きょうしょくの夜を泳いだ

 ドォン……ッと遠くで轟音が響いた。
 地響きに似たその穏やかではない音を耳がとらえ、足元が揺れたのがわかる。地震でも来たのかと思っていると、現代社会に似つかわしくない音が周辺に満ちた。それを認識すると同時に、周囲の壁が崩れて瓦礫のようなものがぱらぱらと降ってくる。今、自分たちはどこにいてどういう状況なのか。わからないながらに必死に周囲を見渡して、それらから情報を読み取ろうと頭の中で思考をフル回転させる。
 自分を守るように頭を右腕で庇いながら、弟の頭も左腕で守りつつその場を移動した。移動すると言っても、降ってくる瓦礫を避けて外に向かうことしかできないけれど。
 何度も家族で訪れていた三門市で一番大きなショッピングモールに弟と共にやってきたのは、来週にある母の誕生日プレゼントを買うため、というとてもありきたりな理由で。ただの日常だ。ただの日常だったはずなのに、現状が一体全体どうなっているのかわからない。ただ、人々が流れていく方向に同じように流されていくことしかできなくて。その先にあるものがきっと外であると信じて前を行く人たちについて行った。時折係員のこちらです、と言う悲鳴に似た案内にも従う他ない。とにかく外に出なければならない、と思った。このまま屋内に居ても瓦礫の下敷きになるだけなのは明白である。ショッピングモールの三階のフロアにいたはずなのに、言われるまま歩いてようやく外に出るとそこは地上だった。
 視界に映る景色は天気が悪くて、今にも雨が振りそうな暗い空に不安な気持ちを抱く。
 けれど外に出ることができたからか、さきほどまで不安そうにしてきた弟も安堵したのかホッとしているのがわかった。

「帰ろう、」
「母さんたち無事かな」

 弟の手をぎゅっと握ってショッピングモールから離れ朝出てきたばかりの家を目指す。目印になる建物の半分がなくなっていて、この街になにかが起こっていることしか理解できない。ふらふらな足取りでなんとか歩いていたけれど、大体の位置はあっているらしかった。見覚えのある個人商店を見つけたところで、店主の老爺がいないか確認しようと近づくと、目の前の店に空からロボットのようなものが降ってきて、店が無くなった。巨大生物にでも押しつぶされたかのように、あっけなく粉々になった見慣れた店の残骸に血の気が引く。ロボットのような化け物は、なまえたちを見て距離を縮めてこようとしているように感じた。頭の中で警鐘が鳴って一刻も早くこの場から離れなくては、と逸る気持ちを抑えずに駆け出そうと掴んだままでいた弟の腕を引く。

「姉ちゃん」
「大丈夫。逃げよう」

 逃げ切ればきっとなんとかなると思ったのだ。
 弟と互いの手を握る力を絶対に離さないように痛いくらいの力を入れる。聞こえているのかどうかわからないが、弟の耳に口を寄せて内緒話のように小声で指示を出した。

「せーの、で走るよ」
「わかった」

 走る方向は視線で示した。弟がうなずいたことで意識の共有はできている。せーの、と言った途端、化け物に背中を向けて走り出した。弟の腕を一生懸命引いて全速力で走る。さっきから走りっぱなしで心臓も痛いし、息が切れそうだけれど、足を止めたら死ぬと思った。なまえよりも足が遅い弟を無理やり自分のスピードに合わせて走らせることに心苦しさを覚えるけれど、こればかりはどうしようもない。逃げなければ、おそらく死ぬ。
 背後から音がしなくなって数百メートルは離れられただろう、と思い、足を一度緩めた。弟の息が上がっているのがゼーゼー、という声からわかる。普段インドアな弟にずっと走らせてしまったから仕方がないとは言え申し訳ない。

「大丈夫?」
「うん」
「息が整うまで歩いて行こう。どこに行けばいいのか、わからないけど」
「学校は?」

 弟を気遣いながら今後のことを悩んでいると弟から一つの案が提示される。
 学校に逃げ込むというのはありかもしれない。非常時のときなども学校は避難場所として指定されているわけだし。弟の提案に乗って、近くにある普段なまえが通っている中学校を目指して歩き出した。周囲に人は全然居らず、瓦礫の下に赤色が見えて、なんとなく察してしまう。なまえたちが生きていることが奇跡のことのように思えた。遠くで子どもが泣いている声とか、どこかで瓦礫が現在進行形で崩れている音とか、そういったものが耳に届く。弟からすれば不愉快極まりないだろう。弟は耳がよすぎるのだ。なまえも耳は悪くない方だけれど、それ以上に弟は耳がいい。音楽を嗜んでいるから、というべきか、嗜んでいるせい、というべきか。弟は音にとても敏感だ。
 二人並んで歩きながら周囲に化け物がいないかを気にしつつ、普段通っている中学校までの道を進む。方向はおそらくあっていると思うが、目印になるものが大半破壊されているので自信はなかった。助けて、と泣いている声が聞こえているけれど、なまえたちもそれどころではない。他人に手を差し伸べられるだけの余裕がなかった。早く安全なところへ、とそればかりを考えていたのだ。
 通い慣れた中学校がようやく視界に入った頃、周囲にも逃げてきた人の姿も目に入るようになり、みんな中学校へ向かっているのだと分かった。中学校まで到着できれば、きっと両親にも連絡がつくだろうし、どうにかなるんじゃ、と希望を抱く。その希望を抱いたのが間違いだったのかもしれない。
 けれど、確かにこのときのなまえは気を緩めてしまっていた。

「姉ちゃんっ」

 急に振り返った弟になに、と声をかけようとしたところで、手を繋いで隣にいた弟の胸を光のようなものが貫く。なまえたちの周囲に光の雨のようなものが、降り注いだのが分かった。不覚にもきれいな光だと思ったけれど、次の瞬間には光の雨が止んで隣にいた弟が地面にドサリ、と倒れこむ。

「どうし、た」

 の、と最後の一音は音にならず声は続かなかった。弟の心臓の付近にぽっかりと穴が開いていて、そこからおびただしいほどの大量の血が流れている。どうにかしようと弟の心臓のあたりを手で押さえるけれど、脈が弱々しい気がした。

「ねぇ、ちゃ、ん」
「ちょっと待って。だ、だれか、呼んでくるから。もう少し頑張れる? ねぇ、」
「たすけて……。いたい、いたいんだ」
 左手をさまよわせてから弟は自分の胸元に手を置いて、息も絶え絶えに、泣きながら懇願するように言った。
「いたい、いたいよ、ねぇちゃん、たすけて」

 胸を押さえる弟の手の上からなまえの手を重ねる。
 血が止まるように押さえるけれど効果は見込めそうになかった。
 やっぱり、誰か呼んでこなきゃ、と思っているのに、混乱しているのか腰を抜かして立ち上がる力がない。どうして、こういうときにちゃんと動けないんだ、と自分のことを殴り飛ばしてやりたくなる。

「ごめん、ごめん、わたしが、おかあさんのプレゼント、買いに行こうなんて、言ったから」
「ね、ちゃん、たす、て」

 視線も合わなくなって、弟の視界からなまえの存在が映っていないことを理解した。それからだんだんと弟の手に力が入らなくなって、目の前の存在からなにかが消えようとしていることが分かった。瞳孔が開かれおり、息が絶えたという現実を受け入れられなくて。そんなわけない、そんなわけないと弟の身体に縋り付いて現実から目を逸らす。頬に冷たい何かが当たろうが、身体中が濡れようが関係なかった。起きて、起きて、と声になっているのか、なっていないのかよくわからない声で、弟の名前を呼び続ける。お母さんたちにも会えてないでしょ、ねぇ。

 どのくらいそうしていたのかはわからない。けれど、近くに人の気配を感じて弟の身体から身体を起こして顔を上げる。

「きみはこの辺りの子かい」

 話かけてきたのは黒くて長いコートを着た男の人で、父よりも若いという印象を受けた。
 男の人は隣失礼するよ、と言ってからしゃがみ込んで弟の顔を覗き込む。それからなまえに視線を寄こしてきた。

「はい。あの、おとうと、おとうとが、動かないんです。助けてください。おとうとがうごかないの」

 震える声で弟のことを訴えかけると、男の人は首を左右に振った。

「つらいとは思うけど、弟さんは……」
「さっきまで一緒に変な化け物から逃げてたんです。それなのに、どうして、なんで」
「先ほどのやつらは近界民という。やつらは人体からあるものを抜いて、それが無くなると人は死んでしまうんだ」

 だから、きみの弟さんももう、という言葉を信じたくなくて、男の人の身体をこぶしで叩いた。さっきまでちゃんと生きていたのに、と真っ黒に染まっているような声で言う。男の人はなまえに近くの中学校に避難所があるから、そこに向かいなさい、と言ってその場から居なくなった。横たわる弟が濡れていく姿が可哀想で、この子をこのままここに置いていけない、と思って弟を連れて行こうと背中に背負う。身体が冷たいような気がするのはきっと雨に打たれているからだ、と決めつけた。
 弟を背負ったまま、さきほど男の人に言われた元々目指していた中学校に向かった。
 重い足取りで弟と背負ったまま移動したせいか、中学校に到着したときの記憶はなくて。学校の門のところに足を踏み入れた後、けが人はこちらに、と案内している人に声をかけられた途端意識を失くしたらしい。なまえにはそんな記憶がないので伝聞方式になるのは許されたいと思う。声をかけてくれた係の人曰く、弟を背負ったまま気を失ったそうだ。入院したときにそう聞かせられた。

 弟を背負ったまま気を失って、次に目を覚ましたとき世界は一変していた。
 目を覚ましたのはあの日から数日経過してからのことだ。
 三門市を襲った化け物は近界民と言って、それと対抗するためにボーダーという組織が表に出てきたということは理解できる。テレビでは近界民の話とボーダーの話ばかりで、死者数と身元の分かる死者名がテレビで表示されていた。そこには多くの被害者の名前が載っていて、死者数は一二〇〇名だと画面越しのアナウンサーは言う。読み上げられる名前の中には弟の名前も、母の名前も、父の名前もあった。目から一筋涙が流れたけれど、ただそれだけだ。なまえの手のひらから大事なものが砂のようにさらさらと零れ落ちたような気がした。
 数日前まで当たり前にあった日常が、呆気なく崩れ去ったことが恐ろしいと思う。
 現代の日本社会において戦争孤児というものに自分が該当することになるとは思ってもみなかったのだ。両親は何の因果かどちらも家族をずっと昔に亡くしていて、いわゆる天涯孤独だった。
 だから、両親も弟もいなくなってしまったなまえは両親と同じ天涯孤独と言うものになったと理解する。これからどうやって生活をすれば、と悩んでいると市役所の職員だという人間が病室にやってきて今後の話をした。希望すれば施設に入ることも可能だし、親戚筋を頼りたければそういう手配はするという。今回の侵攻で両親を亡くした子は少なくないそうだ。

みょうじさんのご両親にご親戚は……」
「居ません」
「そうですか……。今後どうしたいとかはありますか?」

 問いかけられてふ、と頭の中に浮かんできたことを口にする。

「近界民、とかいう化け物はわたしでも倒せますか? 倒す方法はありますか?」
「え、っと」

 想定していたものと異なる質問だったのか、職員は口をもごもごとさせて言いよどんだ。それから上に確認するのでまた後日来ます、と言葉を残して病室を出ていった。
 結局、質問を投げかけた職員がその後来ることはなかったけれど。
 別の職員がやってきて、退院後は一旦市が用意した一時避難施設を使うように言われた。
 破壊された街が再建されていくのを病室の窓から眺める。警戒区域として指定された区域は原則立ち入り禁止で、それ以外の区域を優先して立て直していくのだ、と市長が発表していたのをテレビで見た。なまえが住んでいた区域はあのままなんだな、とぼーっとした頭で思う。
 そこには寂しいも悲しいもなかった。ベッドで過ごす日々は近界民への憎しみと自分の不甲斐なさへの怒りだけが積もっていくのがわかる。あのときちゃんと自分の足が動けば、力が入っていれば、ちゃんと立ち上がっていられたら、という〝たられば〟が後悔と一緒に頭の中を埋め尽くした。助けて、と痛い、と泣いていた弟になにもすることができなかった自分を殺してやりたい。そんな気持ちでいっぱいだったのだ。夜眠るたびにあの日の夢を見る。光の雨が降ってきて、弟が真っ赤になるあの光景。脳にこびりついて離れないそれはまるで忘れるな、と弟に言われているようだ、と思った。
 夢にうなされたせいで脳が覚醒したため、病室を出て自力でお手洗いに行こうとすれば、巡回中の看護師に見つかって車椅子に無理やり乗せられる。もうすっかり元気なのに、とぼやけば安静にするのが大事だと先生が言っていたでしょう、とお小言ともらった。お手洗いで用を済ませてナースステーションの前を通りすぎて病室に戻ろうとする。そのとき、掲示板に掲示されている一枚のチラシが目に留まった。
〝隊員募集 界境防衛機関ボーダー〟
 文字だけで書かれたそれに目が引かれてじっと見つめていると、看護師が気付いたらしく今隊員募集しているらしいわよ、と教えてくれた。そこには連絡先等もすべて書かれていて、看護師にここに連絡を取りたい、と言えば明日にでもどうしたらいいか聞いておいてあげる、とのことだ。それに感謝を伝えて病室に戻っていった。
 退院までは結局侵攻の日から一ヶ月ほどかかった。自分では軽症だったと思ったけれど、ところどころで裂傷がありそれを完治させるのに時間がかかったのだ、と医師は言う。ボーダーとやらに連絡を取ったのは退院したその日で。看護師がどう申し込んだらいいのかボーダーとやらに聞いてくれて、けがを治してから試験を受けに来てください、と言われたそうだ。市が手配してくれた一時避難施設に身を寄せ、携帯電話などもないから自分名義の残っていた通帳からわずかなお金を引き出し、テレフォンカードを買う。それから施設からすぐ近くの公衆電話を探して、看護師に控えてもらったボーダーの連絡先を押した。

