その微笑みに意味などなかった。
佐鳥はただいつも通り三門市民であるイベントの参加者に微笑み、手を振っただけだ。アンチボーダーをなるべく生み出さないために、予防線として矢面に立たされ広報部隊として存在する嵐山隊にとっては任務のひとつだった。
広報イベントというのは、小さい子どもが居る親から中年よりも上の層をメインターゲットにしている。若い女の子というのもそれなりに多いが、彼女たちのお目当ては隊長である嵐山やどこかミステリアスな雰囲気を醸し出す時枝だということは、佐鳥でもわかるのだ。先輩である出水におまえって損してるよな、なんて言われたのは学校の屋上で昼食を共にしていたときのことである。
少し距離が置かれる二人に比べて親近感が湧く、と言われながら接触されるのが佐鳥のポジションだ。ふたりはくん付けで呼ばれる中、佐鳥は呼び捨てで呼ばれることが多い。それもある意味では好意を持たれているということなのだろうが。
学校生活で例えるならば、クラスのカースト上位にいるのが嵐山。クラスのカースト中位にいるけど上位の人間からも一目置かれるのが時枝。佐鳥は上位も中位にも顔が利くカースト下位の人間である。
そんな佐鳥に最近固定のファンがついた。珍しいこともあるんだな、ととても驚いたので、認知してからしばらく経った今でも彼女との出会いを覚えている。ふわふわしてそうな黒のジャンパースカートに袖にフリルのついた白い薄手のブラウス、足首にレースのあしらわれたピンク色の靴下に、エナメル製のぴかぴかした黒のパンプス。嵐山のファンでよく見るような女の子が、佐鳥の目の前に立って顔を赤くして手紙の入っているであろう封筒を差し出してきていた。
「あ、の、これ……ッ」
差し出された淡いピンクの封筒の宛名には〝佐鳥賢さま〟という丸っこい女の子特有の文字が並んでいる。真っ先になにかドッキリだろうか、と思ったことは未だに謝りたい。
相手がうつむいているおかげで茶髪の頭のつむじがよく見える。毛先はくるくると巻かれていて、愛らしい印象を受けた。封筒を持つ指先が震えていることにようやく気づいて――佐鳥自身もテンパっていたのかもしれない――、慌てて手紙を受け取る。ありがとう、とありきたりな返事を返せば目の前の女の子はぐん、と顔を上げた。そこで初めて目の前の女の子の顔が見える。
上気して赤に染まっている頬に目が潤んでいて、この子はほんとうに自分のファンなんだ、と思ったと時枝に言えば、賢は気づいてなかったけどオレも嵐山さんも結構前から気づいてたよ、と笑う。
佐鳥からしたら最初の出会いのあとも、何度も佐鳥に会いに来た彼女は自ら名前は名乗ろうとはしなかった。しかし、手紙の差出人で名前は確認している。どこかで見たようなことがある気がするが、気のせいかもしれない。
固定ファンというのがあまりつかない佐鳥は、彼女への接し方をその道のプロである嵐山に聞いて対応するようにしていた。ありがとう、と言うのは忘れない。会話は時間が許すようであれば、なるべく続くように話すと吉。飲食物や高額なプレゼントを手渡してこようとしたら、それは規則で禁止されているから、と断るように。それくらいだったと思う。けれど、教わったことで実践しているのは頭の二つだけだ。こう言ってはなんだが、彼女は見た目のわりに慎ましい女の子で、嵐山たちが警戒していた迷惑行為が行われることはなかった。余計なことで気を揉んでしまったな、と思ったけれど、良識のあるファンがいてくれることを有難く思う。
§
学校生活というのはボーダーの広報活動から切り離されたところにあるので、家や隊室に居る以外の時間で唯一息をつける時間でもあった。学校での成績は赤点少し上を綱渡りしているくらいで、ほかは凡庸な学生と変わらないだろう。多少成績が悪くてもボーダー忙しそうだもんな、と見逃されたことも何度かあった。時枝はちゃんと高得点を取っているので、佐鳥のは甘えでしかないかもしれないが。ギリギリだろうがなんだろうが、進級ができたらそれでいいのが正直なところである。
「佐鳥くん、先生が呼んでたよ」
三時間目が終わったあとの教室で、前の席に座る半崎と先日発売したゲームの話で盛り上がっていると、クラスメイトの女子に話かけられた。どの先生か問えば数学の教師だと言う。そこまで聞いて、待ってもらっていた課題をまだ提出していないことを思い出した。ただでさえ待ってもらっている状態だと言うのに、すっかり忘れていたなんて言えない。早急に出さないとやばい、と焦りで思考がうまくまとまらなくなっている。早く出すためには課題をやらなきゃいけないけれど、肝心のノートは白紙状態だ。
