーラという炭酸飲料も名前くらいしか知らないのに、その二つを掛け合わせるとあんなことになるなんて知っているわけがないのだ。家入と夏油に言われるままにコーラにメントスを入れたわたしと五条は見事にそのあと起こった事象に慌てふためいたのは言うまでもない。
夏の繁忙期を終えてこれから冬に向かって少しはのんびりできるか、と思っていたところに舞い込んできたのは、埼玉県山間部で起こっている神隠しの呪霊を祓うという任務だった。高専に所属するにあたってわたしの階級が設定されたけれど、準二級なのでまぁ普通の階級だった。術式を考えればそんなもんだと思う。五条は特級まであと少しの一級らしい。
実家にいた間は術式は使っていたけれど、それも大体呪霊を祓うというよりは調査の段階で使うことが多く、兄や姉に頼まれてひとが入りづらい場所をわたしの術式で操った鳥で見に行くようにしていた。操っている鳥が呪霊などによって怪我をすれば自分に返ってくるのを知ったのは高専に入ってからだ。
なまえとの任務が嫌なのか任務に行かない、または人を替えろとごねる五条のせいで補助監督の男性が慌てているのが申し訳なくなって、声を発する。
「噂に聞いてた五条の麒麟児さんが見掛け倒しとへ思とりませんでしたわ」
意地の悪いことをあえて言えば、苛立ちを覚えたらしい五条が大人しく補助監督の車に乗り込んだ。補助監督に向かって親指を立てるジェスチャーをすると彼は助かりました、と頭を下げた。むしろ呪術界の面倒臭いお家事情に巻き込んで申し訳ないと思う。
任務自体は呆気なく終わった。先に飛ばしておいた鳥で呪霊の位置を確定させて、五条が赫を放って呪霊が消えたこと確認する。報告書はなにもしてないんだから、となまえに作るように五条が言い放った。文句はないのでわかりました、と従順に従う。
埼玉から高専のある東京まで首都高を走らせて寮まで戻っていると、つまらなさそうに窓の外を見る五条の目が窓ガラスに反射してなまえの視界に入り込んだ。
「五条さんの眼はまるで硝子玉やねぇ」
沈黙した車内をなんとかしたくて適当な話題を探していたのに、彼の瞳がなまえの視界に飛び込んできたことでうっかり言葉にしてしまった。
突然、なまえが自分の瞳に触れたことに驚いたらしい五条は目を白黒とさせているのが分かる。そりゃあ犬猿の仲の女が目について語って来たら驚かざるを得ないだろう。
「とってもきれいで、いつか割れてまいそうやわ」
「目が割れるわけねぇだろ」
「冗談に決まっとりますぅ」
「けっ、かわいくねぇ女」
寝るから話しかけんな、と言って、腕を組んで詰襟に顔を埋もれされるように眠る五条の姿を確認して、補助監督に話しかけた。
「いつもすみません」
「いいんですよ。みょうじさんもお疲れでしょうし、眠ってくださいね」
「大丈夫です」
「でも、なんか意外でした。みょうじさんがあんなこと言うなんて」
「そぉですか?いつも思ってますよ。硝子玉みたいできれいやなぁって」
「言いたいことはわかりますけどね」
「そうでしょ?」
六眼というのを五条に会って初めて見たが、こんなに美しいものだとは思わなかった。なまえがあのまま家に居ればきっと出会わなかった美しさだろう。ようやく父の言った環境を変えてみてはどうか、の言葉が受け入れられそうだと思った。ここはなまえがあんな目に合ったことを知っているひとはいない。それでこんなに救われたような気持ちになるとは思っていなかったのだ。
傷は深く残っているけれど、それでもその傷を知っているひとはなまえの周りに今はいない。知っている人間がいないということは傷は存在していないように扱えるのだと理解する。それに、同級生と普通に学校生活をするということがこんなにも心地が良いとは思わなかった。
美しいものに触れて、楽しいことに触れて、嬉しいことが増える。一年前の自分に教えてやりたいと思うほどだ。
⁑
