四月から同じクラスになったクラスメイトの絵心とは特段仲が良い、というわけではない。絵心となまえが現代文の係なのでノートの回収などで会話をするくらいだ。人にあれこれ言うのが苦手な自分はノートを回収するのも一苦労で。なかなか提出してくれないクラスメイトにおどおどしながら接しているせいか、クラスメイトにはよく揶揄われていた。そしてそれを見兼ねた絵心が代わりに回収してくれたりする。ルーズな人間ほどなまえのことをいじってきて面倒だし疲れていたので絵心の存在は正直助かっていた。なまえとは違ってはきはきとしている絵心に尊敬の念すら覚える。
「さっさとしなよ」
「う、うん、ごめん」
ノートを教卓に集めてふたりでノートを半分に分ける。絵心が少し多く取っていったのでそういうところに気遣いを感じた。
ノートを持ってそのまま教室から担当教諭が居る職員室へと向かっていく。職員室はなまえたちの教室からすこし距離があるのだ。
中庭の廊下を使って別棟に移動しなければならない。
それがほんのすこし億劫だった。絵心と並んで歩いていてもなにか会話をするわけではない。無言で肩を並べて歩く。それだけだ。それが嫌だと思ったことはないし、そういうところがいいな、と思ったこともない。絵心はなまえにとってまるで空気のような存在だった。
五分ほど歩いて職員室に到着する。スライド式のドアを開けて中に足を踏み入れた。職員室内に視線を巡らせて担当教諭の席を見る。そこに担当教諭の姿はなくてどうしよう、と困惑する。
「置きっぱなしでいいでしょ」
「でも、一声かけなくていいのかな?」
「居ないやつが悪い」
目の前でシャッターが下ろされたかのようにきっぱりと言う絵心に大丈夫かな、と心配しつつも彼の言葉に従うことにした。担当教諭の机にクラス全員分のノートをタワーを作るように積む。雑多にいろいろなものが置かれている上に置いたのでノートで出来上がったタワーが崩れそうで。担当教諭が戻ってくるまで形状を保ってくれることを願う。
念のため隣の隣の席に座っていた教師に声をかけることにした。教師は伝えておくね、と言ってくれたので一安心だ。
職員室をあとにして教室に戻る自分と部活動に行く絵心は靴箱で別れる。
「また明日」
「また明日」
他愛もない挨拶をして昇降口に向かう絵心を見送ってなまえもさっさと教室に戻ることにする。今日は部活動がないためそのまま帰宅するだけなので気が楽だ。なまえの所属している手芸部は毎週金曜日に活動しているのでそこまで頻度が高くない。それを見越して選んだのもあるが。
また五分ほどかけて教室に戻り、それから自分の席に置きっぱなしにしていたスクールバッグを手に取った。
忘れ物がないか机の引き出しを見て何も忘れていないことを確認する。基本的に机は空にするようにしていて、予習復習の必要のない教科の教科書や問題集は鍵付きのロッカーに入れてあった。
今日受けた授業に思い馳せながらリーディングの宿題は時間がかかりそうだな、と当たりをつける。
それに明日はなまえの出席番号の日付なので多く当てられることが推測された。明日は万全の状態で挑まなければならない。
スクールバッグを肩にかけてその足で中庭を経由して昇降口に向かう。外から職員室の窓を除いて担当教諭が戻ってきているか確認したかったのだ。
そろり、と教師たちに見つからないように職員室を除くと現代文の担当教諭が戻ってきていたので安堵する。心配性な気質なのを辞めたいと思うけれど現状できていないのが最近の悩みだ。
職員室から離れて来た道を戻る。中庭を通り過ぎて昇降口に到着すると、そこには胡坐をかいて座り込んでいる生徒の姿があった。
ネクタイの色を確認するに上級生らしい。おそるおそる自分の靴入れに向かうと、こちらの様子に気づいたらしい上級生が大きな声で話しかけてくる。それを無視してさっさと上履きと下履きを履き替えた。
