なまえは朝から調子が悪かった。むしろ運が悪かったのは昨日の夜からなのかもしれない。昨日の下校中までは普通に動いていた自転車が、朝学校に向かおうと乗ったところで、タイヤが萎んでいるのがわかった。なんなんだ。壊れるなら昨日のうちに壊れて主張してくれたら、そのまま近所の自転車屋さんに修理に行けたのに。なんで朝にパンクしてるんだ。
恨めしい気持ちをなんとか抑え込んで、まだ大学に向かっていないリビングの兄に泣きついた。バイク乗りの兄は嫌がる素振りを見せつつも、バイクの後ろに乗せて学校まで送ってくれたので感謝している。お陰で皆勤賞はなんとか死守できそうだ。自転車がパンクしたからという大変些細な理由で自分の皆勤賞を棒に振るなんてことはしたくない。
兄のバイクが校門前に停められて、そこから下りて学校に到着したはいいが、問題がひとつ発生する。そう、帰り道のことだ。歩いて帰るにはかなり距離があるし、かと言って公共交通機関を使うと、家まで迂回しなくてはならないので時間がかかる。そういえば、昨日回覧板を持っていった際に幼馴染みの母が言っていたことを思い出した。彼は今日ボーダーが休みらしい。
窓越しに照りつけてくる太陽に恨み言を唱えながら、屋上で昼食を食べているであろう幼馴染みである荒船を階段を駆け上がって訪ねる。彼を捕まえなければ帰り道が憂鬱なものになってしまうので、確実に捕まえなければならない。
「てっちゃーん! 今日ボーダーある!?」
けたたましい音をさせながら屋上の扉を開け、目当ての人物を見つけたので入り口から動かずにそのまま声をかける。
近づいていくとまた太陽光のせいで日焼けしかねないから、ここから動きたくはない。そんなことを言えば数分で焼けるわけない、と幼馴染みは言うけれど、女子高生の美容事情に口を挟むな、と凄んだら口をつぐんでいた。夏の日差しは女子高生の大敵なのだ、と今後も教えこむしかない。
距離がある状態で話しかけているから、声が大きくなってしまうのは仕方がないことだ。教室で食べてくれていればいいのに、なぜか彼らは毎日屋上で食べることを好んでいた。周囲の視線が、みたいなことを言っていた気もするけれど、現実で聞いたのか自分の記憶違いなのかは定かではない。ボーダーの女子面子がこの場にいないことから考えるに、やっぱり女子は焼けたくはないのだろう。見事に男子勢しか屋上にはいなかった。全員まっくろくろすけみたいに焼けてしまえ、と怨念と内心に抱く。
「ねーよ! つか、てっちゃんって呼ぶな!」
いつもの呼び方をしただけなのに、お気に召さなかったらしい幼馴染みからの罵声が飛んでくる。
家ではてっちゃんって呼ばなきゃ反応しないくせに、何言ってんだテメェ、と思ったことは黙っておいた。お怒りの荒船サンはたいへん怖いのである。生まれてこの方何度やり合って何度負けたかは途中で数えるのをやめた。
「やったー! チャリのタイヤパンクしたから一緒に帰ろー!」
「なんでだよ。つーか俺今日チャリなんだけど」
「知ってる! ニケツして!」
「警察に見つかったら怒られるやつじゃねーか。てかお前朝はどうした」
「お兄ちゃんが送ってくれた!」
「あぁそう……」
帰りに迎えに来て、と兄に言うのはさすがに憚られたので今度は幼馴染みを頼るわけだ。彼が今日自転車で学校に来ていることは、彼の母親から聞いていた。これに頼るよりほかない。電車もバスも歩くのもいやだ。
「じゃあよろしくねー!」
ボーダー隊員が固まっているところに長居するのはきっとよろしくない、と判断して約束だけ取り付けてその場をあとにした。
背中越しに了承してねーよ、なんて声が聞こえてきたような気がするけど、そんなのは知らん。恨むなら昨日のうちにパンクしなかった自転車を恨んでくれ、と思いながら自分の教室に戻っていく。教室に到着するなりあんたの声うるさい、とクラスメイトに怒られたのは意味が分からなかった。