高専を卒業するまでは穏やかに過ごせると思っていた。任務をこなして、授業を熟して、たまに家入や夏油と馬鹿をして五条の美しい瞳を盗み見る。その生活がずっと続くと思っていたのだ。そうはいかないのが人生であるようだが。
「交流戦、ですか」
「あぁ」
三年生に進級して一年、二年と引き続き担任である夜蛾に職員しつに呼び出されて話をされたのは、六月に行われる京都校との交流戦のことで。毎年行われているこれは二年生と三年生が主体になって行われる行事であるという認識はある。けれど、京都校の人間となるべく関わりあいたくないため、昨年は任務を入れてもらって不参加とさせて貰っていた。今年も同じ方法を取ろうとしていたのだ。
「今年は参加させろと言われている」
「わたしをですか?」
「あぁ。みょうじなまえを出せ、と向こうからの連絡だ」
「なんでまた今更。去年は見逃してくれはったのに」
「なにか思い当たる節はないか?」
うーん、と唸りながら思案して思い浮かんだのは直哉の顔で。いやいや、そんなまさか、と思って頭を振って可能性を潰す。以前、一方的ないざこざを起こしてきた――家の女も入学していると姉からの情報で聞いているので、あちらさんからのご指名かもしれない、と当たりを付ける。
「なくはないです。出るのはいいですけど、初っ端で不戦敗狙ってもいいですか?」
「まぁ、仕方がないな。それでいってくれるか」
「はぁい」
「はい、は伸ばすな。最近硝子たちに似てきたな。お前も悟も」
「ええお友達なんで。硝子ちゃんは特に」
「悪いところばかり見習うなよ」
「はいはい」
「はいは一回」
はーい、と煽るように夜蛾に返事をするとなまえの頭に手刀がひとつ落とされた。女子だからある程度手加減はされていると思うが、それでも痛いものは痛い。
職員室を出て扉を閉めたところでため息を吐いてしまう。去年と同じように逃がしてくれたらよかったのに。断れないくらいの立ち位置の家からの指示と言うのは推測できる。やっぱり禪院家か――家のどちらかだろう。今更直哉がなにかを言ってくるとは思えないので、おそらく後者からの指示か。二年も放っておいてくれたのだから今年も放って置いてほしかったものだ。
「みょうじ?」
「あぁ、五条」
最初は五条さんと呼んでいたなまえも三年も経過すれば苗字に呼び捨てになった。関係に特に変化はないが、なまえが五条に懸想しているのはもしかしたらバレているかもしれない。それでも、なにも知らないふりをしてくれているのが有難いと思う。あんな想いをするのは二度とごめんなので、ただ見ているだけでいい。見られることを許容してくれている五条には感謝している。
「夜蛾に呼び出されるなんて珍しいじゃん」
「交流戦今年はサボるなってさ」
「あーあ。ご愁傷様」
「他人事だと思って」
「他人事だし。しっかしどこの家もめんどくせぇなぁ」
「それは同意」
怒られるの覚悟でバックレてやろうかな、と呟けば、五条が硝子みたいなこと言うじゃん、と笑う。家入はなまえたちの学年の中では授業をサボる常習犯だ。夜蛾の手刀を頭に食らっているのを目撃している。言うだけ言ってやるだけの度胸をなまえは持っていないが。
「まぁ、交流戦なんて俺と傑が勝って一瞬で終わらせてやるよ」
「流石五条は頼もしいなぁ」
「礼にハーゲンダッツ奢れよ」
「はいはい」
じゃあ、俺任務だから、と言い残して去っていく五条の背中を見送る。高専に入ったときから高かった彼の身長は、今年になったまたさらに高くなったように感じた。自分が成長できているかどうか一抹の不安を覚えるけれど、手をぎゅっと握って気合を入れ直す。昨年二級術師に階級をひとつあげられたのだから成長できていると信じよう、となまえは自身に暗示をかけた。
来なければいいのにと思っていた交流戦は思ったよりも早くやってきて、せめてもの救いは今年の開催場所が東京であることくらいだ。昨年五条達が圧勝したおかげだと聞いていたのでなまえはふたりに感謝した。これで京都開催だと言われていたら確実に今頃ボイコットしている。
