きらきらひかるわたしの貴石

甚爾がその女と初めて会ったのはいつのことだったか。物心はついていたと記憶しているので、おそらく五歳だか六歳だかだとは思うが、その女が甚爾の生活に気づいたら溶け込んでいていつから共にいたのかを鮮明には思い出せない。何かがあって振り返るとそこに彼女がいたことを嬉しく思っていたことなど、誰にも言ったこともなく。禪院家という腐敗しきって息苦しさしか覚えないこの屋敷の中で、彼女の隣は他の人間といるときよりは幾分か息がしやすくて、そんな女の姿が自分の視界に収まっているのを何度も確認しては安堵を覚えた。
なまえ、と名乗ったその女は周囲の言葉を借りればどうやら貧乏くじを引かされたらしく、術式などない甚爾の専属になった女中になった可哀想な女だとほかの女中や使用人から評価されていた。最初の会話ももはやあまり記憶にない。初めまして、くらいは言われたかもしれないし、こっちも言ったかもしれない。けれど興味も湧かなかった頃の話なので、記憶には残っていないのだ。
ともに過ごした年月が両手で足りなくなった頃に数えるのをやめる程度には、その女とひどく長い時間をともに過ごした気がする。

「おまえ、なまえなんだったっけ」
「あなたの女中になりました、なまえと申します。甚爾さま」

なまえが甚爾につくようになってしばらく経った頃、彼女の名前を呼ぼうにも思い出せなくて自分から話しかけた。そのときが甚爾の中でのはじめてのちゃんとした会話だ。失礼にも当たるだろうに、怒ることもせず女中の女は笑みすら浮かべず淡々と自身の名前を告げた。そのときに年齢も聞けば甚爾の五つ上だという話で。憐れんだ目を向けられることもなく目の前の女からなんの感情も窺うことができなくて、実は人間ではないのじゃないか、なんてことを思ったのを覚えている。おはようからおやすみまでただ甚爾の側に控えている女だった。あれをしろだのこれをしろだの言われたことすらない。飯、と言えば、はい、と食事を用意され、風呂に入れば上がった頃には自室に布団が敷かれていた。まるで影のような女だと思う。つかず離れずの距離を保って、決して甚爾を見失うことはない。それが親や親戚から見放された甚爾にとってどれほど胸がむず痒くなることだったか、彼女が知ることはないだろう。
気づけば甚爾の五歩くらい後ろをついてくるような女だ。禪院の下働きの家系らしいそいつは、そんな家系の割に呪力を持っていて〝視える〟側で、難儀な人生を送ってそうだと思ったのは甚爾が中学に上がったくらいのときのことだ。
小学校には通わなかったが、禪院家にとって確実に〝どうでもいい存在〟になったらしい甚爾は中学校に通うことが許された。禪院家も傍流の人間すら通わない市立中学校だ。思春期に片足を突っ込み始める時分になってもなまえの甚爾に対する関わり方は変わらなかった。自室の掃除を勝手にするな、と告げたところで彼女は勝手に掃除を行っていたし、隠してあったテスト用紙などもすべて机の上に整理して置かれていることも何度もある。自身のパーソナルスペースに入り込む女を女として意識しなかったかと言えば嘘になるが、それが恋情などに変化することはなかった。
朝に目を覚ます頃にはもう廊下に待機していて、甚爾が起きたのを気配で察すると話しかけてくる。
完全に呪力がないことを周知されたころ、周囲の甚爾への扱いは見るも無残に変化した。今まではやれご当主のご長男の息子だから、甚壱の弟だから、と持て囃してきていた人間が過去など最初からなかったかのように手のひらを返す。なんなら、人目がないところでは暴行まで加えてくる始末だ。それも年齢が上がるにつれてさらに周囲の態度が悪化した。
授業を終えて自宅へ到着するなり分家の人間――同年代のガキども――に捕まり、屋敷の人気のない場所へ連れて行かれる。過去の書物が保存されている蔵が乱立するその場所は、暴行するにもかくれんぼで隠れるのにも適した場所だと認識していた。そんな場所に連れて行かれ、五人ほどの男に囲まれる。抵抗するのも馬鹿らしく、そのままいいように殴られてやった。抵抗したときの方が面倒くさいことが目に見えているからだ。殴られたことでの痛くはあるが幼少期に受けた折檻よりは多少マシだろう。殴られた拍子に身体が傾いて地面に倒れ込んだ。倒れ込んだ身体に追い討ちをかけるように頭を強く殴られ痛みでその場に蹲る。
出来損ない。はずれくじ。さっさといなくなれ。穀潰し。禪院家の恥晒し。ありとあらゆる罵詈雑言が暴力と共に甚爾に降りかかった。それらを聞き流しながらさっさとこの時間が終わればいいのに、と頭の片隅で思う。
どのくらいの時間が経過したかはわからない。連れてこられた頃には薄ら橙がかっていた空が紺色に染まりつつあるからそれなりに時間は経過しているだろう。周囲から人の気配がないことを確認して、起き上がると痛みで思わず顔を顰めた。

