3・いつか君が大人になったときに

 嗚呼、頭が痛い。片頭痛持ちでもないのに頭が痛い。自分のある意味部下である嵐山に告白されたのはつい三日前のことで。彼からの告白は思春期特有の身近にいる年上の異性に対しての感情だとは思っているが、それにしたってよりにもよって自分を選んでくるとは思わなかったのだ。
 気づいているのか気付いていないのかわからないが、なまえは嵐山よりも九歳上であり、そんな自分が恋愛対象になることなどあり得ない─はずだった。
 自分が思春期の頃に九歳上の人に懸想をしたことはないし、周囲でも居なかったような気がする。いやでも高校の担任と大学生になってから結婚した同級生はいたから、そういう話で考えるとなくはないのか、と思考が二転三転した。忙しなく巡る考えにそろそろ疲労感を覚えてくる。いっそ考えることを放棄したいくらいだ。
 一旦現状を整理しよう、と何度行ったかわからない現状整理を行う。
 嵐山とは広報に関しては一番身近な男の子で、自分は正直歳の離れた弟や甥のように思っていた。そんな嵐山から告白されて、返事は保留にされている。そして、事あるごとに好きです、と告げられるのだ。人目があるところでは言ってこないのが唯一の救いである。もし、これが人前であった出来事なら自分の首が飛んでいた可能性があるのだ。そのくらい不健全というか、言葉にするのが難しい状況である。

「はぁー……」
「大きい溜息ですね」

 食堂の奥のテーブルの丸椅子に腰かける。
 さきほど購入した焼きそばの乗ったトレーを長テーブルの一角に置いた。箸を持ったまま両の手を合わせていただきます、と言ってから焼きそばをつつく。
 ガタ、と音が目の前でなってそちらを見ると東が腰を下ろしているのが目に入る。
 わざわざ奥まった席を取ったというのにどうして目の前に座っているのか。
 理由はよくわからないけれど、これ幸いと話しかけることにした。最近頭を悩ませる事案を頭の中で整理しながら、東の名前を呼ぶ。

「東くんさぁ」
「はい」

 返事をする東に目の前の席に座ったのを運の尽きだと思いながら、ダル絡みをしつつ相談をする。
 東は日替わりのA定食の白身魚のフライを食べながら話を聞く態勢になった。

「九歳年下の異性に告白されたらどうする?」
「嵐山にでも告白されましたか」
「なんで知ってんの?」

 誰かに見られたことのないことを知っている物言いに思わず身構えてしまう。

「佐鳥が〝嵐山さんはおねえさんが好きらしいです〟って俺に教えてくれましたよ」
「あの子口軽くない?」

 自分の中の佐鳥はお調子者ではあるけれど、機密事項を漏らすような子ではない。
 ─と思っていたのを改める必要があるかも、と思えてきた。
 なまえの考えを読み取ったのか東が違いますよ、と否定をする。

「俺にだけ言ってきたんですよ。相談と言うか。嵐山さんのお手伝いをしたいけどどうしたらいいですかねって」
「なにもしないでほしい」
「そう言うと思って見守るように伝えておきました」
「天才じゃん」

 東のおかげで状況が悪化していないのだとすれば有難さしかない。
 今の状況がどこかから漏れてはやし立てられたりしたらボーダーという場所に居ることはできなくなっただろう。
 前の職場でよくあったけれど、噂話が誇張されて広まって居づらくなった人が辞めたこともあった。
 なんで辞めちゃうんだろう、と社会人になったときは思っていたけれど、自分がそれなりの年齢にいざなると思う。
 否定するのも疲れるし、否定しないのも疲れるのだ。
 だから自分が見ていた人たちも疲れていたのだろう、ということにあとから気付かされた。
 はー、と大きなため息を吐いてぼやくように言う。

「ボーダー辞めようかな」
「勿体ない。根付室長の後をわざわざついて来たんじゃないんですっけ?」
「そうだよ」

 あの人はわたしの親鳥のようなものだからね、と言い切れば、そこまでの熱意があるのに辞めるのは馬鹿らしいですよ、と諭される。年下に諭されるとは大人の面目丸つぶれだ。

「あーあ! どうせ気の迷いでしょ」
「そうですか? 俺から見ると割と本気に見えますけどね」
「えぇ~? ないない」

 思春期の男子特有の年上の女性を良いなって思う時期でしょ、と口にすれば、東からそれはそうかもしれませんが、と半分同意のような言葉が返ってくる。
 話しながらちびちび食べ進めていた焼きそばを食べ終わって、締めるように水をがぶ飲みする。
 その姿を見ながら東は定食を食べ進めていた。東に言われたことを咀嚼し、突然ぐちゃぐちゃになる思考を自分の中でまとめて言う。

「たとえ本気だとしても、いつか醒めるでしょ」
「そうですかねぇ」
「絶対にありえないけど、極端な話をするとして。准と付き合ったところで准に近寄る女の子は腐るほどいるでしょ。そのうち准に相応しい女の子と出会ったら、わたしなんてポイと捨てられるのよ」

 あり得ないということは前提で、そんな無謀なかけ事みたいな真似はしたくない、と言い切ると東もなまえの言い分はわかる、と納得してくれた。

「まぁ、本気か本気じゃないかはあなたが感じるものじゃないですか?」
「本気だとしても本気として受け取らないよ」
「……ずるい大人ですね」
「大人っていうのはずるく在るものでしょ」

 東くんもこっち側だと思うけど、と念押すように言えば、観念しました、と降伏を示すように目を伏せられた。

「早く准の中からわたしという存在の価値がどん下がりすることを願うわ」
「高くなった価値がそう簡単に落ちますかね」
「落ちるかどうかの話じゃなくて、落とすんだよ」

 ごちそうさまでした、と手を合わせて挨拶をする。それから食べ終わった食器が乗っているトレーを持ち立ち上がった。

「東くんも准と話すことがあったら言ってやって」
「なんて言っておきますか?」
「さっさと気の迷いから醒めちゃいなって」
「言う機会があれば」

 言う気があるんだかないんだかわからない答えに、もやっとしたものを覚える。
 けれど、そもそもポジション的に嵐山と東が関わることはないのかもしれない。
 戦闘員じゃないのでよくわからないけれど。佐鳥だけ狙撃手の訓練でシフト調節が難しい印象しかないのだ。

 嵐山隊が広報部隊になったことで増えた業務がひとつある。それは新入隊員の入隊式のオリエンテーションだ。入隊してもすぐに戦闘員になるわけじゃなくて、研究生みたいなのを経てから正隊員になるらしい。詳しい説明は関係ある部分しか聞いていないので、詳細はよくわからないのだ。
 広報に関係ある部分だけを開示するように鬼怒田にもお願いしていた。ランク戦なども正直よくわかっていないが。A級とB級があってシーズン毎に順位を決めている、くらいにしか聞いていない。
 柿崎がいなくなって勝てなくなり、途中から木虎を加入させたことでA級まで上がれた、という話を小耳に挟んだくらいで。
 オリエンテーションは月に一度行われており、それも広報活動の一環としてカウントしている。内容も大雑把に耳に挟んでいる程度だが、どういう武器があってどういうポジションがあるのかを説明するそうだ。
 新入職員の研修のようだな、と思ったのは自分の胸の内に留めている。
 一般市民への広報活動に入隊者へのオリエンテーション、ランク戦と三つ同時に行っていることに頭が下がる思いだ。しかも隙間に余裕があれば防衛任務もある。元々ここにフルで防衛任務を入れようとしていたのだから、彼らの言うままにやらなくてよかった、と実感した。そんなことをしていたら絶対に倒れていただろう。
 食堂を後にしてメディア対策室に戻ろうと通路を歩いているとなまえさん、と名前を呼ばれた。ゆっくりと振り返ると、さきほど噂をしたせいか嵐山の姿があった。

「准」
「お疲れ様です。休憩明けですか?」
「そんなところ。准は? 今日学校じゃないの?」
「午前までだったんです。職員会議だとかで」
「なるほど」

 嵐山の顔を見て思い出したことを口に出した。もちろん告白の件に関してはノータッチだ。

「准、大学受験の方は大丈夫なの? 市大志望だっけ。推薦使う感じ?」
「一応そのつもりでいます」
「じゃあ少し気が楽だね」

 ボーダーと三門市立大学が提携を結んだことで、隊員の進学しやすさが上がったと思う。
 自分が居た頃にはなかった制度を少し羨ましく感じたりもする。まぁ、そのときはボーダーのボの字もないからあるはずがないのだけれども。
 試験はあるそうだが、研究室を指定する代わりに合格ラインが下げられているというのは聞いたことがあった。