 ボーダーに繋がり事情を話して入隊したい旨を伝えると、試験を受けてほしいというのでその足でボーダーまで訪れた。いつの間に建てられたのかわからない建物に入り、受付で試験を受けに来たんですけど、と用件と名前を告げると中に案内される。連れていかれたのは小さな小部屋で、そこには机と椅子があり、机の上には紙とシャーペンが置かれていた。これを制限時間内に解答してください、と案内してくれた職員に言われ、素直にそれに従う。
 椅子に腰を下ろしてそのまま問題用紙に手を付けた。
 問題はそこまで難しいものではなく、学校の授業をきちんと受けていればわかる程度のものだ。すらすらと問題を解いて行って、問題すべてを解き終わるころには制限時間があと五分残っている。一応解答を見直して問題はなさそうだったので、そのまま問題用紙を裏返してぼーっと周囲を眺めた。無機質な部屋だな、と素直に思う。最低限のものしかなくて、どこか冷たい印象を受けた。
 制限時間が終わることになると先ほどの職員が入ってきて問題集を回収していく。それから、ここで待つように、と言われて部屋の中に残された。試験を受けたら終わりじゃないのか、と思っていると、先ほどの職員とはまた別の人間が現れ面接室に案内します、と別室に移動するように告げられる。

「こちらのお部屋へどうぞ」
「どうも」

 会釈をして目の前の扉が自動で開いて迎え入れられているのだと思った。
 恐る恐る足を踏み入れると、そこには中学校に行くように言ってきた男の人と顔に傷のある男の人と眼鏡をかけた男の人がいる。
 ぽつんと置かれた一つの椅子を囲うようにコの字に配置された机に男の人たちは座っていて、彼らの視線がなまえに集中しているのが分かった。頭を一度下げれば、顔に傷のある男の人が座りなさい、と言ったので目の前の椅子に腰を下ろす。

「きみはあのときの……」
「先日はお世話になりました」

 こちらの顔を見て先日あった男の人は思い出したようだった。痛ましそうな視線を向けられて、怒りがわずかに湧く。まるで可哀想とでも言われているようで気分はよくない。
 目の前の男の人たちはボーダーの組織のいわゆる上層部で、顔に傷のある男の人は城戸、先日会った男の人は忍田、メガネの男の人は林藤と名乗った。

「それで、みょうじさんはボーダーに入隊したいと聞いているが。志望理由を聞いても?」
「近界民を全部倒したいからです」
「それは──みょうじさんのご家族が皆亡くなっているからか?」

 鋭い視線を向けたまま問いかけてくる城戸の目が隠し事は許さない、とでも言っているように思えて、本心を隠すのはやめた。まっすぐに城戸の目を見て素直な気持ちを言葉にして返す。

「……そうです。近界民は全部殺してやりたいくらい憎いです」

 ボーダーならそれができるんじゃないかと思って志望しました、と素直に告げる。
 なまえでは自分自身の表情が見えないので自分が今どういう表情をしているのかわからない。
 忍田や林藤は悩ましい、といった表情を浮かべて、城戸はなにか考えているような表情が窺えた。

「合否は追って連絡しよう」
「あの、連絡なんですけど、今一時避難施設に住んでいるのですが……」
みょうじさんの家まで誰かに文書を届けさせる」
「わかりました」

 下がって構わない、と言われたので椅子から立ち上がって最後にもう一度だけ礼をしてその場を後にする。部屋の外に出ると案内をしてくれた職員が待っていてくれたようで、出入口まで見送ります、と言われたのでその言葉に甘えた。

 部屋を出ていったなまえのちいさな背中が見えなくなり、自動ドアが閉まった時点で口を開いたのは忍田だった。

「彼女、入隊させるんですか」
「トリオン量は申し分ないから、おそらくそうなるだろうなぁ」

 疑問を投げかけてきた忍田に城戸の代わりに答えたのは林藤だった。返答内容は城戸が答えようとしたものと差異はなかったので同意をする。

「それなりに豊富なトリオン量のようだし、入隊させるつもりだが」
「あそこまで近界民を憎んでいる彼女を入れることで組織の和が乱れるのでは?」
「仲良しこよしでやってああいうことになってしまったのだから、彼女のような人間こそ受け入れるべきだと思うが」

 忍田の言いたいことは理解できるし、城戸自身も一度は思い描いた思想なので否定するつもりはない。けれど、約一年前のアリステラの戦いで思い知ったこともある。敵対関係の近界民とやりあうにはボーダーをもっと大きな組織にしなくてはならないし、多くの人間をまとめるためには共通の方針が必要だ、と。人員が圧倒的に足りない、と常々感じている。もっとたくさんの人間が居れば、すでに犠牲になった彼らがこの世界から居なくなることはなかったのかもしれない、と思わずには居られなかった。

「忍田くん。今後、彼女のような存在はもっと出てくるぞ。そのときに入隊を拒否するのか」

 人員が少なかったから、ああいうことが起こってしまったのに、という意味を言外に込める。忍田にはそれだけで充分伝わると思った。

「それは……」

 本来のボーダーは近界民と和平を結べたらという意味もあったことは否定しない。けれど、完全に敵対する近界民が三門市を攻めて来ればそれはただの戦争でしかないのだ。
 今回の侵攻で話し合いなど到底無理だったように。

「それに、彼女を入れることで〝意味〟があるようにできると思う」
「〝意味〟ですか」
「私に考えがある」

 だから任せてくれないか、と言えば忍田は渋々了承をした。林藤は城戸の考えが分かっているのか、ほどほどに、とひとこと添えただけだ。

§

 合否の連絡がいつ来るんだろう、と思って一時避難施設で生活をしつつ、学校などにも通うために準備をしていたときのことだ。施設の管理人である市の職員がなまえの元に向かって来客がきた、と言いに来たので、外に出ると顔に傷のある男の人がいた。確か名前は城戸だったか。まさか直接上層部の人間が伝えに来るとは思っておらず、驚きのあまり目を瞠った。呆然としているなまえのことなどお構いなしに城戸が話かけてくる。

「中に入っても?」
「あ、あぁ、はい」

 どうぞ、と部屋の中に招き入れると城戸は靴を脱いで部屋に上がり込んできた。
 お茶でも出さなきゃ、と思ったところで、なまえの思考を読んだのか気を遣わなくていいので座りなさい、と促される。言われるままに城戸の正面に正座で座れば、口火を切ったのは城戸だった。

みょうじなまえの入隊を許可する」
「え、いいんですか」

 赤裸々に思っていることを話したというのに入隊を許されたことを驚く。てっきり落とされるのかと思っていた。

「その代わり、と言ってはなんだが条件がある」
「条件、ですか」

 条件、というのを教えてほしいと目で訴えれば、城戸はそもそもボーダーという組織がどういう経緯でできたものなのかの説明を始めた。急になんなんだ、と思ってはいるが一応城戸の話に耳を傾ける。もともと近界民の一部の国と親交があり同盟を組んでいたことや、その同盟国が戦争に巻き込まれ戦争の手伝いをしたこと、そしてすでに多くの隊員が亡くなってしまったこと。ずっと前からボーダーがあったことは驚いたが、隊員が亡くなっていることの方が驚きだった。

「それで? その話をわたしに聞かせてどうしろと? 近界民を憎むなって話ですか?」
「そうではない。きみにはある役目を背負ってもらいたい」
「役目?」
「今後、おそらくきみのように近界民を憎む人間が少なからずボーダーに入隊してくるだろう。その子たちの指針となってほしいんだ」
「指針」

 城戸の言いたいことの意味が読み取れていない気がして、先を続けてほしい、と告げる。城戸は淡々と彼の考えをこちらに説明した。こちらに求める役目と言うのは、過剰なまでに近界民を憎んでほしいという内容だった。上層部の見立てでは今後どんどん隊員を増やしたいと考えている。そうすると人は集まってもおそらく志望理由はさまざまなものになること。そうすると組織として考えの相違で分断する可能性があるため、ある程度思想が似通っている隊員を派閥に分けたい、と言うもので。

「きみには私の派閥の象徴のような人間になってほしい」
「象徴、ですか」
「私の派閥は近界民を絶対に許さないというものになる」
「だから近界民を憎んでいるわたしがちょうどいいと」
「そうだ」

 あと二つほど派閥はできることが想定されるけれど、各派閥で一枚岩になって協力し合えば今後の近界民の侵攻も抑えられる、というのが城戸の考えだという。

「城戸さんの考えはわかりました。それをやることのわたしのメリットってなんですか? 近界民を堂々と殺せること?」
「それもある。あと提案なのだが、きみが嫌でなければ私の保護下に入るのはどうだろうか」
「あなたが保護者になるってことですか?」
「きみは家族を亡くしているし、親族もいないと聞いている」

 その言葉に肯定をすると、城戸は話を続けた。戦争孤児になった子どもは基本的に親戚に引き取られるか施設に移り住む流れだが、城戸が保護者となることで社会的な手続きで困ることは減るだろう、とのことだ。一時避難施設はあくまで一時的なものであり、そのうち親戚のもとや施設に行くなどをしなければならない。施設を拒否するのであれば、一人暮らしをしなければならないが、そもそも日本で未成年に賃貸を紹介してくれる業者など滅多にいない。そうすると、なまえ自身に必要なものがなにか浮かび上がる。

「最初はボーダーの寮に入ってもらうが、あとから出たければ出ても構わない。部屋の保証人も私で済ますことができる。どうかね」

 自分が今社会的に危うい立場なのはなんとなくわかっていた。それを城戸は自分の願いを叶えてくれるのであれば、こちらの社会的な地位を保障するということなのだろう。確かに市の職員からもさっさと次の施設を決めろと言われていたところだった。
 紹介されたのが三門市外の施設だったから拒否していただけで。城戸についていればおそらくこのまま三門市にいることができるし、憎い近界民を殺すことも容易い。そのための方法すら得られるのだという。
 ──それに乗らない手はないと思った。

「いいですよ。要は城戸さんの思い描く道化になってほしいってことですよね?」
「あまり聞いていて気分のいい表現ではないが、そうだ」

 苦々しいものでも食べたみたいな顔をする城戸に笑みを向けて了承する。道化になることなんてなんでもないことだ。近界民が憎いという気持ちを前面に押し出して生活をするだけでいい、なんて息がしやすい生活なのだろう。そんなこといくらでもやってやる、という気持ちしかなかった。

「では交渉成立ということで」
「よろしくお願いします」

 握手を交わしたことでこの日から城戸となまえの保護者と被保護者という関係が始まった。

 城戸の保護下に入り、ボーダーに入隊することが決まってから生活が怒涛に変化した。まずは一時避難施設を出てボーダーに作られた寮で生活をする。なまえ以外に人はいなくて、今後入隊することが想定される子のために部屋だけはたくさんあった。
 食堂などは今後導入予定ではあるが、まだ何もないので夕飯はもっぱらインスタント食品かコンビニ飯である。さすがに城戸にその食生活がばれてからは、二週間に一度必ず食事に行くようにはなったけれど。
 なまえがボーダーという組織が表に出てきて最初の入隊組で、ほかにも数人入隊者がいるのだという。入隊式のようなものを行うから、と城戸から連絡をもらい、ボーダーの訓練室に集まれば、そこには年上の男女ばかりで、なまえと同じくらいの年代の子は二人しかいなかった。場を仕切るのは忍田のようで、各々自己紹介をするように言われた。一番年上なのが冬島、と名乗り、続いて年齢順に東と沢村が名乗る。その次に風間という同い年くらいに見えた男の子はなまえよりも年上だということを知り、驚愕の表情を浮かべてしまっていた。次に身長の高い太刀川、その一つ年下に嵐山、柿崎、月見と続く。残されたのはなまえともう一人の男の子くらいで。忍田に次はきみだ、という視線を向けられて、名前と年齢を名乗る。最後に名乗った男の子は三輪、と苗字だけを名乗った。顔色が悪いのが少し気になるけれど、初対面で指摘するのも、と思って黙っておくことにする。名前を把握し合ったところで、忍田に志望理由も一応、と言うので他の隊員の理由に耳を傾けた。太刀川はもともと忍田の弟子で強いやつを倒したいから、と言って、月見はそのサポートのために、と言う。二人は幼なじみらしい。沢村も嵐山も柿崎も街を守りたいからと高尚なことを堂々と言ってのけた。
 風間ももともとボーダーとかかわりがあったから、と言う話で、なまえと三輪にほかの人間の視線が向く。三輪が何かを話す前に先に言ってしまおうと思い、にっこり、と形容できそうな満面の笑みを浮かべてはっきりと明るい声で言った。

