嵐山/君を感じられない神経系ならいらない

 たいせつなものをたいせつにしたいだけなのに、うまくいかないのは自身になにかが足りてないからだろうか、と悩みを迅に打ち明ければ、嵐山の顔を見てからすこしだけ考えたのちに、返事が返ってきた。

「今のままだと現状維持だと思うよ」
「じゃあどうしたらいいんだ」
「とりあえず、おまえたちに必要なのは仲直り、とだけ言っておく」

 なかなおり、と迅の言葉を自分の口で反芻する。そもそも、仲直りと言われても仲違いをしていた記憶がない。嵐山が気づかないうちになまえと仲違いしていたのだろうか。いつも通りに過ごして、いつも通りになまえに接していた記憶しかない嵐山は、頭を抱えることしかできなかった。

 嵐山准にとってみょうじなまえは家族の次に大事な人間だ、と思う。家が隣で、同い年で、同じ月の生まれ。違うのは性別くらいだった。そんな条件で親同士も子ども同士も仲良くならないはずもない。所謂、世間一般で言うところの幼馴染みとして、嵐山となまえの人生は交わっていた。
 しっかり者の嵐山に、すこしおっとりしているけれどやさしいなまえ、やんちゃな副と佐補で四人兄弟のような扱いをご近所さんにはされていて、そういう扱いを享受することには慣れている。
 そんな嵐山となまえの関係に変化が訪れたのは、小学校高学年が一度目だった。五年生にもなると周囲から嵐山がかっこいい、と評されることが増えて、日常生活でも行事ごとでも声をかけてくる人間が増えたように思う。嵐山はそれをさして気にしては居なかったが、なまえはそうではなかったらしい。
 いつものように教室に迎えに行って一緒に帰ろう、と声をかけるとなまえはなんとも言えない表情を浮かべて――あとから思い返せば暗かったかもしれない――、うん、と応えた。ランドセルを背負って嵐山と並んだまま下駄箱に向かい、靴を履き替えて帰路に着くために校門を出る。
 帰り道の途中にある土手で夕陽のせいかススキが橙色に染まるのを眺めながら、その日あった出来事を話していると、なまえが突然足を止めた。つられるように嵐山も足を止める。じっと見つめられるので同じように見つめ返すと、なまえがふっ、と視線を逸らしてからおずおずと口を開いた。

なまえ、どうした?」
「わたし、明日から准のこと、嵐山くんって呼ぶ」

 嵐山くんって呼ぶ、という言葉が、まるで異国の言葉のように聞こえたのは、嵐山自身が理解を拒んでいたからかもしれない。

「なんでだ」
「隣のクラスの子とか、同じクラスの子に言われた。付き合ってもないのに、仲良くするのはずるいんじゃないのって」
「俺となまえは家族みたいなものなのに」
「それを許してくれないひとも居るって話だよ」

 あまりに哀しそうに笑って言うので、嵐山は二の句が継げなかった。
 そのあとの帰り道は、いつも並んで歩いて帰っていたのなまえが人ひとり分の距離を空けて歩いてきたので、寂しいという感情が胸を過ったことを覚えている。
 嵐山もなまえもなにも変わらないのに、周囲の力で変わらなければならないのがひどく滑稽だと思った。
 
   §
 
 関係の変化の二度目だって、それなりに時間が経過しても鮮明に覚えている。あの日、なまえが学校に行くために朝家を出たところで、嵐山が捕まえにかかった。なまえは学校の人間に一緒にいるところを見られないようにするため、家を出る時間を嵐山とずらしていたが、お願いがある、と家の前で待ち構えて呼び止めたのだ。
 内容としては、帰りに副と佐補の誕生日が近いからとプレゼントを選びに行くのを付き合ってほしい、というもので。嵐山だけにプレゼントの選定を任せると大変なことになりそうだ――主に副と佐補が――と思ったので、なまえは渋々用件を了承した。
 放課後に駅で待ち合わせてから、近場のショッピングモールを見に行こう、と約束を交わす。
 授業を終えてそそくさと駅に向かった。待ち合わせ場所の駅の売店付近に到着すると、嵐山はまだ来ていなかったようで、携帯電話を鞄から取り出すと嵐山からメールが入っていた。先生に捕まってしまったので、十分くらい遅れるかも、という内容だ。彼は人が好いから、おそらく先生に面倒な雑用でも押し付けられてしまったのだろう。小さくため息を吐いて、そういうことを簡単に受けてしまう嵐山に呆れながら、彼がやってくるのを待つことにした。嵐山と合流して副と佐補のプレゼント選びをさっさと終わらせたい、なんて考えていたところで、頭上からパラパラと瓦礫の破片が落ちてくる。