「でも、勉強も今のレベルを保てるように頑張るつもりです」
「真面目だねぇ」
「広報部隊ですから」

 言われたことにそれもそうか、と思う。佐鳥以外の面子は高得点を取ってくる面子なのですっかり忘れていたが─佐鳥に手がかかりすぎるとも言う─、広報部隊になるにあたってお願いをした一つだ。学年トップとか取る必要はないけれど、それなりの点数を取ってほしい、と。勉強ができなくたって正直問題はないが、勉強だけで叩いてくる人間は必ずいるので、防波堤としてそれなりの点数を取ってほしいと言ったのだ。実際おつむが弱くてもよければ太刀川などを広報に据えればいい。けれど、彼は成績が目も当てられないそうなので。ただでさえアンチ活動などされている組織の広報としてはふさわしくないと判断した。
 広報部隊というのは強いだけではだめなのだ。あくまで模範とされる隊員でないと意味がない。そういう意味では嵐山隊の面々は文句のつけようがないくらい完璧だった。
 また、星輪女子の木虎が入ってことで広報活動に追い風になっていると言っても過言ではない。
 嵐山になまえさん、と名前を呼ばれて意識を現実へと引き戻された。まっすぐとした視線が自分に焦点を合わせたのが分かる。

「今日も好きです」
「……どうもありがとう」

 嵐山のアプローチは言えるタイミングがあれば好きです、と言ってくることだった。今のところ非番の日以外は一日一回言われている気がしている。非番の日は緊急時以外連絡をしてこないように言ってあるのもあるが。告白に答えることはせず礼だけを述べる。それ以上の反応のしようがないのだ。
 振ろうとすれば、ちゃんと考えてくれたうえでの回答ですか、と言われてしまうし、それに口を噤んでしまう。年齢を理由にしても、仕事の忙しさを理由にしても、嵐山が引く気配がない。それ以外に理由は、と言われるとそれ以外が思いつかないのだから困ったものだ。
 早くこの時間が終わってほしいと思う。さっさと飽きてくれたらいいのに、と思ったことは両手では足りなくなってしまった。
 もっとうまくつっけんどんにできれば良かったのだろうが、自分が恋愛方面でうまく立ち回れないことを嵐山の件で初めて知ったのだ。
 後手に回る戦いは得意じゃない。根付から教わったものは、ありとあらゆることを先回りして隙を与えないようにするものだ。だからこういう状況に対応していなかった。

「准」
「はい?」
「明後日の打ち合わせをしたいんだけど」
「分かりました。メディア対策室でしますか?」
「そうしよう」

 仕事を理由にこの場を切り抜ける以外の方法がなかった。
 自分の隣に並んだ嵐山の背格好が出会ったときよりももっと高くなっているような気がする。出会ったときはちょっと高いな、くらいだったのに、今では少し見上げないといけない。こういうときに男だなぁ、と思う。
 男に見えるからと付き合えるかと言えばまた別の話だ。
 年齢という分厚い壁は変わることなく自分と嵐山の間にある。嵐山はそれを飛び越えたいようだけれど、いつか越える必要がないことに気づくだろう。
 そうしたら自分はただの上司に戻るはずだ。そう信じることしか今の自分にはできなかった。

    §

「好きです」
「どうもありがとう」

 だけど、という言葉は受け取ってもらえないのを知っているので飲み込む。日々繰り返すように行われる嵐山からの告白に食傷気味になりつつあった。
 きっと恋人同士とかだったら、毎日好きと言われても喜んで受け取るのだろうけれど、そういう前提があるわけでもない。このやりとりを知っている人間には観念してあげたらいいのに、と言われ、やりとりをたまたま見た職員には嵐山くんかわいいことするんですね、なんて言われる。
 なまえからすると〝かわいい〟で済まない状況なのだが。
 九歳差の自分に好意を面と向かって告げてくるようになってしばらく経つ。そのうち飽きるだろう、と高を括っていたらこれだ。一向に飽きる気配が見当たらなくて、どうしたものか、とあれこれ考えているけれど、なかなか良い案が浮かばなかった。
 十八歳という青春の盛りを自分なんかに使わせているのも罪悪感を覚える。自分の十八歳は少なくとももっと健全な青春を送っていたように思った。友達と誰が好きだとか気になっているだとか、あの子とあの子が付き合ったらしいだとか、あの子には年上の彼氏がいるらしいだとか。そういうことにワーキャー言いながら過ごしていたはずだ。合間にもちろん受験勉強はあったけれど。
 自分は勉強と恋愛を両立できるタイプではなかったので、大学生になるまで誰かと付き合うようなことはしなかった。そういう過去が念頭にあるからこそ、嵐山にもそういう青春を送ってほしいと思うのだ。
 少なくとも自分への好意を伝えるために時間を浪費してほしくない、と思うのは酷なことだろうか。大人だからこそ若者に好意を向けられることに嫌悪はないにしても、どこか他人事のように思ってしまうというか。誰々があなたを好きだって言ってましたよ、と言われても、へーそうなんだ、悪い気はしないね、と笑って済ませてしまうのだ。社会人になると余計にそういう考えが真っ先に出るようになった。
 例えば、嵐山との歳の差が三歳とかだったりしたら、当事者らしく受け取って、意識がなくても気になったりして、逆上せ上がったりしていたかもしれない。けれどこれはたとえ話でしかない。現実は嵐山は一八歳だし、自分は二七歳だ。改めて年齢を確認すると虚しくなるというか、現実って痛いんだなぁ、と思う。
 普通に生きていれば感じることのない痛みだろう。罪悪感で胸が痛むし、終わらないやり取りに頭が痛むし、こういうもしも話を思い浮かべる自分だって痛い。
 返事をすぐにしないように、と釘を刺した嵐山の手腕はある意味感嘆せずにいられなかった。おかげで最近はどういう意味であれ嵐山のことを考えることが多い気がする。
 さすがに仕事中は仕事のスイッチが入っているので公私混同することはないが。なんというか、家で晩酌をして夕飯を食べているときなどに思い起こされるのだ。所謂ふとした瞬間、というやつだろう。
 せめて期限を区切らせればよかった。そうしたらそこまでの期間を耐え忍ぶだけでよかったはずだ。けれど、実際問題期限は区切られていないし、タイミングを見計らって断ろうとすると、その上をいかれてしまう。
 ちゃんと意識してもらえてないのでまだダメです、なんてけろりとした様子で言い返されるのだ。
 嵐山の求める意識がなにを指しているのかわからない。けれど、もしも、自分が高校生のときに覚えた感情のようなものを期待されているのだとすれば、土台無理な話だ。大人と子どもの線引きをするべきじゃないのかもしれないけれど、どうしても線引きをせざるを得ない。
 歳の差というのは大人になればなるほど重みのあるものだと思う。
 それほどまでに気軽に受け止めるには重い歳の差であることに気付いてほしい、というのは傲慢な考えだろうか。

 その日の業務をこなしていると、気付いたら定時になっていた。定時になった途端、肩に凝りを感じて肩を回す。ゴリゴリと音が鳴って凝りが和らいだように感じた。次に背筋を伸ばす。珍しく一日デスクワークの日だったので、尋常じゃないくらい身体の固さを感じた。今日は残業の予定もないのでさっさと帰るか、と見当をつける。朝から根付は外出しているのでメディア対策室に居るのは自分だけだ。部屋の戸締まりをして守衛に鍵を預ける必要がある。帰り支度をしようとデスクから立ち上がった瞬間にドア口から声をかけられた。声の主を見るとメディア対策室の入り口に迅の姿が見える。滅多に顔を出すことがない人間の顔に驚いて目を丸くさせてしまう。

「え、迅くん?」
「お疲れ様です」
「お疲れ様。珍しいね、こんなところまで来るなんて」
「開発室に居たからついでにおねえさんの顔でも見ようかなって」
「わたし動物園の動物かなにかかな?」

 顔だけ見に来る、と言われてもそういう関係性じゃないしな、とも思う。迅とは最初に挨拶をしてそれから嵐山と一緒にいるところに遭遇して少し話す程度の関係だ。そんな迅がわざわざ自分の顔を見に来た、の言うのだから、それをおかしいと思うのは不思議なことではないだろう。

「おねえさんもう上がりでしょ?」
「そうだよ」

 じゃあ一緒にご飯でも食べようよ、と食堂に誘われる。なんでまた、と思ったことは口にはせず、せっかくの誘いだから乗ることにした。
 制服から着替えるからちょっと待って、と言ってメディア対策室の奥にある更衣室へと入る。メディア対策室の奥にある更衣室でボーダーの制服から出勤着にしているブラウスとパンツに着替えた。
 着替えを終えると更衣室を出てデスク脇に置いてあった通勤バッグを手に取る。デスクから鍵を取り出すのも忘れない。準備を済ませて迅の元に向かうと、不思議そうな顔を向けられていることに気づいた。節日に思って声をかける。

「どうしたの?」
「あ、あー……おねえさんの制服じゃない姿初めて見たなぁって」
「あー。まぁ、制服で出勤してもいいけど、道中なにがあるかわからないから」
「なにかって?」