こんな場所さっさと切り抜けるに限る、と思ったところでいつの間にか距離を詰めてきていた上級生に捕まる。なにも悪いことなどしていないのにどうしてこんな目に遭っているのか。自分の運のなさを嗤う。
「二年生? かわいいね」
「これから帰んの? 俺らと遊ばね?」
「あ、あそびません」
断った声は震えていた。自分でも情けないと思う。この状況をどうしたらいいのかわからず、気が動転しているのもあり目にうっすらと涙の膜が張った。誰か助けて、と内心で届くはずのない願いを考えながら、上級生たちからどうやって逃げようか考える。いい策は出てこなかった。走って上級生たちの中を走り抜けるしかない。あとのことが怖いけれどええいままよ、と思って足に力を込めた。このままここに居ても絶対に事態は好転しない。
スクールバッグを身体の前に持きてぎゅっと抱きしめる。
せーの、と自分の中で合図を出して走り抜けようとすると、まるでなにかの啓示のように人の声がこの場に響いた──ような気がした
声の方を見ようと振り返るとさきほど別れたばかりの絵心の姿があった。なんで、どうして、と思って混乱していると絵心がこちらに近づいてくる。
「先輩方、なにか用ですか?」
「なんでもねーよ。白けたわ」
絵心が現れたおかげで上級生たちは白けたらしくそのまま昇降口を去っていった。上級生の姿が見えなくなって身体の力が抜けてその場にしゃがみ込む。
身体の力が抜けたことで自分が緊張していたことに気付いた。
はーはー、と大きく深呼吸をする。さっきまでのことを思い返すと足が震えた。あの場を絵心のおかげでなんとかなったことを感謝する。絵心がしゃがみ込んでいる自分に手を差し出してくるのでその手を取れば立ち上がらせてくれた。
「ありがとう、絵心くん」
「別に。教室に忘れ物があったから取りに来ただけだから」
「それでも、ありがとう」
「……気をつけて帰りなね」
「うん」
何度目かわからないお礼を再度述べて帰ることにする。スクールバッグを肩にかけなおして靴をちゃんと履くためにつま先で地面を数度蹴った。しっかりと履けたことを確認してから振り返るとそこに絵心の姿はなかった。
絵心にもう一度最後にお礼を言いたかったのに、と残念に思う。明日もう一度お礼を言おう、と考えながら昇降口を抜けて校門をくぐって帰路についた。
帰路を歩きながらさきほどの出来事を反芻する。上級生は怖かったが、絵心が助けてくれてよかった。
あのタイミングで絵心が現れたことは幸福以外の何物でもないだろう。
助けてくれた絵心の姿を思い返せば胸がじんわりと温かくなって頬もほんのり熱い気がする。
「いやいや、まさか、そんな」
思い浮かんだ一つの可能性を違う、と否定するように頭を左右に振る。未だそういうのじゃない。きっとそういうのではないはず、だ。
家の前に到着して今日あった出来事を母にでも話そうかと思ったけれど、教育委員会が、とか言い出しかねないので自分の胸の内に留める。家の中に入っていくと母のおかえり、という声が聞こえる。それにおざなりに返事をしてから自室に向かった。部屋に到着するなり制服を脱いで部屋着に着替える。それからベッドに寝転がって自分の目元を腕で覆った。やっぱり考えるのはさきほどのできごとで。もう考えるのを止めたいのにずっと考えてしまう。
「絵心くん、かっこよかったな」
口にするともうだめだった。やさしい。助けてくれた。かっこいい。好き。
ベッドの上で枕を抱きしめながらごろんごろんと左右に転がりながら悶えて、それから動きを止めて枕をさらに力強く抱きしめた。
「すき、だなぁ」
こんなささいなことで好きになるなんて、と思う自分と、あんな危機的状況を救ってくれたのだから好きにならないわけがない、と思う自分もいる。今とりあえず言えることは絵心が好きだな、ということだけだ。