「っテェ……」

呟いた言葉を聞いている人間などいないことは理解しているが、口から漏れ出た言葉は痛みによるもので。口元を右の手の甲で拭えば血で汚れた。それなりに出血しているようで、制服の袖を引いて目立つ血を拭っていく。誰にも見つからないルートを頭の中で思い浮かべながら、痛みでうまく動かない身体を引きずりながらその場をあとにした。
痛めつけられた頬を擦りながら自室に戻ると、待ち構えていたらしいなまえが救急箱を脇に備えて正座で待っていたのが目に入る。見慣れた姿に無意識に安堵の息がほっと漏れた。なまえはどんなに大怪我を負って帰ってきてもいつもただ淡々としている。それが心地良いし、煩わしくなくていい。これで騒ぎ立てるような女だったらおそらく十年近く側に置いていなかっただろう。

「甚爾様、お座りください」
「……見てたのかよ」
「見ずともわかりますよ」

促されるままになまえの向かい側に腰を下ろせば、かちゃかちゃと音を立てながら消毒の準備をしている彼女の姿が視界に入り込む。慣れた手つきで脱脂綿に消毒液を塗し、それを甚爾の顔に近づけてきた。傷口に当てられ、ぴりぴりとした感覚が肌を襲って眉を顰める。

「痛いでしょうが我慢なさってください」
「へーへー」

ぺたぺたと身体中の切創には脱脂綿を当てられ、終われば絆創膏を貼られる。打撲創にはどこから確保したのかわからないが湿布を貼られた。なまえが持ってくる救急箱はいつも中身が減ることはなく、いつでも甚爾の傷の手当てができるように補充されている。それに気づいたのも最近のことではあるが。つかず離れずの距離でいる目の前の女に聞いてみたいことがあった。

「お前は助けてくんねぇんだな」
「助けてしまうとこうやってあなたの怪我の手当ができませんから」

普通の人間であれば甚爾のような厄介な子どもの世話など嫌がることだろう。しかも呪力や術式がなければ禪院ではないと明言しているこの家で、呪力のないいうなれば〝落ちこぼれ〟の世話だ。それを嫌がらずに十年近くやっているにも関わらず、なまえは甚爾を助けようとすることだけはしなかった。

「冷たいんだか聡いんだかわからん」
「そこは冷たい、でいいんですよ。甚爾さま」
「そうかよ」

えぇそうです、と笑った女の顔はいつもの淡々としたそれではなく、普段隠されている感情が垣間見えたような気がした。
傷の処置を終えて、なまえは次は食事の用意をしてきますから、と甚爾の部屋を出ていく。その姿勢のいい背中を見送りながら、多少ましになった気がする痛みをやり過ごすために目を瞑った。