 疑問を隠さずに迅が問いかけてくる。こういうときに感づかれないということは、迅や迅の周囲はそういう場面に遭遇していないのだろうと安堵した。

「アンチボーダーの人間に襲われたり? なーんてね」

 最後におちゃらけた一言を添えると迅は開いた口が塞がらない、とでも言いたげな表情を浮かべる。

「冗談にしては笑えないんだけど」
「襲われたことはないよ」

 大体襲われるというかアンチボーダーを相手取るときは広報イベントが主なので、と告げると、なんとも形容しがたい表情を浮かべられてしまった。

「まぁ、それは横に置いておいて。そもそも近界民と戦ってる迅くんたちの方がよっぽど大変でしょうよ」
「でもおれたちは緊急脱出があるからなぁ」
「それでも手足を損傷する衝撃はあったんじゃないの?」
「どうだろう」

 かなり昔のことでもう覚えてないや、とおどけて見せる迅の様子に、この子も旧ボーダー時代からいるんだったな、と随分昔に聞いたことを思い出した。
 ボーダーに長く居れば居るほど感覚が麻痺していくんじゃないのか、と心配になる。手足の欠損など本来は起こるはずのないことだ。それが自分の身体じゃない換装体になった上だとしても、最初は驚きがあるものだと思う。
 メディア対策室をあとにして鍵を持ったまま迅と並んで食堂へ向かう。メディア対策室から食堂は徒歩で五分くらいだ。その道中に学校での嵐山の様子だとか、広報イベントでの嵐山の様子だとかを話す。共通点が小南と嵐山である中で時間を共に過ごしている人間に偏るのは仕方がないことだろう。学校での嵐山も聞いている限りは模範的でかつ青少年らしいようだ。それに安心すると同時に何度目かわからない歳の差をさめざめと見せつけられる。
 すこしだけ気落ちする自分には気づかないふりをして、気付くと食堂に到着していた。
 食堂の入り口を見ると本日の日替わりメニューが書かれたホワイトボードを見る。今日のA定食は焼きそばと焼きおにぎりのセットで、B定食はカツカレーだった。夕飯として食べるのであればB定食かな、と自分の食べるものを決める。

「迅くん決めた?」
「おれはA定。おねえさんは?」
「B定かな」

 お互い食べるものが決まって入口横の券売機でそれぞれ食券を購入する。それを握りしめて食堂のカウンターへ向かうけれど、その前にトレーとスプーンなどの食器を手に取った。トレーを持ったまま迅は焼きそばのレーンへ行くのを横目に見つつ、自分はカツカレーのレーンに向かってで食券を差し出した。
 調理員が食券を受け取って入れ替わるようにカツカレーが差し出される。それを受け取って持っていたトレーに乗せた。
 あとは水を取るためにカウンター近くに置かれているウォーターサーバーに移動し、置かれているコップをひとつ取ってそこに水を入れる。
 水が入ったコップをトレーに乗せて、迅を探すために視線をうろうろさせた。
 テーブルを端から端まで見ると、人の視線をあまり感じない秘密の話をするにはうってつけの奥のテーブルを陣取っているのが目に入る。

「こっちこっち」

 迅に手招きをされて彼の座る席のテーブルを挟んだ反対側の席に座る。お互い席についたところで各々手を合わせていただきます、と挨拶をした。スプーンを手に取ってカレーを口に運ぶ。迅の方に視線を向けると同じように焼きそばを口に運んでいた。男子高校生らしく豪快に食べている姿を見て勝手に気持ちの良さを覚える。
 気持ちのいい食べ方をするひとは嫌いじゃない。お互い七割ほど食べたところで一旦小休止として食器を置いて水を飲む。すると、タイミングを見計らっていたのか先に焼きそばを食べ終わった迅が口火を切った。

「嵐山のこと嫌い?」
「………………誰からの回し者?」
「手厳しい。回し者とかじゃないよ」

 おれのただのお節介、だという迅の言葉に大きなため息を吐いてしまう。彼も嵐山応援組なのだろう。今のところ自分のことを応援してくれる人はいないわけだが。向こうばかり団結していて、すこしだけ自分が悪いと言われているように感じる。

「迅くんはさ、」
「うん?」
「突然十歳年上の人に告白されたらどうする?」
「どうって?」
「気持ち悪く思ったりしないのかなって話」

 自分は少なくとも女子高生だったとき、年齢の上の人間にからかわれたりするのが好きではなかったし、気持ち悪さを覚えていた。
 その経験もあって余計に歳の差に違和感を覚えてしまう。

「好きだったら気持ち悪いとかないと思うけど……」
「そもそもね」

 自分から問いかけた内容の答えを放り投げて別の話題に切り替える。

「准に好かれる要素が見当たらないのよ」
「一緒にいたら好きなとこなんていくつも見つかるでしょ」
「でもその好きって、好意じゃなくて本当にそういう感情なの?」
「そういう感情って?」
「欲を孕んでいるかどうかって話」
「欲?」
「キスしたいとかエッチしたいとかそういう欲」

 男女が付き合う理由なんて根本はこういう欲だと思っている。それ以外の〝好き〟という感情はただの〝好意〟だ。

「ただ普通に抱いている好意を錯覚してるんじゃないの? っていうのが、わたしの言い分」
「ただの好意でここまでしない気はするけど」
「そこはさぁ、なんというかさぁ、気の迷いというかね……勉強とボーダーの両立で疲れ切ってて変なスイッチ入ったというか……」
「ひどくない?」

 ひどいのはどっちだ、という言葉を飲み込んだ。嵐山のせいでここ最近の自分は落ち着かなかった。嵐山のことを考えたくないのに、考えてしまう自分を痛いと思ってしまう。九歳も年下の男にうつつを抜かしたり、熱に浮かされたりするほど愚鈍にはなれないのだ。そんな愚鈍になった途端、なにも知らない他人から指を差されかねない。
 迅への解答を考えながら、残りの定食を口に運んで食べきってしまう。最後に水を飲んで息を吐いた。

「ひどい、ひどくないの話じゃないんだよね。わたしにとっては」
「どういうこと?」

 迅の視線がまっすぐと自分に向けられていて、その視線には淀みなど一切ない綺麗なものだった。それに対して嵐山みたいだな、と思う。ふたりは髪型もすこし似ているから余計かもしれない。その淀みのない視線から逃れるように視線を右上に逸らした。

「ありえない話なんだよ、わたしにとってはね」

 九歳差を盾にするな、と言われるけれど、盾にもしたくなる。
 二七歳になって、周囲─取引先など─からは結婚しないのか、と言われることも少なくない。
 それに続く言葉はうちにいい人がいるんだけど、というものだ。
 つまり、世間一般的に考えると自分は結婚適齢期であって、結婚相手を探すような年齢であって、九歳も下の年下を相手にしている場合ではない、ということなのである。

「……可能性がないわけじゃなさそうなんだけどね」
「なにか視えてる?」
「一応。でも言わないでおくね」
「とりあえず、わたしは准になびく予定はありません」

 取り付く島もない返答に迅は閉口したけれど、視線をさ迷わせてそれから意を決したように言う。

「おねえさんにも事情があるのはわかるけど、あんまりひどいことはしないでやってね」
「気が向いたらね」

 できもしない約束はしないことにしている。なまえの解答に迅は困ったように笑うだけだった。
 食事も終わり小休止も終わったので、テーブルから立ち上がる。
 迅はこの後防衛任務だというので、そのまま彼を残してその場を後にする。
 なんだか気疲れした気がするので帰宅したらさっさと眠ろう、と今後の予定を立てた。

    §

 本部の基地を出たのは午前八時のことだった。本来メディア対策室所属の自分は夜勤をすることがないのだけれど、先日とあるB級隊員がクラスメイトにあることないことを吹き込んでしまい、それが大人に伝播してアンチボーダーを掲げている団体の耳に入ってしまったのだ。その対応で夜通し上司である根付と対策を取っていた。
 その団体とはもう何度もやり合っているのだけれど、相手がなかなかこちらに執着していて終わりが見えない。先月やっと落ち着いたと思った矢先にこの出来事である。やはりもう少し機密事項に関しての取り扱いを考えなければならないかもしれない。中高生というのは良くも悪くも愚かだな、と思った。
 そんな疲れ切った状態で朝日が昇った青空の下を歩きつつ、登校している学生たちの波に紛れながら帰路を歩く。
 早く帰って惰眠を貪りたいと思っているところに、聞きなれた声が届いた。

「お疲れ様です! 結局朝までかかったんですか?」
「あー、准。おつかれ。これから学校? 頑張れ……」
「疲れてますね……」

 会話が成立しないほど疲れている自覚はあった。
 綿密に穴のない作戦を立てておかないと、奴さんはこちらの穴を突いてくるのが目に見えているからだ。
 労いの言葉を嵐山から受け取りながら、慣れた手つきで嵐山の頭をなでる。
 なまえのされるがままになっている嵐山を見ながら、彼の後ろに青空が映えるなぁ、なんてどうでもいいことを考えているとすこし照れながら彼が口を開いた。
 ─目の前でパチパチと光が弾ける。
 花火をしませんか、と言ってきたのは彼で、それを了承したのは自分だ。
 高校三年生の夏休みなのにいいの? と大人らしく彼の現状を鑑みて問いかけると、太陽みたいに眩しいほどの笑みを浮かべて言った。