なまえの中でそんな劇的な出来事があったけれど次の日学校に行くと絵心はいつも通りだった。
昨日の出来事は絵心の中ではなんでもないことだったのだと理解する。それと同時に舞い上がっていた自分に恥ずかしくなって自分もいつも通りに接することを心掛けるしかなかった。
特に変化のない日々に絵心の姿は視界に入り込んできてはなまえの心を揺さぶって来る。あの日から小さく芽吹いている気持ちが育っていくのを感じていた。
真剣にノートを書いている姿、眠そうにしている姿、体育のサッカーの授業で無双する姿。
いろいろな姿を気付けば目で追ってしまっていた。
席替えをして絵心の後ろの席になったとき、彼の姿を眺めていると大概なにかを見ていたりなにかを書いている様子が見て取れた。
一度現代文のノートと間違えて違うノートを提出されたことがあって。ノートの間違いにはすぐに気付いたようで正しいものと交換されたけれど。
ノートを交換するときに間違えていた方のノートが床に開かれて落ちたのだ。そこにはよくわからないけれど丸とかメモ書きがされていることが分かった。
大事なノートだったそれはすぐに絵心に拾いあげられて内容までは理解できなかったが。
でもきっとサッカーに関することなのだろうな、と勝手に当たりをつける。こういうとき相手の好きなものを好きだったらよかったのに、と思う。そうしたら話に花が咲いていたりしたかもしれないのに。
その日も男子はサッカーの授業で女子はテニスだった。男子の方を盗み見ていると絵心は、まるで自分の身体の一部のようにボールを操っては周囲を置き去りにしていた。以前サッカー部の男子が言っていたことを思い出す。
絵心はゲームメイクがずば抜けている、と。ゲームメイクのことはよくわからなかったが、すごいということはなんとなく理解できた。すいすいと相手を抜いていく姿はまるで魚のようで。そんな姿にも目を奪われていた。いろいろな姿を見るたびに好きという感情が質量を増していく。
前にゴールキーパー以外いなくなって絵心はそのままゴールに向かってシュートを放っていた。ボールはネットを揺らして得点が追加される。
周囲にもてはやされているのをあしらっている姿はいつも通りクールだ。
もう少し嬉しそうにしてもいいだろうに。
試合は続行されてそのまま見ていようかと思ったけれど体育教諭に注意されたので渋々テニスコートに戻った。自分でボールを打つよりも好きな人が放つゴールの方がよっぽど価値があるというのに。
体育の授業が終わり各々が用具を片付けていく。なまえもテニスラケットとボールを片付けて更衣室に戻ろうとしたところで、ビブスを回収している絵心の姿が目に入った。
あんなに動いていたのに息を切らしていない絵心にゆっくりと近づいて進行を妨げるように身体を入れてしれっと話しかける。
「大活躍だったね」
不自然になっていないだろうか。内心の心配を隠して普段通りに振舞った。絵心はこちらの姿を見てから小さく息を吐いてメガネの位置を整えていた。
「そんなことないでしょ」
平然と返されたそれにがくり、となりながら誤魔化すように笑って絵心の顔を覗き込む。
「褒めたのに」
「サッカー知らないやつに褒められてもね」
「ひどいなぁ」
サッカーを知らないやつ、という言葉が胸に突き刺さる。そんなこと言わなくなっていいじゃないか。サッカーのことはよくわからないけれどかっこいいと思ったことは嘘じゃないのに。これを機にサッカーの勉強をするべきだろうか。
絵心がビブスを片付け終わればそこで彼とは別れる。お互い更衣室で着替えてから教室に戻らなくてはならない。返事が返ってこないのは分かっていたからじゃあね、なんて言葉を投げかける。案の定無視された。それに拗ねた気持ちになりながら急いで戻らないと次の授業に遅れるので足早に更衣室に向かう。
