隠岐/ガラスの靴を拾ったよ

 とても遠い記憶だ。四、五歳くらいのときに隠岐にはなまえちゃんという仲の良い女の子がいた。いつもふたつに結ばれた髪の毛が、ぴょこぴょこと耳のように揺れて可愛らしかったのを覚えている。幼稚園で同じクラスでだいたいいつも一緒に居て。幼稚園の時点で隠岐は女子たちに囲まれていたし、男子たちは遊んではくれるものの、女子の集団に囲まれているときだけは遠巻きにされる。別にハブられていたわけではないし、嫌われていたわけでもない。ただ、女子という生き物はいつの年齢になっても怖いものなのだ、とそのとき本能的に学んだ気がする。男子たちもなにかしら察していたのか面倒そうなときは避けてきた。その気持ちはわからなくもない。隠岐も自分が渦中の人間でなければ、同じようにしていただろう。
 孝二くんと遊ぶのはわたし、ちがうわたし、と目の前で言い合いをしている女子たちにどうしたもんか、と思っていると、ひとりの女子が声をかけてくる。話したことも遊んだこともあまりない女の子。部屋の片隅でおとなしい子と絵本を読んだり、おままごとをしているような子だったはずだ。耳の上でふたつに結ばれた髪が目に入る。新しい女子がきた、と思うと同時に、場の混乱が長引くのかと思いきや――そうはならなかった。

「みんなであそぼうよ、そのほうがたのしいって」

 関西弁じゃないことに違和感を覚えつつ、子どもながらにそう言ってのけたことに感動した。平和主義者のなまえは幼いながらに空気を読むことがうまくて、隠岐を中心に悪くなりそうになるとなにかを感じ取って仲裁に入る。先生たちもだんだんしっかりしている彼女に丸投げではないけれど、場を任せるようになり隠岐となまえは一緒に行動することが多くなった。
 なまえはいわゆる関西圏外から来た人間で、両親のどちらも訛っていないテレビで聞くような堅い言葉を話すタイプだったので、幼稚園の中では浮いていたと気づいたのは、あとのことである。両親がそういう話し方だから彼女自身も関西弁を話さず、距離を置いているような話し方をする印象を抱いた。
 けれど、そんななまえに救われたと思うのは仕方のないことだと思う。彼女がそばにいてくれるだけで、面倒くさいことが半分以下になっているのだ。それだけで隠岐の幼稚園での生活は穏やかなものになったと思えた。たまになまえがいない隙にぐいぐい来る女子もいるけれど、そういうときは流石に先生も見かねて止めにくる。
 隠岐を見て気の毒そうにする担任の先生の苦笑いはいつまでも隠岐の記憶に残っていた。孝二くんはかっこええからしゃあないよ、と宥めるように言われてもなにも嬉しくない。その言葉をもらうたびに隠岐は不機嫌になって周囲の大人を困らせた。
 そんななまえと小学生になっても一緒に遊んだりできるやろか、なんて思った幼稚園を卒業する一ヶ月前に隠岐のとっての悲劇は起こる。

「え、なまえちゃん、おとなりの小学校行かんの」
「お父さんのおしごとで、ひっこすんだって」

 いたずらをして頭を母にばちん、と叩かれたとき以上の衝撃が隠岐に走った。隠岐の中で彼女がいなくなることは想定に入っていなかったのだ。なんなら同じクラスになれたらいいなぁ、くらいの考えを持っていた。小学校というのは幼稚園よりもクラスが多くて五クラスもあると聞いていたので、どうすれば同じクラスになれるだろうか、と考えていたくらいである。ずっと一緒にいたいと純粋に思っていただけに、ショックで幼少の隠岐は感情がぐちゃぐちゃになってしまい、半泣きになって引き止めるように救いの主であるなまえの手を掴んだ。