京都校の人たちを迎え入れるように、と夜蛾に指示をされたので家入と二人で渋々校門で京都校の生徒を待った。時間になっても来る気配がないのでさぼるか?なんて話を家入となまえがしている最中に、見覚えがあるような気がする男を視界の端で捉える。あんなに綺麗な濡羽色の髪だったのにもったいない、なんて思った。
京都校の生徒らしき数人の学生がなまえと家入を見るなり声をかけてくる。
「すんません、遅れてもうて。電車が遅れとって」
「いえいえ、遠路はるばるよぉお越しくださいまして。夜蛾先生より皆さんを案内するように頼まれました――」
「なまえ?」
知らないふりをしてやり過ごしてやろうと思ったのに、そうは問屋が卸さないらしい。こちらの努力など知らない、とでも言うように直哉がなまえに声をかけた。
「お久しゅうございます、直哉様」
「お前ほんまに東京校居ってんな」
「わたしはちゃぁんとお伝えしましたよ、忘れはりました?」
おどけながらそう言ってやると、なまえにこんな態度を取られると思ってなかったらしい直哉は鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべた。そんな姿を無視して家入とふたりで京都校の生徒を控室に使う教室まで案内する。
案内している途中で夏油と五条、それにひとつ後輩の七海と灰原を見つけた。団体が近づいているのに気づいたらしい夏油がなまえたちに視線を向けて、手を振った。夏油につられるように残りの三人もなまえたちの方を見る。なにかの話の途中だったのかもしれないが、愛嬌のある灰原がなまえに近づいてきて、それに続いて五条も距離を縮めてきた。
「遅かったじゃーん。京都校のミナサマ」
「げ、五条」
「京都校の皆さんですよね?よろしくお願いしまーす!」
険悪な雰囲気を割るように空気を読まずに元気いっぱいで挨拶をする灰原の姿を見ながら、なまえはそのままでいてほしい、と願う。呪術界では珍しい根明の灰原にはなまえも癒されることが多かった。
「なに、みょうじも硝子も案内?」
「そんなとこ。五条替わる?」
「嫌に決まってんだろ。女子は貧乏くじ引かされてかわいそうだねー」
そんなことを言いながら五条はなまえの頭をぽんぽん、と叩いた。五条からすればただの気安い同級生へのスキンシップでしかないのだろうが、なまえからしたら顔に熱が集まってしまうようなことだ。
五条からのスキンシップに頬を染めているなまえを見て直哉の心中が荒れていることなど誰も気づかない。
東京校の男性陣に見送られて京都校の拠点になる教室に案内すれば、みんな思い思いにくつろげる場所を探しているようだった。ひとまず夜蛾に頼まれた仕事は終えたのでこの場を後にしよう、と家入と離れようすれば、また直哉に呼び止められる。直哉が呼び止める度に例の許嫁様が睨んでくるので勘弁してほしい。あの日、なまえがもうここまでだね、と言ったのはなんだったのか。忘れ去られてしまったのだろうか、と疑いたくなってしまう。
「なまえ、飲みもん買いたいから案内してくれん?」
「――かしこまりました。硝子、ごめん先に戻っといて」
「はいはーい。さっさと戻っておいでよ」
「うん。わかった」
直哉の希望通り京都校の拠点の教室から一番近い自販機に案内するように算段を立てる。教室を出ようとしたところで直哉と許嫁の彼女が押し問答をしているようだったが、なまえの知ったことではない。早く済ませたいな、と思いながら待っているとイライラした様子の直哉が出てきた。こっちです、と声をかけて彼の少し前を歩く。直哉と昔約束したことと逆のことをしているなぁ、なんて思いながら自販機を目指した。
「なぁ、」
声をかけられてなまえが直哉の方に振り返ると、目の前の彼は言葉を選ぶように時間をかけて言葉を発した。