「高校最後の夏休みだから、一緒に過ごしたいんです」

 恥ずかし気もなく言い切ってしまえる姿に若さを感じる。まだまだ青いなぁ、と思ったことは黙っておいた。ほぼ自分が専属のような形で嵐山隊の面倒を見るようになってずいぶん経つけれど、花火に誘われるとは思っていなかったのだ。
 彼らは思春期の少年少女で、自分は彼らにとって頼れる大人。プライベートにまで介入するつもりなど当初は微塵も考えていなかったし、今でもここまで口を挟んでいいものか、と悩むこともある。
 けれど、佐鳥の成績など考えると口を出さないわけにはいかない。
 成績上位になれとは言わないから、せめて真ん中あたりの成績であれ、と口酸っぱく言う自分の姿はさながら母や姉のようなものだろう。佐鳥が嵐山隊結成当初に自分のことを母さん呼びしてきたときのことを思い出すと、今だに笑えるのだ。気付けば嵐山とお盆が過ぎた翌週の土曜日の夜に花火をすることが決まった。
 仕事終わりにそのまま基地の近くの空き地でやるのかと思いきや、自分の住んでいるアパートの近くの河川敷でやりたい、と言ったのが少し引っかかるけれど。

「通勤服のままでやるんだと思ってた」
「それでもいいですけど、煙の匂いが服に付きますよ。私服の方がいいんじゃないですか?」
「それもそうか。でも、おばさんの私服見て楽しい?」

 またそうやって卑下するような言い方して、と嵐山に諫められた。いやでも事実じゃん。九歳も差があれば、世間一般ではおばさんと少年という組み合わせになるわけで。いくら同じ会社の社員とアルバイトのような関係だったとしても、少しくらいは世間体というものを気にしなくてはならない。

「花火はうちに来る前に買ってくるの? それならお金先に渡しておくけど」

 そういいながら制服のポケットに入れていた財布を取り出して、五千円札を引っ張り出す。それを差し出そうとすれば、嵐山から待った、と手で制止された。

「お金は大丈夫です。家に余ってる花火持っていくので」
「そう? お金かかったら後で請求するんだよ」
「わかってますよ」

 耳に胼胝ができるほど言われていますから、と困ったような笑みを向けられた。
 わかってるならいいけれど、たまに嵐山が奢ってこようとするから困るのだ。
 年上としても面目が潰れてしまう。お金くらい払わせてほしいのだ。それくらいしか大人としてできることがないので。
 花火の具体的な約束をし終わってからメディア対策室を出ていく嵐山の後ろ姿はどこか嬉しそうに見えた。自分がいやいやまさか、と思っていたことが現実に起こっていて震えてしまいそうな気分だ。
 早く彼の目が覚めればいいのになぁ、とひどいことを願う。

 すべての業務を終えて、上司である根付に日報を提出してからメディア対策室を出ようとすると呼び止められた。
 それにはーい? なんて悪ふざけをしながら答えると、これ見よがしにため息を一つこぼされる。

「あ、ひどーい」
「きみの悪ふざけはわかっているんだよ。もうこんな時間だし、食堂で夕飯を食べて帰りなさい」
「えー、大丈夫ですよ」

 帰ってから夕食を作る元気はないし、ストックしてある高たんぱくのカップラーメンを食べる気満々だった。
 それがばれているのか口酸っぱく食堂に行け、と言われながらメディア対策室を追い出される。
 渋々重い足取りで食堂に向かうと、これからの夜勤に備えているらしい見知った姿を見つけた。券売機で煮魚定食を購入して、それをカウンターのよく会話をする女性に渡す。今日も遅いねー、なんて言われながらしばらく待てば煮魚の乗った皿とほうれん草の煮びたしの入った小鉢とサラダの入った小鉢、みそ汁の入った椀がトレーに置かれた。白米はセルフサービスなのでそのままトレーを持って、大きな炊飯器が置かれている机に向かい、トレーを空いているスペースに一度置く。
 置かれている茶碗を手に取って大きな炊飯器を開け、備え付けられているしゃもじで八分目まで注いだ。
 炊飯器などを元の状態に戻して、白米の入った茶碗をトレーに置く。トレーを持って先ほど見つけた姿の向かい側の椅子を陣取って腰を下ろした。

「お疲れさま」
「お疲れ様です。今日遅かったんですか?」
「そんなところ。東くんは夜勤?」
「そうです」

 大変だね大学院生、と労いの言葉をかけると、そちらの方が大変じゃないですか、と親子丼を食べながら言葉を返される。

「現場出て戦ってくれてる子たちに比べたら楽なもんだよ」
「この間もまたアンチボーダー界隈とやり合ったって聞きましたよ」
「あれくらい想定内だって」

 ああいう界隈の人間って結局支離滅裂の感情論だから、理路整然と隙の無い回答をすればぐうの音も出ないのだ。
 そういう対応は得意だし、戦い方は根付から授かっている。自分が戦う子どもたちにできる唯一のことだし、あれくらい本当に何ともない。

「嵐山が気に病んでましたよ」
「またぁ? 准って本当に気にする性質だな……」

 思わず自分の口からため息が漏れてしまう。
 己の正義を押し通すために、不条理を飲み込まなければならないときがあることを知っているだろうに。
 近くにいるささいな大人のことなど気にしてほしくない。
 嵐山隊は確かに市民の前という矢面に立たなければならない部隊だけれど、危険を冒してほしいわけじゃないのだ。
 危険は大人である自分たちが被るし、気にせず広報活動してほしいと思う。

「身近な女性が生卵ぶつけられるってなかなかショッキングな光景でしょう」
「嵐山隊を守るのがわたしの仕事だから気にしなくていいのに」
「嵐山もまだ割り切れないことがあるんでしょう。好きな人に物をぶつけられてるんだから」

 確信を突く東の発言に飲んでいたみそ汁が気管に入って盛大にむせた。東はこうしてちょいちょい確信を突いてくるから性質が悪いと思う。彼のことをイイ性格だ、と根付が評価していた所以がよく分かった。

「まだ醒めてなさそう……?」
「そう見えますねぇ」

 食事を終えたらしくお茶を飲みながらひと段落入れる東に問いかけると、容赦のない解答が返ってくる。できればもらいたくなかった解答だ。向けられる恋慕がなくなる気配がないことには気づいていた。
 けれど、年齢差とかもろもろ考えるとただ一時の思春期特有の憧れだと片付けてしまいたかったのだ。いや、今でもそうあってほしいと思っている。自分で知っている範囲であれくらいの年代って軽率に大人に憧れる時期であるし、その対象がたまたま自分だっただけで。いつか目を覚まして自分の身近にいる女の子のことを素敵だと思って、付き合ったりしていくのだ。

「いつになったら准の目が醒めるのかしら」
「醒めたらいいですね」
「東くん、すっごく他人事だね」
「他人事ですから」

 じゃあ、俺はそろそろ任務なので失礼します、と言葉を残して東は食堂を去っていった。こんなに気まずい思いをしているというのに、アドバイスもなにもなかったのにムッとしそうになる。何度か青少年を健全な方向に促してよ、と相談しても俺には無理ですよ、なんて断られる。
 自分が高校生だった頃を思い返した。 塾の講師の大学生が好きだったし─それは合格報告と共に散ってしまったけれど─、そういう類のものだと思いたいんだけどなぁ。最近嵐山本人よりも周囲の外堀たちの方がうるさくて嫌になりそうだ。
 特に嵐山の従妹の小南など、嵐山のいいところリストやエピソードを耳に胼胝ができるほど聞かせてくる。准ってこんなにいいひとなのよ! と堂々と言われるたびに、知っているよ、とも思うし、素敵だと思うが、その素敵が好意とイコールかと言われると違うのだ。嵐山ができた人間であるのは周知の事実だし、だからこそこんなおばさんにうつつを抜かすのをやめてほしい。
 なにが彼をそうさせてしまったのかもよくわからないし。そのうち飽きるよう願うことしかできないことになんだかなぁ、という気持ちになる。

