水上/ガラスの靴は捨てておいてね

 生駒隊の作戦室の定位置で、スマートフォン片手にぽちぽちと何かをしている生駒を尻目に、詰将棋の問題集を眺めていると、生駒が水上を呼んだ。近づいていけば、生駒のスマートフォンを差し出されて画面を見せられる。
 どうやらニュースサイトを見ていたようで、画面には女子の画像と記事の見出しが表示されていた。
 関西の女流棋士である女子高生が最年少最多勝利記録更新まであと一歩、という内容の記事だ。女流棋士の名前は水上が何度も呼んだ名前が書かれている。

「水上見てみ。お前と同い年の女の子やって」
「はぁ」
「すごいなぁ。記録更新まで目前やと」
「言うて女流棋士の中での話でしょ。そんくらいみょうじには余裕ですよ」
「なんや知り合いか?」
「同じ将棋会館に通ってただけですって」

 画像の女――みょうじなまえはつい数年前まで自分の隣を歩いていた女だ。出会ったときは身長が同じくらいだったのに、小学校高学年で抜かされ、中学二年でなんとか抜き返した。中学を卒業する頃には水上の肩ほどの身長になっていて、よなまえ女の旋毛を見ていたことを記憶している。
 出会ったときのことは鮮明に覚えていて、関西圏で毎年行われている子ども将棋大会に参加していたとき、決勝戦で何度も戦ったのがなまえだ。女だからと最初はすこし舐めていたため、呆気なく負けたのを覚えており、そのときに感じた悔しいという感情も一緒に覚えている。
 その次の年もその次の次の年も決勝戦で戦うのはなまえで、流石に二年目以降は手を抜くことをせず水上が圧勝していた――と言いたいところではあるが、実際お互いの棋力は拮抗していて、負けたり勝ったりを繰り返していた。
 大会に出ればお互いがいて決勝戦でぶつかる。それを繰り返していくたびに、距離が近くならないわけがなかった。先に距離が近くなったのは付き添いの母親同士だけれど。
 気づいたら親同士がつるんでいて、それに合わせて水上も彼女と一緒になることが多かった。幼少期の水上からしたら、なんでライバルとつるまなければならないのか、と苛立ちを感じたものだ。
 大会に小学生ひとりで行かせるよりはふたりで行かせたほうがいいし、水上の母も彼女の母も稀に土日に仕事が入る職種であったため、水上となまえプラスアルファでどちらかの母親がついてくる、という方式を取るようにしていたようだ。
 小学生の身分であるのでそれに対して文句は言えない。会場に送ってもらえるだけ、ついてきてもらえるだけでもありがたいのだ。

「敏志はなんで将棋始めたん。他のことも卒なくできそうやのに」
「祖父ちゃんが将棋好きでな。オトンはこういうの苦手やから俺に仕込んで覚えただけや。なまえは?」
「わたしも似たようなもん。お父さんが将棋好きでな」

 そんな話をしたのは出会ってからしばらく経ってからのことで、あまり自分から話を振らないなまえから珍しく話を振ってきたと思う。面を食らって目を見開きながらも、質問に答えてやれば彼女は満足そうに笑った。

「笑ってればおまえもかわいらしいのにな」
「褒めてもなんも出ぇへんで」
「褒めてへんわ。調子乗んな」

 ぎゃはは、と口を大きく開けて笑うなまえは、いつまでも変わらないなと思った。歳を重ねる度にすこしはしおらしくなるかと思いきや、そんな気配はまったくない。なまえの中身は小学生から成長していないのではないか、と水上は踏んでいる。そうでなければ外見はまぁまぁかわいらしいし、異性にも声をかけられているのに、彼氏ができない意味がわからない。
 つかず離れずの関係でいて、周囲に冷やかされることもままあったけれど、なまえと水上は〝友人〟というよりも〝戦友〟と名前をつけるのがしっくりくる関係だった。
 奨励会に入会したのも同じタイミングで、切磋琢磨する関係を戦友以外どう形容するのか水上は知らない。
 なまえは入会して少し経つと、年配者からそれだけ強いんだから女流に行けば一発で一番だよ、なんて善意に見せかけた悪意を浴びせられていて。その光景を見るたびに会話を終えたなまえを会館から連れ出して、駅前の全国展開しているバーガーショップに行った。
 水上はコーヒー、なまえはジンジャエールを飲みながらフライドポテトを口に入れて憤慨する彼女を宥めるのは、水上の役目である。