「五条のこと好きなん?」
「そうですね、同級生としての好意や憧れはあると思います」
「やめときぃや、〝五条〟やで」
「……直哉様。叶えたい、とか思ってへんし、叶う、とも思ってへんよ」
見てるだけで幸せやの、と言って笑ったなまえは直哉の知らない別の何かに成り下がってしまったのだと理解させられた。なまえのこんな顔など知らない。まるで、恋をしているとでも言うような、そんな表情。この場で阿婆擦れ、と罵ることができたらどれだけ良かっただろうか。今の直哉となまえの間にはなんの繋がりもない。あえて言うとすれば元許嫁候補、という曖昧なものだ。他に残っているものなど家の繋がりくらいか。
自分となまえの間にはもう何も残っていないのだと見せつけられる。五条の方が直哉よりもつながりがあるだろう。同級生という向こう二年は切れないつながりだ。それを羨ましいと思うのは許されないことだろうか。
直哉も別に親に言われるままあの許嫁との関係を続けているわけではない。でも、直毘人は何度話をしに行っても取り合ってはくれなかった。
「みょうじの末娘はだめだ。野心がなさすぎる」
「それがええんとちゃうん。下手に持っとる方が危ないやろ」
「弱いだけの女ではいかんのだ、直哉。理解しろ。またあんな目に合わせたいのか」
あのときの話を出されると直哉はなにも言えなくなる。数回屋敷の中に出入りするなまえの兄や姉を捕まえても父である直毘人と同じ答えが返ってくる。彼女の姉などもう勘弁してください、これ以上あの子を苦しめないで、なんて泣きながら直哉に土下座をするのだ。そこまでされては直哉も動けなくなってしまう。
自分が我慢をしているというのに、のうのうと因縁のある五条の男なんかに懸想するのに苛立ちを覚えるなと言う方が土台無理な話だ。
「なまえは俺の後ろついてきてくれるんちゃうん」
「許嫁さんが居はるでしょ。わたしはもう一緒に居れんって言いましたよ」
「嫌や」
「直哉様」
「俺はなまえがよかった」
「わたしじゃあかんの。わかってるやろ。使い古された女はあかんのよ」
なんとか納得させようと直哉にいくら言葉をかけても聞く耳を持たなかった。話している途中で思わずあの頃と同じように敬語が飛んで行ってしまう。赤の他人というスタンスで関わろうと思っていたのになぁ、なんて頭の中で言葉を吐いた。あの頃もたまにわがままを言うことはあったけれど今の比ではなかったと記憶している。年下らしい行動だとは思うけれど、彼も当主候補なのだ。こんな甘えたなことを言っていたらきっとお家で叱られてしまう。
「ここが自販機。ここが一番品揃えも多いから、買うには良いと思う」
「なまえ」
「わたしはちゃんと説明しましたからね、戻るね」
なまえにダメな女というレッテルを貼ったのは彼の周りの人間なのに、なぜ自分がこんなに罪悪感を覚えなければならないのか。とっとと気持ちを切り替えてしまおう、と来た道を戻って、先に戻っているはずの硝子の元を目指す。
翌日の交流戦は夜蛾に宣言していた通り不戦敗で終わらせて直哉から隠れるように過ごした。勝敗自体は昨年と同様に五条と夏油のおかげで圧勝だったのは言うまでもない。
⁑
卒業式なんて仰々しいものは高専にはない。ただ卒業証書と渡されて学長と担任、今まで世話になった補助監督などからおめでとう、と言われるくらいのあっさりとしたイベントだ。人望があれば後輩も見送りにくるとか来ないとか聞いたが、人望はないが律義な後輩たちは五条と家入となまえの卒業を見送りに来てくれたようで。いい子たちだなぁ、と思うと同時に、ここに今まで出会った人間の中で一番明るかった後輩の姿がないことを残念に思う。彼が生きていればきっともっと騒がしく見送ってくれただろう。
