バケツをひっくり返したような雨どころではない、所謂豪雨というレベルの雨が目の前には広がっていた。
折り畳み傘を持ってきてはいたものの、つい先日やってきていた台風の日に無理に差して帰ってしまったせいで壊れたのか、うまく開くことができない。こんな日になんで、と思わなくはないが、朝の天気予報を最後まで聞かなかった自分が悪いのだろう。なんなら幼馴染みの人見がすれ違いざまに大きい傘を持っていきなよ、と言ってくれていたような気もする。あのとき、おざなりな返事をしてしまったことに対する罰だろうか、なんてことを思った。どうやって帰るか悩ましい。
職員室に行って貸出用の傘を借りようと職員室に向かえば、今日はもう傘の貸出は上限に達してしまい終了してしまった、と学年主任の先生が申し訳なさそうな表情を浮かべて言うものだから、おとなしく引き下がってしまった。友達が残ってないか探してみます、なんてあてもないことを言ってその場をあとにしたことを後悔している。仲がいい友達なんてみんなもう帰ってしまっていることを知っていたからだ。
奇跡でも起こらないかな、と思って一応メッセージアプリで友人たちとのグループトークに誰か傘入れて、なんてメッセージを残しても、みんな既読無視かゴメンとスタンプを押してくるだけで。こんな時間まで宿題をするために残っていたなまえが悪いのだろう。
親に迎えに来てもらおうか、とも考えたが、そういえば昨日の夕食時に今日は会議があるから遅くなるの、と言っていたことを思い出した。
なにはともあれツイていない。
人見から無事帰れたかどうかの確認の連絡が来ていたけれど、言うことをちゃんと聞かなかった手前、だめでした、と言うわけにもいかなくて返信をできずにいた。
ああ、情けない。目の前のどんよりとした空模様を昇降口の窓越しに眺めながら、なまえの心もどんよりとしていくのを感じた。
「おいなまえ」
「…………ユキちゃん」
「それで呼ぶなって」
「ごめんね、奥寺くん」
ひんやりとした昇降口の框で自分の顔を腕で覆いながら、しゃがみこんで途方に暮れていると、頭に何かが乗ると同時に声をかけられる。すこしぶっきらぼうな声に、途方もないと思っていた気持ちがどこかに行ってしまって笑いそうになった。
なんでいるんだろう、とか、なんでここに居るのを知ってるんだろう、とかそんなことを考えているところに、こちらの考えなどお見通しだと言わんばかりに奥寺が話し始める。
「摩子さんが、おまえからの返信がないから、まだ学校なら見に行ってやってって」
「摩子ちゃん……」
どうやらなにもかもお見通しだったのは人見だったらしい。あとでちゃんとメッセージに返信をしようと思った。
「帰んぞ」
「奥寺くん、傘あるの?」
「摩子さんが大きいの持っていきなって言ってたからな」
親のでかい傘借りてきた、なんて自信満々に言う奥寺にやっぱりしっかりしているなぁ、と感じる。いい加減ななまえとは大違いだ。
人見の言うことを素直に言うことを聞いておけばよかったな、と反省する。
スポーツブランドのロゴが目立つエナメル製のショルダーバッグを肩からかけた奥寺に自分のバッグは濡れないように持てよ、なんて声をかけられて帰る準備をするように急かされた。
荷物は全部ここにあるし、あとは靴をローファーに履き替えるだけだ。今日に限ってメッシュ製のリュックで登校してしまった朝の自分を恨む。
靴を上履きから履き替えてリュックは自分の前に来るように背負った。
準備が整ったことを告げれば、奥寺は昇降口を出たところの屋根がある場所で音を立てて傘を開く。彼が普段使っている傘よりも一回りは大きくて、余裕のあるそれの中に手で呼ばれて招き入れられた。
