王子/ガラスの靴は用意しておいたよ

 たまたま橘高の家の近くを通る用事があったので、本部に行く前に一緒に行くかどうか聞いたところ、ちょうどたくさん貰い物のジュースがあり、作戦室に差し入れようと思っていたから荷物持ちをしてほしい、と言われた。
 普段から世話になっているから快く了承し、ついでにそんなにジュースの量は沢山なのか聞き返せば、三十本ほどあると言う。それはたしかに重い。そんな重いものを橘高に持たせるわけにはいかないので、運ぶために王子は橘高の家の前に向かった。
 閑静な住宅街の中でほかの家よりも一回り大きい家の前で足を止める。相変わらずこの近隣の中で飛び抜けているな、と思いながら、インターホンを押そうと右手を伸ばしたところで門扉の奥の玄関がガチャッと開く音がした。
 大体の到着時間は伝えてあったので、橘高が出てきたのだろうか、と思って玄関を見ると前髪が長めのロングヘアーの女の子が飛び出してくる。顔の全容は見えないけれど綺麗な瞳がちらり、と見えて視線が捕らえられた。同じような年頃だろうか。

「羽矢ちゃんなんかにはわかんないよ!」
「あ、こら! なまえ!」

 奥からなまえ、と誰かの名前――おそらく目の前の彼女のものだろう――を呼びながら橘高も出てきた。先に出てきた女の子は橘高の声を振り払うように門扉を飛び出してきて、進行方向を見ていなかったのか王子にぶつかる。

「おっと」
「邪魔!」

 ぶつかってきたなまえが転けそうになるのを抱きとめて阻止すると、なまえの手が条件反射なのか王子の腕を掴んだ。その手に目を引かれる。右の手の甲から手のひらにかけて大きな傷痕があった。何かにえぐりとられたかのようにそこだけ肌の色が違ってとても目立つし、初対面でそこに注目してしまう程度には仰々しい傷痕なのがわかる。
 王子の視線に気づいたらしい腕の中のなまえは、俯いたまま身体を放して走り去って行った。背中が見えなくなるまで見ていると、橘高が王子の近くまでやってきて声をかけてくる。

「ごめんね王子くん」
「いや、ぼくは全然。羽矢さんの妹さん?」
「ううん。幼馴染みなの。三軒先にクリーム色の家見える? あそこの子」
「へぇ」
「そういえばぶつかられてなかった? 大丈夫?」
「平気だよ」

 言っていたのを持ってくるからちょっと待ってて、なんなら玄関で待っててくれていいから、という言葉に甘えて橘高の家の門扉をくぐり玄関で待たせてもらうことにした。
 待っている間に思い起こされるのは、ぶつかったなまえの手の傷痕のことで。あんな大怪我、普通に生きていたらきっと負わないだろう。考えられるのは王子たちには身近な、数年前に起こったあの侵攻が関係しているのかもしれない。
 女の子の手には相応しくない、見ているだけで心が痛むような傷痕が脳裏にこびりついて離れなかった。

「おまたせ。お願いしたいのはこの箱なんだけど」
「わー……これは」
「ね、わたしじゃ無理でしょう?」

 橘高が引きずるようにして持ってきたのは、ギフトボックスに満杯に入った大量の缶ジュースで。ざっと見た感じ確かに事前情報通り三十本くらいはあるだろう。これを女性である橘高が本部まで持ってくるのは流石に無理がある。

「こんなにたくさんいいの?」
「父の取引先のひとが毎年贈ってきてくれるんだけど、ジュースを飲む人がうちにはそんなにいなくて。母も王子くんとか若い子にあげたらって言ってるのよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて有り難く頂こうかな」

 よいしょ、とつぶやきながらジュースの箱を持ち上げる。ひとひとり抱き上げているんじゃないか、と錯覚してしまいそうなほどの重さで、換装しておけばよかった、と思わなくはない。筋肉質な穂刈よりは非力かもしれないが、それでも男だし力には自信がある。そんな王子でも今腕の中にある箱は大層重い。蔵内や樫尾も連れてくるべきだったな、と思った。橘高の家を出て橘高と並んで本部まで向かう。今日の夜入っている防衛任務のことを確認しながら、歩いていると橘高がちょっとごめん、と声をかけてポケットからスマートフォンを取り出した。操作をしながらため息が漏れたので、どうしたの、と話しかければ困ったように笑う。