 嵐山と花火をする約束をした日はどんよりとした空模様で、湿気で空気が淀んでいるような気がする天気だった。幸い、雨が降る予報ではないので嵐山との花火は決行されるだろう。
 朝から事前に立てていた業務を予定通りにこなしながら、根付になんかいつもより落ち着きがないね、と冷静に言われて反省した。
 花火をするというのが大学二年生以来なので、柄にもなく浮足立っているらしい。自覚がなかっただけに恥ずかしく思う。業務を滞りなくこなして、定時でメディア対策室を後にした。
 日が傾きつつあるけれど空は橙色から紺色のグラデーションになっているのが目に映る。普段の業務でもよく連絡をしているからか、メッセージアプリのトーク一覧の上の方にいる嵐山の名前をタップした。そこに定時で上がったことを連絡すると、二十時頃に家まで迎えに行くので待っていてください、と返信が返ってくる。さっさと家に帰って、オフィスカジュアルな服装からラフな服装に着替えることにした。
 本部基地から二〇分ほどの距離にある自宅に戻り、昨日用意してあった黒のタンクトップと薄手の水色の半そでパーカーのトップスに着替えて、ボトムスは通気性のいいカーキのテーパードパンツを履いた。仕事中よりかなり砕けた姿ではあるが、自分が近場のスーパーマーケットなどに行くときの服装なので気軽ではある。
 二十時になってインターフォンの明るいベルの音が部屋の中に響いた。身なりを整えて鍵と財布をパーカーのポケットに突っ込み、ドアに近づいていく。念のためドアスコープを確認すると嵐山の姿があった。土日の任務のときなどによく見かける私服の格好で、高校生らしいなぁ、と思う。ドアを開けて嵐山の姿が目に入ると手に大きめのバケツを持っていた。その中をのぞき込めば、花火とライターとろうそくと瓶のふたが入っている。花火に必要そうなものは揃っているようだ。

「准、お待たせー」
「特に待ってないですよ」

 行きましょう、と手を引かれて、年甲斐もなく心臓が跳ねた。繋がれた手がじんわりと汗ばんでいて、嵐山の顔を見ると耳が赤くなっているのがわかる。
 それにつられるように自分の心臓がうるさくなっていくような気がするが、わたしは大人、大人、と内心で言い聞かせた。
 すきになるなど、あってはならないのだ。
 自宅から近くの河川敷に到着すると、嵐山は手慣れた様子でテキパキと準備を始めた。何か手伝おうか、と言ってもそのまま待っててください、と言われて手持ち無沙汰になる。準備が終わったらしい嵐山が封を切った花火の袋からいくつかの手持ち花火をどうぞ、と差し出した。
 それを受け取って準備された瓶の蓋に固定されたろうそくの火に花火の先を当てる。シューっと音を立てて花火の先が光った。火薬の匂いによって昔花火をしたときの記憶が脳裏を掠める。

「わー、きれい」
「きれいですね」

 光を眺めながらそういった自分の隣で、嵐山も同じように綺麗だと笑う。
 その表情が太陽みたいで眩しいなぁ、と思った。

    §

 嵐山の推薦が決まって大学合格をしたことが決まり、それを嵐山隊でお祝いをした。
 ずっとどうなるかやきもきはしていた─もちろん合格するとは思っていたが─ので、肩の荷がひとつ降りてほっとしていた矢先にそれは起こった。
 いつものように問い合わせがあった企業への返信やアポイントを取っている企業とのやりとりをしていると、外出から帰ってきた根付が証書ファイルを机の上に置いてきた。

「なんですか? これ」
「中を見てごらんよ」

 中身を教えてもらえず、中身はなんなんだ、と戦々恐々としながら証書ファイルを手に取って中を開く。なにかの契約書だろうか、と思ったけれど、予想は外れていた。
 釣書、と冒頭に書かれた文字を認識して理解が出来ず首をかしげる。
 釣書とは縁談があった際に相手と互いに渡し合う書面のはずだ。それがなぜ自分の手にあるのだろうか。
 そもそも誰宛なのか。沢村や女性職員へのものだろうか、と考えていると根付がこれ見よがしにため息を吐いた。

「きみ宛だよ、それ」
「正気ですか? 相手の方」

 まさか自分宛とは思っていなかったので驚きで目を見開いてしまう。
 仕事中に社交辞令で連絡先でも、と言われることは会ったけれど、ここまで〝ガチ〟なものは初めて見た。
 中身を確認するとスポンサーの中でも三番目に大きい企業の社員で。よくよく見ると次期社長だと謳われている現社長の息子の名前を写真が載っていた。何度か話をしたことはあったが、そういうことを打診されるような関係ではない。どういう狙いが相手にあるのかはわからないが、一旦プロフィールを確認した。
 年齢は自分の二つ上で、大学は三門市の隣の市にある国立大学の経営学部出身、父の会社に入る前も一部上場企業に在籍しており、その経験を生かして今の会社にいるようだ。爽やかなスポーツマンという印象がある。所謂ハイソサエティと言われる人間がなぜ自分に声をかけたのかは、プロフィールを見ても思い浮かばなかった。

「まぁ、本気は本気なんじゃない? 社長が私に釣書を直接渡してきたくらいだし」
「えー……」

 めんどくさいな、と思ったことは口にしなかったけれど、根付にはバレていた。

「断りたいなら断っていいよ。そりゃここの企業と太いパイプできるのはありがたいけど」

 根付がこういうことを言うってことは、明確に嫌なことがなければ真剣に検討しろ、と言っているのと同義だ。

「ちょっと時間ください」
「それはもちろん」

 結婚って人生の中でも一大イベントだしね、と言われて納得する。ここで軽い気持ちで頷いてあとで何かあって戸籍にバツがひとつ付くのもなんだしな、と思う。まぁ付いたところで大きな変化があるとは思えないが。
 根付の釣書を見ていたせいで止まっていた仕事に戻る。釣書はデスクの端に置いておくことにした。目の前の書きかけのメールに意識を戻して、残っているメールたちをさばいていく。

 仕事を終えてあとは家に帰るだけ、となっていたところに嵐山がメディア対策室にひょっこりと現れる。
 今日も例のやつをしに来たのだろう。夜はB級ランク戦の解説が入っているとかいないとか言っていたけれど、大丈夫なのだろうか。

「准」
「今日も好きですよ」
「どうもありがとう」

 いつものやりとりをすると嵐山は時間がないのかそのままランク戦に行ってきます、と言葉を残して去っていた。
 その背中を見送りながら、まるで名前の通り嵐のようだな、と思う。嵐山にいつも通り好意を告げられて、考えるのは今日の釣書の件で。釣書の相手と結婚するとして、そしたら嵐山はきっと諦めてくれるのだろう。なんだか名案な気さえしてくるのだから、どれだけ嵐山が自分の中に侵食しているのかわかる。
 釣書は渡りに船じゃないけれど、いいきっかけになるかもしれなかった。一度嵐山のことを横に置いておいて真剣に考えることにする。
 本部基地から自宅に帰り一人寂しくサラダと冷凍食品のチャーハンを夕食として食べた。今日は自炊をする気にならなかったので雑な夕食で済ませることにしたのだ。
 食事を終えてシャワーを浴びて髪の毛を乾かす。それがいつものルーティンだった。
 自室のベッドに腰を掛けて、それからベッド脇に置いてあるドライヤーを手に取ってスイッチを入れる。ゴー、という音と共に出た温風を髪の毛に当てる。
 髪の毛を乾かしながら考えるのは昼間のできごとだった。
 基地から家までの間でもすこし考えたけれど、釣書の相手と結婚したら全部まるく収まるような気がしてならない。
 比較するのもおこがましいけれど、嵐山と釣書の相手を比較すればするほど釣書の相手が勝つのだ。なによりも二歳年上というのが大きい。普段青少年たちに囲まれているから自分が大人としてしっかりしなくちゃいけない─できていないときもあるかもしれないが─から、素直に上司や仕事相手以外の年上の男性と関わる機会がボーダーに入ってからすっかり減っていた。そういう意味でも、頼りになる男性だったら考えてみてもいいな、と思う。
 自分よりもしっかりしているひとと家庭を作りたいと思う気持ちは正常なものだろうから。
 あと釣書の相手と結婚すること自体メリットの方が大きいだろう。ボーダーと企業のパイプも太くなるし、嵐山をこれで振ることもできるし、嵐山と毎日の応酬をしなくてよくなる。
 いいこと尽くし、とまではいかなくてもそれなりにメリットがあった。
 一度相手と会ってみてから決めてもいいのかもしれない。根付に相談する必要があるだろうけど。
 相手と相性がよさそうで、仕事もそれなりに続けられそうであれば、何度かお会いして結婚、というのはアリかもしれない。

 根付とは外出だのなんだのですれ違っていて、ようやく顔を合わせたのは釣書をもらった日から一週間経過した日のことだ。制服に着替えてデスクに向かうと先に到着していたらしい根付が書類に目を通しているところだった。

「根付室長」
「おはよう」
「おはようございます。釣書の件なのですが、お会いするだけしてみようと思います」
「きみがそう決めたなら話は通しておくよ」

 ずっと言おうと思っていたことを告げ、了承されたことにほっと息を吐く。なにかを言われるとは思っていないが、なにかを言われたらどうしよう、とは思っていた。ボーダーの今後は自分にかかっている、とか言われたらどうしようかと勝手に思っていただけだが。