「なんでぇ」
「わたしもこうちゃんとバイバイするのやだよ」

 お互いが手を繋いで離したくない、とでもいうように強く結ぶ。めそめそとする子どもたちに親たちは困ったように笑うだけだった。
 結局、幼い子どもの抵抗むなしく、なまえは幼稚園の卒園式の三日後に引っ越すことを親に聞かされる。お気に入りの猫のぬいぐるみを抱いて遊ぶわけでもなく、じっとしつつ、ぼうっとしている隠岐をよくないと思ったのかもしれない。なまえがいないことが決まっている中で隠岐のこころの支えは、お気に入りの猫のぬいぐるみだけだった。悲しみに打ちひしがれていると、隠岐の母はひとつ提案をした。

「せんべつ?」
「そう、お別れのときに渡すもんを餞別って言うねん」
「せんべつ、おれ、あげる」
「じゃあ探しに行こか」

 お気に入りの猫のぬいぐるみを抱っこしてじっとしていると、母が話しかけてきて餞別を買いに行こうと言う。〝せんべつ〟がなにかはよくわからなかったが、隠岐は母の口車に乗せられてそのまま近くのデパートに連れていかれ、雑貨コーナーにやってきた。色とりどりのハンカチが並んでいて、色の情報量の多さに混乱しそうになる。子ども用はここからここまでね、と店員に教えてもらって場所を確認した。

「孝二があげたいと思えるもんを探してき」
「わかった」

 隠岐はひとまず教えてもらった場所においてあるハンカチの群れを見たけれど、しっくりくるものはなくて。そのあとに売り場をぐるり、と一周する。母はあくまでも隠岐に選ばせるつもりらしく、後ろからついてくるだけだ。売り場をじっと見ながらうーん、と頭を悩ませていると、ひとつのハンカチに目が止まった。臙脂色のハンカチだ。
 大きな花の柄があしらわれていて、お花は赤いのがかわいいよね、と言っていた彼女の言葉を思い出す。これしかない、と思った。

「おかん、おれ、これがいい」
「え……これ?」
「うん」

 指差して件のハンカチを見せると、母は困惑した表情を浮かべていてううん、と小さく呻いた。理由はわからなかったが、何度もほかのにしないか、と提案してくる。けれど、隠岐の意思は固かった。なまえが好きだと言っていた、赤いお花がかわいいハンカチは目の前のこれしかないと思ったのである。
 最終的に隠岐に根負けして母はそのハンカチを購入してくれ、プレゼント用に包装してくださいと伝えていた。母が困った顔をしていたのは、隠岐が選んだハンカチが小学生になる女の子が使うには大人過ぎるものだったのだ。まぁ、こういうのは気持ちだからいいか、と開き直っていたようだが。
 ハンカチは無事なまえが引っ越す日の前日に渡しに行くことができて、彼女も嬉しそうに受け取ってくれていたので、よしとしたい。

 
   §

 数年前の第一次侵攻はニュースで全国的に放映され、三門市の様子は隠岐の中ではセンセーショナルなものとして印象づいている。それと同時に自分とは関係のない世界だな、と思ったし、そのときはニュースを流し見して終わらせていた。見たこともない敵が現れて人々を襲ってたくさんの死者が出たと淡々と告げられるニュースは、どうしても他人事のように感じる。
 他人事のように感じていたそれが自分に関係のあることになってしまったのは、三門市にあるボーダーという組織の人間が隠岐をスカウトしたときだ。はじめはそんな恐ろしいとこ行かなあかんのやろか、と思ったけれど、気付いたら同じ関西圏のスカウト組と新幹線に乗っていた。
 入隊して、正隊員に上がることができれば、アルバイト代も入る、と言われ、それなら、と頷いた。
 あとは、クラスメイトで厄介な女子生徒が何人かいて、彼女たちに辟易してしまい、距離を置きたかったのもある。隠岐の事情を母は知っていて――なにせ幼稚園から続いているのだ――、孝二が平和に過ごせるんやったらええんちゃう、と送り出した。相変わらず楽観しているな、としみじみ思う。いつかもこんなことを思った気がした。
 ボーダーではスカウト隊員専用の宿舎が用意され隠岐もそこを利用している。高校は三門市立第一高等学校への編入が決められていた。
 編入試験に受かれば進学校である六頴館高等学校にも入れる、とは言われたがそこまで勉強を頑張れる気はしなかったので、丁重に断っている。
 ボーダー隊員をしながら学校など通えるのだろうか、と思ったけれど、ボーダーの提携校というだけあって、それなりに融通を利いてもらえると聞いていた。学校生活も満喫できるなんて太っ腹だな、と思っていたら、いや、それ普通だから、と笑ってきたのは同じ高校の先輩で狙撃手の当真だ。