「さっき王子くんにぶつかったなまえのお母さんから謝罪のメッセージが来てただけ」
「あぁ、あの子」
「本当迷惑かけてごめんね」
「全然大丈夫だって。どこも怪我してないし」

 なんなら彼女、軽かったからぶつかったかどうかも怪しいよ、なんて戯けて言ってみせた。橘高は王子の言葉に安堵したようでさきほどよりも穏やかな表情になる。

「羽矢さんも大変だね、幼馴染みのことまで気にかけるなんて」

 学校もボーダーもあるでしょ、と言うと、自分がやりたくてやっていることだからいいの、なんて大人な回答が返ってくる。
 それになまえのことを気にかけるのはボーダーに入る前からやっていることだから今更なの、と笑った顔が〝姉〟だなぁ、と思った。

「そういえば、彼女の手」
「……うん、一度目の大規模侵攻のときにね。瓦礫の下敷きになっちゃって。さいわい頭と胴体は無事だったんだけど、右手は痕がはっきり残っちゃったの」

 言い方は悪いけれど、三門市に住んでいる人間にとってはよくある話だ。一度目の大規模侵攻の際、多くの犠牲が出たことに起因してボーダーに入隊する人間もいる。王子の周りでもそういう人間がいるのだ。お気の毒という言葉で片付けるには淡白だとは思うが、それでも気の毒だなと思う。

「痕が残っちゃったのが、どうもコンプレックスになってるみたいで。元々はもっと明るい子だったんだけどね」
「そっか」
「こればっかりは時間が解決するのを待つしかないかな」

 そうだね、とは言えなかった。彼女のことで橘高が胸を痛めていることは充分に理解できる。ジュースの重みを感じながら、基地に着く頃にはすこし腰が痛んだような気がしたけれど、気のせいだと思い込むことにした。

 染井に初めて会ったときに手袋をしていて、なんとなく事情を察すると同時に思い浮かんだのは、橘高の幼馴染みの瞳が綺麗な彼女の姿だ。染井にどこで購入したのか聞き、夏とそれ以外の季節で使える手袋を販売している店を紹介してもらった。こういう街なのでいくつかそういうものを取り扱っている店舗はあるらしい。
 授業で使っているノートがなくなりそうだったので補充するのと、ついでに手袋の店が文房具屋のほどよく近くにあることを思い出して学校帰りに寄る。
 新しいノートを購入したあとに手袋の店に入れば、さまざまな色の手袋が陳列されている。店主らしき老爺に声をかけられてプレゼントでこういう感じのを探している、と言えばシルク製の手袋を提示された。ピンクにチャコールグレー、チョコレートの三色が出てくる。どれにしたものか、と悩んでいると老爺が声をかけたきた。

「あげる相手はきみのイイひとかい?」
「いや、普段世話になっている人の妹です」

 妹みたいな、という言葉は選ぶとややこしくなりそうだったので選ばなかった。ほうほう、と頷いてから、奥の棚を開けてまた別の手袋を引っ張り出してきたようで、アイボリーカラーのシンプルな手袋が目の前に差し出される。

「学校とかで普段使いするならこういう方がいいんじゃないかな」
「なるほど」

 派手すぎる色よりはいいだろう、と思いそのままアイボリーの手袋を購入した。一応簡易的なラッピングだけお願いして、可愛らしい花柄の包装紙に手袋が包まれる様を眺める。

「喜んでもらえるといいね」
「……そうですね」

 包まれた手袋を受け取ってスクールバッグに入れる。このあと本部に行く予定なのでそのまま橘高に渡してしまおう、と当たりをつけた。
 店をあとにしてそのまま本部基地に向かい、作戦室に着く前に橘高が作戦室にいるかスマートフォンでメッセージを送って確認する。ちょうど今ひとりで作戦室にいる、という話なのでこれ幸いといつもより足早に自分の隊の作戦室に向かった。

「羽矢さん」

 作戦室に入るなり蔵内と樫尾が来ていないことを確認し、すでに到着していた橘高に買ってきた包みを渡す。受け取った橘高がなにこれ、と問うので手袋だよ、と答えた。

「王子くん、」
「あの子に、よければ。あ、もちろん知らない人間からもらったら気持ち悪いだろうから、羽矢さんからということで」
「気にしなくていいのに」
「ぼくがやりたくてやっただけだから気にしないで」

 なまえのきれいな澄んだ瞳を見てから、ふとした瞬間に思い出すことが何度かあって、なんとなくなにかしてやりたい気持ちになっただけなのだ。彼女からしたら余計なお世話でしかないだろうから、差出人は伏せてもらいたい。