騒がしい幼馴染みが屋上からいなくなったかと思いきや、生暖かい視線が荒船に刺さっているのがわかる。影浦のような感情受信のサイドエフェクトを持っていたら、キレているところだろう。
突然乗り込んできた幼馴染みであるなまえに呆れつつも、ドアの向こうに消えた背中を思いながら手元の弁当に意識を戻す。朝は一緒に行くことがないので気づかなかったが、自転車が壊れたらしい。ボーダーに入隊してからは気を遣っているのかオフのときにくらいしか会っていなかったのに、突然強襲してくるくらいには切羽詰まっているのだろう。
なまえは毎日自転車通学だが、荒船は時たまといった感じだ。夜勤明けとかであれば、基地から直接学校に来たほうが早いし、学校に自転車を置いて帰るのもいやなので、防衛任務がある日は自転車に乗らない。家から学校の往復の場合は、自転車の方が利便性はいいので自転車で通っていた。
「荒船はてっちゃんって呼ばれているんだな」
「言わないでくれ」
一緒に昼食を食べていた蔵内が揶揄うように笑うので、それに手を振って抵抗を示す。
隣でニヤニヤと笑っている犬飼のことは無視しよう、と思ったところで距離を詰めてきて女のような高い声を出しながら絡んできた。はっきり言って鬱陶しいと思う。
「てっちゃーんさっきの女の子誰ぇ?」
「犬飼ウザ。別にただの幼馴染みだし」
「へーふーんそぉー」
幼馴染みは入口から身を乗り出して話しかけてきていただけなので、姿ははっきり見えていないと思う。おそらく日焼けするのがいやで、ひなたにいる荒船たちに近づいてこなかったのが推測された。この話に突っ込むと、またうだうだと謎の女子高生理論を説かれるのでそれは回避したい。
「あの子、学年五位の子じゃないの」
「あぁ、そういえば確かに。どこかで見たことあるような気がした」
なまえは案外校内で顔が割れていたらしい。勉強ができるようには見えないタイプなのに、荒船よりもかなり成績がいいのはなまえの親経由で自分の親が教えてきたので知っていた。自分では要領がいい方だと思っていたが、なまえはそれ以上によかったらしい。正直、詐欺だと思ったのは一度や二度どころではないのだ。
「勉強できても馬鹿は馬鹿なんだよ」
「ふーん。あ、幼馴染みの余裕ってやつ?」
んなわけあるかよ、と犬飼に言葉を返せば、したり顔で笑っていた。腹が立つな、と思ったのは黙っておくことにする。手元の残っている弁当に意識を戻して残りのおかずと米を食べ切ることに専念した。
§
授業と帰りのホームルームを終え、真っ先に荒船のクラスへと向かえば、そこには昼に見たボーダー隊員に囲まれている幼馴染みの姿があった。
近寄りがたいなぁ、なんて思っていると、同じクラスの犬飼に手招きをされて、ボーダー隊員の輪に混ざる。知らない人が多いなぁ、なんてことを考えた。
「幼馴染みなんだって?」
「うんそうだよー」
「なんか荒船にこういう幼馴染みいるって聞いたらなんかしっくりするわ」
「わかる」
「もしかしてわたしバカにされてます? これでも学年十位以内だぞ」
自信満々な顔で言い放つと知ってる、なんて異口同音に応えられて、思わず引いていまう。
なんで赤の他人の順位を覚えてるんだ、ボーダー隊員仲良すぎないか、なんて思っていると、ガタンッと大きな音を立てて荒船が椅子から立ち上がった。スクールバッグを右手にひっつかんだ状態で、空いている左手でなまえの右手を掴まれる。
「じゃあな、おまえらもさっさと帰れよ」
「お、お先でーす」
荒船のクラスの教室をあとにして、廊下をふたり並んで歩いていく。いつぶりだろうか、なんて些細なことを考えた。小学生の間はよく手を繋いでいたと思う。なまえが迷子になることが多く、逸れないようにと親たちに言われてことあるごとに手を繋ぐようになっていた。教室があった三階の廊下から階段を下りて昇降口に到着する。なまえの靴箱に向かって中を開けて下履きを取り出し、上靴から白地に黒のラインが入ったお気に入りのスニーカーに履き替えた。荒船が誕生日プレゼントに、と買ってくれたものだ。
