諏訪が初めてその女を認識したのは、大学構内にある数少ない喫煙所で定期的に顔を合わせる男の隣に立っていたときだ。男の腕に自分の腕を絡ませて、なまめかしく寄りかかっているのが目に止まった。
喫煙所を利用するカップルは少なくないが、その場合どちらも喫煙者ということが多い。それなのに、目に止まった女は煙草を吸うこともなくただ男にもたれ掛かっていただけで。片手でスマートフォンを弄りながら、意識は男の方に向いているようで、ときたま話しかける男に反応を示していて、勝手な感想ではあるが男に依存していそうなタイプだな、と思った。
いちゃつくなら家でやれや、と声に出さずに内心で文句を言う。決して僻んでいるわけではない。そう、目に余るからそう思っただけで、先月別れた彼女のことなんて全然ひきずっていない。ボーダーと私どっちが大事なの、って詰め寄られて別にどっちも大事でいいだろうがよ、と返したらこっぴどく振られただけだ。ボーダーで活動することで、ひいては彼女の身の安全を守っていることに繋がるのに、なぜわかってもらえないのか。なお、同じ理由で木崎も振られていたので胸がすっとした。自分だけでなくてよかったという安堵だ。風間のことは知らん。雷蔵は一年のときから付き合っている彼女がいることは知っているので除外する。
いちゃつくカップルに当てられて気分が悪い、と思いながらも、口に含んでいる一本を吸い終わるまでこの場から移動するつもりはなかった。最近ようやく吸う銘柄が落ち着いたから、じっくり味わいたいのだ。最初はメビウスから始まって、セブンスターにマルボロ、ハイライト、キャメルなんかにも挑戦した。最終的にはセブンスターに落ち着いたわけだが。ボーダーに行けば大半が未成年なので、香りがきついものなどを吸っていると小佐野や笹森が嫌な顔をするから、彼らの反応を見て決めた。キャメルなんて吸った日にはめちゃくちゃ嫌そうな顔をした小佐野と笹森が見られたので、それはそれで面白かったとは思う。しかしさすがに隊長として、隊員にそういう顔をさせる香りのものを常飲するのはよくないと判断した。
堤は最初から分かっていたようで、そこに落ち着くと思いましたよ、なんて笑われたのは記憶に残っている。
大学という空間の中では周囲に気兼ねなく吸うことができるので、正直ボーダーにいるときよりも吸う本数が多くなっている自覚があった。
休み時間の度に、とは言わないが、教室などが近く移動時間がそんなにかからないときは、たとえ短い時間でも喫煙所に来ている。隙あらば吸うのはどうなんだ、と風間と木崎に言われたがそんなものは無視だ。
憩いの空間であるはずなのに、今こうしていちゃいちゃと目の前で繰り広げられて、イラつかないはずはない。ただ、相手は一般人だし自分の心が狭いだけなので我慢はする。肺に吸い込む煙の量を増やしてさっさと吸いきってしまいたいと思った。
下品に笑い声をあげるカップルの男にデリカシーがねぇなぁ、なんて他人事のように思っていると、その隣を陣取っている女の視線が諏訪の方に向けられる。ぱちり、と交わる視線になんとも言えない気持ちになって、不自然にならないように視線を逸らして明後日の方を見た。煙草のシガレットペーパーも残りわずかになっているので、あと少しこの憂鬱な空間を我慢すれば、この場を後にできるはず、とあたりをつける。
ようやく吸い終わるころ、諏訪のスマートフォンが震えた。誰かがどこかで見ているようなタイミングの良さだ。パンツの後ろポケットに入れてあったスマートフォンを取り出し、指紋認証を済ませて通知の内容を確認すると、沢村からシフトの変更の連絡が来ていた。明日入っていた防衛任務を明後日にずらしてほしい、というものだ。明後日に防衛任務を入れていた嵐山隊が広報の仕事が入ってしまったので、明日任務の諏訪隊と入れ替えたいとのことだった。念のため堤と小佐野と笹森に連絡をするとすぐに返信が来て、みんな入れ替えは問題ないらしい。その旨をそのまま沢村に返信する。
連絡の対応が終わってスマートフォンの時刻を見ると、次の授業が始まるまであと五分、といった時間だった。まだ吸える煙草の火を泣く泣く消して、喫煙所に備え付けられている灰皿に吸いさしの煙草をつっこむ。ジュッと音が鳴ったことを確認し、火が消えていることを確認した。たまに煙が付いたまま放置しているやつもいるけれど、そういうのは気になってしまう。
次の授業がすぐ隣の棟の一階でよかった、と心底思った。喫煙所から出る際に、視線を感じて見られている方向を見ると、先ほどの女が未だに諏訪を見ている。なにかした覚えもなにかされた覚えもないので放って置くことにした。
足早に次の授業が行われる隣の棟の一階にある大教室へ向かう。