着替えを終えて教室に戻ると先に帰ってきていた絵心の姿を見つけた。同時に更衣室に向かったはずなのにもう到着している。これが帰宅部と運動部の差か、と変に納得してしまった。
自分も運動部に入ればもう少し俊敏に動けるのだろうか、と考えてみるけれど、きっとそんなことはないだろう。
ある意味幼少期の頃に運動から逃げ回ったツケかもしれない。
絵心の後ろの席に戻ったところでちょうど次の授業である古文の教師がやってきた。
この教師はそこまで当てることもせず当てられたところで間違えても怒られるということもない。
正直生徒のおやすみタイムと言っても過言ではないのだ。
なまえは古文が好きなので真面目に受けるけれど、大体他の科目をしていたり、眠っていたり、早弁をしていたり、とみんな好き勝手に過ごしている。
教師の書く板書をノートに写そうと黒板を見れば前の席の絵心が目に留まった。彼も他の生徒に倣って授業に関係のないことをしているようだ。
肘が動いているのでまたあのときのノートにサッカーのことでも書いているのだろう。その視線が少しでも自分に向けばいいのに、と思うのはおこがましいことだろうか。
サッカーにかける興味を一ミリでいいから自分に向けられたい。
恋する乙女の宿命というか。好きな人の視界に入りたいと思うのは万国共通だと思う。
眠くなりそうな穏やかな教師の声に耳を傾けながら視界の端で絵心を捉えながら授業を受けた。
早く授業は終わってほしい気もするし、まだ終わってほしくない気もする。
絵心の姿を凝視してはこっちを向いてくれますように、なんて念を送った。
もちろんこちらを向くことはないんだけれど。
§
ただじっと、見つめていた。
サッカーのことなど一ミリもわからない。わからないけれど彼のサッカーをする姿が好きだと思った。
ジワジワとなる蝉時雨の中、制服を身にまとって学校の図書室に向かって歩いていく。家のエアコンが壊れてしまったので涼しい場所を求めて学校にやってきたのだ。
図書館も考えてはみたけれど、先日図書館に行ったら自習室も空いてないし普通の席だと話している人の声が気になって集中できなかったのだ。昇降口を経由して靴を上履きに履き替えて図書室に向かう。
風を通すために開きっぱなしになっているドアの前を通ると、遠くで部活動に励んでいる喧噪が聞こえた。
これは野球部だろうか、これは陸上部だろうか、これは吹奏楽部だろうか。そんなことを考えながら図書室に到着して扉を開けると司書の姿がある。
こちらの視線に気づいたらしい司書がこんにちは、と声をかけてきた。それに勉強しに来ました、なんて返事をする。
図書室の中に入って上履きを脱ぎ日当たりのいい場所を陣取る。図書室の中を見渡すとなまえと同じように勉強している人間が多くてほっとする。これなら集中して勉強をすることができるはずだ。
赤本と問題集とノートを鞄から取り出して机の上に広げる。
窓の外に視線を移すとサッカー部が暑いなか走り回っている姿が目に入った。その中でも絵心の姿が目を惹く。
やっぱりかっこいいなぁ。
すぐに我に返って自分の勉強に集中するために参考書に意識を戻した。
勉強がひと段落ついたところで学校の外のコンビニに昼食を買いに行こうと財布を持って図書室を出る。出るときに司書にコンビニに行ってきます、と一声残した。図書室から昇降口に向かって来たときと同じように靴を履き替える。校舎の外に出ると照り付ける太陽に肌が焼かれる感覚を覚えた。日傘でも持ってきたらよかった、と後悔する。もちろん日焼け止めはきちんと塗っているけれど、家から学校に行くまでに汗で流れてしまっている気がした。