甚爾が中学を卒業するころが周囲のノイズが一番酷かったように思う。学校に行けば教師に進路はどうするのか、と問いかけられ、屋敷に帰ればいつものように暴力を振るわれた。結局学校の方には家業を継ぐ――甚爾の家が特殊なのは教師も把握はしているらしい――と言えば話は収まったのでよしとするが。自分の身体が人より丈夫であることを確信したのもこのときだ。天与呪縛、などと言えば聞こえはいいが、呪力がなければ人ではないのがこの家のしきたりで、禪院家の中に置いて甚爾は粗末な存在になることしかができなかった。呪力がまったくないので呪術高等専門学校などに入れるはずもなく、このまま家で蔑まれて生きていくのか、と絶望する。
――それを見たのは偶然で、甚爾の世話を長年しているのが評価されたらしいなまえは甚爾の世話の片手間に従兄弟の直哉の世話もするようになった。と言ってもあくまでも主なのは甚爾であり、甚爾が学校で屋敷に居ない間かつ直哉の世話係が見つからないとき限定ではあるが。半日授業を終えて屋敷に戻れば、子ども特有の高いきゃらきゃらとした声が聞こえる。声のする方が何となく気になって、そのまま誘われるように近づけば直哉となまえが一緒にいるところが視界に入った。直哉と並んで縁側に座りシャボン玉で遊んでいるようで、二人そろって緑のストローに口をつけけふーっと息を吐きシャボン玉を空気中に生み出している。

なまえちゃん楽しいなぁ」
「そうですね」

年下の直哉に嫉妬することなどもうやめたはずなのに、どうしてか苛立ちを覚えた。向こうは相伝でないとは言え当主の直毘人と同じ術式持ちで、甚爾とは天と地ほどの立場の差がある。なにもかも持っている直哉となにも持っていない甚爾。比較するのが馬鹿らしくなり嫉妬や羨慕を感じたくなくて、自尊心を捨てたのは随分前のことなのに。今更になって思い出したくなかった。胸の中でくすぶっている劣情はおそらく嫉妬だ。自分のものだと思っていたものが自分のものではなかったような、そんな感情に打ちひしがれる。
目の前でぱちんとシャボン玉が割れた。あーあ、なんて残念そうな声を上げる直哉の声など聞き流しながら、よくよく考えればわかることに気づかなかった自分の甘さに充てられて吐き気を覚える。なまえは甚爾の専属の女中ではあるが、雇い主は甚爾ではない。おそらく当主の直毘人がたまたま甚爾に当てがった世話係でしかなくて、それはいつでも変わってしまうものだということを見せつけられる。十年以上側にいるからそんな当たり前のことすら頭の中から抜け落ちていた。
この事実を思い出したおかげで頭の中が明瞭になった気がする。この家で蔑まれてずっと生きていくのか、と思ったのは、甚爾の側になまえがいつ前提があったからで。いつものように屋敷の人間に嬲られたりしても、今までのようになまえが淡々と甚爾の怪我の処置をして、どこかの分家の女に婿入りさせられてお役御免されるのだろう、と勝手に思い込んでいた。この屋敷から出ていくまでなまえが自分の側にいる保障などどこにもないのに、彼女がずっと甚爾と共にあると都合のいい妄想を自身が受け入れていたことにひどく動揺する。

思い立ったが吉日とはよく言ったもので、甚爾は中学の卒業式を終えたその足で卒業証書を片手になまえの元へ向かった。途中、使用人の何人かに声をかけられたような気もするがそんなものは捨て置いてまっすぐになまえを探す。彼女の姿を見つけたのは甚爾の部屋で部屋着である着物の繕っているところだった。

なまえ、帰った」
「甚爾さま。おかえりなさい」

卒業式はもう終わったんですか、なんて当たり障りのないことを問いかけられ、まぁな、と答えればそうですか、とまた手元の着物に意識を戻していた。ずっと考えていたことを告げるだけでここまで心臓がうるさく鳴ることを知らない。変な緊張感を持っていることが目の前の女にも伝わったらしく、居住まいを正してまっすぐと甚爾の目を見た。

「なぁ、お前にだけ言うわ」
「なんでしょう」
「この家、出る」
「……そうですか」

なにか言われるかと思ったが、何も言われなかった。甚爾の言葉をただゆっくりと飲み込んで、受け入れたのだと分かった。淡白な態度が変わらないから、もしかしたら察していたのかもしれない。

「もういいから。お前は、自由だ。俺のことなんて忘れてくれ」

はっきりと告げれば、なまえは少しだけ視線を緩ませてわかりました、と理解のある言葉を返してきた。その姿が母のようだと思ったし、姉のようだとも思った。実際、甚壱しか兄弟はいないので想像でしかないが。お前はお役御免だ、と遠回しに言った甚爾の言葉に従って、なまえは手元の繕い物を片付け始める。そんな姿を見納めるために見つめていると、視線に気づいたらしい彼女が甚爾に向き直っていつもよりも穏やかな優しい声で音を放った。