「なーにが女流なら一番じゃぼけ!」
「どーどー」
「ほんまあのジジイもともと好かんかったけど、もっと嫌いになった! わたしのこと馬鹿にしとる!」
「せやな。あ、ナゲットのソース余ったからやるわ」
「やった。バーベキューソース好き」

 ソースを目の前に差し出すと、彼女の手元に残っているしなしなになったフライドポテトをソースにつけて食べ始めた。
 無事に気は逸らせたらしい。赤いバーベキューソースをナゲットに付けて口に運ぶ姿は昔と何も変わらないな、と思う。

「敏志はええよなぁ。あんなこと言われへんもん」
「まぁまだ女性棋士が生まれるには難しい時代やとは思うわな」
「ロートル共とっとと引退したらええねん」
「無理やろ」

 ぱくぱくといつ休憩しているのかわからないペースで、ハムスターのごとくフライドポテトを食べる姿を眺める。先週に食べすぎたから太った、痩せるなんて喚いていた気がするが、いつものことなので知らないふりをして、指摘はしないでおいた。

「なぁ、」
「ん?」
「一緒にプロ棋士なろな」
「おー」

 高尚な目標を水上に強要するなまえに閉口しそうになるけれど、こういう時間が水上は嫌いではなかったのだ。

 
   §

 冬の寒さが頬を刺して痛いくらいだったのを覚えている。例年よりも下がったと気象予報士に評される気温の中、将棋会館から駅までの帰り道をふたり並んで、色違いのマフラーをしながら帰るのはもう何年も続いていた。はじめはカップルか、なんておちょくってきた周囲も水上となまえがセットなのは今更だと認識し始めると、あとは煩わしさのようなものはまったくなく過ごせている。
 色違いのおそろいのマフラーを与えてきたのは自分たちの母親で、あんたらニコイチなこと多いしええやろ、なんて言って渡されたそれを大人しく巻いていた。学校が同じわけでもないのでマフラーのことで揶揄われるのは将棋会館の中だけの話だし、揶揄ってくるのも年上の奨励会の面子くらいなので放っておく。一度も対局で勝てていない相手に噛み付くほど馬鹿ではないのだ。

「敏志、将棋やめるってほんまなん」
「おん」
「なんで」
「なんやスカウトされて遠くに行くことになった」
「はぁ? どこに行っても将棋会館あるやろ」

 直接伝える前にほかの人間から聞いたらしく、対局が終わるやいなや捕まった。
 いつものように並んで駅まで歩いていくけれど、隣をちらりと見ると彼女の目が威嚇する猫のように釣り上がっていて、あぁ怒っているな、と思う。
 強気な視線に焼かれてしまいそうや、なんて柄にもないこと考えながら返せた反応はへらりと笑うくらいで。それが癇に障ったらしい目の前のなまえが苛ついているのがわかる。
 表情豊かなのはいいことだが、対局中はもうすこしポーカーフェイスできたほうがええぞ、と内心で呟いた。
 改札に入ったところで足を止めて理由を説明する。

「スポーツ特待みたいなスカウトやから、将棋できる時間なんてあらへんわ。寮にも入るし」
「……一緒にプロ棋士になろ言うたやん。約束、破るん」
「ごめん」
「わたしが大人に女流棋士の道を勧められても、女性棋士になりたいからって断ってたの知っとったくせに」
「ごめんな」

 責め立てるように言葉を向けてくるなまえにできるのは謝罪だけで、それが気に食わなかったらしく目の前で感情が爆発したのを感じた。
 怒髪天を衝く、と言うのはこういうことを言うのだろうな、と思いつつ現実から目を背ける。

「敏志なんてもう知らん! どっか行ってまえ!」

 なまえがつけていた揃いのマフラーを顔に投げつけられて、そのせいで視界が塞がれた。走り去っていく足音だけが聞こえて、だんだん遠のいていくのがわかる。
 ホームまで送ってやれなかった彼女が、最後にどんな表情をしていたのかは水上にはわからない。泣いていたのかもしれないし、泣いていなかったかもしれない。無事に家まで着けていたらいいが。
 マフラーは回収して母親にでも預ければいいだろう。定期的になまえの母親と自分の母がお茶会をしているのは知っている。
 三門市に向かう準備をしながら、ついでにいい機会だと断捨離していると部屋の中がかなりすっきりした。棋譜などは祖父に全部譲って、部屋に残る将棋関連のものは子ども将棋大会のトロフィーと折り畳み式の将棋盤だけになってしまって。足付きの将棋盤は元々祖父のものを借りていただけなので、それは返して持ち歩き用に使っていた将棋盤をどうしようか、と悩む。
 マグネット式のそれは小学三年生のときにクリスマスプレゼントとして、両親と祖父にもらったものだ。
 次になまえに会ったときにサンタに貰ったんや、と自慢しようと意気揚々と大会に向かえば、まったく同じものを彼女ももらっていて、お互いの家族が一緒に買いに行き、自分たちに与えたのだと知ったのはそのあとのことである。
 新天地に向かうと言うのに、どこか暗い気持ちになってしまっている自分には気づいていて、そして母親もそれには気づいていた。