従うように傘の下に入れば、肩がぶつかるほどの距離にお互いがいることに気づく。こんなに近くを歩いたのっていつぶりだろうか。ふと、そんなことを考えた。奥寺が小学生に上がったころ、運動もできるし人望もあったからか、彼の周りはひとがいた印象がある。同じサッカー少年たちに囲まれて和気あいあいと話していて、近寄りがたかった。
「肩とか濡れても知らないからな」
「入れてもらえてるだけありがたいから大丈夫」
「んじゃ、行くか」
「うん」
傘の小間部分に水滴が落ちてはボタボタと激しく音を鳴らす。歩くたびにローファーの中には水が入り込んできて、靴下がびしょびしょになっていくのが感覚で分かった。帰ったら真っ先に足を拭いてお風呂コースだな、なんて当たりをつけつつ隣をちらりと見ると、奥寺はスマートフォンでメッセージかなにか連絡を取っているようだった。きっとボーダー関係なのだろう。
人見と奥寺がボーダーに入ると聞いたときはとても驚いた。しっかり者の摩子ちゃんに、これまたしっかり者のユキちゃん、そしてのんびりしすぎていてどこか抜けているなまえ。
ご近所さんにはよく三人でひとまとめにされたものだ。今では生活リズムも変わり、関わり合いも少なくなったので――特に奥寺とは――現状の変化が嘘みたいだなぁ、と他人事のように思った。
「今日、おばさんたちは?」
「仕事で遅いって」
「帰ったらひとりか?」
「うん。でもいつものことだし大丈夫だよ」
帰路までの道を歩いていると奥寺が話しかけてきた。今更ひとりであることを心配されるような年齢でもないし、急にどうしたのだろうか。
奥寺や人見がボーダーに入る前であれば、彼らの家にお邪魔して食事を共にすることもあったけれど、流石になまえだけでよその家に厄介になるほど、神経は図太くないつもりだ。
高校生になって家事も少しずつ覚えてきたし、料理も作れるレパートリーが増えてきた。なまえしかいないときは、もっぱら作るのが簡単なインスタントではあるが。今日もたしか冷凍庫に冷凍のスパゲッティが入っていたので、それを食べるつもりである。
「うち、来れば」
「え、いいよ。悪いし」
「今更母さんは気にしないと思うけど。今日カレーって言ってたし」
「おばさんに悪いからいいって」
別に一人増えたところであんまり変わんないって、なんて言いのける奥寺の言葉をどう躱すか必死に思考を巡らせて考える。けれど、いい方法はなにも思いつかなくて困った。本当に、ひとりで大丈夫なのに。
強かった雨が少しだけ弱まって、さきほどよりもやさしくなった雨音だけが隣の彼となまえを包んでいた。まるでふたりきりの世界みたいだな、と的外れなことを考えて意識を奥寺からずらす。
「ユキちゃ……じゃなかった、奥寺くん」
「……家の近くまで来たから、いつもの呼び方でもいい」
「ふふ、なにそれ」
年頃の男の子は難しいのよ、なんて言っていた人見の言葉が頭の中に浮かんだ。中学校に上がってから奥寺は外で〝ユキちゃん〟という呼び方を許してくれなくなって。その変化を真っ先になまえたちの姉的ポジションである人見に愚痴ったのだ。そのとき返された言葉がずっと喉にひっかかった魚の小骨のように胸に引っかかっていた。
家に着くまでの短くはない帰り道を二人並んでゆるゆると歩いていく。雨は強くなったり弱くなったりを繰り返していた。前に抱えたリュックサックはずぶ濡れにはなっていないものの、ほどほどに濡れている。
下校時刻から外れた時間だったことと、こんな雨の中ということもあって周囲に人の姿はない。
「あーあ。大雨じゃなくて普通の日にユキちゃんと帰りたかったなぁ」
「オレはいやだけどな」
「知ってる」