「ただ甚爾様。わたしはいつまでもあなたの人生が幸せであるように祈っております。それだけは忘れんといてね」

それじゃあわたしは下がらせていただきます、と言ってなまえは部屋をあとにした。最後の最後に初めて崩された敬語になまえからの家族の暖かさのようなものを感じた、と言えば笑ったのだろうか。恩を仇で返しているような気分になりつつ、後ろ髪を引かれる思いを断ち切って彼女との関係を断つ。もう会うこともないだろう。事前にまとめておいた荷物を襖から出して、そのまま背中に背負った。この地獄みたいな家でここまで生きてこられたのは、偏に彼女が女中としてずっとそばにいてくれたおかげだろう。

禪院家の当主の次男坊が出奔したという話は甚爾が出て行った翌日には屋敷の中に広がっていた。その噂話に耳を傾けながらなまえは直毘人に呼び出さそのまま彼の自室に伺う。甚爾がいなくなったことで直毘人の息子である直哉の世話を仰せつかるのだろうか、なんて見当をつけながら、だだっ広い屋敷の中をゆるゆると歩いていた。もう少しで直毘人の部屋に到着する、といった場所で背後から腰のあたりに衝撃が走る。なんとなく犯人は想像がついたが、振り返って確認すると予想と違わぬ子どもがそこにはいた。

「直哉さま」
なまえちゃん。今日はおれと居ってくれるんとちゃうん」
「ご当主様に呼ばれたんですよ」
「…………クビになるん?」

恐々、といった様子で直哉が放った言葉に虚を突かれて目を見開いた。なるほど、その可能性もあったか、と頭の中で情報を処理する。確かに落伍者とは言え甚爾を逃がしてしまった責任の所在がどこかと言われたら、なまえにあるのかもしれない。最初からそういう命が下っていたのを忘れていた。禪院甚爾という人間に会って初めて生きる意味を見出したので、すっかり記憶から消し去っていたのだ。
見張れ、と言われたのはもう十年以上も前のことで、報告としてはきちんと定期的に行っていたので怪しまれてはいなかったと思う。なまえとしてはただの成長報告としてしていたものが、向こうには命じられたことに対する報告だと思われていたのかもしれない。

「そうかもしれませんねぇ」
「いやや、せっかく甚爾君が居らんくなってんから、おれと居って」
「わたしなどよりももっと素敵な女中さんが直哉さんにはついてらっしゃるでしょう」
「あいつら目がこわいからいやや」
「そうですか」

この家の子どもたちはみんな聡いと思う。甚爾といい直哉といい大人のことをよく見ていると感じた。目がこわい、というのは言い得て妙だろう。次期当主候補の筆頭だと言われている直哉に取り入ることができれば、自分たちの立場を伸し上げられると信じて疑わない人間ばかりが彼の側に控えていると認識していた。甚爾とは別の意味で難儀な立場の子だと思う。呪術界というのはどこもかしこも女や子どもに優しくない場所だ。

「またあとで伺いますから。お部屋にいてください」
「ん、」
「はい、いい子いい子」

直哉の頭をなでてやると満足したのか、腰にしがみついていた彼の腕から解放される。いつのまにか迎えに来たらしい彼の側役の女性に引き渡すと睨まれたがなにも恐ろしくはなかった。彼女たちはそういう目が彼に気づかれているとは思っていないのだろう。子どもだって馬鹿ではない。悪意か善意かくらいの判別はつくと言うのに、そういうことに気づけないから彼女たちは中途半端な立場にしか行けないのだと思った。直哉と側役の女性を見送って、身を翻し当主の部屋へと向かう。
襖の前に正座をし、襖越しに声をかけると内側から当主の声がしたので襖を開け中に入る。上座のいつもの席に座っている当主を見れば正面に座るように目で促され、それに従う。当主の目の前に座るなど何年ぶりのことだろうか。甚爾の世話をするようになってから主流派の派閥の人間とは関わらないようにしていたので、今更こうして向き合うことになるとは思っていなかった。