 
 編入日初日は流石に緊張したし、生まれてこの方関西から出たことのなかった自分が、訛りの聞こえない環境で生きるという事実をそこでようやく理解する。基地では同じ関西圏出身の生駒や水上と話していたからすっかり抜け落ちていた。
 ――あかん、今更緊張してる。
 担任は隠岐がボーダー隊員であると分かっても大して態度は変わらなかった。欠席申請は事前にちゃんと出すように、と言われたくらいで、あとは普通に編入生として扱われただけだ。仰々しく接されるよりは全然いいが。
 いつもより早く鼓動を打つ心臓を感じながらも、前を歩く担任について行く。教室が見えてきて、一緒に入って来いとひと声かけられてその声に従った。ガラリ、と開けられたドアの向こうのクラスメイトたちは担任と隠岐の姿を確認するとシン、と静まりかえる。こういう空気はプレッシャーを感じるから正直やめてほしい。隠岐の容姿を見て女子が色めき立っているのが分かってしまい、すこし憂鬱な気分になった。
 席に着けー、という担任の声に従って、中にいたクラスメイトが音を立てながら椅子に座っていく。担任が教卓の前に立ちその横に隠岐が立った。大体の生徒が席につき終わったのを確認した担任が、隠岐の名前を黒板に書いて紹介をする。そのあとに自己紹介をするように言われて、その言葉に素直に応じた。

「隠岐孝二です。関西から来ました。よろしくお願いします」

 ありきたりで簡潔な自己紹介をしたはずなのに、声が上ずってしまったからやはり緊張しているのだと自覚した。隠岐の席は窓際の一番奥な、と言われ、教室の後方を確認すると確かに空いている席があるのを確認する。そこに向かって歩いていくが、自分に視線が集まっているのが分かり身体の動きがぎこちなくなった。生まれてこの方こんなに注目を集めることなんてない。自分の席に辿り着いて横の席の女子に一応挨拶をする。

「よろしく」
「よろしくー。わたしみょうじなまえ。わからないことがあったら聞いてね」
「うん、ありがとぉ」

 ひとまず、隣の女子がいいひとそうでよかった、と安堵した。穏やかそうな、優しそうな雰囲気に好感を持つ。
 朝会から始まり、一時間目、二時間目と時間が過ぎていく中で、教科書がないものは隣の席のなまえが進んで見せてくれて助かった。休み時間ごとにクラスメイトに囲まれるのは疲れるが、わかっていたことなので割り切る。ボーダー編入はこの高校に居ればまぁまぁあるそうだが、西から来るのは珍しいらしい。
 運がいいのか悪いのか隠岐は編入した初日に掃除当番に当たっていた。隣の席のなまえはごめんね、免除できたらよかったんだけど、と言ってくれたが、早々に特別扱いをするのはよろしくないのもなんとなく理解できる。快く大丈夫、と伝えれば目の前の彼女は安堵の息を吐いていた。同じ班の子になにか言われたのだろうか、なんて勝手に邪推する。
 掃除場所は教室のすぐ近くにある階段と踊り場だった。箒で履いてごみを集めて最後に雑巾で水拭き、と前の学校でもやっていたことをするだけなので、困ることはない。水拭きを終わらせて、残った汚れた水が入ったバケツを捨てに行こうとする隣の席のなまえに声をかけた。重そうにしているものをそのまま行かせるのは、さすがに気が引ける。