「近界民が憎くて死ぬほど嫌いなのでやつらを滅ぼしたくて入隊しました」

 なまえの発言に周りが驚いているのがわかるけれど、そんなこと気にする必要はない。冬島だけは強烈、なんて言って笑っているけれど。小娘の言っていることなど戯言だと思っているのかな、なんて勝手な推測をする。ちなみに冬島は戦闘員ではなくエンジニアとしての入隊らしい。
 なんとなく隣から視線を感じて三輪の方を見ると、驚いていると言うには違和感の覚える視線を向けられていた。理由がわからないのでなまえからなにか言ったりすることはないが。
 最後に各々志望理由は異なるかもしれないが、近界民を倒すという意識は共通しているのでお互い協力するように、と言われた。近界民を倒すことに異論はないので頷いて返事をしておく。
 続いてどこかからやってきたエンジニアの鬼怒田からトリガーホルダーなるものを渡された。これで換装体というものに身体を入れ替え、換装体の状態で近界民と戦うことが主になるのだという。
 早速隊員皆で一斉に──月見は戦闘員ではないのでまた別らしいが──トリガーで換装体になった。服装が変わったくらいで特に違和感などはない。不思議な感覚だな、と感心していると、続いてトリガーの説明をされた。中にチップが入っていて、それによって使える武器が異なるそうで。現状は全員共通で刀型の武器がセットしてあると告げる。鬼怒田の指示通りに武器を起動させると、鞘に入った刀のようなものが自分の腰に現れた。今後は換装体になると自動で装備されるらしいが、今回は初回ということで説明するために段階を踏んだそうだ。
 武器はいろいろな種類があるらしく、どう使うかは好きにしていいようで。考えるのが苦手な人間だと大変ですね、なんて東は言っていたけれど。
 結局トリガーの説明、訓練室の使い方の話で一日が終わってしまった。明日以降は自由に訓練室を使用していい、という鬼怒田の言葉でその場は解散になる。早く明日になっていろいろなことを試行錯誤したいと思った。一刻も早く一匹でも多く近界民を滅ぼせるようになりたいのだ。寮にさっさと戻って今日聞いたことをノートにまとめて整理したい、と考えながらその場を離れようとすると三輪に呼び止められる。

「どうしたの、三輪くん」
「あの、いえ、」
「どうしたの?」

 まるで言いたいことがあるのにうまく言えなくて口をわなわなとさせる弟の姿が脳裏をかすめる。

「明日、一緒に訓練しませんか」
「いいよ」

 了承の返事をすれば、三輪はほっとしたように息を吐いて、今日はもう帰ります、とその場を出て帰宅の準備を始めたようだった。その姿を尻目に自分も寮に戻ろう、と足を進める。

 三輪にほどほどに懐かれている、と感じたのはボーダーに入隊して一週間ほど経過したときのことだ。まだ隊員数が少ないため訓練の仕方も確立されていなくて、ひとまず各々が思うトリガー構成で総当たり戦をするのが日課になっていた。太刀川は忍田の弟子と言うだけあって手強い。
 東も大人なだけあって思考を重ねてはこちらの作戦を読み切ってなかなか勝てない。体格の差もあるかもしれないが、三輪となまえはなかなか他の面子に勝つことができなかった。嵐山や柿崎相手に三回に一回勝てれば上出来、くらいのもので。トリガー構成をいろいろいじってはいるけれど、しっくりくるものがない。ひとまず手に馴染んでいる万能ブレード──弧月をメインで使うことくらいしか決め切れていなかった。
 銃手の攻撃用トリガーなども試してみてはいるけれど、突撃銃型はなまえの身の丈には会っていないような気もする。
 負け越すことが多くてなんとかしたい、と思いつつもすぐには結果に繋がらなかった。東がたまに助言のようなものをくれるけれど、それをうまく活かせているかと言われたら答えはノー、だ。
 自分が迷走しているような感覚に陥って何とも言えない気持ちになる。
 日々、訓練をこなしつつ学校に通い、二週間に一度城戸と夕飯を共にした。食事の際は大体訓練がどうか、とか学校はどうか、とかそんな話ばかりで、保護者と被保護者の関係性としては淡白なものかもしれないが、不思議と居心地は悪くない。

「太刀川に負け越しているんだって?」

 城戸は食後のコーヒーを飲みながらなんでもないように尋ねてきた。
 それに不服そうな表情で返事をしてしまう。事実とはいえ城戸に指摘されるといやな気分になった。

「太刀川さん強すぎますよ」
「まぁ、彼は忍田くんの一番弟子だからな」
「トリガー構成もしっくりくるものになかなか出会えないですし」
「試行錯誤しているところなんだったか」

 もう長いこと試行錯誤している気がする、と言えばまだ入隊して二ヶ月ほどだろう、と小さく笑われた。太刀川は強さが証明されているので、昔からいるという小南や迅と任務に行けていることも悔しいのである。なまえはまだ任務に行くなと言われているから、余計に。

「主な構成は?」
「弧月と銃手のトリガーとは思っているんですけど、突撃銃型のものだと身体が負けているというか」
「なるほど」

 困っていることを話せば城戸はなにか考えているようで、それから開発の鬼怒田に話しておくから明日開発室に来るように言われた。理由はわからないけれど、断る理由もないのでそれに是、と答える。ボーダーの話をしていて普段から気になっていることをなまえから切り出した。

「あと、三輪くんなんですけど」
「あぁ、最年少の」
「彼に懐かれているような気がして……」

 杞憂であればいいのだが、なんとなく杞憂じゃない気がして第三者の意見を聞きたくて城戸に問う。

「それはそうだろうな。彼もきみと同じだから」
「同じ?」
「志望理由」

 感情の読み取れない視線を向けられて、言葉の意味を考えるために城戸から視線を逸らす。同じ、というのはそういう意味でいいのか。

「彼も誰かを?」
「ご家族だと聞いている」

 城戸の言葉に合点がいった。三輪も家族を亡くしていて、あんなに大っぴらに近界民を滅ぼす、と宣言しているなまえに共感かなにかを抱いているのだろう。その気持ちはとてもわかるし、否定する気はない。近界民はどうやったって憎いし、無力ななまえ自身も憎いままだ。

「そういうことならわかりました」
「かなり偏った思考である自覚がないから、フォローしてやってもらえると助かる」
「あくまで円滑に組織を動かしていくためですもんね」
「そうだ」

 憎しみという共通のマイナス感情は共通の敵に向けるとき、これ以上ないくらいの威力を発揮するのだ、と城戸は言った。きれいな言葉や感情だけで近界民を倒すことができたのならよかったけれど、そうではないから、と。なにかを憎むということはそれだけエネルギーを持っているということで、近界民との交戦においては大事なファクターの一つらしい。そしてそのエネルギーを扱いやすくするためになまえに居てほしいのだ、と改めて説明された。自身としては全面的に近界民を憎むことができるのならなんでもよかったので、城戸の言い分にはそうですか、という感想しかない。

 城戸と食事をした翌日、学校から帰ってきてそのまま城戸に言われていた通り開発室にやってくると、話は通っていたようで鬼怒田に手招きで呼ばれる。後ろをついて行って鬼怒田専用の開発室に入ると、トリガーホルダーを渡すように言われた。ボトムスのポケットに入れていたトリガーホルダーを渡すと、突撃銃型のチップをいじるぞ、と告げられてはーい、なんて間延びした返事をする。しばらくトリガーホルダーをいじる鬼怒田を眺めながら、なんなんだろう、と思っていると作業が終わったらしい鬼怒田にトリガーホルダーを返される。

「もう終わりですか?」
「城戸司令に言われたから今朝から調整しておったわ」
「ありがとうございます?」

 よくわからないけれど、トリガーをメンテナンスしてくれたようなので礼は述べておく。

「銃の形を変えておいた。それで試してみなさい」
「はーい」

 鬼怒田に見送られて開発室を出て、訓練室に直行する。訓練室に到着すると誰もおらず、なまえが一番乗りだったようだ。そういえば三輪は今日は家の事情で来れない、とか言っていた気がする。誰か来る前に新作を試してみよう、と訓練室を設定してその中に入った。トリガーを起動してを起動させると、そこには昨日まであった突撃銃型ではなく手で掴める形──いわゆる拳銃型に変わっていた。これなら確かに身体が負けないような気がする。訓練室に入ると同時に的が表示されるように設定していたから、物は試しだ、と拳銃型ので的を撃っていった。突撃銃型よりも打ちやすいように感じる。
 元の突撃銃型のときだと六割程度しか的に的中しなかったのが、しばらく拳銃型で打てば八割ほど的中しているように思えた。あとからログを見返そう、と決めて訓練室から出ると興味深そうに東と太刀川と月見がこちらを見ている。なまえから近づくことはせず自販機に向かおうとしたところで、東に捕まった。

「どうしたんだ、あの炸裂弾」
「城戸さんが鬼怒田さんに言ってくれて、作ってもらいました」
「しかし、拳銃型か。考えたな」
「結構打ちやすいので好きです」

 これならうまく扱えそうな気がする、と言えば東も同じ意見だった。突撃銃型ははたから見ていても体格のいい嵐山などと比べるとやはり不利だったのだろう。突撃銃型自体を小さいサイズで設定することも可能だが、そこまでエンジニアに負担をかける気にもならなかった。拳銃型であれば身体を動かすときにも邪魔にはならないし、ちょうどいいと思う。

「さっきのいい感じじゃんか。俺と一戦やろうぜ」
「今日こそ太刀川さんに吠え面かかせてやりますよ」
「おー。かかってこい」

 対人での経験も積みたかったので太刀川の提案をのむ。月見が訓練室の設定をしてくれるそうなのでそれに甘えた。太刀川と二人訓練室に入る。勝負は五本勝負となった。街中に似た土地設定のマップを月見に展開してもらい太刀川と一戦交える。弧月と拳銃型の炸裂弾を併用して、隙のない太刀川に隙を作るために頭の中で思考を止めずに考え続け、さまざまな勝ち筋を描いて実行していった。結果は太刀川も初見だったということがあり、初めて六対四で勝ち越すことができたのだ。ずっと勝てなかった太刀川に勝てたことがうれしい、と単純に思う。負けっぱなしは性に合わない。
 太刀川もまさかなまえに負けるとは思っていなかったらしく、悔しそうにしてもう何本か戦え、と言われたけれど無視する。気分がいいまま今日は眠れそうだ、と思った。
 いつも寝る前に負けたことの反省をしているからなかなか寝付けないのだ。今日はとても清々しい気分で眠りに浸けそうだ、と嬉しくなる。ベッドに入るときに憂鬱な気分にならなくていい、というのは健康的だと思った。
 翌日、太刀川に勝ち越したことを聞いたらしい三輪がどうやって勝ったのか教えてくれ、とせがんできたことで、彼との距離がさらに縮まったような気がする。勝つことに貪欲なのはいいことだし、手段を選ばないほどの必死さもいいことだ。いつか身を滅ぼさないかだけが、心配だけれど。
 ようやく安定して太刀川に勝ち越せる頻度が増えたことで、防衛任務に出ることも許可され、また一歩自分の望みを叶えられそうでご機嫌な気分になった。ここまで長かったな、とため息が無意識にこぼれ出てしまうほどだ。
 三輪は結局自分と同じようなトリガー構成──弧月と銃手用のトリガーを併用──で落ち着いていた。剣さばきについては太刀川に勝てる人間など忍田や迅くらいなのだと日々実感している。風間も勝ち越すことは多いけれど、あまり太刀川と戦おうとはしていなかった。太刀川が絡んでくるのは自分よりも年下の人間ばかりで。主な被害者は迅と小南となまえと三輪。主に迅や小南とは戦っている回数が多いように感じる。三輪となまえではまだ実力が追い付いていないから物足りないのだろうな、と勝手に決めつけた。そうするとなまえの訓練は誰とやるのか、と言われると大体三輪や嵐山、柿崎だった。一番多いのは三輪だけれど。よく似た系統の構成だからこそ穴が見えたりするのだ。その穴をなくすためにはどうしたらいいのか考えるようにしていた。

 入隊して一年も経過する頃には、また新しい隊員が入隊してきて少しずつ組織が大きくなっていくのを感じる。入隊順ではなまえの方が先輩と言えても実年齢は上の諏訪や二宮や加古、堤が入ってきて、教えを請われるたびにそういうのは東に聞いてほしい、と逃げ回った。相変わらずなまえと三輪が組織内では年少組としてくくられている。小南はもちろん別枠の扱いだ。
 近界民を防衛任務で倒し、訓練室で訓練をして、たまに作戦会議のようなものに参加する日々を送っている。三輪との関係も一方的に懐かれているというか、そんな感覚でいたけれど、それに変化が訪れたのは突然のことだった。
 その日は朝からひどい雨で、まるであの日を想起させられる天気に、悲しいともつらいとも形容できない暗い気持ちになる。落ち込む、という感情に近いかもしれない。そんな感情を持ったまま一日過ごすのか、と息を吐きだしているときに東に呼び止められた。