「なんだろう、」

 頭上を見上げて呟いた瞬間、地震でも起こったかのように地響きで足元が揺れた。混乱した頭でどうにか逃げないと、と思考を巡らせていると、誰かの声があたりに響く。

「近界民だ! 逃げろ!」

 声の方向に視線を移せば、見たこともないような近界民がそこにはいた。ムカデのような、多足の化け物が目に入る。はやく逃げなきゃ、と思うのに、恐怖のせいで身体がいうことをきかない。
 なんでよりによって今日だったのだろうか。いつもであれば家にまっすぐ帰っているので、こんなことに巻き込まれることもなかったのに。

「運が、悪いなぁ」

 避難経路まで行くことは困難だと自覚して、なんとか近界民から姿を隠すように建物の奥に逃げ込んだ。壊された瓦礫の隙間に隠れて、近界民がいなくなるのを待つ。はやくいなくなって。いなくなれ、と何度も念じた。物音が遠ざかっていくのを聞き、ほとぼりが冷めるのを待つ。
 襲われることはもうなさそうなので、ほっと胸を撫で下ろしたときにそれは降りかかってきた。隠れていた瓦礫がバランスを崩れたらしく、そのままに圧し潰される。
 咄嗟に頭は避けたが、右手にひどい痛みが走った。

「じゅん、たすけて」

 反射的に漏れ出た声はとても小さくて、とても弱々しかった。薄れいく意識の中で嵐山になぜ助けを求めたのかは、自分でも分からなかった。

 目を覚ますと真っ白な天井が目に入って、次に視線を動かすと、右手に点滴が打たれているのが見えた。続いて周りを見ると、なまえが目覚めたことに気付いた母が看護師を呼びに行ったようで、病室を出ていく母の背中を見送る。母の背中が見えなくなってから、なぜ病院にいるのだろう、と考えたところで帰りに駅で近界民に襲われたことを思い出す。
 そうだ、彼と待ち合わせをしていて、待っている最中に地面が揺れたかと思うと、近界民の姿が目に入って、なんとか逃れたところで隠れ蓑にしていた瓦礫が降ってきて――どうなったんだったか。
 話を母や看護師から聞いたところ、二日ほど寝ていたらしく、主治医もすぐに駆け付けてくれて、身体のいろいろなところを検査される。検査の中で違和感があった。右手首から先がいうことをきいてくれない。指を曲げようとしても曲がらなくて、まるで手首から先が存在していない、みたいな感覚だった。検査を終えて病室に戻ってきて、動かない右手にどうして、と焦っていると、主治医は淡々となまえなまえの母に説明をする。
 詳しい内容はなまえの頭では理解するのが難しくて、よくわからなかったが、要は怪我をしたときに瓦礫の破片が指の神経を傷つけてしまって、もう神経はもとに戻らないらしい。発見も遅れてしまったことで、神経の修復も間に合わなかったそうだ。この話を聞いて呆然とする。
 ――呆然と、するしかなかった。
 今まで当たり前にあったものがなくなって、これからどうやって生きていけばいいのかわからない。困惑することしか今のなまえにはできなかった。

 嵐山がなまえの病室にやってきたのは、そんなことがあった翌日のことだ。
 見舞いに花を持ってきてくれたけれど、なまえがその花に触れることはなく、なまえの母が生けようと花瓶と一緒に持っていってしまう。
 ベッドの横の椅子に嵐山がゆっくりと腰を下ろす。こちらの様子を伺うように口がわなわなと動いているのを見て、言葉を選んでいるのが伝わった。

「具合はどうなんだ?」
「みぎて、」
「ん? 右手がどうした?」
「もう動かないんだって」

 なまえがいつも通りを心がけようとしていた表情が、固まったのが嵐山でもわかった。なまえも嵐山が今どんな表情をしているのかわかっていなさそうで。ただ淡々と、なまえが主治医から話を聞いたときと同じように、嵐山に自分の状態を説明する。

「もう治らないのか」
「無理だって先生は言ってた」

 そうか、といった声は気落ちしているように感じた。別に彼のせいではないのに。たまたま、あの日、あのタイミングで、なまえがあの場所に居ただけの話だ。運が悪かった、としか言いようがない。

「あのとき、俺が誘わなければよかったな」
「そんなことない。准と出かけるの、きらいじゃないよ」

 そう応えると嵐山は泣きそうな表情になってしまって、言葉を間違えたのだと察する。彼は責めてほしかったんだな、と気づいてしまった。それでもなまえは話を続ける。

「准のせいじゃない。わたしの運が、悪かっただけ」

 責めてあげられなくてごめんね。でも本心じゃないことをわたしは言えないよ、となまえが告げれば嵐山が睫毛で目元に影を落として、はらはらと涙を流した。ぽたぽたとしずくが落ちて彼のズボンを濡らす。涙でできていく浸みを見ながら、嵐山が泣いてる姿を見るのはいつぶりだろうか、なんて今考えるべきじゃないことを考えた。
 そんな彼の頭をなまえは左手で撫でることしかできない。なまえの母が戻ってくるまで、その時間は続いた。
 