みょうじさん、おれ持つで」
「え、いいよいいよ。隠岐くん来たばっかでしょ」
「捨てる場所覚えたいから、ええって」
「じゃあ、お願いしようかな」

 肩を並べながら歩いていろいろな話をする。休憩時間は人に囲まれていたので他愛のない会話をなまえとはできていなかった。教科書を見せてもらえて助かった話をすれば、気にしなくていいのに、と微笑まれる。ほんまにひとがええなぁ、とあたたかいものが胸を通り過ぎた。
 汚水を捨てるのは一階の外の水場だと教えられてそこに水を捨てる。蛇口でバケツを濯いでひと通りの汚れは落としてしまうのを忘れない。バケツをきれいにしたところで、自分の手がびしょ濡れになっていることに気づいた。制服のズボンで拭いてしまおうとすれば、赤の花柄のハンカチを差し出される。

「これで拭きなよ」
「汚れるしええよ」
「いいから」

 押し付けられたそれを享受して畳まれたハンカチを広げて、濡れた手の水分を拭わせてもらう。広げたときになんとなく見え覚えのあるハンカチだな、と思った。返す前に一度全部広げて柄全体を確認し、じっと見る。

「隠岐くん?」
「あぁ、ごめん」

 ハンカチを元通りに畳んでなまえに返し、バケツを持って教室にふたりで戻っていく。道中にまさかな、なんて思いながらも隠岐からあのさ、と言葉をかけた。

みょうじさん、もしかして小さいとき大阪住んどらんかった?」
「え、なんで知ってるの?」

 突拍子もないことを言ったにもかかわらず驚いた表情を浮かべる目の前の彼女は、どうやら隠岐の知っている〝なまえちゃん〟だったらしい。

「覚えとらんと思うねんけど、幼稚園一緒やった、」
「――もしかして、孝ちゃん……?」
「覚えてるん?」
「え! うそ!? ほんとに?」

 喜色満面と言った表情を浮かべるなまえにどきり、としながら、まさかこんなところで会えるとは思っておらず、隠岐も嬉しくなる。隠岐のかわいい救い主は、見た目は変わったけれど内面は変わらないようだ。

なまえちゃん、そのハンカチ未だに使ってくれてるねんな」

 あげたときは気づかなかったが、あとから大人用やったで、と母に言われて怒り狂ったのをよく覚えている。なんならお気に入りの猫のぬいぐるみを母に投げつけたほどだ。いや、先教えとけや、と。

「小さいときから気に入ってたけど、大きいハンカチはね、子どもが持つにはすこし不便だったから。大きくなるまでお母さんに預ってもらってたの」

 隠岐の母が心配した状況が起きていたようで、幼いときにぬいぐるみを投げつけたことを心の中で母に詫びる。

「でも、孝ちゃんとこうしてまた会えるなら、預っておいてもらってよかったと思うよ」
「ほんなら、よかったわ」

 こういう偶然もあるんだな、と考えつつ、仲が良かった女の子に再会できてうれしいと思うし、今後の学校生活も安心して過ごせそうだ、と根拠のないことを思った。
 なまえと教室に戻りながら、そういえば、と隠岐から話しかける。

「どうしたの、孝ちゃん――って、隠岐くんて呼んだ方がいい?」
「なんで? 孝ちゃんでええよ。おれもなまえちゃんって呼ぶし」
「じゃあお言葉に甘えて。それで、どうしたの」
「今はふたつに括っとらんのやなぁって」

 昔はふたつ括りにしてたやろ、と両手で拳を作って耳の上にくっつけて言えば、なまえが照れたように笑う。

「さすがにもうできないよー」
「なんや、残念」

 あの髪型かわいらしかったのに、と言えば、ありがとう、と嬉しそうな笑みと返事を向けられる。やっぱりかわいらしいなぁ、と思ったけれど、口には出さなかった。