「三輪を見ていないか?」
「三輪ですか? 見てないですね」

 まさか三輪のことをなまえに聞くとは思っていなかった。
 先ほど学校から戻ってきたところなので、東以外の隊員と挨拶すらしていないことを伝える。すると、東が大きなため息を吐いた。彼曰く三輪が心配なのだ、と言う。
 三輪と出会ったときからどこか不健康そうな印象を受けていたけれど、ここ最近はさらに顕著になっているように感じた。目の下に中学生らしくない濃い隈ができているのだ。それは東や諏訪なども気にしているようで、本人にそれとなく聞いてみてもはぐらかされるそうで。見つけたらなまえからも聞いてくれないか、と言ってきたのは東だった。中学生がしていい表情ではない、とも言っていたが。確かに三輪の顔色の悪さはずっと気になっていたので聞いてみる、と頼まれごとを了承した。散歩ついでに三輪でも探そうと基地内で目下いろんな年上たちに心配されている姿を探す。
 主だった場所にはいなさそうだな、と思って人が普段あまり入り込まない場所を重点的に探してみた。こういうとき寮暮らしでよかったな、と思う。東たちでは思いつかなさそうな場所を散策がてら訪れては三輪がいないかを視線を巡らせてみるが、今のところハズレばかり引いていた。
 訓練室から遠く離れた開発室のあるフロアの奥にある自販機のところにやってくると、その自販機のすぐ近くのベンチでぐったりとうずくまっている三輪の姿が目に入る。慌てて駆け寄ると顔色がいつもより悪く、熱でも出ているのか顔も赤い気がした。城戸に支給されていた携帯電話を使って連絡先を交換してあった東に連絡を取る。
 楽な体勢にしてやろうと三輪をベンチにきちんと寝かせて、それから彼が手に持っていた缶ジュースを取り上げた。すっかりぬるくなっているそれに、いつからここにいたんだろうか、と疑問が浮かぶ。ひとまず缶ジュースを脇によけて、上着のパーカーのポケットに入れっぱなしだった小銭入れを取り出す。お金を投入口から入れて点灯しているミネラルウォーターのボタンを押した。ガコン、という音と立てて取り出し口に落ちてきたペットボトルのミネラルウォーターを手に取って、それから三輪のおでこに当ててやる。正しい処置でないことは承知しているが、一応気休めになれば、と思ったのだ。
 冷たさが気持ちいいのか三輪の寝息が少し緩やかになったような気がして、安堵の息をついていると東と諏訪と堤が慌ててやってきた。こういうときしっかりしている年上が来てくれるのはありがたい。彼らは三輪の状態を確認して、すぐに医務室に運ぼう、と結論を出した。体格のいい堤が三輪を背負って、東は医務室に連絡を取っているようだ。なまえは見ていることしかできなくて、なんとなくあの日の虚無感を思い出す。自分という人間はやはり肝心なときになにもできないのだな、と思い知らされて認めるしかなかった。
 医務室に到着すると常駐していた職員が三輪を備え付けのベッドに寝かせるように言われて、堤が三輪をベッドに寝かせる。職員はすぐに三輪の体温を計ると三十八度を少し超える体温で、発熱しているのは間違いなかったらしい。三輪の額に冷えピタを貼って今日は様子を見ましょう、と職員が言う。
 東が三輪の家族に連絡を入れたところ、出張で三門市にいないことが分かった。家に一人で居させるのも、という話になり、どうしたものか、と自分より年上の人間が頭を悩ませている。医務室の職員も基本的には日勤のみの労働契約であり、職員にも家で幼い子どもが一人で待っているらしく、夜通し三輪の面倒を見ることは難しいそうだ。

「三輪を寮に一時的に置いてもいいなら、わたし面倒見ますよ」
「でも、お前」
「冷えピタを交換したり、水を飲ませるくらいでいいなら、できるけど」

 こちらから提案すると、東と諏訪は呆れた顔をして、職員は思案顔をしてから内線でどこかに連絡をしているようだった。聞き耳を立てていると、どうやら城戸に連絡を取っているらしい。城戸に自分に三輪の面倒をお願いしたい、と伝えているのが分かった。

「司令がみょうじさんに任せていいって」
「わかりました」

 さすがに司令直々に許可が下りた、となると東も諏訪も黙るしかないようで、それ以上はなにも言わなかった。職員からどういう風に対応したらいいか教わりながら、看病に必要なものは東たちが寮まで運んでくれると言う。それに甘えてなまえは先に寮に戻って、自室として使用している部屋の隣の部屋に運べるように準備をした。自室の隣の部屋を開けるために鍵を借りに行かなければならないのだ。
 三輪を寝かせる準備が大体整ったところで、東と諏訪と堤が三輪を連れてやってきた。簡易ベッドに寝かせてもらって、持ってきていた氷枕などを三輪の頭の下に入れる。
 東たちは心配そうにして、俺たちも残ろうか、と言ってくれるけれど、大丈夫です、と告げて帰るようにお願いした。正直、昔は弟の世話や看病をずっとしていたので対処には割と慣れている。定期的に冷えピタを貼り替えて、脱水症状にならないように水を飲ませる、というのは両親に教わったことだ。共働きだった両親は弟の世話を自身に任せることが多かったから、一晩くらいなら病人の面倒を見られる。
 ずっと部屋にいるのはよろしくないから、自室に居ながら数時間おきに三輪の様子を見るように言われていた。自室で学校の課題をしたり、夕飯を食べたりしながら、その合間で三輪の様子を見に行く。見つけたときからずっと眠っていたけれど、よほどつらいのか起きる気配はなさそうだった。ぬるくなった冷えピタを交換して、意識がもうろうとしている三輪に水を飲むか聞いて、反応があればペットボトルの飲み口を彼の口元に運んだ。そうやって世話をして、寝る前に最後にもう一度様子を見に行こう、と隣の部屋を開けると夢でも見ているのかうなされている声が聞こえる。冷えピタはさっき交換したばかりなので、どうしたものか、と考えていると三輪の苦しそうな声を耳が捕らえた。

「ね、え、さん」

 弱々しく呼ばれたそれに胸が痛くなった。
 三輪は弟じゃないのに、あの日のことがフラッシュバックする。どうしたって今日はあの日に記憶が結び付けられてしまうのだ。恐る恐る三輪の頭に手を伸ばしてやさしく撫でてやる。

「秀次は、いい子だね」

 懐かしさと虚無感と吐きそうになるほどの嫌悪感をやり過ごしながら、許可も得ることなく勝手に三輪の名前を呼ぶ。三輪の姉がどういう人なのかはわからないけれど、なまえが弟によくやってあげていたように三輪に触れた。すると、三輪の寝息がすーっと穏やかなものになったので、深い眠りについたことがわかる。
 なんとなく離れがたくてそのまま夜通し眠る三輪のベッドの横に座っていた。彼がうなされるたびに頭を撫でてやりながら。

 翌朝になると三輪の方が先に目を覚まして、部屋にいることを驚かれた。事情を説明すると、三輪は申し訳なさそうな、気まずそうな表情をして謝ってくる。

「気にしなくていいのに」
「でも、」
「そうだ、看病のお礼に一つだけ教えて」
「なんですか?」
「近界民に殺されたのはお姉さん?」
「…………はい」

 昨日東から聞いた話と夜のうなされたときの寝言でつけていた見当が当たる。三輪もまた侵攻の傷が残っているのだとわかって、親近感が湧いた。なまえは弟を三輪は姉を亡くしていることが、一緒だとようやく実感できたのだ。城戸に話を聞いたときは親や祖父母かと思っていたから、そこまで共感できなかった。姉や弟という存在は親とはまた違って特別な存在なのだ。

「そう、」
みょうじ先輩も家族を亡くされているんですよね?」

 どこか暗い瞳で見つめられて、自分も同じような瞳で周囲を見ているのかもしれないな、と他人事のように思う。

「わたしは、弟と両親」
「……そうですか」
「弟は目の前で死んだよ」
「え、」

 自分が死なせてしまったの、と嗤いながら言葉を放てば、三輪も同じように嗤っていた。この子は、本当に、自分と同じなんだ、と感じざるを得ない。

「俺も、目の前で姉さんがトリオン兵に殺されました」
「そっかぁ」

 なまえと同じ体験をしている人間がいるだなんて思ってもみなかった。学校などで話していても、みんな瓦礫に巻き込まれて、とかそんな話ばかりで。目の前ではっきりと家族の死に目を見た、という人間はいなかったのだ。あの鮮烈で目を覆いたくなるような光景を誰も知らないのだと思っていた。
 ──だけど、ここになまえと同じ目に遭った人間がいる。
 それが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。誰にも理解してもらえなかったことが理解してもらえる、と思ったのだ。まるで暗がりで誰かに見つけてもらえるのを待つ子どもが見つけられたような気分になる。

「ねぇ、三輪。秀次って呼んでいい?」
「……構いませんよ。俺もみょうじ先輩のことを名前で呼んでいいですか?」
「もちろん」

 お互いなにをしようとしているのかは、言葉にしなくても理解できていた。なまえは三輪に弟を三輪は自身に姉を見ることを許容し合おう、と運命共同体のような、共犯者のような関係になったのはこの瞬間だった、とあとになって思う。
 すっかり体調がよくなった三輪にどうしてあそこまで体調不良だったのか問いかけた。
 家族を亡くした〝あの日〟のことを思い出すと夜眠れないことが多く、ここ一週間まともに寝ていなかったからだと思う、と言う。夜眠れない気持ちはよくわかるので、ひとつ提案をした。

「眠れない日、一緒に寝る?」
「え?」
「わたしも、あの日を思い出すとよく眠れないんだ」

 おどけたようにそう言えば、三輪がどうしようもなくなったらお願いします、と頭を下げた。現状は頼る気はないらしい。それはそれでいいけれど、どうしようもなくなったらいつでもおいで、と笑いかけた。

 三輪と心の距離がぐっと縮まったあの日から、二日に一度の頻度で三輪は部屋を訪ねてくるようになった。夜は身を寄せ合って一緒に眠り、互いの心音や呼吸が聞こえる距離で眠りに入るのはとても心地がいい。ひとりで眠るよりもぐっすりと眠ることができたのが喜ばしかった。三輪の顔色も良い日が増えていってよかったと思う。
 東などは思春期の男女が同じ部屋で眠るなんて、と小言を言ってくるけれど。なまえと三輪の間にやましいことなど何もないのだ。
 お互いが自分の家族の代替品でしかないから。
 入隊してから二年経過する頃にはたくさんの隊員が入隊して、ボーダーという組織はとても大きなものになっていた。やはり組織が大きくなるということは、城戸の読み通り派閥のようなものが形成される。そしてその城戸の思想を一番体現しているのはなまえ、ということになっていた。実力で言えば太刀川ではあるが、太刀川は忍田の弟子としても有名だから純粋な城戸派ではないんじゃないか、という認識の隊員もいるらしい。城戸派の思想を体現しているのはなまえでその次は三輪だと囁かれているようだ。
 近界民はすべて滅ぼすという考えを外に大々的に出しているからか、ほかの派閥の人間からは距離を置かれて、ひそひそと何か言われているのは知っている。けれど、それらを気にするようなことはしない。このポジションはなまえがなりたくてなったのだから、文句などありはしない。古くからいる人間──嵐山や柿崎──は何か言いた気だったが何も言えないように視線で制して黙殺した。余計なことは言わないでほしいのだ。
 城戸派筆頭、城戸派の過激派など周囲は好きなラベリングを自分にしてきた。取り合うことはないので好きにすればいいと思うが。
 組織が変遷していく中で、なまえの生活にも変化は訪れていた。寮で二年ほど過ごしたけれど、高校進学にあたって一人暮らしをしたい、と城戸にお願いしたのだ。スカウト組なども増えてきて、寮内が埋まりそうなのは知っているし、そんな中で異分子のような立場になっているなまえが居座り続けるのはよくないのでは、と告げた。
 すると、城戸もそこはどうにかしようと思っていたらしく、一人暮らしはすんなりと許可が下りた。
 警戒区域ギリギリに作られた新しいアパートは、なまえが両親と弟と暮らしていた周辺を再建したという建物で。商店街などからも遠いけれど、そこがいい、と選んだものだ。
 なんの感慨深さもない中学の卒業式の日、わざわざ三輪がなまえの通う中学まで迎えに来てくれたときは驚きでひっくり返りそうになった。

「秀次、こんなとこで何してるの」
なまえ先輩が卒業式って言っていたので祝おうかと」
「いい子だね~、秀次は」

 頭を撫でてやると抵抗するかと思いきや、享受の態勢になっていたので笑いそうになってしまった。すっかり三輪はなまえに懐いている──というかお互い依存しあっている。自覚はずっとあったのだ。東と諏訪には定期的に苦言を呈されているから。お前たちの関係は健全じゃない、と言われたのは一度や二度ではない。それでも、一緒にいることで安心してしまったし、空いていた穴が埋まっていくような感覚に満たされる。一度甘さを知ってしまえば手放せるはずがなかった。卒業証書の入った丸筒を持ちながら、中学から本部までの道のりを三輪と肩を並べて歩く。卒業式のつまらなさを話している途中で、無意識に口から卒業式の入場曲を鼻歌で歌っていた。

「それって卒業式の入場のときにかかる曲ですよね」
「あれ、秀次のところもこれだった?」

 パッヘルベルのカノンニ長調か~定番だね~、とにこやかに笑みを浮かべながら告げると、そんな曲名だったんですか、と曲名を知っていることを驚かれた。

「秀次に言ったことなかったっけ。弟が生きてた頃、クラシック音楽をやっていたの。そのときによく聞かせてくれたんだ」
「初めて聞きました」
「誰にも言ってないからね」

 クラシック音楽はそれなりに思い出が詰まっているから、また聞けるようになるまで時間がかかったものだ。今は三輪が居てくれるから、なんとなく聞けるようになってきただけで。
 西日に照らされながら、本部基地の近くにある公園の前を通りすぎようとすれば、仲睦まじい幼い姉弟の楽しそうな声が聞こえてくる。声の方に視線を動かせば、まだ小学生くらいの女の子が弟らしき小さな男と鬼ごっこをしているようだった。平和な世界だ、と思った。なまえと三輪たちにもああいう時期があっただろうか、と思い返そうにももう思い出せない。いつも弟のことを思い出そうとすれば、〝あの日〟の光景で思考が止まる。それより昔を遡れないのだ。
 隣の三輪を見ると小さな姉弟を眩しそうな視線で見つめていた。彼にも思うところはあるのだろう。