例のカップルはそのあとも何度か喫煙所で見かけた。その度に女の方に見られているような気がしたが、何か起こるわけでもないので素知らぬふりをしていた。諏訪が主に授業を受ける校舎内では三か所しか喫煙所がないため、出会わないというのは難しい話なわけで。たまに視界に映り込んでくる女の視線に居心地の悪さを覚えながら、諏訪は煙草を吸いながらゼミのことからボーダーのことまでいろいろなことに考えを巡らせる。
特に関わり合いもなくこのままただ同じ空間にたまにいる人間、という立ち位置からお互い変わることはないと思っていた。――そう、過去形だ。
変化は突然やってきて、やましいこともないのでなにも感じていなかったが、よくよく考えるとよくなかったかもしれない、と時間が経ってからわずかな後悔が胸中に浮かぶ。
それが起こったのは何度目かの遭遇のときで、彼女はいつも伴っている男が側に居らずひとりだった。珍しいこともあるもんだ、と思って一瞬だけ彼女を見て、そのまま喫煙所の定位置に立って煙草を吸おうとポケットからハードボックスを取り出し、一本口に咥えたところで、動きが止まる。ポケットにライターが入っていなかった。一〇〇円均一のショップで買ったものなので、落としたり失くしていてもなにも痛手はないが、今この瞬間これから吸うぞ、と意気揚々としたタイミングでライターがないのはきつい。どこに忘れたっけな、とライターを忘れてきそうな場所の記憶を掘り返す。作戦室に忘れたかと思ったが、それなら鍵を閉めるときに堤か笹森が教えてくれるはずだ。そうでないなら、と思ったところで答えが見つかった。帰る前に冬島と東に呼び出されて冬島の作戦室に行ってそこで何本か吸っている。おそらくそのときに置いてきてしまったのだろう。家には家で使用するためのライターがあるので気づかなかった。やっちまったなぁ、と思いながら、どうしたもんか、と考える。口に咥えているのを戻すのも惜しいし、すでにヤニ切れで吸いたい気持ちしか今の諏訪にはない。
喫煙所を見ると諏訪と女がふたりだけ。彼女といつも共にいる男が居れば、まだそちらに声をかけられたのに、と名前も知らない顔だけ知っている人間に恨み言を思う。仕方ねぇ、と意気込んで女に諏訪から声をかけた。
「なぁ、火貸してくんね?」
声が上ずったりしていないだろうか、と自分が若干緊張していることに気づいた。今まで彼女と自分の間にあった均衡を崩してしまった、というよくわからない焦りがあったかもしれない。
「ん」
そっけなく差し出されたライターを借りて火を付けようと、煙草に近づけてライターの着火レバーをカチッと押す。火は点かない。自分の押し方が悪かっただろうか、ともう何度かカチカチ、と押しても、うんともすんとも言わず一向に火が付く気配がなかった。オイルタンクの中が少量になっているから、もしかしたらオイルが切れているのかもしれない。渋々、目の前で吸い続けている女になぁ、ともう一度呼び掛かけた。
「点かねぇんだけど」
「は、だるいな。顔貸して、」
「あ?」
文句を言いつつライターを返そうとすると、女は不機嫌そうにしてから流れるように諏訪の胸倉を掴んでぐいっと引き寄せた。
呼吸がわかるほどに近づいた距離にどきり、とする。あとすこし距離を詰めれば唇が触れ合いそうだ、なんてこの場に相応しくない考えが頭の中を通り過ぎた。はらり、と髪の束が落ちてくる。
何度かブリーチしたと思われる明るすぎる茶髪はほどほどに痛んでいて、自身も金髪に染めて久しいので親近感を抱いた。
お互いが口に咥えていた煙草の先端を引っ付けて、火が移るのを待つ。少しすると諏訪の咥えている煙草から煙が出始めた。
「これでいいでしょ」
「お、おー。サンキュー」
「いいえー」
普段からだるそうにしている女の表情がいつもと違うように考えたのは、さっきあんなことがあったからだろうか。思ったより、穏やかな表情をするもんだ、と思った。いつもは不機嫌そうに、だるそうにしていて、よく共にいる男に笑顔を見せているのも見たことはない。案外思ったような女じゃないのかもな、なんて関係のないことを思う。
せっかくなんかの縁だし、と思って話かける。別に話が続かなかったら続かなかったでそれでいいと思ってのことだ。
「今日はいつもの彼氏いねぇの?」
「あぁ、あのひと」
「彼氏だろ? マルボロのブラックメンソール吸ってるやつ」
「どうなんだろうねー」
あたしもよくわからんのよ、なんておどけて言う姿にかける言葉を諏訪は見つけらなかった。ふーん、と当たり障りのない返答をすることが限界だ。
そもそも喫煙所で煙草を吸っているのを初めてみた、と思う。吸っているのはハイライトだった。男の付き合いで喫煙所に来ていると思ったが、そうではなかったらしい。
もらった火を有難く享受して煙草の美味さを味わっていると、軽快な音楽が諏訪と彼女の間で流れた。目の前の女が煙草の火を消してスマートフォンを鞄から取り出して、液晶をタップし耳にあてる。聞き耳を立ててはいけない、と思いつつも聞こえてくる内容から推測するに、いつもの男から電話らしい。