近くのコンビニに来るとちょうど休憩だったのか部活動姿の生徒の姿がいくつか目に入る。彼ら彼女らの後ろをそろり、と通り抜けて自分の目当てであるドリンクコーナーとおにぎりコーナーを見る。暑いからお茶とスポーツ飲料を手に取る。それからおにぎりは鮭と昆布を選んだ。さてお会計をしようかな、というタイミングで絵心が店の中にサッカー部の部員と一緒に入ってるのは見えた。その姿をじっと見つめているとこちらの視線に気づいたらしい絵心と目が合う。会釈でもしようとしたところで絵心は知らないふりをしてそのまま店奥へと入っていった。それにすこしだけつまらないな、と思って、それからひとつ考えが思い浮かぶ。レジに向かおうとしていた足をドリンクコーナーに戻してもう一本スポーツ飲料を手に取った。レジで袋お願いします、なんて言いながら会計を済ませて、外に出て店内の様子を伺っていると絵心がちょうど会計を済ませているところで。絵心の姿を目で追いながら店の外に出てくるのを待ち構える。サッカー部員を連れたって出てきた絵心に声をかけた。
「絵心くん」
「……制服?」
「図書室で受験勉強」
「あぁ、そう」
興味を示してくれたかと思いきやすぐに興味がなくなったようだった。それにわずかにショックを受けながら自分のレジ袋の中に入っているスポーツ飲料の一本を取り出し絵心に差し出す。
「何?」
「差し入れ」
「いいよ」
「いいから。わたしそんなたくさん飲まないし」
「じゃあ」
渋々、と言った様子で受け取られたことに喜びを覚えて口元をほころばせる。喜んでいるのが絵心に伝わったのか目の前でため息を吐かれた。
「な、なに?」
「別に。これ、ありがとう」
「ううん。わたしが勝手に渡したくなっただけだから」
「じゃあね」
待っていたらしいサッカー部員になにやってたんだよー、と茶化されながら去っていく絵心の背中をじっと見る。
暑い中動いていたからなのか背中には汗が滲んでいて見ているこっちまで余計暑い気分になった。絵心の姿を見送りながらやっぱりアイスも買おう、と思ってコンビニの中に戻っていく。暑いときはアイスを食べるに限る。
アイスを食べ終わっておにぎり二つと飲み物二本をレジ袋に入れたまま学校へと戻っていった。
夏休みは受験勉強に勤しんで終わった。秋に差し掛かってもそれは変わらない。直近で受けた模試の結果はD判定で。親にももう一つランクを落としてもいいんじゃないか、と言われている。
けれど学びたいことを学べるのはそのD判定の大学だけなのだ。どうにか成績を上げようと学校の勉強と受験勉強に真面目に取り組む。推薦がもらえたら一番なのだろうけれど、学年上位の女子生徒が同じ大学を狙っていると聞いて半ば諦めていた。
部活動に入っているけれど大会などもない長閑な部活動だし、内申点もそこまでいいわけじゃない。
残された道は自力でこつこつ頑張るしかないということである。
赤本片手にうんうん唸っているとだんだん教室が騒がしくなるのを感じた。
今日は集中できないので帰宅してゆっくり休む、なんて思いながら昇降口を出て裏門へ向かう。校門を出る前にグラウンドがありサッカー部の声が聞こえて足を止めた。
グラウンドでサッカーの練習に励んでいる絵心の姿をいつものように遠くからじっと見つめる。どこか自分をそぎ落としていくような姿に胸が苦しくなった。なまえは部外者でしかないのにそこまでしなくていいよ、と言いたくなってしまうほどだ。陰から眺めていることしかできないくせに、そんな気持ちばかり浮かんでは消え仕方のない人間だな、と自分を嘲笑する。
姿を見ているだけでどんどん好きが増していくというのはなかなか厄介な状況だ。前に友人たちが言っていた〝推し〟というものに似たようなものかもしれない。彼女たちは推しが動いているだけでかわいい、推しが酸素を吸ってるだけでかわいい、なんてことを言っていたのだ。