「あ、そうだ」

 数日前から言おうと思っていたことを思い出して、声を上げる。声につられて三輪がこちらに視線を向けた。

「どうしたんですか」
「四月から一人暮らしするの、わたし」
「え? 寮は」
「出る」

 間髪を入れずに言い切ると三輪が目を大きく見開いているのが見える。そこまで驚かなくても、と言えば、急に言われたら驚くに決まってる、と怒られた。

「秀次ならわたしが寮から出る理由もわかると思うけど」

 なまえの言いたいことを正確に理解したらしい三輪は、大きな大きなため息を吐いてわかりました、と言いたいことを飲み込んだようだ。そのあと引っ越しの手伝いの話などをされたけれど、引っ越しは城戸が業者を手配してくれたそうなので問題ない。三輪には先に住所を教えておいた。またいつでもおいで、と言えば、近いうちにでも伺います、と淡々とした返事をされる。
 最近また顔色が悪い日が増えているので、本当に近々来るんだろうな、と考えた。初めてふたりで眠った日から少なくない時間を過ごしてしまっているな、と気づいてはいけないことに気付いた気分になる。
 公園の横を通り抜けてからは基地に戻ったらすぐに荷造りをしなきゃ、とこのあとの予定を立てながら三輪と他愛もない話をした。

 中学を卒業したと思えばすぐに高校の入学式で、春というのはとても慌ただしい季節だと思う。入学式はひとりで過ごして教室でもボーダーのことを知っている人間が多いのか遠巻きにされていると思った。それでなにか困ることがあるわけでもないので基本的に放置だが。
 だるいから早く終わって基地に行って訓練でもしたいのにな、と考えていると目の前の席の人間が振り返ってきた。確か名前は水上、だったか。明るい髪色に気だるげな雰囲気で、大阪から来たとかなんとか自己紹介のときに言っていた気がする。この時期にわざわざ三門市に来ているのだから、おそらくそういうことなのだろう。

「よろしく」
「ども~」

 それだけ言うと水上はまた正面を向いた。
 お互い深く他人にかかわるタイプじゃないのはなんとなく理解できて、すこしだけほっとする。根掘り葉掘り聞いてくるやつだったりすると苦痛でしかないので。
 学校の居心地が悪いのは変わらないけれど、適当にやり過ごすしかないな、と開き直った。その状態で三年も過ごすとは思っていなかったけれど。せめてもの救いは二年に進級したときに三輪が一年で入学してきたことかもしれない。

§

 朝、家を出ると道路で雀が死んでいた。一羽はもう息が絶えており、微動だにしない。すこし離れたところに転がっているもう一羽はまだ生きているようで、わずかに動いているのが見えた。まだ息のある方をハンカチに包んで、近くにあった動物病院の存在を思い出し早歩きで向かう。
 残された死骸を尻目に今日の授業のことと任務のことを思い起こしてみるが、日付で当たるような科目もないし、順番が回ってくる科目もない。任務も待機任務なのでイレギュラーが起こらない限り出勤が早まることもないはずだ。
 今日はのんびりと授業を受けられそうだ、と昨日思っていたところだったので、軽い遅刻くらいは良いだろう。
 雀を拾ったところから歩いて二十五分のところにある動物病院の前で開くのを待っていると、早めにやってきた院長が時間外にもかかわらず診てくれた。一命を取り留めた雀はしばらく安静にしなければならない、と言う話だったので、まとまった金は放課後に持ってきます、と告げて連絡先と診察代の一部を残して動物病院を出る。スマートフォンで時間を確認すると、二時間目がちょうど始まったところだった。今から向かえば三時間目までにはおそらく間に合うだろう。気持ち早歩きで学校に向かった。

 学校に到着するなり職員室に足を運んだ。担任が席に不在だったので、その場にいた学年主任を捕まえて事情を話し、遅刻届にサインをもらって、遅刻もほどほどにな、とお小言を一緒にもらった。
 職員室を出る頃には二限目の終了のチャイムが鳴り、校舎内が騒がしくなったのがわかる。自分の教室に向かって歩いている途中の階段で、見知った丸くなっている不健康そうな雰囲気の背中が視界に入った。駆け寄って彼の左腕に自分の右腕を絡ませる。

「おはよう、秀次」
なまえ先輩、もう三時間目ですけど」
「相変わらずひどい隈だね。眠れてないの?」
「聞けよ。そもそもあんたには関係ないでしょう」
「あれ、眠れないならまた一緒に寝てあげようと思ったのに」
「うるさい」

 元々そこまでよくもなかった機嫌を不機嫌の方向にさらに悪化させて、絡めていた腕を振り払った三輪は、友人の米屋と出水の姿を見つけたらしくそちらに逃げていった。
 三輪の姿を見送って階段で一階分上がり自分の教室に入っていきながら、さきほどの三輪の姿を思い出して笑う。

「ほんと、かわいいなぁ」
「やっと来たか」

 教室に到着するなり無意識にひとりごとを言っていたらしく、クラスメイトに声をかけられて、聞かれたかもしれないことに気づき心臓がどきり、とした。自分の席に腰を下ろしながら前の席の穂刈に挨拶をする。

「穂刈、おはよう」
「大遅刻だけどな、お前は」
「単位は足りてるから大丈夫だって」

 そういうところはきっちり計算するタイプなのだ。 単位なんて落としていたら馬鹿馬鹿しいし、素行は悪くないつもりである。今日の五時間目、化学に変更になったぞ、と言われて、教科書家に忘れたかも、と教科書が学校にあるかどうかわからず少々焦った。
 結局ロッカーを確認すると、置きっぱなしにしていた教科書を発見したのでセーフだ。

「寝坊か?」
「ううん。朝、死にかけの動物を見つけてね」

 動物病院につれて行っていたら遅くなっちゃった、と笑ってみせる。話だけ聞けばとても慈愛的な人間に見えるのだろうな、と思いながら、あの雀の片方を助けたのはただの気まぐれだ。ただ、可哀想だと思った。死にかけているのに誰も他の人間は見向きもしなくて、まだ息はあるのに誰も助けてくれない。動物に絶望などという感情があるのかどうかはわからないが、人間であれば絶望に打ちひしがれているところだろう。

「弔ってやったのか、その動物」
「息が残ってた方を病院に連れて行っただけだよ」
「そうか」

 話がひと段落したところで教室の前方のドアが音を立てて開いた。次の授業の担当である物理の教師が入ってきたのが目に入る。今日やる単元はどこだったかな、とささいなことを考えた。

 午前中の授業を終えて、昼休みにパンでも買いに行こうと購買に向かうと、さきほどだる絡みをした不健康そうな後輩の姿を見つける。米屋と出水と一緒にいるようだが、空気を読まずに突撃してやった。本人は嫌がらせだと思っているかも知れないが、決して嫌がらせではない。猫可愛がりしているだけである。こんなことほかの後輩にしない、ということに三輪は気付くことはないのだ。それでいいし、そのままでいい。

「しゅーうじっ」

 ドン、と勢いをつけて三輪に背後から抱きつきに行くとバランスを崩しそうになったが、なんとか耐え凌いだのがわかる。出会ったときの非力そうな三輪であれば勢いで押し倒すことも可能だったのに、すっかりガタイも良くなってしまって男の子だなぁ、と実感した。

なまえ先輩」
「ごめんごめん。なに食べるの? パン?」
「あれ、みょうじ先輩じゃん。珍しい」
「やっほ~米屋。出水も」
「ちわーす」

 比較的交流のある後輩たちに挨拶をしつつ、身体を三輪にもたれかけさせていると、米屋にべりっと身体を剥がされる。その際に含みのある視線を向けられたので、同じような視線を返すのを忘れない。米屋がこちらに対してあまりいい感情を抱いていないことは知っている。なんなら、なまえと三輪に離れて欲しいと思っていることも。離れたところで三輪のそれが治るはずないのに、なんて内心で笑ってやる。
 三輪となまえの間には誰にも入れないところで繋がっている糸のような絆があって、米屋をはじめとする三輪の周りの人間は〝それ〟を邪魔だと思っていた。落ちそうになる三輪を掬い上げたのは誰だと思っているんだか。

「[surtname]先輩さっき影浦先輩が探してましたよ」
「まじ? なんかやったかな」
「また怒らせてるんじゃないですか?」
「え~身に覚えがありすぎてどれだかわかんないな~」

 出水曰く、それなりに殺気立った影浦が見つけたら伝えとけ、と言っていたらしい。朝から話していないけれど、なにかあっただろうか。何度思い返しても該当しそうなことが多すぎて、思い当たることがない。昨日勝手に影浦の体操服を仁礼に貸したことか、それとも北添に影浦が昼休みに校舎裏の穴場にいる猫に餌をやっていたことを話したことか。
 一体どれのことなのか考えることも放棄する。影浦の沸点は日によって微妙に差があるので読みきれないところがあるのだ。影浦の姿を確認してからあまりにもやばそうであれば、逃げ切ってしまえばいいだけである。

「まぁ、クラスに帰ったら捕まるだろうからいいや」
みょうじ先輩……そういうところが影浦先輩の神経を逆撫でしてるんだと思いますよ」
「知ってる~」

 悪びれもせずにそう言い切ってやると、出水も米屋も三輪もなんとも言えない表情を浮かべていた。
 なまえの性格の悪さなど既に知っているだろうに、なぜ三人揃ってそんな表情を浮かべているのかわからない。自分の性格の悪さは自覚しているし、性格が悪いと周囲から評価されていることも知っている。いまさら性格や人間性が変わるとも思わないので、死ぬまでこのままだと自分で思っていた。

「刺されないでくださいね」

 三輪からの突拍子もない忠告に首を傾げて、言われたことをうまく咀嚼できなかったので、思い浮かんだことをそのまま口から吐き出す。

「誰に? 鬼怒田さん?」
「なんでそこで鬼怒田さん……」
「トリガーぶっ壊しまくってるから」
「あぁ……」

 納得したような声をあげる出水と米屋に、そういえば直近でトリガー壊したところ見られていたんだっけ、とすこし前の出来事を思い出した。夜勤で任務についていたけれど、突然換装体だけが解除されてしまい、そのままどうにでもなあれ、と思いながらなぜかスコーピオンだけが起動した状態のトリガーを近界民に投げつけただけだ。
 正しい使い方ではないので、案の定壊れてしまったけれど。トリガーがなぜ不具合を起こしたのかは開発室で解析中であるが、自分にとってはよくあることなので気にしていなかった。エンジニアの話によると、自身のトリオンの質がボーダーのトリガーの規格に合っていないんじゃないか、ということらしい。推測の域を出ないのでなんとも言えないが。
 玉狛支部の特別規格のトリガーであれば故障が起こらない可能性は高いらしいが、死んでも玉狛支部を頼るつもりはないので、このまま不具合と付き合っていくしかないだろう。

「とりあえず、さっさと謝った方がいいと思いますよ」
「うん、気が向いたら謝っとく」
「うわ、ぜったい謝らねぇやつじゃん」

 なまえが本当に悪いのかどうかもわからないのに謝る義理はない、というのが信条なので、本当に自分が悪いとき以外に謝りたくないというのは通常の思考だと思うのだ。
 ひとまず教室に戻って影浦に捕まってからどうするかは考えよう、と思考を後回しにした。

 学校の授業を終えてから本部基地に向かい、淡々と命じられた任務を熟す。今日はB級の香取隊との任務なので、気が楽だ。全員後輩であるし、香取は扱い方さえ分かればそれほど難しい存在ではない。香取さえ攻略すれば他の二人は右にならえだし、染井はそもそも合理的な考え方をする人間なので、オペレーターの指示としても無駄がなくて好ましかった。そんな彼らと遂行していく任務に不満などない。
 警戒区域の南西を任され、ゲートから出てきたモードレッドを旋空弧月で切り刻んでいく。平時であれば三体居れば多い方なのに、今日は五体も居て千客万来だな、と思った。連携してモードレッドを倒していく香取隊を横目に、個人で二体のモードレッドにとどめを刺す。最後の一体を香取隊が倒したのを確認して弧月を納刀した。
 オペレートをしてくれた染井に周囲の状況を確認すると、他の発生は見られない、とのことだったので、シフトの担当時間が終わるまで倒したモードレッドの上に乗り、のんびりと過ごす。
 頭上に輝く星空をぼうっと眺めていると、隣に隊長である香取が座り話しかけてきた。出会った当初に鼻っ面をへし折ってやったせいか、変に懐かれている気はする。

「うちこのあとランク戦入れられてるんですよ、ひどいと思いません?」
「ランク戦の組み合わせばっかりはね~、どうしようもないよね~」
なまえ先輩から上に言ってくださいよ」
「おい、葉子」

 見かねた若村が香取を止めにかかるが、香取が話をやめることはなかった。香取の愚痴を聞くのはこれが初めてではないから、気にしなくてもいいのに。
 若村はそういうところがひどく真面目で礼儀正しいと思う。

「香取。いつもお願いしてくれるのは嬉しいけど、わたし別にえらいひとじゃないからね」
「でも、城戸司令と話してること多いですよね?」
「まぁ、香取よりは多いかな」
「ほらぁ」

 城戸となまえが懇意な関係であることを知らないのは、新入隊員くらいなものだろう。それほどになまえが城戸の呼び出されている回数が多いことは知っていた。大体は近況報告と現状についての意思確認と城戸に叛かないよう見張られているだけだが。ここまで来て裏切るつもりなんてないのに、と内心で愚痴をこぼす。
 いわゆる城戸派のトップのなまえは彼にとって動かしやすい駒で、本来であれば個人総合ランク一位の太刀川をそばに置きたかったのだろう。しかし、彼は本部長の弟子であるからこそ城戸派の思想に染まりきらないし、なんなら太刀川は忍田派からのスパイかと思っていた時期もなくはなかった。実際の所、ただたくさん近界民を倒したいのと遠征に行きたいから城戸派にいるだけだったが。太刀川がそういう意味で使えないから、なまえが城戸の側に置かれている。城戸の表向きの思想を一番理解し体現できているのは自分、だという自負もあった。
 近界民はすべて敵だし、殺していい。それがなまえと城戸の間で交わした密約でもある。
 任務を終えて換装体を解除して帰り支度をし、合同だった香取隊に挨拶をしてから本部基地を出ようとすれば、背後から人の気配を感じて振り返る。それと同時に右手を掴まれて、掴んできた人間を確認すると顔色を悪くしている三輪の姿があった。周囲を見ると米屋や奈良坂の姿はないので、彼らとは別れたあとなのだろう。
 こうなっている三輪を見るのは初めてではないので、扱い方は知っていた。掴んできた彼の手を掴み返して、微笑みを向ける。いつもは見せない穏やかな笑みを浮かべて見せれば、三輪が息をふっ、と吐いて落ち着くのはわかりきっていた。この表情は彼を落ち着かせる効果を持っているのだ。