通話が終わるなり彼女は火を消した煙草を灰皿に入れる。それからなにを思ったのか諏訪の方を見て声をかけてきた。
「じゃあね」
「……おー」
諏訪の返事を聞くと満足そうに笑って、それから颯爽と喫煙所から出て言った。どういう意図があったのかはわからないが、彼女との初めての会話はそんな感じで終わったのである。
そのあと、彼氏だと思っていた男の方とは相変わらず喫煙所で出会うが、彼女の姿を見ることはなかった。
あんなに感じていた視線を感じなくなると、せいせいしたようなそうじゃないような、なんとも言えない気分である。男の方は彼女が来なくなって少し経ってからまた別の女を連れてくるようになったから、まぁそういうことなのだろう。大学生の惚れただの腫れただのはひとによってはえげつない速度で動いていくものだ。諏訪には適用されないけれど。
彼女のことなど記憶から薄れ始めた頃に、東に教えてもらった大学の近くの喫煙可能な喫茶店にやってくると、久しく見ていなかった姿を見つけた。外見がブリーチで痛んでいた茶髪から派手なブロンドに変化している。まるで自分の髪色みたいだと思った。なんの因果か店員に彼女が座るカウンターの隣の席に案内され、なんとなくきまずいと思う。アイスコーヒーと東がおすすめだと言うオムライスを注文した。手持ち無沙汰な状態でスマートフォンを起動して連絡が来ていないかを確認する。こういうときに限って急ぎの連絡がないからタイミングが良くない。どうしたもんか、と考えあぐねていると、隣に座っている彼女がなんでもないように声をかけてきた。
「久しぶりー」
「おー」
「最近全然見ないね」
「おまえが喫煙所来ないからだろ」
「だって遭遇したくないもん」
どうやら元カレ――と言っていいのかどうかはわからないが――と遭遇したくなくて、姿を見なくなっていたらしい。一度口火が切られてしまうとそのあとはもう普通に会話が続いてしまった。
話を聞けば元カレと別れた時点で一度煙草を吸うのを止めたらしい。喫煙所に行くのも苦痛だし、ということで。その話を聞いて諏訪は思わずいやいや、とツッコミを入れた。
「吸ってんじゃねーか」
「だって口寂しいんだよ」
不味いキスに慣れてたしね、と過去のことなどどうでもよさそうに軽快に話す彼女に面を食らう。すでに彼女の中であの男は完全に過去になっているらしい。女の彼氏の回転率の速さは女性同士の会話の話題の変化並みに早いと感じた。勿論この女に限っての話だが。
「もったいねぇな。やめたまま居たらよかったのに、戻ってきちまって」
「煙草吸ってるとさ、あのひとより、きみのこと思い出しちゃって」
「はァ?」
「なんとなくきみにもう一回会えたらなーって思ったから」
「……それはありがとうって言ったほうがいいのか?」
「さぁ?」
楽しそうに笑う彼女に魔性さを感じながら、それに対して悪い気がしないからもうだめだな、と思う。またここで落ち合おうよ、なんて笑いながら、スマートフォンを差し出してきて、流されるままに連絡先を交換した。QRコードを読み込んで表示された連絡先には〝なまえ〟と苗字はなく名前だけが表示されていて、そこで初めて目の前の彼女の名前を知った。
「これから仲良くしてね、すわくん」
無邪気に笑いながらそう言い放つ彼女が、結局吸っているのは前に見かけたハイライトではなく、元カレと同じ銘柄であるマルボロのブラックメンソールなことには気づかなかったふりをした。
お互い自己紹介をして学科の話をする。なまえは見た目が派手に見えて教育学部だと言うのだから、面を食らう。こんなにきれいなブロンドの髪の教師がいてたまるか。
「ゼミの先生とかに怒られねぇの?」
「ぜんぜん。わたし、教授のお気に入りだし。さすがに教育実習になったら真っ黒に染めるよ」
そんなもんか、と納得できたようなできないような感想を抱いているところで、先ほど注文をしたオムライスが諏訪の目の前に置かれる。ほかほかと湯気が出ていて、美味しそうな香りも嗅覚を刺激して空腹だったのを思い出した。手を合わせていただきます、と挨拶をしてからオムライスと一緒に置かれたスプーンに手を伸ばす。スプーンで一口大すくってそのまま口に運ぶ。美味しい、と真っ先に思った。さすが東おすすめの店だと思った。伊達に長年大学に居ないな、と感心する。
「すわくんオムライスおいしい?」
「おー」
「わたしも今度来たときに頼もうかな」
「そうしろそうしろ」
そこで一口あげようかって言ってこないのがすわくんのいいところだね、なんてなまえが可笑しそうに笑って言う。隣に居る女の男性遍歴が垣間見えた気がした。
「生憎、自分の食いかけを付き合ってもない女に食わせるほど、だらしなくないんでよ」
「そういうところすきだわ」
ふざけているんだろうな、と思いながら、どうも、なんて返事をするくらいしか諏訪にはできなかった。