今のなまえも似たようなものかもしれない。絵心がサッカーをしている姿が自分でも驚くほど愛おしいものだと思っていたのだ。
その愛おしい気持ちを抱いたまま唐突に勇気を出した。
特に用もないのになまえから話しかけにいったのだ。絵心からすれば急になんなんだ、と言ったところだろう。
「どうしたの」
「あ、いや、用はないんだけど。……絵心くんのこと見てた」
「そう」
サッカー部の練習はちょうど休憩だったようでグラウンドの端で座り込んでいる絵心に声をかける。他にも部員に話しかけている部外者がいるのでなまえが絵心に話しかけても浮くようなことはない。ずっと思っていたことを伝えるために身体に力が入った。手で握りこぶしを作ってぎゅっと握る。震えそうになる手には気づかないふりをして。勇気を振り絞って声を出した。
「絵心くんの、」
「うん?」
「絵心くんのサッカー見てるとすごくかっこいい、と思うよ」
「サッカーのことなんて知らないのに?」
「知らないからこそ見える景色もあるじゃん」
絵心は呆れたのか盛大にため息を吐いた。それに内心でびくり、としながら表面上はなんでもないように振舞った。
「はぁ、そんなもんかね」
「そんなもんだよ」
想いを伝えることなどできないなまえにとって〝かっこいい〟という言葉は今の自分に表現できる最上の〝好き〟だ。
舐めるように見つめて絵心の一挙一動を気にする自分は傍から見ると気持ちが悪いのかもしれない。
けれど、それでも、反省する気持ちより絵心を見ていたいという気持ちが勝った。
八月に行われたサッカーの県大会の予選を無事通過した、というのは学校の中でも瞬く間に広がった。
予選の次は十月の決勝トーナメントらしく、それで優勝すれば全国大会が待っているらしい。
関係ないなまえでもおめでとう、という気持ちで一杯になった。好きな人が頑張っている姿を眺められて、応援できて、勝利を喜ぶことができる。なんとなくそれを尊いことだと思った。
スポーツ観戦をする人はこういう気持ちを味わいたくてしているのかもしれない。
クラス中でおめでとう、と絵心や他のサッカー部員に声をかけると、絵心ははいはいどうも、と言って受け流していた。
サッカー部員はありがとう、と喜色満面と言った様子でお礼を言ってきたけれど。同じチームだろうに、絵心とサッカー部員の間で温度差があるように感じた。素気無くされると分かっていながらなまえの前の席に座ろうとする絵心に声をかける。
「絵心くん」
「なに」
「おめでとう」
「どうも」
予想通り素っ気ない態度だったけれどまぁ分かり切っていたことなので返事が返ってきただけで嬉しくなるものだ。自分でも容易いことは自覚しているけれど。
サッカー部員にもおめでとう、と声をかけながら、決勝トーナメントには応援に行けたらいいな、と思う。
一年生の頃、野球部が県大会の決勝に行ったときは応援団を募っていたけれどサッカー部でも同じことはするのだろうか。
そうであれば埋もれて応援できるのでちょうどいいのに。いや、ひとりで応援に行っても埋もれることには変わりないけれど。
同じ学校の中の面子に埋もれている方が気持ちが楽な気がする。
一人でサッカー部の応援に行くってなかなかハードルが高い。サッカー部員と付き合っている子などはまとまっていっているらしいけれど、その輪に入るのは正直無理だ。人種が違うし自分はただ一方的に絵心に懸想しているだけなので、彼女たちとは立場が違う。
やはり今回は一人でこっそり隠れてみるしかないか、と内心でため息を吐いた。こういうとき一緒に行ける友人を作っておけばよかった、と嘆く。友人たちは運動部とか無理無理、という内気な子が多く、自分がサッカー部見てるんだよね、と言うのも憚られるくらいだ。