「お呼びでしょうか」
「甚爾のことだ」

酒を嗜まれるのは相変わらずのようで、酔っているのか酔っていないのかわからない状態で問いかけられる。問いかけ、と言えばいいが実際は尋問だ。話題は予想通り甚爾のことで、なまえは事実だけを伝えた。あったことを一から百を言う必要はないと思っている。実際にあったことを話しているのだから、嘘は言っていない。

「甚爾はなにかお前に言っていなかったか」
「なにか、とは」
「出ていくとかそういう旨のことだ」
「なにも。卒業式から戻られた甚爾さまより下がるように言われたのは最後の会話になります」
「……嘘はないな?」
「もちろんでございます」

なまえなまえなりに甚爾に対して愛着を持っていた。〝呪力のない〟甚爾と〝呪力のある〟なまえ。立場は異なるがどちらも生家から厄介者扱いされている、という点においては共通している。だから甚爾の世話を引き受けたし、十年以上彼の側に在り続けた。本来、使用人として禪院家に仕え続けたみょうじ家に呪力のある人間が生まれることは珍しいことで、両親に言われるままにこの家にやってきたのがなまえだ。厄介払いされたことは嫌でも理解している。
来る前からこの世の地獄を煮詰めた場所だと聞いていた禪院家にやってきて、宝物のように大事にできる甚爾に出会えたことはなまえにとって幸いだった。こればかりは厄介払いしてくれた両親や親族に感謝している。そんな甚爾をなまえが禪院家に売るはずもなく、とりあえずこの場をやり過ごせたらなんでもよかった。

「まぁ、よい。お前の今後についてだが、」
「――ご当主様、お願いがあるのですが」

今後のなまえの処遇を話し出そうとする直毘人に遮るように待ったをかけた。先ほど直哉に言われてから思い浮かんだことだ。この家で朽ちていくことを考えていたけれど、そうじゃない手段があることに気づくことができたので直哉には感謝している。

「申してみろ」
「お暇をいただきとうございます」

威圧的な雰囲気を隠しもしない直毘人をまっすぐと見つめ視線を逸らさずにはっきりと伝える。

「なんでまた」
「甚爾さまのお世話を仰せつかっていたのにも関わらず、この家から出て行かせてしまったのはわたしの責任です」
「お前はよくやっていたし、よくやっていると聞いている」
「いいえ。ここでご配慮をいただいては今後なにか起こった際にご迷惑をかけるかと思いますので」

出て行ってしまった甚爾を責めることはない。むしろこんな家に居ては腐っていってしまうので、出ていってくれてよかったと安堵しているほどだ。なまえ自身が出ていくことは考えていなかったが、合法的に出ていくことができる可能性に気づき、もう少しだけ出て行ってしまった彼を見守ることができる術を見つけた。
こちらの考えなどお見通しらしい当主が目をそらさないなまえから視線をずらして大きくため息を吐いた。

「ただ見守るだけの人生に後悔はないのか」
「ありません。わたしの想いは一方通行でいいのです」

わたしはあのひとと恋仲になりたいのではないのですよ、と笑って言ってやると、当主が驚いたのか目を見開いてなまえを見ていた。彼にも見せてやれたらよかったのに、と思う。
話を終えて下がるように、と暇を出す、の二つを言い渡されて、それを受け入れた。禪院家を出てしまえば自由になれる。甚爾の側に居なくても、彼を見守る場所にいることはできる。そう思えば胸があたたかいもので満たされているのが分かった。
暇を言い渡された翌日にはなまえも禪院家より姿を消し、誰もその後を知ることはない。彼女が姿を消した禪院家では甚爾と駆け落ちするために出て行ったなんてささやかれていたが、当の本人たちがそれを知ることはなかった。