「年齢もちょうどいいってい言ったら失礼かもしれませんが、それほど離れていませんし、お会いしてみてもいいかなって」
「きみの人生のことだから熟考したとは思っているけれど、本当にいいのかい?」

 了承したというに何か言いたげにする根付に疑念を抱いていると、根付が顔を上げて視線をなまえに向ける。
 それからほら、と今まで頭の隅に追いやっていた話題を口にした。

「嵐山くんのこととか」
「課長までそんなこと言わないでくださいよ」
「まぁ、私はふたりのことに口出す立場じゃないからいいけど。あと〝室長〟ね」
「ついうっかり」

 軽い言葉のやりとりに話題を逸らした。まさか根付にまで嵐山のことを言われるとは思っていなかったのだ。
 室長として思うところはあるだろうに、なにも言われなかったから自分が断るのを見越していたのだと思っていたけれど、そうじゃなかったらしい。

「室長からも言ってやってくださいよ、目を覚ましなさいって」
「そこまで馬鹿かねぇ、彼」
「きっと疲れてるんですって。受験に広報に防衛任務にランク戦ですよね? 普通の社会人に置き替えたらブラック企業勤めになるんじゃないですか?」
「まぁ、忙しさで言うならそれ近いかもね」
「ほらぁ」
「でもほら、ちゃんとお休みはあげてるしね」
「それはそうですけど」

 学生が働く忙しさじゃないって言ってるんですよこっちは、とダメ出しをするように言ってみせると、根付は視線を書類に戻してしまった。これ以上の話し合いは受け付けないということなのだろう。一部の隊員に負担をかけている状況は根付も自分も危惧していて、最近はもう一つ広報部隊を作ろうか、という話をしているくらいだ。
 一旦話題が切り上げられたので、そのまま自分のデスクに座って仕事を始めるためにパソコンを起動した。
 根付が先方に話を通してくれたらしい日から数日で根付経由で返事が来た。お見合いの候補日が三つほど提示されて、それのどの日程にするか悩んでいる。それぞれ入隊式の日、広報イベントの日、自分の冠婚葬祭の予定がある日、の三つである。冠婚葬祭は優先するとして、それ以外は入隊式の日か広報イベントの日だ。
 入隊式の日のやることと言えば嵐山隊のサポートをしつつ、データベースへのデータ登録─主にポイント数などの反映─がある。元々沢村たちの中央オペレーターがやっていたことであるけれど、その日は中央オペレーターの研修と被っているらしく、困っていた沢村に手伝うよ、と言ってしまったのだ。その日のお見合いはナシだろう。今更無理になった、とは言えない。

「室長」
「なに?」
「来週の土曜の広報イベント、わたしの代わりに嵐山隊の同行頼んでもいいですか?」
「他の日はだめだったの」
「冠婚葬祭やら沢村さんとの約束で業務代わるって言っちゃったんですよね」
「…………仕方がないね。私が同行しておくよ」
「ありがとうございます。じゃあ先方に来週の土曜の日でお願いします、と連絡していただいてもいいですか?」
「了解」

 こういうとき自分で直接連絡しないものらしいので、すべて根付経由なのが申し訳ないと思う。
 なまえの都合を告げると先方より来週の土曜に三門市と隣の市の境にあるホテルのラウンジで、ということになった。
 お見合いなので着物の方がいいかと思ったが、調べてみるとホテルのラウンジなどであればきれいめの服装で良さそうだ。さすがにスーツはだめだと書かれていて、こういう場所に行く服を持っていないことに気づいた。
 今週末にでも午後半休をもらって買いに行く必要があるだろう。ホテルの予約などは先方がしてくれるそうなので、そのまま任せることにした。
 仕事ではないのに根付経由で連絡が来るのでまるで仕事のような気分になる。お見合い相手と結婚したとして自分のプライベートはどうなるのだろうか、と想像してみた。いつもと変わらず仕事をして帰って結婚相手のために夕食を用意するのだろうか。いまいち現実味を帯びていないので変な気分だ。
 業務の合間の休憩時間にインターネットを使ってホテル、お見合い、服装でひたすら検索をかけた。白は取り入れて、首元は開いたもの、シアーやギャザーのついたものを選ぶ、スカートはレースや開きすぎていないもの。
 これらが鉄則らしい。これをスマートフォンにメモして買い物に行くときのための参考にする。
 お見合いと言えば料亭などのイメージが強いけれど、昨今はホテルのラウンジなども多いらしい。自分が結婚適齢期であることをすっかり忘れていたので、世間の同年代はこういうところでお見合いをしているのか、と感心してしまった。
 いつか結婚出来たらいいな、とは漫然と思っていたけれど、まさかこんなきっかけがあって結婚が急速に近づいてくるとは思っていなかったのだ。
 ボーダーという組織はまだ不安定な面もあり、その不安定な面を真っ向から支えるのが自分の役目だと思っているので。結婚するならボーダーが落ち着いてからかな、なんて思っていたのだ。

 
 根付から午後半休をもらったお見合い前最後の土曜に三門市の中でも一番大きなショッピングモールへとやってきた。すこし値が張るブランドに足を踏み入れて食事会があるのでそのときの服を、と言えば、店の女性店員ははっきりと言わなくてもお見合いだと分かったらしく、それっぽい組み合わせの二つを目の前に並べてくれた。
 女性らしいやわらかい雰囲気の白のブラウスとサーモンピンクのレーススカートの組み合わせと、すっきりとした印象のを受ける雰囲気の白のVネックを紺のタイトスカートの組み合わせだ。
 それぞれ順番に試着させてもらって鏡を見てみると、どちらもそこまで大きく変わらない気がして悩ましい。うーん、と店員と二人で唸りながら服を並べてにらめっこをしていると、背後から自分を呼ぶ声が聞こえて振り返る。

「准と充?」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。おねえさん今日お休みなんでしたっけ?」

 時枝からの問いにそういえばこの子たちに今日午後半休をもらった、という話をし損ねていた。いつも休みを取るときは念のため嵐山隊に共有するようにしていたけれど、見合いの件で頭からすっかり抜け落ちていた。

「今日は午後の半休。二人は非番だったっけ?」
「今日は朝のシフトだったんです」

 二人の問いかけると嵐山が回答してくれた。
 朝から防衛任務だったというのに、今こうしてショッピングモールで遊んでいるのだから無尽蔵の体力が羨ましいと思う。

「おねえさんは……珍しい? ところに居ますね」

 首をかしげながら言う時枝に思わず苦笑いを返してしまう。
 時枝は自分が普段オフィスカジュアル以外の服装が全部有名な量販店のもので済ませていることに気づいているらしい。

「今度、取引先の方と食事会があるの。それの服探し中」
「なるほど」

 あ、とひとつの考えが浮かんだのでそれを躊躇なく口にした。

「そうだ、二人はどっちの方がいいと思う?」

 先ほどまで店員と悩んでいた服の組み合わせを見せて二人に問いかけた。
 こういうときは第三者の意見の方があてになったりするものだ。

「俺は右ですかね」
「おれもです」

 ふたりが口をそろえて右だというので、その言葉に従って女性らしいやわらかい雰囲気の白のトップスとサーモンピンクのレーススカートの組み合わせを買うことにした。
 服を購入してショッピングモールの用事は済ませたけれど、そのままの流れで嵐山と時枝とお茶をすることになり、自由の女神像に似ているロゴのコーヒーチェーン店で、服を決めてもらった恩もあるので奢ることにする。二人は自分の分は自分で出します、というけれど大人としての面子があるから奢られていなさい、ともう何度もしたやりとりをした。こういうとき佐鳥は遠慮をする前にゴチになります、というので、二人の謙虚さと佐鳥の図太さを足して二で割ればちょうどいい塩梅になるのでは、と考える。
 それぞれすきなものを頼んでいいよ、と言うと時枝はキャラメルマキアート、嵐山はブラックコーヒーだった。
 自分はこの店に来るときに必ず頼むソイラテを頼む。お会計を終えて二人に受け取りをお願いすると、時枝だけが受け取り口に行って、嵐山は三人で座れる場所を探しに行ったようだ。
 時枝がトレーをもらって三人分のドリンクを乗せている。嵐山は、と視線を店内に巡らせるとすこし奥まった場所にある四人席を確保した嵐山の姿を見つけた。
 時枝と二人で嵐山が確保してくれたテーブルに向かい、嵐山に奥の席にどうぞ、と言われたのでその言葉に甘える。奥に座って隣を開けていると荷物も置いてくださいよ、なんて言われて、よく気が付くなぁ、なんて感心した。嵐山の言うように先ほど購入したショッパーを隣の席に置く。そこまで重くないはずなのに、重しが取れたような気分になった。
 他愛もない話をしていると、ずっと気になっていたのか嵐山がショッパーに視線を向けて言う。

「食事会って、俺たちは参加しなくていいんですか?」
「あー。参加しなくて大丈夫。市民との交流ってわけじゃないから」
「なるほど」
「それに出るかわからないけれど、お酒とか出てきたら困るしね」
「出てきてもおれたちは飲みませんよ」
「わかってるよ。でもその場にいた、というだけで批判してくる人間は居るからさ」