「敏志、あんたちゃんとなまえちゃんとお別れしたん」
「将棋やめるとは言うた」
「そう……。ほんまにあんたがボーダーに入りたいなら止めへんよ。でも、将棋やめるん後悔してへんの」
「しとらん」

 正直な話、限界だったのだ。奨励会に入会して対局をこなして、最初は勝てていたのにどんどん勝てなくなって上にあがっていけなくなって理解した。自分はプロ棋士になれるほどの才能がない、と。悪くない頭は、正確に未来のことを描いてしまったのだ。なまえはまだいい。女流棋士になることを受け入れられたら、まだ棋士という職業に付くことはできる。水上はリーグを上がっていかなければ、棋士になることはできない。潰しがきかないのだ。
 将棋をすることを応援してくれていた家族は、二十代や三十代でプロ棋士になる人だって少なくないのだから、納得できるところまでやってみたらと言うけれど、水上は納得した上で将棋から離れてボーダーに入ることを選んだ。
 この街から遠いところにある、知ってる人などいない土地で、見たこともないような化物と戦う。新しいなにかを始めたり、見つけたりしなきゃいけないと考えていた矢先にスカウトの声をかけられてちょうどいいと思った。
 夢中になれるかわからないけれど、希望があれば退隊も可能だそうなので、環境をがらっと変えるのもひとつの手だと思ったのだ。
 ボーダーがどういった組織でどういう活動をしていて、なぜ水上がスカウトされたのか、今後の生活はどうなるのかなど、スカウトの担当者は懇切丁寧に水上にも両親にも説明してくれた。出来高制とはいえそれなりの金額が入ると聞けば、下手にアルバイトをするよりも効率が良いように感じたのもひとつの理由である。

「俺の折り畳みの将棋盤、」
「うん?」
なまえにやっといて。要らんって言うたら捨ててええから」
「何言うてんの」
「ええねん。俺はもうやめるから」

 あとマフラーも一緒に返しといて、と言葉を添える。
 折り畳んだ将棋盤の間に柄にもなくひとつの短いメッセージを書いた付箋を挟んだ。
 母親に渡したそれがいつなまえの手元にの届くかはわからないし、そもそも届かないかもしれない。
 地元を出る日、中学の友達などそれなりの人数が見送りに来てくれたけれど、なまえは来なかった。
 そんな気はしていたし、最後の挨拶はメールで済ませてあるので問題はない。最後くらい顔を見たかったな、と思わなくはないが、向こうが水上の顔を見たくないだろう。それくらいには彼女を傷付けた自覚はあった。

 
 過去の思い出が脳内に浮かんでは消えてを繰り返して自分の中に消化されていく。
 懐かしいけれど自分が知らない姿をしているなまえの姿を眺めてから、記事を頭から読んだ。当たり障りのない解答ばかりで、猫を被っているな、なんて思いながら最後の解答に目が止まる。
〝ずはり、勝利の秘訣は?〟
〝やっぱり対局相手の研究や過去の棋譜の研究あるのみ、ですね。あともうひとつ。もう奨励会を辞めてしまった友人からてっぺん取れよと言われたので。その言葉に励まされてここまできました。応えられるようがんばりたいです〟
 記事の締めにはそんなことが書かれていて、自分の愛用していた将棋盤が一度は彼女の手元に届いていたことを理解した。
 そうなければこんな解答は出てこないだろう。
 ボーダーに来てから将棋に触れることを遠ざけていたけれど、久しぶりに向き合うのもいいかもしれない、とそんな気にさせられた。
 給料ならそれなりにあるので、あの日置いてきてしまった将棋盤を買い直そう、そう決めてスマートフォンは持ち主である生駒に返す。
 生駒はなにか聞きたそうにしているけれど、気づいていないふりをして黙殺した。