樫尾/ガラスの靴はまだないけれど

 樫尾は隣の家に住んでいる姉のような存在であるなまえに勉強を教わっている。この家庭教師の真似事が始まったのは、樫尾が小学校低学年の頃だ。学力を子どもの評価の基準として比重を重く考えている両親は、やや下がった樫尾の成績に思うところがあったらしく、六頴館高校に通うなまえに白羽の矢を立てた。なまえの両親とも知己であり、なまえの人と成りも知っていて問題ないと判断したのだろう。初めは算数から始まり、国語、理科、社会とどんどん科目が増えたのは、なまえの教え方がとても上手かったからだ。
 中学に上がってからちゃんとした家庭教師を頼むか、という話も出たけれど、成績は下がってないし、有名公立大学の教育学部で教員志望のなまえより相応しい人がいるとは思えず断っている。
 家庭教師は週に三日。曜日は防衛任務のシフトの都合があるので、合わせてもらっていた。だいたい時間帯は二十時から二十二時までの二時間。かなり融通をきいてもらっているとは思う。教科書と学校で使っている参考書に合わせて、たまに応用としてなまえが買ってきてくれた参考書について教えてもらっていた。勉強するのは嫌いじゃないし理解できると楽しいとは思う。できることが増えるのは楽しいし、成績が一定のレベルを保てていると両親もなにも言ってこないので有難い。ボーダーに入隊するときですら、成績を落とすようなことはするな、と言われているのだ。

「うん、合ってる。由多嘉は真面目だね」
「そうですか?」
「うん、前に教えたところもきちんとわかってるし、教え甲斐があるよ。六頴館の高等部に内部進学なら今のままでも十分だと思う」
「よかったです」

 樫尾の自室にあるローテーブルを挟んで向かい合うように座り、教科書を広げながら学校の課題で分からなかったところをなまえに聞き、そのあとに明日以降の予習をしてわからないところを質問する。それがいつもの勉強の流れだった。学校の授業は予習の再確認であり、復習となるようにしてもらっていた。家に帰ってきてからや防衛任務までに復習は行うが、予習をしてから授業を受けた方がよっぽど有意義だと気づいたのは、なまえに家庭教師をしてもらうようになってからである。

「他にわからないところは?」
「今のところは大丈夫です」

 そう、と言って教科書を彼女が捲った際にはらり、と落ちた髪になんだかどきりとした。高校生だったときも歳の差を感じていたけれど、中学生と大学生という身分に移行すればもっと遠い存在のように感じる。
 大人の女性の魅力と言うのはこういうことを言うのだろうか、なんて一瞬考えるが、自分の所属している隊の橘高を思い浮かべると、目の前のなまえとはまた異なる存在である気はした。
 はっきりとは言えないけれど、なまえは幼い頃から知っている彼女とは変わってしまっているのだろう。もちろん樫尾だって変わった部分はある。少なくとも身長は目の前のなまえを追い抜かしたし、声だって低くなった。六頴館の中等部に生徒会長として通っているし、そんな姿をなまえが直接見ることはないだろう。互いの知らない間に変わってしまったことに見ないふりをして関係を維持しているのが現状だ。きっと樫尾が抱いている淡い気持ちなど気づいてもいないだろうし、気づいてほしいとも思っていない。自分が子どもであることは自分が一番よくわかっていた。

 
 前回の家庭教師をしてもらった日から二日後、急遽防衛任務が変更になり時間が空いたから、と授業のお願いの連絡すれば、なまえはメッセージアプリのトーク画面上ですこし躊躇っているような内容を返してきた。体調が優れないとか、大学のレポートが忙しいとかであれば無理を言ったのはこちらなので気にしないで断ってほしい、と伝える。すると、なまえはそういう類のものじゃないから大丈夫だけど、驚かないでね、とメッセージだけ送ってきた。
 なまえにしては要領を得ない返事だな、と思いながら、大丈夫ならお願いしたいと伝えておく。ひっかかりを覚えた返事の意味がわかったのは、彼女が樫尾の家にやってきてからだ。

「どうしたの!?」

 母が代わりになまえを出迎えてくれているはず、と思いながら部屋の中を若干整理していると、玄関で母の声が響いて二階にある樫尾の部屋にまで届いた。なんだなんだ、と思い玄関に向かおうかとも思ったが、すぐに階段を上がってくる足音が聞こえたので待つことにする。ローテーブルを定位置に動かして、教科書など必要なものを準備し終わったところで、部屋のドアをノックされた。どうぞ、と声をかけると、ガチャッとドアノブを回されて開いた音がする。開いたドアの先には見慣れたなまえがいた。母はなにに騒いでいたんだか、と考えたところで、頬に打撲痕が見える。青くなっていて、痛々しいそれはおそらく自分でつけたものではないのだろう。