 よくある話だ。飲み会に参加して飲んではいないけれど、その場にいたというだけで飲んでいないという証明をすることはできない。時間は経過しているし、その場が終わったあとにはどうとでも言える。そういう危険な橋を嵐山隊に渡らせる気は微塵もないのだ。

「嵐山隊はその日の市民向けの広報イベントを頑張ってください」

 はい、と同じタイミングで返事をする嵐山と時枝にこの子たちを選んだ過去の自分をほめてやりたい。どうやら先見の明はあったらしいぞ、と。嵐山からは高校の話を、時枝からは中学の話を聞く。仕事でできるはなしはそう多くないので、基本的に嵐山隊の面子の話を聞くことが多いような気がする。中間テストがどうだとか、推薦で合格したけど課題が多いだとか。勉強以外の姿は見る機会が多いけれど、勉強についての話はスケジュール設定のときに軽く聞くのと、佐鳥が赤点を取っていないかどうかの確認くらいしかしていない。

「まー、でも准が無事大学決まってくれてよかったよ。すこし心配だったから」
「勉強も頑張ってますよ」
「頑張ってるのは十分知ってるよ。でも〝頑張りすぎてるんじゃないか〟って心配してたの。杞憂だったみたいだけれど」

 あれもこれもそれも、とやっていて決めるところはきっちり決めてくるのだから、要領がいいんだろうな、と思った。

「准も充も他のみんなも、つらいとかもう無理って思う前に相談してね。これでも嵐山隊の専属だからさ」

 改めてする話じゃなかったけれど、なんとなく言っておきたくなった。これから大学入学や高校入学などの人生の節目を迎える彼らにだからこそ疲れたら相談してほしいと思うのだ。
 最後に自分が不在にする広報イベントの話を少しだけしたところで、ちょうどコーヒーを飲み終わった。二人もちょうど飲み終わったようで、そこで解散することにした。二人はこのあともウィンドウショッピングに勤しむらしい。自分はこのまま家に帰ることにした。

    §

 お見合いの日はいつもより一時間早く起きた。
 着物をレンタルしているわけでもないし、そんなに早く起きなくても、と思ったけれど作法などをチェックしていたサイトで髪の毛はまとめるのが吉、というのを見つけてしまい、髪の毛の準備をするために早く起きたのだ。
 普段の仕事のときは軽く巻いているくらいなので、きれいめのまとめ髪をしてみよう、と意気込んでいた。
 昨日作り置きしてあったおかかのおにぎりを冷蔵庫から出して朝食にする。ダイニングテーブルに座ってお茶とみそ汁の準備もして、それらをテーブルの上に並べた。準備ができたところでいただきます、と手を合わせて口に運んだ。
 食事を終えて家を出る準備をする。先日購入した白のブラウスとサーモンピンクのレーススカートを身にまとって、部屋に置いてある姿鏡で確認するといつもの自分ではなく、どこか女性らしい姿の自分がそこに居た。自分の姿に若干の違和感を覚えながら、次に動画サイトを再生しながら初心者でもできるまとめ髪に挑戦する。
 動画の倍の時間はかかったけれど、無事髪の毛を整えることができた。耳が寂しいのでイヤリングをつけるのも忘れない。最後に気合を入れる意味合いもかねて普段は滅多に付けない香水も手首と耳の後ろにつける。
 身支度を済ませて最後にもう一度姿鏡で自分の姿を確認する。不備はなさそうなのでそのままショルダーバッグを肩から掛けて家を出ようと部屋の時計を確認すると、すでに家を出る予定時刻を五分すぎてしまっていた。
 急いでいかないと遅刻してしまうかもしれない。いつも仕事で使うパンプスよりもヒールの高いパンプスを履いて、慌ただしく家を出た。

 お見合いの顔合わせ場所として設定されたのは三門市と隣の市の境にあるホテルのラウンジだ。このホテルは高級ホテルとして有名なチェーンの一つだ。入口からすでに高級感が漂っていて、気後れしてしまいそうになる。背筋を意識して伸ばし、堂々と歩いていくことにした。もしかしたら今後交友場所での仕事もあるかもしれないし、と確率の低いことを考える。ラウンジに到着して、入り口で視線をさ迷わせていると、日当たりのいい場所に置かれたテーブルに見覚えのある姿があった。今日この場をセッティングした取引先の社長とその息子の副社長姿だ。
 入口でウェイターに声をかけられたけれど、社長たちの方を指さして連れが先に到着したようです、と告げるとさようでございますか、とテーブルに案内をされる。案内を終えて去っていこうとするウェイターにアイスティーを頼んだ。
 ソファに先に座っていた二人はなまえの姿を確認するなり、立ち上がって会釈をしてくる。
 同じように会釈を返しながら近づいていく。二人用ソファに座っている取引先の親子を伺いながら、テーブルを挟んだ反対側のソファに自分も腰を下ろした。

「今日は来てくださってありがとうございます。堅苦しくない場にしたいと思っているので、気楽にしていただければと思います」
「ありがとうございます。こちらこそ今回はご縁をいただきまして」
「息子がどうしても一度お話をさせてほしい、と頼むものでして」
「あら」
「父さん、余計なことは言わないでくれ」

 和やかな親子の会話に耳を傾けながら、やってきたウェイターにアイスティーを持ってきたのを受け取る。飲み物が来る前にお見合いらしく挨拶から初めて、事前にもらっていた釣書の内容を確認するように会話を進めた。
 趣味の話からこれまでの経歴の話、中学時代や高校時代の話をして、なんとなく副社長の人となりがわかったところで、会話もひと段落ついた。これから、どうしようか、と思ったところで社長が言い放つ。

「あとは若いお二人で」

 まさか定番のこのセリフを聞くと思っていなかったので感動してしまった。
 ふたりでラウンジを後にしてホテルの中庭にある庭園を歩く。季節が秋前ということもあり、茂っている緑の中にジニアやポーチュラカが咲いている。綺麗だな、と思いつつ意識は目の前の副社長からは逸らさないでいた。些末な話をしながら、お互いの結婚後の価値観の話をしようとしたところで副社長が先にその話題を口にした。

「結婚したらお仕事は辞めてほしいんです」
「なぜですか?」
「妻には家庭を支えてほしいので」

 女だから家庭に入れ、という意見はなにもおかしいと思わないけれど、自分がその枠組みに入ることはできない。ボーダーという組織で根付の部下で嵐山隊の専属職員であることに誇りを持っているからだ。

「でしたら、今回のこのお話はなかったということで、お願いいたします」
「なぜですか?」
「わたしは仕事に誇りを持っていますし、これからも子どもたちを支える大人でありたいと思っています」
「あなたもボーダーという組織に毒されているんですね」
「毒されてなんていませんよ。今日はここで失礼させていただきます」

 今後のお取引のことは根付と相談させていただきますね。わたしが担当のままだとそちらもやりづらいでしょうから、と最後に付け足すのを忘れない。引き留められることもなく、時間の無駄だったな、と思いながらそのままその場を後にした。

 慣れない場から飛び出しホテルから外に出た途端、緊張していたのか大きなため息が出た。このあと根付に話はお断りさせてもらうことを連絡しなくちゃ、と思っていると、なまえさん、と自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。聞き慣れた声に振り返ると私服の嵐山の姿が目に入った。

「准。どうしたのこんなところで」
「広報イベントが早く終わったので迎えに来ました」
「場所も言ってないのに」
「根付さんが教えてくれましたよ」

 まさか根付が本当に嵐山側に着くとは思っていなかった。あの人だけは静観していると思ったのに。

「……今日はどうだったんですか?」
「お断りしたよ。仕事辞めろって言われたら流石に価値観のすり合わせもなにもないもの」

 仕事は後進が育つまでは辞めるつもりはないし、後進が育ってもやめないかもしれない。それくらいボーダーという組織─ひいてはメディア対策室という場所を愛しているし、誇りをもって仕事をしているつもりだ。
 しばらく結婚は不要かな、とへらへらと笑って見せれば、嵐山が目の前に近づいてきて、それから頭をなまえの肩に乗せた。頭の重さを肩に感じ、こんなに近い距離になることは今までなかったので、心臓がうるさいくらいはねているのが分かる。

「じゅ、じゅん?」

 困惑したまま嵐山の名前を呼べば、はーっと息を吐かれて、それからどこか寂しそうな声で言われた。

「さすがにこれは堪えます」

 嵐山の言葉がなにを意味しているのか正確に読み取れてしまって、今度はなまえがはーっと息を吐いた。
 諦めさせるという作戦は失敗したのだから情けない。
 けれど、それでも仕事を辞めるという選択肢は選べなかったし、嵐山がいつか自分に飽きるという未来も諦めていない。