進路は当初の予定通り家に戻り、引きこもりに戻る予定だ。一応高専経由の任務は受け付けるようにはしているが、両親がどこまでなまえを外に出してくれるか想像できない。五条は高専で教師になり、家入は医師免許を取るために医大に編入するという。後輩の七海も高専を卒業すれば一般の大学に編入して普通に生きるのだと言っていた。
猶予期間の四年間を振り返ると悪くないものだったと思う。五条への感情が慕情なのか羨望なのか未だになまえの中では分類できなかったが、それも学生らしい生活の一部だろと言えると思った。充実した学生生活を送らせてくれた両親や兄姉、高専の先生たちに感謝する。
家入も五条も退寮するのは明日だそうで、なまえが一番最初に退寮すると知ったのは今朝のことだ。初めはふたりに合わせようかと思ったが、両親がずっと卒業式が終わればすぐ帰ってくるように一ヶ月ほど前から口酸っぱく言って来ていた。気軽にふたりに会えなくなるのは寂しいが、連絡ができないわけじゃないので寂しさには目を瞑ることにする。
荷物は入寮したときと同じように宅配便で粗方送ってしまったので、なまえの荷物は卒業証書くらいだ。ずいぶん生きることに手慣れたと思う。
家の車で迎えに来てくれるそうなので寮を出て、校門からも出ようとしたところで五条に呼び止められた。五条がなまえを呼び止めるなど珍しいこともあるもんだ、と目を大きくしてしまう。ずいっと差し出された手に首を傾げると、五条は恥ずかしそうに頬を少し染めて告げた。
「最初のとき、僕とだけ握手してないだろ」
「そういえば、そぉやね」
「だから、最後にやっといてやろうと思って」
「なんやの、それ」
突拍子もないことを言い始めた五条に笑いのツボが刺激されて、フフッと笑い声が漏れてしまう。握手をしたとき五条はその場にいなかったはずなのに、ずっと気にしていたのだろうか。四年もそんなことを覚えていたのだとすると滑稽で人間らしくて、愛おしいなぁと思う。差し出された手をおずおずと掴んで握って、五条と自分の手の大きさの差を実感した。こんなに骨ばっていて大きいなんて知らなかったなぁ、と忘れないように記憶に刻み付ける。
「四年間、ありがと」
「こちらこそ。いろいろ、おおきに」
「……元気でね」
「五条こそ、頑張りや」
「僕を誰だと思ってるのさ」
「最強で無敵の五条悟」
「そうそう。僕、最強だから」
軽口を叩きながら握っていた手を放した。人生の青春期を終わらせるときが来たようだ。なまえはできる限りの笑みを浮かべて五条を見る。
「ばいばい、五条」
「うん。……またね、なまえ」
初めて名前を呼ばれても胸の高鳴りのようなものは感じなかった。これが去年や一昨年であったなら、きっと情を募らせていただろうなと思う。なまえは自分の恋情を消化できていることを自覚すると同時に安心した。これで心残りはもうない。実家に戻って鳥かごの中の鳥のような生活に戻るだけだ。
途中で存外狂ってしまった人生の歯車だけれど、悪くなかったと感じる、そう思える自分がすこしだけ誇らしいと思えた。
五条に見送られて校門を出て駐車場に向かえば、見覚えのある男が立っていた。相変わらず髪は濡羽色ではなく明るい金髪のままで。なんでこんなところにいるんだ、と困惑していると、なまえの視線に気づいた直哉が彼女を出迎える。
「なまえ、卒業おめでとう」
「直哉様?」
卒業証書を奪われてそのまま車の後部座席に連れ込まれる。運転席を見れば見覚えのあるみょうじ家の老年の使用人の姿があった。視線が交わると目元にしわを寄せて笑みを浮かべている。声をかけたいのに、直哉がこの場にいることが不思議で頭の中の思考がまとまらない。
「なんで、ここにいてはるんですか」
「敬語辞めえや」
「直哉様、なんでここに居んの」
「――家のやつはあかんわ。俺を傀儡にして禪院家を乗っ取ろうと考えてたみたいでな。やっぱり、お前やないと」
「何言うてんの、なぁ」