「秀次、今日、うちくる?」

 笑みを浮かべたままやさしさを滲ませた声で問いかけると、こくり、と頷いたのでそのまま家につれて帰ることにする。もちろん、彼の親に連絡させるのは忘れない。無断外泊させるほど落ちぶれてはいないのだ。
 繋いだ手を離さないままのんびり歩きながら、重いんだか軽いんだかわからない足取りで帰路を辿っていく。何かあったのか聞こうかとも思ったが、今日は口が重そうな気配を感じ取ったので無理に話をさせるのはやめた。
 ひとりで住んでいるアパートにやってきて、三輪を迎え入れる。今日の前に来たのは先週だったか。
 出会った頃は二日に一度くらいのペースで来ていたから、だいぶ落ち着いたな、と思う。
 三輪をお風呂に入らせている間に家にある食材で適当に数品作り、食卓代わりにしているローテーブルに並べているところで、入浴を終えた三輪が戻ってきた。カラスの行水かと思うほど早く出てきた彼の身体を自分に引き寄せれば、大人しく近寄ってきて頭を下げる。彼がお風呂から出てきたときから肩にかけていたタオルを手にとって頭にかぶせて、両手でわしゃわしゃと頭を撫でた。髪の水分を取っていて、ある程度取れたと感じられたところで、彼をベッドに座らせて自分はベッド脇のカラーボックスに入れて得るドライヤーを持ってくる。
 壁の穴にコンセントを差し込んだのを確認して、三輪の背後に回って腰を下ろした。目の前の形のいい頭に温風を当てていく。しっとりとした触感の髪が乾いて、段々とさらさらとしたものに変わっていくのを感じた。あの子の髪の毛もこんな風に乾かしてあげたな、なんて郷愁に似たなにかが自分の胸を掠めていく。
 最後に冷風を当てて完成したのを指先で撫でて、指通りの良いさらさらとした感触を味わい満足感を得た。なまえの癖っ毛の髪とは違うそれを羨ましいとも思うし、一緒じゃなくて良かったと安堵する。

「はい、完成」
なまえせんぱい」

 普段の会話では決して滲み出ることのない幼さが含まれた声色の言葉に反応する。宥めるようにやさしくまあるいやわらかい声で穏やかに返事をした。

「なあに、秀次」
なまえせんぱいは、どこにもいかないでください」

 どこか薄暗い場所にひとり置いて行かれたこどものようだ、と思いつつ、三輪の目を見ると意思の強さがなりを潜めて、孤独に似た昏いなにかが溢れ出し飲み込まれそうだと思った。まるで親が子どもを守るように包み込むように抱きしめてやる。彼になまえの心臓の音を聞こえるようにしてやれば、明日の朝にもこちらまでちゃんと戻ってくるだろう。
 どのくらいそうしていたのかはわからないが、さらに夜が更けた頃に自身のスマートフォンが着信を告げる音を鳴らす。若干現実に戻ってきたらしい三輪の目から昏いそれは減少しているように感じ取った。ベッド脇のチェストの上に放置していたスマートフォンを手に取りながら、三輪に机の上のご飯食べちゃいな、と指示を出す。
 ベッドから降りた三輪はそのままのろのろとした足取りでキッチンの方へ向かっていった。おそらく彼の食器を取りに行ったのだろう。その後ろ姿を眺めながら、一向に着信音の切れる気配のないスマートフォンの画面を確認した。

「げ、水上じゃん」

 着信相手を確認すると得意ではないクラスメイトの水上からだった。
 出たくないな、と思いながら、渋々応答ボタンを押してから受信口を耳に当てる。

「はいもしもぉし」
「あー、俺俺」
「オレオレ詐欺は間に合ってま~す」
「じゃかぁしいわ」
「おー、こわ。てか何? 用ないなら切っていい?」
「あかんあかん切るな。お前明日の任務うちと合同に変更やから」
「えぇ~嫌すぎ~」
「十四時に作戦室来ぃや」
「はいはーい」
なまえ先輩、」
「あ、人が呼んでるから切るわ。じゃね」

 あ、おい、なんて引き止められる声が受話器越しに聞こえたけれど、知らないふりをしてそのまま通話を終了させた。ついでスマートフォンの電源自体も落としてしまう。
 どうせまたお小言を言われるのは目に見えていた。お前は親か、と何度言いたくなったかわからない。水上との話しが終わっていると思っていたのか、話しかけてきた三輪はわずかに気まずそうな表情を浮かべていた。
 なにも疚しいことなどないのだから、普通にしていたらいいのに。性格の根っこのところが変わらないから、こういうときに気まずそうにするのだろう。三輪に足りないのはきっと図太さだと心底思った。薄いガラスみたいに繊細で扱いに気をつけなければ、なにかの拍子に簡単に割れてしまうそれは、彼の脆い部分だと思う。

なまえ先輩こっち」
「え、なに」

 手を掴まれてベッドから強制的に立たされ、キッチンまで連れて行かれる。シンクを指差すので、見てみればお気に入りのマグカップの持ち手部分が中で綺麗に取れているのが見えた。罅も入らずに取れているのを見るのから推測するに、おそらく接着剤の寿命で取れてしまったのだろう。白地にブラウンのインクで鳥が描かれているコップは昔家族がプレゼントしてくれたものだ。それを知っているから、三輪は何とも言えない表情を浮かべているのだろう。
「洗ってる途中に突然取れて」

「うん、寿命だったんだと思う。もう十年くらい使ってるやつだから。それより秀次は怪我しなかった?」
「それは大丈夫です」
「ならよかった」

 このコップは次の燃えないゴミの日に出しちゃうわ、と言いながら、キッチン下の収納スペースからストックしてある新聞紙を取り出して、持ち手部分はカップの中に入れてしまってまとめて新聞紙で包んだ。元々捨てる予定だった燃えないゴミと一緒に同じ袋に入れて、玄関の上り口のところに置いておく。

「おいで、秀次」

 キッチンで佇んでいる三輪の手を引いてベッドに連れ戻した。水上からの電話で戻ってきたかと思えば、そこまで戻って来られなかったらしい。ベッドに寝転ばせて掛布団を肩までかけてやる。今日の彼は幼いこどもなのだ、扱いは気を付けないといけない。ベッドに入った三輪の隣になまえの体も滑り込ませて並んで寝転がった。普段は三輪の方が身長は高いのですこし目線を上げて話すことが多いけれど、ベッドで眠るときは横になっているから同じ目線の高さで眠れるからきらいではない。
 ひんやりとしたなまえのものより幾分か温かい彼の足に自分のそれを絡ませた。こんなに密着していてもそういう雰囲気にならないのが不思議だ、と言ったのは誰だったか。勘違いしている人間は多いが、別に三輪と恋人ではないし、彼を洗脳してもいない。彼となまえはただ同じ思想に縋りつく惨めな存在というだけだ。

なまえ先輩、」
「どうしたの、秀次」
「近界民は全部敵ですよね……?」
「当たり前じゃん」

 不安げなまなざしを向けてくるものだから、一切の躊躇もなく自信満々に言い切ってやった。そうすると、安心したようにわずかに口元を緩めたのがわかる。なるほど、なんとなく彼の根幹が揺れるようななにかがあったのかな、と推測した。さきほど乾かしてやったさらさらの髪を撫でてあげながら、自分にも言い聞かせるように言葉を重ねる。

「近界民は敵。それでいいんだよ」

 安心したらしい三輪はゆっくりと瞼を下ろして眠りについた。すこしすると隣から穏やかな寝息が聞こえてきたので、眠ったのだろう。すこし厄介な任務を三輪に渡す、と城戸から聞いてはいたが、まさかここまで調子が悪くなるようなことだとは思わなかった。目の下のひどくなった隈をなぞって、早く消えますように、なんて本人が願ってもいないこと願う。三輪の寝息を聞きながら、自分も瞼を下ろして眠りについた。

 顔にやわらかい暖かさを感じてなまえが目をうっすらと開けると、窓の隙間から差し込んだ朝日が見えた。もう朝になったのか、と当たり前なことを考える。隣を見ると三輪はまだ寝ているようで、起こさないようにこっそりとベッドを抜け出した。顔を洗って歯を磨いてさっぱりしたところで、キッチンに戻り朝食の準備をする。
 自分ひとりであれば朝食など食べなくても平気だが、さすがに三輪にも同じことをしろ、とは言えないので彼がいるときは朝食を作るようにしていた。朝食、と言っても大層なものではなく、ただのトーストとヨーグルトとサラダくらいのものだが。足りなければ朝コンビニに寄って買い食いしながら学校に行きな、と以前に伝えてある。買っている姿を見たことはないけれど。
 キッチンに置いてあるトースターに六枚切りの食パンをセットして、焼きあがるまでの隙に冷蔵庫に入っている食材やらを取り出す。まずはトマトときゅうりを切りレタスをちぎった。お皿に盛りつけて脇に避け、次はヨーグルトを取り出して器に移す。チンッ、と明るい音を鳴らしたトースターを見ると、食パンがきれいなきつね色になっているのが確認できた。トースト用のお皿も出し、三輪の皿には二枚、なまえの皿には一枚載せる。朝食が完成したところでお盆に乗せまとめてローテーブルに運んだ。ランチョンマットなどというものはこの家にないので、食器を直に並べながらベッドで眠ったままの三輪に声をかける。

「秀次ー朝だよ」
「んん、」

 のそり、とベッドから起き上がって瞼をさすっている眠気を残した三輪に顔を洗うように言う。大人しくベッドから降りて洗面所に向かう三輪の背中を見送りながら、お盆をキッチンに置きに行ってまだ用意していなかったカトラリーとマーガリンを持ってきて、すでに並べてある食器と一緒に並べた。
 準備ができたぞ、と思ったところでタイミングよく三輪が戻ってくる。なまえが座っている場所の向かい側に当たり前のように座る姿を眺めながら、馴染んでいるなぁ、と自分とは関係がないことのように思った。
 お互い自分の手を合わせて同じタイミングでいただきます、と挨拶の言葉を言う。なまえはサラダに手を伸ばして、三輪はトーストにつけるためのマーガリンに手を伸ばしていた。朝食を何度か共にしているけれど、会話らしい会話は特に行われない。なまえが親に食事中に話すのは行儀が悪いと言われて育ったのもあるし、三輪もそう言われて育った節が見え隠れしていた。
 三輪もなまえも朝食を食べ終わる頃には、学校に向かうのにちょうどいい時間になっていて、洗い物は帰ってから行おうとシンクに置いておく。もちろん水を入れておくのを忘れない。
 身支度を整えて三輪と一緒に家を出る。施錠をしたのを確認して、そのまま並んで歩いて学校へ向かった。学校が見えてきた辺りで肩をグーで殴られた感覚に後ろを振り返れば、見慣れたクラスメイトの姿がある。昨日の電話を強制終了させてしまったからか、若干イラついているようだった。
 隣を歩く三輪を一瞥してから、殴ってきたクラスメイト──水上が挨拶をするのを見守る。

「三輪、おはようさん」
「水上先輩、おはようございます」
「さっき米屋が探しとったで。多分今昇降口辺りにいると思うわ」
「わかりました。なまえ先輩、じゃあ」
「んー。またね秀次」

 手を振りつつ米屋に呼ばれたらしい三輪の後ろ姿を見送った。いつの間にか隣に立っていた水上に視線を向ければ、呆れたようにあからさまなため息を吐かれる。

「今日十四時に生駒隊の作戦室でしょ。忘れてないって」
「それもそうやけど……三輪のやつ、またおまえんち行ってたん」
「そうだけど~?」
「おまえらがそれでええならええけど。自分の外聞が悪いんはええんか」
「いいよ、別に。どうせどいつもこいつも面と向かっては言ってこないし。事実と完全に異なってるわけじゃないし」
「あ? やっぱヤッてんのか」
「キッショ。秀次とはそういうんじゃないし。でも、ある意味秀次を唆してるかもね」
「ふーん」

 聞いてきておいて興味のなさそうな反応を示す水上に、今度はこちらがあからさまにため息を吐いてやる。聞いてくるなら最後まで興味を持てよ、と言いたくなった。同年代の中でなまえが悪人のようなポジションの扱いをされていることは知っているし、それを訂正する予定もない。近界民への過度な憎しみは身を滅ぼすよ、と言ってきた嫌いな人間の顔が頭を過ったせいで眉間にしわが寄る。未来をどんなに見据えていようが自分の信条以外を優先するつもりは微塵もない。なまえがボーダーにいる意味なんて、入隊したときから微塵も変わっていないのだ。どうでもいい有象無象など放って置けばいいし、言いたい奴には言わせておけばいい。なまえは痛くも痒くもないのだから。信じていいのは城戸との約束と、近界民はすべて敵だという指標だけでいい。