「准にくじけてほしかったんだけどなぁ」
「ひどいですね」
「そうだよ、わたしってひどい大人なの」

 肩から頭を上げた嵐山におどけながら言ってみせると、嵐山の強くてまっすぐとした視線が自分を刺した。

「心中しようって言ったのはあなたですよ」
「そういう意味じゃなかった」
「俺にとってはそういう意味になったんです」

 逃げることが許されない瞳にとらわれたまま、言い訳を探すけれど見つからなかった。嵐山のことは憎からず思っているところもあったし、まっすぐと向けられる好意というのは正直嬉しくもある。
 けれど、年齢の壁というのは厚いものだ。現実を知っているからこそ嵐山に諦めてほしかったのに。
「俺は自分の気持ちを証明してきたつもりです」

「そうだね」
「おねえさんが心配していることも理解はできますが、それ以上に俺はあなたのことが好きです」
「きっともっとかわいくていいお嬢さんが現れるよ。そしたらわたしのことなんて捨てちゃうのに」
「捨てませんし、もう素敵な女性は目の前にいるのでそういう女性は現れません」
「盲目になってるだけじゃない?」
「なにをしたら信じてくれるんですか?」

 そう言われると言葉に詰まる。諦めてくれたらすべて丸く収まるというのに。それは許されないようで。そもそも急に入った嵐山の好意のスイッチがどこだったのか気になる。出会ったときから、というのはあり得ないし、それ以外の思い浮かぶこともない。

「深み入ったりしたら嫌だったから、あえて聞いてなかったんだけど、わたしのどこが好きなの?」
「たくさんありますよ」
「聞いてみたい」

 続きを促してみると嵐山はまるで出会ったときからをなぞるように好きなところを羅列していく。最初は強烈なことを言う人だな、と思ったこと。でも仕事中にしっかりしていて気配りもできるからびっくりしたこと。オフになると仕事のときよりもどこかゆるい感じになるところ。食事の食べる姿がきれいなところ。エトセトラ。

「でも一番好きだなぁって自覚した瞬間は、」
「瞬間は?」
「木虎が暴漢に襲われそうになったことがあったじゃないですか」
「あったね。大人なのにみっともなくわたしが泣いた日だ」
「みっともなくなんてないですよ。あのときに、おねえさんも一人の女の子なんだなって自覚したんです。それでいつも肩を張ってたんだなぁと思うと、なんか好きだなぁって思いました」

 まるで眩しいものを見るように見つめてくる嵐山の顔を見て、頬が熱くなったのが分かる。そんなにちゃんとした理由やきっかけがあるなんて思わなかったのだ。思春期特有の身近にいる女性に向ける好意だと思っていたのに。

「いい加減、覚悟を決めてもらえませんか」
「……無理だよ」

 嵐山に再三の警告を出す。何歳差か分かってるのか。嵐山が二〇歳になればなまえは三十路手前である。年齢差で諦めなければならないこともきっといくつも出てくるだろう。それらを羅列してそれでも付き合いたいというのか、と質問を突きつける。すると嵐山はすべてを理解しているのか力のある瞳で向け、それから肩を両手で掴まれた。

「それでも諦められないんです」
「─准が、」

 言ってもいいのだろうか。もうわからない。いろいろなことが一気に起こったせいか頭の中が焼き切れかけて、飲み込まれそうになっている。

「准が、二〇歳になっても同じことが言えるなら、付き合ってあげてもいいよ」
「……それまで恋人も作らないで、お見合いもしないでいてくれますか」
「元々仕事優先だから結婚は考えてなかったんだ。今回はたまたまご縁をいただいたから考えようかな、と思っただけで」

 今すぐ結婚したいわけじゃないよ、と言えば、嵐山は安心したようにほっと息を吐いた。それから自信満々の笑みを浮かべて言う。

「二年後だって同じことを言いますよ、俺は」
「ほんとかなぁ」

 手を取られた。自分の手を包み込んでしまえる嵐山のそれは、やっぱり男の人だなぁ、と自分との違いを実感した。

 ボーダーの食堂で昼休みに昼食としてきつねうどんを食べていると、空いている前の席に東が座った。この時間に会うのは久しぶりかもしれない。東とは大体自分の退勤と東の夜勤前が被って食事をすることが多いので。東のことを気にせずきつねうどんの麺をすすっていると、爆弾を落とされた。

「ようやく観念したらしいですね?」

 突然の爆弾投下にうどんが気管に入ってゲホゲホと咽る。変なところにうどんが入ったせいで呼吸しづらくなった。東に差し出されたコップを受け取って水を一気飲みして呼吸を落ち着かせる。

「誰に聞いたの。賢?」
「いや、嵐山からです」
「なんで東くんに言うかな」
「牽制じゃないですか?」
「まっさかぁ」

 嵐山がそこまで東に敵意を持っているとは思えなかった。というよりも、嵐山が敵意のようなものを人に抱くとは思えないのだ。嫌いな人いるの、と聞いて、いません、と言われても信じてしまえる清廉潔白な印象がある。止まっていたうどんを食べる手を再開させると、東も同じように注文したらしいアジフライ定食を食べ進めていた。食事を終えてお互い大学や仕事の愚痴をぶつけあってすっきりしたところで東が隊員との予定があるので、と作戦室に戻るというので、自分もメディア対策室に戻ることにする。

「じゃあね、東くん」
「今度飲みにでも行きましょう。沢村も誘って」
「是非是非」

 沢村とはそこまで交流があるわけではないけれど、先日代打をしたこともあって仲良くしたいとは思っていた。その場を提供してもらえるということであれば喜んで足を運ぶ。
 食堂の入り口で東と別れてメディア対策室に戻ろうとしたところで、なまえさん、と名前を呼ぶ声が聞こえて振り返ると、嵐山の姿があった。

「准」
「メディア対策室に戻るんですか?」
「そうだよ」
「俺も明日のことで打ち合わせしたいことがあったので一緒に行きます」
「そう?」

 明日と言うと三門第一高校で行われる在校生向けの広報イベントだ。イベントを開く側も、イベントに招かれる側もお互いある程度知っている状況でのイベントなのでいつもと勝手がすこし異なりそうだとは思っていた。
 嵐山と肩を並べて明日の内容などを話して歩いていると、嵐山がなまえの様子を伺うように聞いてくる。

「東さんと飲みに行くんですか」
「沢村さんもいるって」
「行くんですね」
「やましいことはないのに」
「でも、」
「わかった。飲みに行くけどお酒はなしで済ませるから」
「それなら、まぁ」

 付き合っているようで付き合っていない関係になってから、嵐山の口に出すことが増えたように思う。駄々っ子のようだと思ったのは自分の中だけの秘密だ。
 並んで歩いていると嵐山を呼ぶ声が聞こえて、振り返ると迅の姿があった。

「迅」
「嵐山とおねえさん。お疲れ様」
「迅くんもお疲れ様」
「おねえさんようやく観念したんだって?」
「迅くんにも伝わってるの? やめてよ」
「俺が言いました」

 誰にどこまで言ったのか聞きたいような聞きたくないような。そんな心持ちで自分を尻目に行われている迅と嵐山の会話を聞く。
 迅は朝のシフトが終わったところらしくこれから食堂に向かうそうだ。嵐山もまだならどうか、という話で、嵐山もまだ昼食を食べていないのだという。
 嵐山に食事をしてから打ち合わせをしよう、と提案して迅と嵐山を置いて先に戻ることにした。

「先戻ってるね。准はご飯食べ終わったらメディア対策室に来て」
「わかりました」

 手を振って二人に別れを告げてメディア対策室に戻る。
 そろそろ会議を終えた根付も戻ってきているだろうし、明日の最終確認をするのもいいかもしれない。

 去っていく彼女の背中を見ながら、迅は呆れたように息を吐く。

「嵐山さぁ」
「なんだ? 迅」
「そこまであからさまにしなくても」
「だってようやく猶予期間をもらえたんだ。有効活用しないと」
「付き合ってないのにお互いそこまでしてるって、ある意味付き合ってるのと同じでしょ」
「まだ付き合ってはない」
「ある意味おねえさんもおまえもすごいわ」
「褒めるなよ」
「褒めてない」

 迅と嵐山が食堂に向かいながら歩いていると、上機嫌な嵐山の姿が見て取れる。よほど今の関係になれたことが嬉しいらしい。ひどいことをしないでやって、と言ったことは起こってしまったので仕方がないけれど。
 それで二人の仲が深まったのなら起こってもよかったのかもしれない。二人の未来を盗み見てもどれもしあわせそうで、でもそれを口にすることはしなかった。いずれ起こることはふたりで乗り越えて貰わないと意味がないので。

「あーあ、おれも彼女欲しい」
「迅はいいやつだからすぐ見つかるだろ?」
「おまえのそういうとこ、ほんとに……」

 不思議そうな顔をしている嵐山にため息を溢す。迅の胸中など知る由もない嵐山に、しあわせであれ、なんてありきたりなことを願った。