中学を卒業すると主に屋敷を飛び出していろんな女の元を転々とした。自分の顔がそういうことに使えると知らなかったので、最初の女に拾われたときにいろいろなことを学んだ。どうすれば女が喜ぶか、どういう女なら転がり込みやすいか、など人間として〝クズ〟と称されることも平気でやった。屋敷を出て思ったのは、自分のいた世界は案外狭かったということで。もっと早く飛び出していればよかったな、とも思った。
いろんな女のところを転々とし、たまたま知り合った呪術師の女からそういう関係の仕事を一度紹介してもらったことがある。その仕事が成功するなりそういう界隈からの仕事が増え生計が立てられるまでになった。呪力はないが呪霊を祓うことは可能なので、高専などの正規のルートで依頼することのできない仕事がすべて甚爾の元に回ってくる。呪詛師殺しもしたし呪術師殺しもした。それを悔いてはいないし、今の生きるためだけになんでもする生活は嫌いではない。あの家に居た頃よりは人間らしく生きているようにすら感じていた。
自分の人生で初めて愛したいと思える女に出会ったのはたまたまだ。変な男に絡まれているのを助けて、礼の代わりに何泊か泊めてくれ、と厚かましくお願いすれば快諾した不思議な女。今までの人生であまり関わることのなかった人種に面を食らう。いつまでもいればいい、という女はこれまでにもいたが、甚爾が任務で少しの間来なくなるだけで病むような女が多く、相手にするのも面倒になって大体そこで切った。携帯電話なども持ち歩いていない頃だったし、他人との縁を切るのは容易い。これまでの女とは違ってその女は何日も家に来なくなっても、再び現れた甚爾になんでもないようにおかえり、と笑って迎え入れてくれた。それがまるで今はもう離別してしまった女中の女を想起させられて、懐かしさと嬉しさが甚爾の心を満たした。
結婚するか、と言ったのは彼女のお腹に子どもがいると分かったときで。責任を取る、と言えば、甚爾くんそんな甲斐性あったんだね、と笑われたのは記憶に新しい。

「甚爾くん、甚爾くん宛に荷物だって」
「あぁ?」

結婚してしばらく経ち嫁のお腹もずいぶん大きくなって臨月までもうすぐ、と言った頃にそれは届いた。運送業者が持ってきたらしい荷物を受け取ったそれに書かれている宛名を確認すると、見覚えのない名前が書かれていた。瀬戸、とだけ書かれた苗字に違和感を覚えながら、おそるおそる届いた荷物を開けるとベビー服がいくつかと通帳が入っているの確認する。口座の名義は禪院甚爾となっていた。このときようやく送り主を確信した。もう一度送り状の文字を見ると確かに見慣れた女中の文字だ。荷物の奥には瓶に入った杜若の造花も入っていた。

「わぁ、かわいいベビー服とお花。もらっていいのかな?」
「あー、俺が世話になった人からだわ」
「そうなの?」
「最近連絡してなかったんだけどな」
「お礼言っといてね」
「ん」

幸せな日々だったと思う。そう、過去形だ。嫁との間に生まれた子どもに〝恵〟と名付けた。自分とは違ってどうかこいつがいろいろなことに恵まれた子になりますように、と願いをかけたと言えば、笑われるかもしれないが。それでもそういうクサい願いを我が子にかけてやりたくなった。愛おしい女との間に生まれた愛おしい我が子。いつかなまえにも見せてやりたかったな、と思う。
そんなしあわせにも終わりはやってくる。病を患った嫁はあっけなくこの世からいなくなってしまった。甚爾と恵を残して先に逝ってしまうこと何度も詫びて、それから最後に幸せだった、と言葉を残して息絶えた姿が今でも脳裏に焼き付いている。生きる意味を失ってその日暮らしをするので精一杯な中、残りの生活費を計算するために通帳の残高を確認した。甚爾がメインで使っている口座には五桁ほどの数字しか並んで居らず、そろそろ仕事を本格的に再開しなくてはならないだろうか、と考えつく。問題は仕事に行っている間の恵の世話なわけだが。もう少し大きくなればひとりで留守番させるなり、甚爾のことを気にかけてくれている隣の家の婆さんに預けるとかできるのに。
なんとなく、なまえから送られてきた通帳を記帳しようと思った。結婚祝いとしておそらく送ってくれたであろう甚爾名義の通帳には手を付けていない。つけてはいけないような気がしていた。送られてきたときでさえ七桁も数字が書かれていたのだ。あの家を出たときでさえ迷惑をかけたのに、これ以上迷惑をかけるのは気が引けたのが正直なところで。
ATMに突っ込んだ通帳が出てきて中身を確認する。気づかない間に振り込まれ続けていた金額に内心頭を抱えざるを得ない。瀬戸、という名義でずっと毎月一定の額が振り込まれ、受け取ったときは七桁だった数字が八桁に乗っていた。あいつは未だに俺に囚われているのだとすると、気の毒で憐れだと思う。恥を忍んで恵がそれなりに大きくなるまでは、なまえから届いた通帳の金を使わせてもらった。使ったのはあとにもさきにもその期間だけだ。