ふたり並んだまま昇降口から自転車置き場に移動すれば、見慣れた黒のママチャリが見える。中学のときから愛用しているそれを新しいクロスバイクなどに乗り換えないのか聞けば、お前が後ろに乗れなくなるだろ、と言われたことが嬉しかったのは未だに覚えていた。そのあと、兄に二人乗りをすると警察に怒られるぞ、と教えてもらったけれど。
なまえのためになにかしてくれようとする彼が好きだし、それに応えられる自分で在りたいとはずっと思っている。乗り慣れた黒のママチャリの荷台に跨いで乗ろうとすると、荒船から待ったの声がかかった。
「なに?」
「お前今日スカートだろ。跨ぐのはやめろ、跨ぐのは」
「えー。下に見せパン履いてるから大丈夫だよ」
「いいから。横向きで乗れ」
「バランス取りづらいのに」
うだうだと文句を連ねていると、置いて帰るぞ、と凄まれたので、おとなしく荒船の指示の通りに荷台に座る。やっぱりバランスはよろしくない。サドルに座った荒船がぐいっとこちらの腕を引いて、そのまま彼の腰元を掴まされる。
「てっちゃん?」
「しっかり掴まっとけよ」
「はぁい」
ペダルを踏むと同時に前進していく自転車の振動を感じながら、移り変わっていく景色をぼうっと眺める。遠くの空を眺めてはあの雲の模様が犬みたいだな、なんてことを考えた。そういえば犬が嫌いな自転車を漕いでいる彼は、未だに犬が苦手なのだろうか。それとも克服したのだろうか。自分の知らないところで克服していたら寂しいな、と思った。
ボーダー隊員に囲まれて、その中心にいた幼馴染みの姿がなまえの知らない姿に見えて、靄のようなものが心を鈍らせているように感じる。荒船がボーダーに入ってもなまえと幼馴染みにであることに変わりはないのに。
胸の内の靄を晴らしたくなって、彼の腰に回していた腕の力を目一杯強くし、ぎゅーっと抱き着く。
「てっちゃーん! すきー!」
「知ってらぁー!」
勢いよく告白をすれば、いつものことだがつれない返事を返された。
ひとひとりが抱き着いてもぶれない体幹と程よくついた筋肉の触感に自分の知っている彼とすこし変わってしまったのだと実感する。
それが寂しい、と思うのはきっと烏滸がましいことなのだろう。
クラスの女子が言っていた。荒船は犬飼たちと違って性格もいいし、頭もいい、ボーダーでも指折りの技術があるとかなんとか。そんなこと、彼女たちが話に出すまで知らなかった。荒船はなまえの幼馴染みで、しっかり者で、迷子になったら探しに来てくれるような、そんな男だ。凝り性だからきっとボーダーでもなにかしらを極めているのだろう、とは思ったけれど、それでも噂をされるほどとは思っていなかった。
時間の経過というのはよくもわるくも変化というものをひとに与えてしまうのだ、と再度確認する。変わってしまっても、幼い頃のまま荒船のことが好きだけれど、だんだんと想いを告げることに躊躇を覚えてきた。いつまで、幼馴染みというポジションに甘えて、我が物顔で彼の隣にいるつもりなのか、と、見えない自分が囁いてくる。
「てっちゃん、好きだよ」
さきほどとは打って変わって、荒船には聞こえない声の大きさで気持ちを伝えた。きっと自転車を漕いでいる風で聞こえていないだろう。いつまでこのままでいることを許されるのだろうか、と考えるたびに、いつか終わりが訪れることを自覚させられて暗い気持ちが顔を出した。
「来週の月曜」
「ん?」
「来週の月曜、なまえのチャリ貸せよ。運転は俺がしてやるから」
「えー。てっちゃんサドルの高さ上げて戻さないからやだ」
「お前のサドルの高さが低すぎるんだよ」
「標準だよ」
おどけたように笑って背中にぐりぐりと自分のおでこを擦り付ける。少し前まで感じていた靄がいなくなったような気がした。このまま今の時間がずっと続けばいいのに、なんてどうしようもないことを想う。