   §
 
なまえ

 名前を呼ばれて右手を掴まれた、と気づいたのは嵐山となまえの距離が縮まってからだ。自分では気づきもしなかったけれど、どうやら顔色が優れなかったらしく、大丈夫か、と声をかけながらなまえの顔を覗き込む。その仕草にどきり、とするのはこの距離感にいつまで経ってもなれないからかもしれない。
 端正な顔が急に自分の視界のど真ん中に現れたら、脅してしまうのも仕方がないと思う。他の女子が同じことをされていたらきっと悲鳴を上げていると思う。
 中学はほぼほぼ他人のように接していたので、今更家族のような距離感になると、やっぱり動揺せざるを得ない。

「准」
「おまえの手は冷たいなぁ」

 そう言って笑う嵐山の顔を見るのがすこしだけつらくてかなしかった。

 広報活動だなんだと忙しいはずの嵐山は、気がつくとなまえのそばに居る。
 もちろんそういった活動をしているときはそばに居ないけれど、それ以外はずっと一緒に居るんじゃないだろうか、と思うほどだった。
 こうなったのはあの日、近界民に襲われて右手を負傷してからだ。
 嵐山がなまえに気をかける度に、なまえは申し訳ないという感情を覚えている。大学の日常生活に、ボーダーとしての生活、それだけでどれだけ大変だろうか。それなのに、なまえのことまで気にかけて、馬鹿なんじゃないか、と本人に告げたのは一度や二度どころではない。
 本人に言ったことはないけれど、なまえは嵐山と距離を置く前、彼と手をつなぐことが好きだった。自分より一回り大きい手のひらに自分の手のひらを包んでもらうと、とても安心できたのをずっと鮮明に記憶に残している。右手を嵐山と繋いで、空いた左手を副か佐補のどちらかと繋ぐ。どちらかに偏って繋いでしまうと、もう片方が拗ねてしまうので、そこは平等になるように心がけていた。拗ねている副や佐補はかわいいけれど、やはり笑っていてほしいと思うのだ。一応、血が繋がっていなくても彼らにとって良い姉でありたいとは思うので。
 自身の右手から感覚が失われてから、もう二年ほど経つけれどなかなか日常生活に慣れることができない。利き手は右から左になった。ご飯を食べることがあんなに容易かったのに、ちいさな子どもが一から箸使いを習うように、また一から物を扱う練習を始める。左手で箸やペンを使えるように地道に努力し続けて、形になったのは一年が経過するかしないかのことだったと思う。そうならざるを得なかった。とても時間がかかってしまった、と主治医に文句を漏らせば、この期間にここまでできるようになっただけえらい、と褒められ、高校生にもなって照れたことを覚えている。
 感覚を失ってからも嵐山はなまえの右手を昔と同じように繋いだ。握られている感触をなまえはもう感じられない。こんな右手要らないのに、とあの日からずっと思っていた。

「ねぇ准」
「なんだ?」

 手を繋ぎながら大学から家に帰っている最中、立ち止まって嵐山を呼び止めた。

「もういいよ」

 声は震えなかったと思う。なまえの内面に巣食っている感情をなんとか抑え込んで、淡々とただ用件を伝えるように告げた。余計な情報は今この場に必要ないのだ。

「なにがだ?」
「手を、繋いでくれなくて、いいよ」

 わたしと一緒に居てくれようとしてくれなくていい。准が忙しいのは知っているし、わたしも無理をして一緒に居てほしいとは思わない。だから、もうわたしのことは気にせず自由に生きて、とそう立て続けになまえがそう告げると、嵐山は驚いた表情をしたあとに悲しそうに笑う。

「俺は、なまえと罪悪感で一緒に居るわけじゃない」
「でも、もう准が繋いでくれる感覚もわからないのに、繋いでもらう必要はないと思う」
「嬉しかったんだ」
「え?」

 嵐山がまっすぐとなまえを見て笑った。その笑顔にはほんの少し薄暗い何かを感じる。言っている言葉の意味が分からなくて聞き返した。

なまえが怪我をして、感覚がなくなったと聞いて、おばさんになまえの日常生活をできるだけ助けてやってほしいと言われて、嬉しかったんだ。これでまたおまえと手を繋ぐ理由ができたって」
「准」
「これからもおまえの右手を、俺の手と繋いでいたいんだ」

 わからないけれど、きっと今右手は力強く握られているんだろう。嵐山がそんなことを思っていただなんて思ってもみなかった。おかしいかもしれないけれど、彼の言葉を聞いて嬉しいと感じてしまう。動かなくなってから初めて、この右手の存在を煩わしいと思わなかった。

「これで仲直りになっただろうか」
「准、どうしたの?」
「なんでもないさ」

 握っている手にもう一度力を込めて、手の中のぬくもりを確かめた。