「ありがとう。絶対受け取らせるわ」
「強いなぁ」
「姉は強いのよ」
「そうだね」

 受け取らせることには成功したよ、と聞いたのは渡してから少々あとのことだ。使っているかどうか王子には分からないが、使っていてくれたらいいなぁ、と思う。すこしでも彼女の生活が穏やかなものになりますように、となんの関係もないのに、柄にもなくまるで博愛主義者のようなことを考えた。

 
   §
 

 高校三年生に進級し、進路だ受験だの騒がしさでどこか落ち着きのないクラスで、適当に挨拶を交わしながら自席に座ると、隣の席のクラスメイトに視線が止まった。ショートカットになっている髪型にアイボリーの手袋。
 王子の記憶しているときよりも髪の毛がばっさり切られているので、手袋がなければ正直気づかなかったと思う。
 ――あの子だ、と直感で思った。
 友人らしき女子と話している姿をちらり、と盗み見ていると、なまえと話していた友人の方が王子の視線に気づいたようで、話しかけてくる。

「あ、学年一イケメンの王子くんだ」
「どこ情報なの、それ」

 誰が言い始めたのかわからないが、イケメン、と面と向かって言われても返せる言葉は案外ないものだ。

「女子はみんな言ってるよ~」
「そんなんじゃないって」

 当たり障りのない問答をしていると、なまえの視線も王子を見ていることがわかった。バレているわけでもないのに、なんとなくどぎまぎと心臓が動いている。落ち着かないなぁ、と思った。彼女は王子とぶつかったことなど記憶に残ってないだろうし、王子から言うつもりもない。

「王子くんは名を体現してるよね」
「そんなことないよ」

 話しかけてきた女子の言葉で、目の前のことに意識が戻る。
 生まれてこの方数え切れないほど言われ続けた言葉だ。そこまで王子様みたいなことをしているつもりはないのに、周囲の評価はそういうものが多くて、若干辟易とすることもそれなりにある。
 どうやって会話を終わらせようか、と考えているところでずっと話を聞いていた橘高と親交のあるなまえが口を開いた。

「王子って名前だと大変そう」
「そうかな」
「名前負けしてないってそれはそれで大変だね」
「確かに」

 淡々と事実を語られると思っていなくて驚嘆してしまう。王子の顔をじっとみた彼女はすこしだけ考える素振りをして、それから頷いて言葉を放った。相変わらず瞳がきれいで、近くで見て初めて気づいたが吸い込まれそうだと思う。
 王子の視線に気づいたなまえがふい、と視線を逸らしたので視線の先に回り込んでやれば、見ていたなまえの友人がおかしそうに笑った。なまえも友人の笑い声につられたのかふふ、と声を漏らしたので、ひと仕事終えた気持ちになる。揶揄うのはそれくらいで切り上げて、王子が自席の椅子にきちんと座りなおした。すると、彼女が口を開く。

「王子くんを王子様だとは思わないけれど、王子様が自分にもいたらいいなぁ、とは思うよね」
「わかる! 自分だけの王子様欲しいよね」
「ねー」
「てか、あんたはその手袋の王子様がいるじゃん」
「だからこれはお姉ちゃんみたいな人にもらったんだって」
「えー。絶対嘘でしょ」

 まさか手袋の話を聞けるとは思っていなかった。王子様云々の件のところは正直反応に困ったけれど、そのあとの流れが王子にとって好転したので帳消しだ。橘高は約束を守ってくれたらしく、橘高からということになっているらしい。
 改めて目の前の彼女をまじまじと観察すれば、出会ったときとだいぶ印象が変わったな、と思う。橘高が言っていたことはおそらくこういうことなのだろう。同い年がこう表現するのもどうかと思うが女子高生らしい、と思った。楽しそうにしてくれていることが嬉しくなって、胸がじんわりとあたたかくなった気がする。
 ガラッと音を立てて担任教師が前の扉から入ってきた。席につけー、という声に従って周囲が自席に戻っていく。元々自分の席に座りっぱなしの王子となまえはそのままだ。
「これから一年よろしく」
「こちらこそ」
 担任の話が始まる前にそれだけ言葉を交わした。
 普段の王子であれば握手のひとつでも求めていたかもしれないが、自分の贈った手袋をする彼女と握手をするのは、どことなく恥ずかしい気持ちになったのでしないでおく。