「頬、どうしたんですか」
「なんでもないよ」
「でも、痛そうですよ」

 怪我をしたわけでもない樫尾が痛そうな顔を隠さずに告げれば、目の前のなまえは困ったなぁ、と言いつつ笑みを浮かべた。自分が知ることのない彼女だと感じる。
 そんな表情を樫尾は見せられたことがない。付き合ってるひとに殴られちゃった、なんて明るく言っていいことではないのに、明るい声色で告げてくる目の前の彼女に寂しいという気持ちを抱く。樫尾にできることはなにもないと理解しているけれど、もどかしい気持ちがゆらゆらと揺れる炎のように胸中でくすぶっているような気がした。
 いつもよりどんよりとした気持ちのまま授業をお願いして、いつも通りの流れで問題集と教科書の予習を進めていく。なにか言葉をかけられたらいいのに、樫尾にはどういう言葉をかけるのが相応しいのか判断がつかなかった。できることはいつも通りの流れに沿うことだけだ。

「ちょっとだけね、感情の起伏が激しいひとなの」

 質問が一段落着いたところで、母がタイミングよく紅茶と菓子を持ってきた。普段はこんなことしないのに、気を遣っているな、と思う。普段から仲良くしているなまえだからなのか、樫尾の家庭教師を辞められたら困るからなのかはわからないけれど。
 ふたりでゆっくり食べなさい、と置いて行かれた紅茶とお菓子をお互い座っている目の前に並べた。お菓子はなまえが好きな洋菓子店のフィナンシェで、よくあったな、と思う。飴色をした紅茶が入ったティーカップをソーサーから持ち上げて、ひとくち口に含めば馴染んだ味が舌に溶けた。そこでようやくほっと息を吐く。無意識に緊張していたのかもしれない、と考えたところで、なまえが口を開いた。

「え?」
「付き合ってるひと」
「恋人、居たんですか」
「うん、まぁ。大学生だしね」

 なまえに怪我を負わせたと言う恋人とのことをぽつぽつと話し始めたので、樫尾はその声に耳を傾けた。これまでなら心地の良いやさしい声だと思えていたのに、苦しそうに聞こえてくるのは思い込みだろうか。
 相手は二つ上の先輩で、医学部の学生らしい。たまたま同じサークルに入っていてそこから知り合ったのだと言う。初めはとてもやさしくて思いやりもあると思ったそうだ。それがだんだんと学部の勉強が忙しくなって余裕がなくなってきたのか、感情の起伏が激しいところが見えてきたのだ、と。いくら感情の起伏が激しいからと言って、付き合っている恋人の頬に怪我をさせてしまうような人間に同情の余地はないと思う。怪我がなければまだ同情のしようはあっただろうと思わなくはない。医学部は多忙だとどこかで聞いた記憶は確かにある。
 余裕がなくなったからと言って、他人に当たっていてはだめだ、と樫尾は思った。

「別れられないんですか」
「んー、何度かそういう話はしているんだけど、」

 向こうが首を縦に振らないの、と呑気に笑う目の前のなまえに怒りのような苛立ちのような感情を覚える。

「危ない目に遭ったりしてないんですよね」
「だいじょうぶだよ。そこまでじゃないと思うし」
「危ないと思ったら、警察に言うなりしてください」
「大袈裟だなぁ」
「いいから。絶対です」
「はいはい、由多嘉は心配症だなぁ」

 中学生なのを逆手にとって、危なかったら周囲の大人に助けを求めるように女子生徒にも先生が指導しているんだから、と念を押す。わたしは大人だよ、なんて返事をされるけれど、女性なのは変わらないんですから周囲を頼ってください、と聞く耳を持たない子どもに言うように何度も何度も言って聞かせた。
 はあい、なんて子どものような返事をするなまえにある提案をする。

「そういえば、来週お祭りがあるじゃないですか」
「あぁ、隣町の神社の?」
「それです。気分転換にでも一緒に行きませんか?」
「いいね。由多嘉とお祭りに行くのなんて何年ぶり?」
「五年ぶりくらい、ですかね」
「だよね?」

 祭りに行く約束を取り付けたところで、なまえから昔みたいに指切りしよ、と小指を差し出される。それに自分の右手の小指を絡めた。
 ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます、と数年前と変わらない声色で手あそび歌を歌う。