 §

 近界民がボーダーに入隊する──いや、入隊したと聞かされたのは遠征から帰ってきた風間に会ったときのことだ。いわゆる城戸派筆頭のなまえがこの話を聞いていれば、居てもたってもいられなくて件の近界民に近づくはずだ、と思っていたのに、動きがないから不思議に思って声をかけてきたらしい。
 そんな大事なことを教えてくれなかった城戸に怒りを覚え、風間との話もそのままに司令室に向かった。どすどす、と怒りが足取りに現れているからから、出会う人間すべてがモーゼの十戒のように避けていく。司令室に到着してインターホンで名を名乗ればすぐに中に通された。中に入っていけば城戸しかいなかったので、好都合だと思う。掴みかかりそうになるのをなんとか堪えて、言いたいことを目の前の人間に問いかけるために名前を呼んだ。

「城戸さん」
「きみの言いたいことはわかっている」
「じゃあなんで近界民の入隊を認めているの」
「前例はあるだろう」
「そうね、わたしはそれすらも嫌だったけど、クローニンたちの方が先にいたから。言いたかったことは全部飲み込んでたよ」
「今回の近界民もクローニンと同じ玉狛支部の配属になる」
「だから許せって? いつからここは近界民の入隊を認めたのかな」
「だが、近界民の入隊を拒否するという規則もない」
「…………そう。今回はそういう考えなのね」

 訂正をするつもりがないらしいことは理解できた。
 城戸が決めたことに逆らうことは許されないのだ。城戸派の思想はあくまで思想であって、城戸の本意でないというのはだいぶ昔に聞かせられていた。
 それでも、数を集めるためにそういう思想は必要で、その思想のためには忍田派の忍田のように象徴的な人間が必要だ、とも。だから、きみがその存在になってくれ、と言われて交換条件を出した。それでもいいなら、思い描く道化になってあげましょう、と。

「城戸さん、近界民は全部殺していいんだよね?」
「あぁ。規則に違反しない範囲でなら、な」
「わかった。お邪魔しました」

 玉狛支部の近界民は殺してはいけない、と言外に釘を刺されたのが分かった。入隊を認めた時点でそうなるのだろうな、とは思っていたけれど、気分はよくない。近界民を駆逐したくて、駆逐するためだけに、この組織に入ったと言うのに。
 司令室を出て訓練室に向かおう足を進める。今は個人ランク戦をして誰でもいいからぶった切りたい気分だった。

「秀次はこのことを知っていたのかな」

 訓練室に向かっている途中で、ふとそんなことを思い、足を止める。だから、ここ最近の様子がおかしかったのかもしれない。憎むべきだと言っていた存在を許容する城戸を三輪は許せたのだろうか。
 なまえは許すつもりは毛頭ないが、彼はやさしい子だから、昔のなまえと同じようにいろいろな言いたいことを飲み込んだのかもしれない。理解されない葛藤を消化するのにかかる時間が膨大であることは知っていたし、今もそれを実感している真っ最中だ。なまえよりも気持ちに折り合いをつけるのが下手くそな三輪は大丈夫だろうか、と心配になる。
 そんなことを思っていたからか知らないが、目の前にゆらりと三輪が現れた。隊服を着ているから任務終わりなのか任務前なのかはわからない。見つめたことで視線を感じたらしく、三輪はこちらに気付いて駆け寄ってきた。

なまえ先輩」
「秀次、これから任務?」
「夕方からなのでまだです」
「そう、」
「あの、すこし話せませんか」
「いいよ」

 訓練室からも隊の訓練室からも離れたところにある自販機コーナーに向かう。人の目がない方が良いと判断した。物騒な話になるかもしれないし、同じ思想に寄りかかっているなまえたちは、並んでいるだけで噂にされるのだから面倒だと思う。自販機コーナーで三輪がよく飲むコーヒーを買ってやり、なまえはいちごミルクを買った。彼の分を差し出しつつ、自販機横のベンチに二人で並んで腰を下ろす。
 飲み物を飲みつつ聞いた三輪からの話はなまえの予想していたものに近しいものだった。件の近界民と最初に接触して、監視して、遠征組と迅・嵐山隊でやり合った話を聞かされる。そしてそのあとに迅が城戸に風刃を差し出したことで、近界民は入隊を許可された、と。

「わたしがいないところでされたのが気分悪いわ」
なまえ先輩には言うな、と城戸司令に言われて」
「あぁ、ごめん。秀次を責めているわけじゃないの。どちらかと言えば城戸さんにかな」

 城戸の本意はなんとなく感じ取っている。明確に口にしているのを聞いたことはないけれど、大体の想像はついていて、その考えは外れていないはずだ。何度か食事をした際に、城戸は本当に近界民を憎んでいるようには感じなかったからで。おそらく区別をしている人間なのだと思った。なまえのように近界民はすべて殺す、という思考ではなく、それこそ玉狛支部の思想に近いものだろう。
 いつかこの組織からなまえの居場所がなくなってしまうかもしれないな、と漫然とそう思った。そういう未来がいつかやってきてもなにもおかしくない、と。そう思うと同時に、頭の中に浮かんだことを三輪に投げかける。

「秀次は復讐が完遂されたらどうする?」
「……そんなこと考える暇があったら一体でも多く近界民を狩るだけです。そういうなまえ先輩はどうなんですか」
「わたし? わたしは──死んじゃうんじゃない?」

 自分のことなのに他人事のような言い方になったしまったな、と言葉にしてから反省する。生きていることに価値を見出せないし、やりたいことがなにか聞かれたら近界民をすべて殺したい、くらいしか思いつかない。おかげで進路希望調査表も毎回白紙である。今の状態でない未来をうまく想像できないのだ。なまえの生活はあの第一次大規模侵攻の日から、自分と近界民とボーダーしか存在していない。進路自体は成績がいいのだから大学に行ってはどうか、と担任に言われているのでひとまずその方向で進めてはいる。しかし、別に奨学金を借りてまで大学に行く必要性も感じないのが正直なところだ。
 放った言葉が彼にとって予想外だったのか、三輪が大きく目を見開いていた。そんなに驚くことだろうか。揶揄うように笑って、驚いたままの三輪に追い打ちをかける。

「一緒に死ぬ?」

 なーんて、冗談だよ、と続けて告げ笑って見せれば、三輪は無意識だろうけれど安堵の息を吐いていた。心中は趣味じゃないので安心してほしい。三輪のような前途があって人望もある人間をなまえの道連れにするほど落ちぶれてはいないつもりだ。話していて気づいたことではあるけれど、かなりぶれているなぁ、と感じた。なにかの心境の変化があったのかなかったのか。まぁ、前者なのだろうけれど。
 そう言えば聞きたかったけれど聞けていなかったことを思い出して、ついでに最後にひとつだけ質問する。

「秀次はあの玉狛の近界民が憎くないの?」
「わかりません……」

 物事をはっきりと言う三輪にしては珍しい解答だと思ったし、少し前の三輪であれば即答で憎いです、と言っていただろうに。やはりなにかの変化が彼の中で起こっているのだろう。自分との違いを理解してしまって、寂しさを覚えた。
 話が終わった頃に三輪の端末が鳴って月見に呼び出された、と連絡内容を教えてくれ、作戦室に向かうためにその場を後にする。背中の雰囲気が変化しているようには感じるけれど、どうかな、なんて考えた。
 ひとを観察するのはもはや癖だ。第一次大規模侵攻よりもずっとずっと前から行っていた習性のようなもの、と言ってしまってもいいだろう。元々ここまでひどくはなかったが、侵攻以降はそうしなければ、生きていることができなかったのだから。

「あんたもわたしを置いていくんだね」

 姿が見えなくなったところで口から出たつぶやきに自分で驚いた。
 なまえが思っていたよりも三輪を自分の中に住まわせてしまっていたらしい。けれど、それもどこかでやめなければ。自分がだめになってしまうのは目に見えていた。

 C級の訓練室に向かって誰か個人ランク戦をしてくれないだろうか、と視線をきょろきょろとさせていると、眩しい笑顔がこちらに手を振っているのが見える。知らないふりをして踵を返そうとすれば、名前を大きめの声で呼ばれて呼び止められた。周囲の視線がなまえに集まるのがわかる。いやいやながらに名前を呼んできたその人物の元に向かった。

「なんですか、嵐山さん」

 心底嫌悪しています、という声の色を隠さずに話しかけると、そんなものをものともせずいつもの元気な調子で会話が続く。

「最近姿を見ていないからどうしていたかと思ってな」
「防衛任務はちゃんと出ていましたよ」
「それは知ってる。充からよく休んでいるようだ、と聞いているぞ」
「単位は計算して休んでるから大丈夫でーす」

 世間話をしたいならほかの人にしてくれませんか、と言い放てば、みょうじに話があるんだ、と引き止められる。早くこの場から離れたいのにな、と思うことくらいは許してほしい。この圧倒的な光属性の先輩を好きではなかった。なまえにないものを持っていて、人望もなにもかも持っている人間は苦手だ。それにひとを放って置けないお節介なところも正直なまえではなくほかの人間に施してやってほしいと思う。

みょうじは変わらないのか?」

 矢が射られたようなまっすぐとした視線を向けられて、刃物のような鋭い言葉が自分を突き刺したのが分かった。言外に三輪は変わりつつあるぞ、と言っている声が聞こえて嫌悪感が増す。玉狛支部と距離の近いやつらはこれだから嫌いだ。彼らにその気はなくてもまるでなまえが間違えている、とでも言われている気分になる。宗教を信仰するのと同じようにどの思想を信仰しようが個人の自由だろう、と言い返したくなったのをぐっと堪えて飲み込んだ。三輪が悩むように刺激した犯人がわかったのは収穫があったと思うけれど。

「秀次に余計なことを言ったのは、嵐山さんか」
「復讐に囚われすぎると身を滅ぼすぞ」

 正義のヒーローにはこちらの思想を理解できないことを知っている。忍田派はあくまで専守防衛だから、なまえたちのように近界民はすべて殺すという思想とは大きく異なるからこそ相容れないし、相容れたいとも思わない。言い方が悪いが、忍田派についているひとの大半は、大事な人を目の前で失っていない人間が多いと感じる。
 自分のように目の前で近界民に弟を殺された人間の気持ちなんてわかりやしないし、わかってほしいとも思わない。

「願ってもないことですね」

 わたしね、早く消えてしまいたいんですよ。
 うっそりとした笑みを嵐山に向ければ、息を飲んだのが分かった。そこまで考えていると思っていなかったのかもしれない。あの日、あの場所で目の前で弟が死んだ日から、この世に留まる未練なんて本当はなにもないのだ。
 なにもないからこそ、城戸派の思想に縋り付いて生きていくしかなかった。そうでもしないとなまえもこの世から消えてしまいたいという気持ちに飲み込まれそうだったから。
 これ以上の会話は無意味だと思い、嵐山に挨拶をしてその場を足早に離れる。このあとは任務もなにもないから、さっさと家に帰ってしまおう、と結局個人ランク戦もせずに本部基地から出て家に帰ることにした。

 体調が芳しくないからか夢見が悪くて休んでやろうかな、と思っていたのに、単位がやばい授業しかないことを思い出した。ベッドからなんとか這い出て準備をして、登校してきたところに、米屋からの強襲を受けて気分は萎えている。許されるのならば今すぐ家に帰りたい。
 早く来てしまったせいでひとがまばらな下駄箱で靴を履き替えていると、下駄箱近くの掲示板の前に凭れている米屋の姿を発見して、視線が交わるなり嫌な予感はしていたのだ。迅の予知で近々近界民が攻め込んでくるということで、警戒態勢を敷いているからか、空気がひりついている校内でなんのようかと思えば屋上に連れ出される。
 早い時間なので当たり前だが、屋上には誰もいない。二人きりで話すことなどひとつしかなくて、聞く体勢になるために屋上のフェンスにもたれかかった。

「で? 米屋は何の用? 珍しくこんな朝早くから登校してるくらいだし、大事なことなんでしょう?」
みょうじ先輩。秀次は今やっと、考えてるんだ。邪魔しないでやって」
「──そう」

 なんのことかと思えばそんなこと、と言わなかった自分を褒めたたえたいと思う。三輪の周囲が彼の変化を喜んでいるのは、ここ最近のなまえへの当たりで分かっていた。三輪と接触しようとするとはぐらかされたり、なんなら基地では東にまで放って置いてやってくれ、と言われたくらいだ。さしずめ自分は三輪が良い方向に進もうとしているのに、悪い方向に引き戻そうとする悪役なのだろう。
 どうしようもなくてつらくて死にそうなときに、誰も彼に手を差し伸べられなかったくせに、と言えればどんなによかっただろうか。壊れそうな彼をぎりぎりのところで押し留めていたのは誰かも知らないくせに、反吐が出ると思った。
 あのときどうやって彼をすくい上げたのか、を誰かに言うつもりはないが。
 けれど、同じ思想を共有しなくなりつつある三輪とは距離を置いた方が良いだろうな、というもの冷静に理解していたところもある。これを機に離れてしまったほうが良いだろう。

「いいよ、わたしから秀次には接触しない。それでいい?」
「うん。────ごめんな、みょうじ先輩」

 謝罪は受け取らなかった。そのまま米屋を残して屋上から校内に戻る。教室に戻りながら考えるのは、謝るくらいなら言って来てんじゃねーよ、ということだけだ。朝からほどほどに不快な思いにさせられたから帰ってもいいだろうか、なんて教師が聞いていたら許されないことを思った。

 §

 米屋と話してから約束を守るためになるべく三輪を避けて生活をしていた。なにか言いた気な視線を向けてきているのは感じていたけれど、すべて無視して気づいていないふりをし、話しかけられても先生に呼ばれているから、と躱す。そんな生活をして二日経過して、あきらめたかと思いきや、そうは問屋が卸さなかったらしい。