状況がはっきりしないことに苛立ちを覚えて声に怒気がにじみ出てしまう。直哉にこんな声を聞かせたことなどなかったのに、彼に対してもこんな風に接することができるようになっている自分に、なまえ自身が一番驚いた。
「なまえは俺の後ろついてきてくれたらええんよ」
「許されるはずないやん」
「なんにも心配せんでええ。あいつらもう居らへんから」
「え……?」
「俺に――ひいては禪院家に楯突いたんやで。要らんやろ」
直哉が許嫁とその一族になにかをしたのは察することができるが、詳細が不明瞭すぎて違和感を覚える。けれど、今更なまえが直哉の許嫁に収まるのは無理な話だ。なまえがあんな目に合ったことを京都の禪院家の周囲の家はみんな知っている。そんな女が禪院家の次期当主の許嫁に収まることなどできるはずもない。そんなことは京都からしばらく離れていたなまえでもわかる。
使用人が運転する車に揺られるままにぼうっと外を眺めていると、直哉が昔のように膝に頭を乗せてきた。今は高専の制服のプリーツスカートなので着物のときと感触が違って違和感がある。昔の癖で直哉の耳を見ると、あの頃にはなかったピアスがいくつも彼の耳に着けられていた。
「こんなに穴だらけにして。痛ないん」
「慣れたらそうでもない」
「髪の毛やってあんなにきれいな黒髪やったのに。こんなに明るくしてもうて」
「似合てるやろ」
「せやね」
有言実行している直哉の頑固さを褒めればいいのか、こんなに自分の身体に傷をつけたり負荷をかけていることを諫めればいいのかわからない。なまえが変わったように直哉も変わったのだと目の当たりにする。
「なぁ、頭撫でてくれへんの」
「はいはい」
髪の毛は何度ブリーチしたのかわからないがその割に指触りは昔のままだと思った。長い時間揺られる車内でなまえは直哉に言われるままに頭を撫でたり話をしたり、定期的に顔を合わせていた頃と変わらない空気を感じる。直哉が欲しいものを持っているわけでもないなまえに執着する理由はわからないが、彼の気が済むまで付き合えばいいか、と考えることを諦めた。
実家に直哉と一緒に戻っても両親や兄姉はなにも言わなかった。驚いている様子もないので、先にこちらには話を通していたのだろう。用意周到だなぁ、と他人事のように思った。昔も同じようなことをしていたからそういうことには頭が回るのだろう。
戻ったところで直哉はあと一年は高専生なので毎日会えるわけもなく、外出届を提出しては任務のない日に家でぐうだらと過ごしているなまえの元に足繁く通った。通い妻なる単語が脳内を何度か駆け巡ったことは誰にも伝えていない。
家から出る回数は昔よりも増えたがそれでも基本的に家から出ないなまえと直哉が外に出かけるわけもなく。ふたりが過ごすのはなまえの好きな中庭が見える縁側だ。一度目の別離を告げた場所で今は人間がふたりくらい入れる隙間すら空けずに隣に座る。
なんなら直哉の希望でずっと膝枕をしているときすらあった。膝の上の彼が身体の向きを変えたかと思えば、仰向けに寝転がって両手を伸ばしてなまえの頬を包んだ。そして祈るように言葉を紡ぐ。
「なまえだけは俺が死ぬまで―――いや、死んでからも一緒に居って」
「しゃあないなぁ」
直哉様の後についていくって約束したからついてってあげる、と言って笑ったなまえの表情は直哉が好きだったあのときのものにひどく似ていた。あんなことが起こる前のなまえに戻ったような錯覚を覚えると同時に、現実からは目を逸らす。――家の人間が皆いなくなったことでなまえにひどい言葉をかける人間はもういない。思い出させるような言動をする人間がいなければ、それは最初から存在していないのと同じだ。
なまえの膝の柔らかさや温もりはあの頃と変わらないな、と思うと同時に、これらが自分の手元に戻ってきたのだと思うと嬉しくて仕方なかった。
「どうしたん、直哉様」
「なにが」
「笑っとるよ」
「そりゃ幸せやから」
お前は幸せちゃうかもしれへんけどな、という言葉は飲み込んだ。