戯けながらそういうと奥寺もわかってる、とでも言いたそうな表情で笑う。
「今日みたいな突発的な豪雨って積乱雲が原因らしい」
「ユキちゃん突然どうしたの、頭でも打った?」
「おまえ、頭叩くぞ」
「痛いからいやです」
「今日の地学の先生が言ってたんだよ。積乱雲って雲の中では雲の粒が凍って氷の結晶になってて、夏でも氷点下なんだって。地上の温度が暑いから雨として降ってきてるけど本当は雪らしい。だからある意味これも夏の雪なんだと」
唐突に始まった蘊蓄にどうしたものか、と思ったが聞いた話を自分の中で噛み砕いて思い浮かんだことを言葉にする。
「じゃあわたしの隣にはユキちゃんがいて、今一緒に雪を見ているんだね。わたしは〝ゆき〟に囲まれてるわけだ」
「……そうかもな」
自分から言っておきながら、我にかえったらしく恥ずかしそうに耳を赤く染めている姿が目に入る。ロマンチストみたいなことを言うのならば、急に冷静な状態に戻らないでほしい。
なんとなく気恥ずかしい気分のまま歩いていると、ようやく見慣れた住宅街が視界に映り込んだ。もう家の近くまで到着していたらしい。久しぶりに一緒に帰る帰路はすこしだけ楽しかったかもしれない、なんて思う。
自宅が近づくごとに早く家に帰ってさっぱりしたい、という気持ちがどんどん溢れた。靴下を真っ先に脱いで脱衣場に行ってタオルで足を拭いて、それからお風呂を沸かして、待っている間に汚れた床をぞうきんで拭いて、また脱衣所に戻ってもろもろを洗濯機に突っ込んでしまいたい。
そんなことに思い馳せていると隣を歩く奥寺が足を止めた。つられるようになまえも足を止める。
不思議に思って彼の表情を見ようと視線を動かせば、遮るように目の前に彼の愛用のスマートフォンの画面を差し出される。そこには彼の母親の名前が表示されているメッセージアプリのトーク画面が表示されていた。
彼の母からはひとりらしいから、なまえを呼んでいいかという内容が記載されていて。
それに対して勿論大丈夫、こちらから親御さんには連絡しておく、という内容の返信が記載されている。
事後報告なんて策士だなぁ、と思ったことは黙っておきたい。
「母さんが、ひとりでご飯食べるなら来いって」
「おばさんがそこまで言ってくれるなら、ぜひ」
「ちゃんと来いよ」
「お風呂入ってからになるけど」
「それでもいいって」
言葉の応酬をしているといつの間にか自宅の玄関まで送られ、中に入るところも見送られる。どこかこそばゆい気持ちを感じつつ家の中に入り、さきほど考えていたことを実行した。
制服を風通しのいいリビングに置いているランドリースタンドにかける。次に荷物の水気をタオルで吸収したあとに自室に持っていった。リュックサックを開けて、少し水気を含んだ教科書を学習机の上に並べる。明日の朝には渇いて居ればいいけれど。
お風呂が沸くのを待っている間に、学校に居たときに返し損ねた人見からのメッセージに返信をすると、そんなことだろうと思ったよ、と愛らしいスタンプと一緒に即座に返信が届く。
相変わらずよくわかってらっしゃるなぁ、と感心していると、手に持っていたスマートフォンが震えた。メッセージアプリから通話がかかってきているようで、呼び出し人はさきほどメッセージを送ってきた本人で。慌てて通話ボタンを押して呼び出しに応える。
「もしもし?」
「なまえ、常幸と帰ってきたんだって?」
「もう筒抜け?」
可笑しくなって自分の声が笑ってしまっていた。それに気づいた人見も笑っていると分かる声色で話を続ける。
「うちの親たちの間で隠しごとなんてないでしょ」
「確かに。摩子ちゃんごめんね」
「ん?」
「傘持ってけって言ってくれたのに」