「半崎、先週の数学の課題って」
「オレ昨日出したからノート手元にない」
「うわー! やらかした……どうしよう」
頼みの綱の半崎に甘えられなくて絶望に飲み込まれそうになっていると、声をかけてきた女子がおずおずと声をかけてきた。
「あの、わたし早めに出したから、もう戻ってきてて。手元にあるし、見せようか……?」
「いいの!?」
自分で思ったよりも大声が出て、半崎にさとけんうるせー、と罵られる。救世主が現れて大声を出すなと言われる方が無理な話である。目の前のクラスメイトが女神にしか見えなくなった。なんなら後光まで差している気がする。ありがたさに半泣きになりつつ拝み倒していると、自席に行ってノートを取ってきた彼女がピンクのノートを差し出してくれた。仰々しい動作でそれを受け取って何度もお礼を言う。
「まじでほんとうにありがとう」
「いいよこれくらい。佐鳥くん、ボーダーで忙しそうだもんね」
「え、いや、そんなことは……」
自分の怠慢さで引き起こされたことのため、やましさを感じて思わず言い澱んでしまった。半崎は横でこいつの自業自得、なんて言っているのが聞こえたが無視する。確かに自業自得だけれども。
この間、商店街でイベントしていたのを見かけたよ、なんて小さく笑いながら言われて少し恥ずかしさを覚える。クラスメイトにいわゆる余所行きである顔を見られたと思うと、気恥ずかしいのだ。一応広報部隊としての顔と学校にいるときの顔は自分の中で別物なので。
「終わったら返してくれたらいいよ」
ノートを残して彼女は自席に戻り、次の授業の準備をしていた。手の中のピンクのノートを改めて仏を前にしたときのように拝んでから開かせてもらう。女子らしい丸みを帯びた数字が並んでいるのが目に入った。どこかで見たような気がするけれど、彼女と会話らしい会話をしたのは今が初めてだと思う。既視感にひっかかりを覚えながら佐鳥は自分の席に着いてノートを引っ張りだし、数式をどんどん写していった。借りたノートはとても分かりやすいもので、彼女自身、間違えた箇所はなぜ間違えたのかも記載している。それを読んでいるだけで佐鳥も頭がよくなっていっているような気がした。実際は別に頭がよくなった訳ではないだろうけど。
しかし、どこかに違和感がある。文字がどうにも見慣れている感じがしてならない。彼女とは特に関わりがあったわけでもないのに、不思議だなぁ、と思った。よく目にする綾辻や木虎の文字に似ているからかも、と思ったけれど、二人の筆跡を思い返せばそうでもない。ノートの表紙に書かれていたみょうじなまえという名前を口の中でなぞってみる。違和感だけが残って不思議な気持ちになって終わった。
「うーん、なんだろ」
「さとけんとっとと写せよ」
「写す、写す」
複写の手が止まったところで半崎がプレッシャーをかけてくる。そうだ、今の佐鳥には時間がない。手をひたすらロボットのように動かし続けて、写し終える頃には四時間目が始まるチャイムが鳴った。
数学の教師に持っていくのは昼休みになってからでもいいだろう。なんとかなりそうな現状にほっと安堵の息を吐いていると、ノートを貸してくれたなまえがこちらを見ていることに気づいた。両手を合わせてお礼を伝えるために拝むと、困ったように笑って、口をぱくぱくとしながら右手を振られる。口の動きから察するに気にしないで、と言ってくれているようだった。
四時間目が終わって昼休みが始まった瞬間、全力ダッシュで数学の教師に課題を提出できたので、無事危機は逃れることができたようだ。さっきのなまえにお礼をしようと思って自販機に向かう途中、なまえが友人と中庭で昼食を取っている姿が目に留まった。お礼のジュースはなにがいいか聞こうと話しかけるために近づいたところで、聞こえてきた話に足が止まる。
「佐鳥くんにノート貸した!?」
「う、うん」
「は、え、なに、やば。私が見てないところで超がんばったじゃん」
「未だに心臓痛い……」
「嵐山隊の広報イベントのときも同じこと言ってない?」
「何回行っても慣れないよ」
やっぱり佐鳥くん格好いいんだもん、と恥ずかしそうにしている顔が見えて、こちらの顔まで熱が集まって赤くなった気がする。会話から察するになまえは何度か広報イベントに来てくれているらしい。あんな子いたっけ、と来てくれたファンの女の子を思い出しながら、ひとつだけ思い当たることがあった。いつも来てくれている茶髪のなまえが思い浮かんだのだ。