仕事の請負を再開したところでやってきたのは星漿体の暗殺の任務だった。一度だけ見に行ったことのある五条の坊にやられて、恵のことを頼んで、自分の生を終える間近に思い浮かんだのは嫁となまえの顔だ。最後まで、なまえには会いに行けなかったな、と思う。贈り物などは勝手に住所を調べて送りつけてくるくせに送り主の住所は毎回でたらめだったから連絡の取りようがなかった。そうするように最初に振る舞ったのは甚爾なので致し方のないことではあるが。今度こそ俺から解放されてほしいと思う。あんなにいい女だったのに、甚爾に人生を使っているなど申し訳ない。さっさと術師でも非術師でもなんでもいいから普通の男と幸せになってほしかった、と伝えればよかった。

依頼をしていた呪術師にその訃報を聞いたのは甚爾が亡くなった当日で。最後は仁王立ちのまま息絶えたそうで、術師としては立派な最期でしたよ、と語られても腑に落ちなかった。動物と視覚共有をできるという術式を持つ術師がいると聞いて依頼したのは甚爾の監視である。監視と言うと物騒ではあるが、実質は生きているか確認できればいいので報告は二週間に一度程度でお願いしていて。結婚したときや子どもが生まれたとき、奥方が亡くなったときなどはイレギュラーの出来事は早急に連絡をするように、という契約だった。甚爾がなくなったことで、今後の契約はどうしますか、という話で呼び出されて、現実を受け入れるのに時間がかかりつつも残った子どもたちが心配なので引き続きで、とお願いをする。契約内容と契約額を見直して再契約を結び、呼び出してきた術師の事務所を後にした。
平静を装うようにはしていたけれど、事務所を出て帰路についた途端、視界が滲む。とぼとぼと歩きながら地面を見つめていると、ぽとり、と滴がひとつ落ちた。それをきっかけにいくつもの滴がぽたぽたと水玉が地面を濡らしていく。

「あぁ、あなたはもうこの世にいないのね」

誰にも聞かれていない声はかすれていて、音にもならなかった。甚爾がいなくなってしまったことが、ひどく寂しく、ひどく虚しいと思う。
帰路をぼんやりと歩きながら、彼の人生を思った。蔑まれて嬲られて生きてきて、飛び出してからは幸せとまではいかなくてもそれなりに穏やかに過ごしていて、奥方に出会って恵が生まれてとてもとても幸せそうだったのが瞼の裏に焼き付いている。あのひともわたしと同じように生涯大事にしたい宝物が見つかった、とそう思っていたのに。奥方が亡くなって、今度は自身が死んでしまって、彼の上辺だけの人生を知らないひとはきっと不幸な人生だったと笑い飛ばすのだろう。そんなことありはしないのに。もうなまえしか知っている人間がいないかもしれないけれど、彼は確かにしあわせだったのだ。なまえが見ているだけで嬉しくなる程度には、しあわせそうだったのだ。
せめて甚爾の人生が意味のあるものだったと誰かに言ってもらえるように、彼が残してしまったものを代わりに見届けてもいいだろうか。きっと、彼が生きていたなら俺に縛られて生きるのはやめろ、と怒られていたかもしれない。けれど、死人に口なし。なまえは自分がやりたいようにやることにした。

五条に世話になるようになって、学校内でも不良として目立つようになった頃、恵のクラスに転入生がやってきた。中学三年生の夏に転校生だなんて珍しいな、と思っていると担任の教師が恵の隣の空いている席に座るように転入生に案内していた。指定鞄を掴んだまま黒板の前から恵の隣の空席にまでやってきたなまえは席に腰掛けながら恵に声をかける。

「あなたが伏黒くん?」
「おう」
「わたしはみょうじなまえ。よろしくね」

みょうじなまえという人間は恵と同じくすこし子どもらしくない子どもだった。かといって周囲に馴染めていないかと言えばそういうわけでもなく、女子生徒とは打ち解けていて他愛もない話を休み時間にしているようだ。なまえの子どもらしくない態度は大人っぽいお姉さんのようなそんなポジションをクラス内で形成しているように見えた。恵にとってただのクラスメイト。それだけだった。