「なにしてるの秀次」
「最近、なまえ先輩と話してないと思って」

 家のドアの前になにかいると思えば三輪がしゃがみこんでいた。今日任務はなかったの、とか、どのくらい待っていたの、とか言いたいことはいろいろあったけれど、聞けることはなにをしているの、くらいだ。あまり話していると余計なことを言ってしまいそうで、言葉を交わすことに躊躇を覚える。
 本人はなんでもないように話していないから話しに来た、といつもの調子で言うのだ。それがおかしくて笑いそうになった。わざと避けられていたことに気づいてないわけないだろうに、いつも通りでいようとする姿にこころがくすぐられる。

「話すことなんてないよ。もうわたしが居なくても、大丈夫でしょ?」

 彼がこれ以上なまえの側に留まることがないように、周囲が求めている明るい方向へ向かえるのなら背中を押すしか自分にはできない。今のなまえはきっと三輪にとっての癌だ。

「いいこちゃんはいいこちゃんの世界へ帰りな。わたしは秀次と同じようにはなれない」

 取り付く島もないようにそう言い放る。三輪は口をわなわなとさせたあとに閉じて、お辞儀をひとつだけして家の中には入らず帰っていった。次に三輪と話すことがあるとすれば、彼がまた孤独のような昏いなにかに飲み込まれそうになったときだろう。それまで手を差し伸べる必要はない。元々、やさしい三輪には手を差し伸べようとする人間は居たのだ。彼はその手の掴み方を知らなかっただけで、なまえは掴み方を教えただけ。
 弟が姉離れしたらこんな気分なのだろうか、と遠い昔に思いを馳せて、死んでしまいたいなぁ、と漠然と思う。
 消えてしまえたら、どんなに楽だろうか、とも。

 事前に通達されていた第二次大規模侵攻は、結局三輪が家に来た翌々日に起こった。学校に開いた門から生徒を遠ざけてシェルターに誘導している教師を尻目に、連絡された区域に向かえば民間人を襲おうとしている角のついている近界民を見つける。すかさず換装して近界民と民間人の間に入って民間人を逃がし、相手と距離を取りつつ様子を見た。内部通話で司令部に連絡を入れるのを忘れない。

「人型近界民と接触。戦闘を開始します」

 無理はするなよ、という指揮を執る忍田の声に了解、と返事をする。黒いマントを纏っている男に斬りかかって、応援が来るまで周囲に被害が出ないように凌いだ。力量に関しては、相手の方が上なのは初手を交わした時点からわかっていたので、なまえにできるのは時間稼ぎだけである。民間人の方に行かないようにその場に留めようと弧月と拳銃型の通常弾で応戦した。なんとなく遊ばれている気配を感じて、敵は本気すら出していないことに苛立ちを覚える。もっとなまえが強ければよかったのに、トリオンも豊富じゃないなまえはB級中位程度の実力しかない。早く誰か来てほしいな、と情けないけれど思う。
 本部からの通信であと五分もすれば応援が到着するから、という声にここででかいのを相手にぶつけよう、と炸裂弾を放った後に換装体が解除された。相手のトリガーの効果かと思ったが、どうやらいつもの不具合にぶち当たったらしい。なんでこんな大事なときに畜生、と思いつつ、人型近界民と距離を取って思考する。
 この場を乗り切るにはどうすれば、と考えつつ、味方が到着するまでの時間を計算した。計算した矢先に、なまえの身体からトリオン器官を抜き取られたのがわかる。心臓の横に穴が開いて息がし辛い気がした。あの日のあの子も、こんなに風に痛かったのだろうか。じくじくと痛みを主張する胸に自らとどめを刺してしまいたい、という気持ちと、だれかわたしを終わらせてくれたらいいのにという気持ちが入り混じる。なまえがブラックトリガーを作れるようなトリオンの持ち主だったら良かったのに。そしたら、あの子に、なんて。──場違いなことを考えるのはやめよう。きっとなまえがブラックトリガーなんかになってもきっと三輪に迷惑をかけるだけだ。
 トリオン器官を失ったことで立っているのも座っているのもつらくて地面に突っ伏した。ゼーゼー、と息ができているんだかできていないんだかわからない呼吸音だけが自分の耳に届く。人型の近界民はどこかへ行ってしまったようで、せめて行った方角だけでも伝えようと本部に連絡を入れても返事はない。
 なにかあったのだろうか。

「秀次、」

 自分で思っていたよりもかすれた声に驚いた。カスカスでなにを言っているのかわからないレベルだ。
 ふと、思い出す。あの日の雀たちはまるで今の自分みたいだなぁ、なんて。あの日、二匹ともちゃんと病院に連れていけばよかったのだろうか、なんて支離滅裂なことを考える。助かった方は差し伸べられる手が多い三輪で、助からなかったのはなまえ。そんなこんな状況で考える必要のないことを考えなければ、暗くて寒くて寂しいなにかに飲み込まれてしまいそうで。冷たいなにかが足首を掴んで怖いところに引きずり込んできそうな、そんな感情が胸中を支配する。
 彼のやさしさはわかるひとにはわかるもので、だからこそ差し伸べてくれる周囲が多い。それが羨ましいと思ったことはないけれど、事実を突きつけられた今になって思うのは、あの第一次大規模侵攻のときになまえも死んでしまえていたらよかったのに、ということだ。

「でも、あぁ、やっと終わりに、できる」

 言わないようにしていたけれど、ずっとずっとこの世から消えてしまいたかった。苦しみながら腕の中で息絶えた弟を救うこともできず、のうのうと自分だけが生きているのが苦痛で仕方がなかったのだ。
 それが、ようやくいま終わりにできるのだと思うと嬉しい。
 ゆっくりと瞼を下ろそうとしたところで、それを許さないような大きな声が耳に届く。うっすらと目を開ければ、三輪がなまえの体を抱き起して話しかけていた。応援に来る、と言っていたのは三輪のことだったのか、と思うのと同時に自分の最後を付き合わせて申し訳ないな、とも思った。きっと彼のおねえさんと同じことしてしまっている。ゆっくりと腕を上げて彼の頬に指先を伸ばした。
 触れた頬は、同じ布団に入って眠ったときに感じたあのぬくもりと同じで。三輪はなまえに姉を重ねていたし、なまえも彼に弟を重ねていた。
 最期に見られたものが三輪だったのは、きっと幸運なのだろう。最後の最後にこれ以上ないくらいの幸運だ。掠れて音らしい音にもなっていない声で三輪に交戦していた敵が進んだ方向を伝える。そして残っている力を振り絞って最後に、一言だけ。

「秀次は、しあわせになるんだよ」

 きっと、あんたのお姉さんもそれを願ってる、とは言えなかったけど、弟の幸せを願わない姉などいないのだから。

「さきにいってまってるから」

 それだけを告げて瞼をゆっくりと下ろした。目を開けているのもつらくてどうしようもなかったから、ようやく身軽になったような気分である。そのまま意識は暗転して、暗闇に沈んでいくような感覚を最後に意識が途切れた。
 腕の中のなまえの重そうにしていた瞼がゆっくりと下りて、そのまま腕の中でひとつの命が終わる。まだ温かさは残っているのに、今日はあの日みたく雨じゃないのに、それでもここが命の終わりだ、と理解してしまった。
 どこか幸せそうに見えるのは三輪が都合よく解釈しているからか、本当にそうなのかはわからない。悲しみがこころを蝕んで涙腺を刺激してくる。なんとか堪えて涙は流さなかった。まだ侵攻は終わっていない。
 感傷に浸っている間もなく通信が再開した本部から次の指令が下される。なまえの亡骸を安全な場所に移動させて、あとで迎えに来るから、と返事が返ってくるわけもないのに声をかけた。

 第二次大規模侵攻は犠牲者と行方不明者を出して終結した。論功行賞をもらっても嬉しいと思えず、銀行口座の肥やしになるだけだろう。敵の近界民が撤退して、なまえの亡骸をすぐに迎えに行った。触れた身体はまだどこか温もりが残っているような気がして。けれど心臓の横からとめどなく血を流していることから、もう息を吹き返すことはないということを理解する。なまえの亡骸を横抱きにしてボーダーの連携している病院に連れて行こうと足を進めた。死亡確認を医師にされて、彼女は親族もいないのでボーダーが──というよりも城戸が──手配した葬儀屋に彼女の遺体を処理してもらう。
 遺品などの整理も三輪がやります、と言ったけれど、城戸がやる、というのでさせてもらえなかった。実際、なまえのあの家の保証人は城戸だったらしいので、三輪が介入するよりもスムーズに手続きをできるのだろう。形見になにか一つでも遺品をもらえないか、と城戸に告げてもそれをもらうことはできなかった。なまえがあらかじめ書いていたらしい遺書に、自分の存在を感じるものはすべて処分してほしい、と言っていたそうだ。
 ふたりきりで過ごした夜を想いながら、警戒区域をのろのろと徘徊していると、迅が目の前にふらりと現れた。三輪の顔を見るなり気まずそうな顔をするので、この人はなまえがああなるのをわかっていたのだろう。
 警戒区域を出てすぐのところにある公園に迅と二人でやってきて、ブランコに腰かけると缶コーヒーを差し出される。隣で迅も同じ缶コーヒーを開けて飲んでいた。同じように三輪も缶コーヒーを開けて口に飲み口を付けて、中のコーヒーを喉に流し込む。苦さが味蕾を刺激して顔を思わず歪めてしまった。一向になにも話さない迅との間に広がる沈黙を割くように口火を切ったのは三輪だ。

「なぁ、迅。なまえ先輩は助からない未来だったのか?」
なまえはいつも不安定で未来もうまく見えなかった。調子がいいときはそこまで悪くない未来も見えたし、調子が悪いときはとても悪い未来がいくつも見えた。だから、判断が難しかった。救おうとは思ってたよ、でも」

 それ以上に悪い未来が彼女を巻き取ろうとする力が強かったのだ、と言う。未来は細かい分岐点がいくつもあって、自分の方にいい未来を引き寄せようとみんな動いているのだと。なまえはそれをしようとしないから、悪い未来に巻き取られやすかったのだと思う、と苦しそうに言う迅にかける言葉はない。
 彼女は確かに消えたがっていて、この世に未練などひとつもない、とでも言うように生きていた。むしろ生きていることが心残りである、と言った方が相応しかったかもしれない。それでも、三輪はなまえに生きていてほしかったけれど。それができないと言うのならいっそ、と思う。

「黒トリガーになってくれたらよかったのに」

 それ言い放った言葉の残酷さを三輪は理解しないだろう。確かに、死人が自分の手元にあるということは、救いになるけれどそれに縛られては元も子もないと思うのだ。三輪のそういうところまで考えて、なまえは普通に人として死ぬことを選んだんじゃないか、と迅は思った。

「……そうだな。彼女の黒トリガーがあれば、おまえの心の拠りどころにはなったかもしれない」

 そうしなかったのには意味があるんじゃないの、と言えば、三輪は不思議そうな顔をした。意味があるという可能性を考えていなかったようだ。
 三輪となまえの話をしている途中で迅の携帯電話に本部から連絡が入ったので、三輪との会話を切り上げて公園を出た。このあとの三輪の未来が見えたのならば、彼はどれを選ぶのだろうか、とそんなことを考えながら迅は本部基地に向かって足を進める。

 迅と別れてからあてもなく歩いていたけれど、気付いたらなまえの住んでいたアパートの前に到着していた。二階の右から二つ目の部屋が彼女の住まいで、仕事に全力を注いでいた両親とかわいい弟と共に住んでいた家の跡地にできたこの場所に、一人で住んでいると言っていたことを思い出す。なんだかんだ思い出が詰まっているこの場所を離れられない、とも言っていた。

「黒トリガーを残さなかったのは俺のためか?」

 なんて言いながら彼女のアパートの部屋を見ながら問いかける。室内の照明が点くことがない部屋に寂しさを感じずにはいられなかった。
 なまえの死を悲しむひとはきっと三輪以外そんなにいない。なまえのことを悪く言う人間はそれなりに居るけれど、なまえを良く言う人間はいないのだと再認識する。
 なまえなまえなりに考えていたし、強がって生きていただけなのに。
 拠り所がなくて城戸の思想に依存して、三輪とよく似た感情を共有することでようやく自分を保てていた。
 なまえは、そうでもしないと生きていられないほどよわいひとで。そんな彼女の一面を見ることが許されていたのが、何度も夜を共にしていた三輪だけだった。
 夜を共にするたび、なまえは眠ったふりをする三輪の心臓の音を聞くことを好んだ。生きてる、というおそらく本人も気づいていないつぶやきを何度聞いたかわからない。その気持ちを三輪は痛いほどわかる。
 自分の中で自分にとっての大切な命が終わっていくことの恐ろしさを知っている人間など、極少数しかいないのだ。三輪となまえはそれに当てはまったからこそ理解し合い、依存しあっていた。それがとても心地よくて安心できたのだ。
 憎しみは自分となまえにとって生きるために必要なエネルギーで、三輪はそのエネルギーに縋り付かなくてもよくなりつつあるが、なまえは憎しみがないと生きていけない。第三者に気づかせるようなことはしなかったけれど、憎むか死ぬかの二択で生きているひとだった。黒トリガーを残さなかったのは憎むことはもういい、と思ったのかもしれない。死人に口はないので真意を聞くことはもう二度とできないけれど。がしあわせになれる方法を一緒に探せたらよかったのに、と今更なことを思う。

「俺は、行きます」

 彼女の部屋に向かって一度だけ頭を下げて、その場をあとにした。