そういえば、ノートに書かれていた下の名前と手紙にひらがなで書かれている名前は読み方が同じだった。点と線が繋がったように感じる。学校で見かけるなまえは校則をきちんと守って髪の毛を結んでいて、眼鏡をかけているし気づかなかった。まさか、あの子がクラスメイトだったとは。
身近にファンがいてくれるのは嬉しいと思いつつ、佐鳥のだらしないところも知った上でファンになってくれていることがさらに嬉しいと思った。嵐山が以前ぼやいていたが、大学で柿崎や生駒と話しているところに割って入ってきたファンの女子が、お道化ている嵐山を見てイメージと違った、なんて言ってきたこともあるらしい。自分もそんな目に遭ったらどうしよう、と思ってあまりイメージを壊すことがないように行動していたつもりだが、そもそもその必要はなかったようだ。
佐鳥の日常生活に割り込んでくるわけでもなく、ただ純粋に応援をしてくれているなまえの存在が嬉しいと思ったし、これからもファンを大事にしようと思った。
二人が話している場から離れ、自販機コーナーで適当にいちごミルクを買ってノートと一緒に返そう、と意気込んで食堂の自販機コーナーに向かう。
ブリックパックのいちごミルクを購入して、教室までに戻ってくるまでの道中で時枝に呼び止められた。
「賢」
「とっきー」
何事かと思いきや、作戦室で行う予定ミーティングを十八時から十九時にする、という用件だった。嵐山が大学で教授に捕まってしまったそうだ。メッセージアプリのグループで連絡があったそうだけれど、佐鳥の既読がつかないのを心配して直接言いに来てくれたらしい。三時間目以降数学の課題のことでいっぱいになっていて、すっかりスマートフォンを確認するのを忘れてしまっていた。
「ごめん、ありがとう。とっきー」
「いいよ。ちょうど見えたから捕まえられたし」
手間をかけてしまったこの謝罪とお礼を言えば、許されたので佐鳥の周りは人がいい人間が多いなぁ、と思う。時枝が腕の中のジュースを見て不思議に思ったのか、あれ、と言いながら話題を変えた。
「賢、いちごミルク買ったの? 珍しいね」
「あぁ。これは、お礼」
「お礼?」
「ノート貸してくれた子への」
「なるほど」
「あ! そうだ! とっきーあの子!」
「あの子?」
手に持ったいちごミルクを眺めながらさっき知ったことを時枝に教えれば、あぁ、やっと気づいたの、なんて感情の伺えない表情で淡々と告げられる。
「知ってたの!?」
「まぁ、賢と一緒にいるときよく視線感じるなぁ、と思ってたし」
「雰囲気とか全然違ったのに!」
「でも顔はちょっと化粧してるけどあんまり変わらなくない?」
「えぇ……もっと早く教えてよ……」
気づかない賢が悪い、と一蹴されてしまえば、それ以上何も言えなくなってしまった。それはその通りである。けれど、佐鳥からすれば、女性の化粧など綾辻や木虎など元から整っている人間がさらに整えるところを見るくらいだったので、女性の化粧についてあれこれの理解があるはずもない。
「彼女自身、慎ましくファン活動したかったっぽいし、賢も気づいてないし。放っておいてあげた方がふたりのためかなって」
「そうだけどさぁ」
「気づいたところでなにかが変わるわけじゃないし、いいんじゃない?」
「それは、まぁ」
時枝のクラスから顔を出した彼のクラスメイトが次化学に変更だって、と声をかけてきたことで、会話は強制終了されてしまった。とにかく今日のミーティングのこと伝えたからね、と時枝は佐鳥を見捨てて教室に戻っていく。その背中を見送りながらうだうだとぼやいてしまいそうになるのを我慢した。
汗をかき始めたいちごミルクを早くなまえに渡してしまおう、と足早に自分の教室に戻ることにする。
ノートを借りたあとすぐにあった広報活動のイベントになまえはいつも通りやってきた。今日も髪の毛を巻いてかわいらしいフリルのワンピースにつやつやしたエナメルの靴できた彼女は、後ろに控えている友人――先日なまえと話していた友人だ――に応援されながら、震える手を差し出してくる。今日はなぜか握手オーケーなイベントで、さきほどから佐鳥も小さな子どもや子どものお母さんと握手をしていたところだった。あまり長い待機列が出来上がらないので列が捌けると大体休憩時間にしたり、遠目で見ているひとに声をかけたりしている。ここ最近の佐鳥の列の最後はだいたい彼女だった。
「そろそろ認めてくれますか」
貴方のファンとして、という真っ赤にした顔を隠さずに聞こえた震える声への返事は決まっている。答えと一緒にこの間みょうじさんのノート貸してくれてありがとう、と言ってもいいだろうか。そんなことを考えながら震えるその手を取ってぎゅっと強く握った。