五条が恵に稽古をつけたあとに学校の近況を一応保護者として聞くと、転入生が来たのだと言う。名前に聞き覚えがあるような、ないような、といった感じだったので伊地知に調べさせた。そしたらまぁ驚いたものだ。伊地知では当たり障りのないことしか出てこなかったわけである。しかし、最初に感じた違和感を見過ごすことができなくて家の力なども使って調べさせれば、一度目の驚きなど優に超えてきた。
蓋を開ければ元禪院家の使用人で、五条が殺した伏黒甚爾の女中。なんなら歳は五条よりもずいぶん上である。そんな女が恵の同級生として同じ空間で過ごしているわけだ。きな臭くて仕方がない。
行動に出るのは早かった恵になにか起こる前に、と思って学校終わりのみょうじなまえを取っ捕まえて五条の移動用の車の後部座席に乗せた。調査で出てきた写真と異なった姿に舌を巻く。六眼で彼女を見れば、なるほど自分の身体を弄れる術式らしいことが窺える。

みょうじなまえちゃんだっけ。初めまして、僕は――」
「五条悟でしょう。知っています」

伊地知に調べさせたときに回収できた写真では同級生たちと穏やかな愛らしい笑みを浮かべていたというのに、目の前の少女は淡々と冷たい表情を浮かべている。なるほど本性はちゃんと年相応の大人らしい。理由は想像がつくので五条からはなにも言わないが。

「術式なんて持ってたんだ。で、それを使ってまで恵のそばにいる意味がわかんない」
「貴方に分かっていただこうとは思っておりません」

問答を続けたところで平行線な感じが否めないのは気のせいではない気がする。五条からの問いをすべてシャットアウトしているようだ。詳細を話していないのに会話が噛み合っているということは、なにもかも察しているのだろう。しらばっくれるかと思ったが、そんなこともないので素直だと思った。

「恵を取り込むようにでも言われた?それとも僕への復讐?」
「いいえ?なにを勘違いされているのか存じませんが、わたしが恵さまのお側にいるのは甚爾さまの忘れ形見だからですよ」

予想していなかった方向からの回答に驚いた表情を浮かべてしまう。言い放った当の本人はなんでもないようにしれっとしていた。

「いつまで恵の周囲にいるつもり?」
「わたしが満足するまで」
「危害を加えるつもりはないんだよね?」
「当たり前でしょう」
「わかった。じゃあ僕も君のことは放って置くよ」
「是非そうしてください」

淡々と繰り広げられる会話に心地よさを覚えるな、なんて考えていたところで、ひとつ思い浮かんだことがあったので口にした。

「もうすぐ卒業じゃん。高校は高専にでも来る?」
「それもいいですねぇ。でも、そろそろお暇をいただこうと思ってますので」
「……禪院家からはすでにもらってるんでしょ」

今更誰に暇をもらうと言うのか。禪院家からも生家であるみょうじ家からも勘当同然の扱いを受け、生きていようが死んでいようがもううちの人間ではないので、と突っぱねられる人間に暇を出す人間がいるというのか。疑問が浮かんでは消えずに頭の中に留まる。

「この世からに決まっているではありませんか」

なまえは大層おかしそうに笑った。そして五条のことなどお構いなしに言葉を続ける。

「もし恵様になにかあったらあの世から呪い殺して差し上げますね、五条悟。ゆめゆめお忘れなきように」

うっそりと笑った彼女はまるで聖母のようだ、とこの場にそぐわないことを思う。話は終わったので失礼します、と言う彼女を車から降ろして伊地知に出すように声をかけた。流れる窓の外の景色を見ながら息を吐いた。冷や汗が背中に流れていることには気づかないふりをする。
恵の人生にふわりと現れた〝みょうじなまえ〟という女は気づけば割れたシャボン玉のように中学を卒業すると同時に消え去っていて、自分が話した彼女は幻だったのかと錯覚しそうだ。その後の彼女の動向を探ろうにもそれは叶わなかった。生きているのか、死んでいるのか知っている人間すらどこにもいない。