「まぁ、あんたどこか抜けてるしね、そんな気はしてた」
「えへへ」
「はいはいかわいいかわいい」
今日は幼馴染みたちからの関わりが多いなぁ、なんて思っていると、電話の向こうで人見がふふ、っと息を漏らして笑う。
「なに、摩子ちゃん」
「今日も幼馴染みたちはかわいいなって」
「なにそれ」
「これからご飯でしょ? ちゃんと温まってから行くんだよ」
「はぁい」
本当になにもかも筒抜けだな、と再確認してから通話を終了した。見計らっていたかのようにお風呂が沸きました、と給湯器から音が鳴る。奥寺の家に行くことを考えて、Tシャツとジャージを引っ掴んで風呂場に向かった。
じっくり風呂に浸かり身体が温まったのを実感したので、そのまま上がって持ってきていたTシャツとジャージに着替えた。洗面所で髪の毛をドライヤーでゴーっと風を当てて乾かす。
身なりをある程度整えて、さぁ奥寺の家に行くか、と意気込みつつリビングのドアを開けると、ソファで寛いでいる奥寺の姿が見えた。
視線が交わるなり文句の言葉を投げつけられる。
「なまえ遅い」
「遅くなーいー。というかユキちゃんいつの間に入ってきたの」
「さっき。危ないから鍵ちゃんと閉めとけよ」
「お風呂入ったの?」
「おまえと違って長くないから」
「はいはい、髪が長くてごめんねー」
「母さんが楽しみにしてるから迎えに行けって」
「自分で行ったのに」
「うるさいのから逃げてきたから気にしなくていい」
「ふふ、やさしいねー」
揶揄うような視線を向けてそういうと、頬を掴まれてしゃべられない状態にされた。抵抗するように口を動かしても、ひよこみたいにひよひよと動くだけだ。
「バカ面」
楽しそうに笑う奥寺を見ていると、行くか、と先を歩いていくので戸締りのための鍵とスマートフォンだけを持って自分の家をあとにする。
玄関を出たところで雨が降っていないことに気づいた。さっきまであんなに降っていたのに。
「どうした?」
「雪、止んじゃったなーって」
厚い雲に覆われた真っ暗な空を眺めていると、手を繋がれてそのまま彼の家に向かって歩いていく。久しぶりに食べる彼の母の作るカレーが、楽しみでしょうがなかった。
歩いて奥寺の家に到着して家の中に招き入れられ、玄関を開ければもう一人の幼馴染みの姿が見える。驚きのあまり目を大きく見開いているのが自分でもわかった。
「摩子ちゃん」
「やっほー。おばさんに誘われて来ちゃった」
「母さん、摩子さんまで誘ったんですか……」
「相変わらずかわいいひとだよね、常幸のお母さん」
「それをオレに言われても」
他愛もない話に胸がじんわりとあたたかいなにかが湧いてくる。昔はこれが日常だったのに、日常じゃなくなってしまったことをすこし寂しいと思った。なまえ、と名前を二人に呼ばれて意識を向けると、奥寺と人見が手を差し出す。手を取ることを躊躇しているとなまえの手を掴まれて、奥寺の家のリビングに連れて行かれた。
リビングに顔を出せば奥寺の母が、数日前にあった姿と変わりなくにこやかな表情を打浮かべて迎え入れてくれる。口元だけで笑う姿は奥寺が笑っているときにそっくりだなぁ、と幼いながらに思ったことを覚えていた。
奥寺が先にリビングのソファに座って、人一人分のスペースを開けてその隣に人見が座る。なまえも人見の隣に座ろうとすれば、奥寺と人見が彼らの間にあるスペースを手でぽんぽん、と叩いた。間に座れ、ということらしい。この並び、久しぶりだなぁ、なんて思っていると、人見が昔みたいだね、と言って穏やかに笑みを浮かべた。こうやって笑いあえることを幸せだなぁ、と思いながら、奥寺の母が包囲してくれたカレーがちょうど運ばれてきたので、意識をそちらに集中させる。