 
   §
 

 待ち合わせは神社の境内に十八時だった。それよりも一時間半も早く到着したのは、王子に作戦室を追い出されたからで。このあと幼馴染みの女性とお祭りに行くんです、と世間話をすれば、こんなところにいる場合じゃないだろう、と作戦室から締め出された。プレゼントのひとつやふたつ探しておいで、とアドバイスのようなものを授けられ、そのまますごすごと祭りをしている神社にまで来ている自分に驚く。
 王子の言う通りせっかく祭りを回るのに付き合ってくれるのだから、なにかお礼として渡した方がいいだろうか、とぐるぐると悩みながら、粗方の準備が終わっている出店の通りを回った。
 甘いものがいいだろうか、と出店の甘そうなメニューのある場所を回ってもしっくりはこない。なまえの好きなものは洋菓子なので出店にはないような気がしたし、そもそも洋菓子を渡したければ普段の授業のあとに渡せという話だ。
 うろうろと堂々巡りの迷路を歩くみたいに出店の通りを歩いていると、奥まったところにこぢんまりとした店があった。さっきはなかったな、と思って店先を覗くとアクセサリーが飾られていて、店のポップを見るとハンドメイドの店だということが分かった。
 小さな指輪がいくつか並んでいるケースをじっと見つめて、飴色の石をした指輪に視線が止まる。いつも飲んでいる紅茶の色みたいだな、と思っていると店番をしているらしい店員に声をかけられた。
 店員と会話をしていると指輪を買わされそうになったけれど、彼女とはそういう関係じゃないので、となんとか押し切り、店をあとにする。恋人がいる人間にこんなの渡す方がおこがましいと思ってしまうのだ。
 そういえばなまえはいつくらいに来るだろうか、と思ってスマートフォンを取り出してメッセージアプリを確認すると、最後のメッセージの既読以降連絡はなかった。大学の授業でも延びているのかもしれないな、と思いながら手持ち無沙汰になったので、休憩できるような場所がないか探す。

 
 既読以降の連絡がなく待ち合わせの十八時も一時間ほど経過した頃、なにかあったのだろうかと不安な気持ちが顔を出し、電話をかけようとしたところでなまえが待ち合わせ場所の神社の境内にやってきた。安堵して声をかけようとしたが、思わず息を飲む。
 先日とはまた違った打撲痕とひっかき傷を頬にこさえていたのだ。慌てて駆け寄ってポケットからハンカチを取り出してなまえの頬にあてる。どこかに自販機があった気がするから、冷たい水を買って冷やした方がいいかもしれない、なんて思考を巡らせた。女性の顔に傷が残るのはよくない。

「とりあえず、どこかで冷やせるものと手当てのできるものを、」

 焦りながら、彼女に提案をすると遮るようになまえが話し出した。

「せっかく由多嘉が誘ってくれて嬉しかったのになぁ……」

 こんな顔でごめんね、と明らかに泣くのを我慢して言っている表情に胸がぎゅうっと締め付けられる。なまえが悪いことなどなにもないのに。悪いのは彼女の恋人であって彼女ではないのだ。そこは理解してほしいと思う。彼女に落ち度などひとつもなく、他人に暴力をふるう人間こそが圧倒的な悪なのだ。
 まだ中学生の樫尾に大学生がどのように恋人と付き合うかなど知ったことではないが、それがおかしいことは分かる。中学生でもわかることをなまえの恋人がわからないのは、理解に苦しむが。
 さきほど回っているときに見つけた人目のつかない社務所の横になまえの左手を掴んで連れていく。手が震えているのが分かってまた胸が苦しくなった。
 途中ジュースを打っていた屋台で冷えたミネラルウォーターを買い、社務所の横に到着したところで、蓋を開けて彼女の頬にあてていたハンカチを一旦外し濡らす。ある程度絞って水気がほどほどになった状態を確認して、なまえの頬にもう一度当てた。

「おれは年下だし、今は頼りにならないかもしれません」

 でも、と震えそうになる声に力を込めて震えないようにはっきりと告げる。どうか知っておいてほしいと思って、言わずにはいられなかった。

「いつかなまえさんに見合う人間になるから、そのときは絶対頼ってください」
「……待ってるね」

 でも、あんまり遅いと待ちきれないかも、なんて笑う姿がいつも樫尾に見せてくれるあどけない笑みとおなじでほっと胸を撫で下ろした。
 社務所の裏で手当てをしていると、樫尾たちに気づいた老年の運営の男性が声をかけてくる。姉弟げんかでもしたのかい、なんて声をかけられて困った。なまえはすかさず樫尾にけがをさせられたわけではないことを告げると、そうかそうか、と聞いているのかいないのかわからない返事が返ってくる。どう弁解しよう、と悩んでいると、運営の人は一度社務所に引っ込んでそれからすぐに戻ってきた。

「お姉さん、怪我が見えたままだと楽しめないだろ。これをやろう」

 差し出されたのはなまえの頬の傷を隠せそうなほど大きな絆創膏だった。有難く受け取って、彼女の頬の傷を隠すように貼る。
 姉弟げんかもほどほどにな、なんて言いながら運営の人は去っていった。
 絆創膏を貼り終えたなまえはスマートフォンを起動させて、インカメラで自分の顔を確認しているようだ。それが終わるのを待っていると、先ほどよりも嬉しそうな表情を浮かべて、樫尾の手を取った。

「これなら堂々と回れるね」
「家に戻らなくていいんですか?」

 てっきりこんな状態だし家に帰るものだと思っていたが、なまえはお祭りを満喫する気満々だったようだ。思わず面をくらってしまう。
「せっかく来たんだから、由多嘉と回りたいよ」
「……なまえさんがいいなら」

 じゃあまずはりんご飴からね、となまえは樫尾の手を引いて、出店の通りに向かって歩いていった。