なんならサッカー部を見に行く理由を問い詰められてうっかり絵心への気持ちを吐露したら、翌日にはどうなっているかわからない。友人たちのことは好きだが恋愛関係の相談をしようとは思えなかった。彼女たちは恋愛よりも娯楽にうつつを抜かしていたいタイプなので。だから自分の惚れた腫れたを持ち込んでも場が白けるだけなのが目に見えている。こっそりひとりで誰にも気づかれることなく応援するくらいが身の丈に合っているのかもしれない。
現代文の授業が終わって教師からノートを回収して昼休みに職員室まで持ってくるように言われる。またか、と思う気持ちと同時に絵心と関われる時間が増えることに感謝したい気持ちが同時に湧いた。
クラスメイトから回収するために教卓に立って声をかける。素直な人間はすぐに持ってきてくれるが、ルーズな人間は相変わらずすぐに持ってこようとしない。
そのせいでクラス全体の提出が遅れるというのに。しかもルーズな人間に限ってグループを組んでいたりするので面倒臭い。
こういう自己中心的な行動をする人間が好きではないので、関わることもあまりしたくないのが本音だ。はぁ、と大きなため息を吐きながら苦手なクラスメイトたちのグループに近づいていこうとすると、その前に絵心が彼らに近づいていった。呆然とその様子を見ていると絵心がグループに声をかける。
「ノート、出してくんない?」
淡々と告げる姿を見ながら内心ではらはらする。絵心の言葉にイラついた様子のクラスメイトが言い返そうとしたが、彼の圧に負けたのかぐっと黙り渋々ノートを取り出して渡してきた。
「さっさと出せば済む話だろ」
「うるせぇなぁ」
一触即発と言っても相違ない雰囲気に冷や汗をかいて見守っていると、クラスメイトの方が舌打ちをしてどこかへ行ってしまった。
ノートひとつでここまで険悪な雰囲気になれるのもすごい。空気が終わっている中ノートを回収した絵心がこちらへ向かってやってくる。じっと見つめていたことに気づいていなかったのか問いかけられた。
「なに?」
「あ、いや、ありがとう」
「さっさと終わらせたいからね」
ノートを差し出されてそれを受け取りすでに積んであったノートの山の一番上に乗せる。あらかた集まったけれど最後に出してない人に再度声をかけるとすぐに出してもらえたのでよかった。四十人分のノートとなると結構重量がある。一人で半分以上持とうとすると絵心からストップがかかった。
「なんで多い方?」
「いやだって、集めてもらったから申し訳ないなって。代わりに」
「男が女より持ってる量少ない方が外聞悪いよ」
「それもそう……?」
そう言われたらそうか、と納得したところでノートの三分の二が持って行かれる。残った三分の一だけ持たされた。
ノートの回収までしてもらったのに運ぶ量も少なくてなんだかなぁ、となる。
二人で並びながら廊下を歩けば昼休み中だからか喧噪が耳を掠めた。廊下で楽しそうにする姿がある中を絵心と会話もせずに歩いて職員室に向かう。校舎と職員室を繋ぐ廊下を渡ろうとすると風が吹いて髪の毛が靡いた。髪を結ばずにいたから前髪から後ろ髪から全部がばさばさになってしまった。好きな人といるときに起こる風じゃないでしょ、と心の内で毒を吐く。ノートを持っているから髪の毛を整えることさえできない。打つ手がなくてテンションが下がった。
下がったテンションのまま職員室に行けば、現代文の教師は昼食である弁当を食べている最中で。
食事中にすみません、と言いながらノートを持って行くと教師のデスクの脇に置くように言われた。
弁当を食べる手を止めずに指示をされてうーん、となる。ノートに食べかすが飛んだらどうするんだろう、と。思っても声には出さなかったが。
ノートを指示された場所に置いて去ろうとすると教師に呼び止められた。デスクの引き出しの中から何かを取り出して差し出してくる。
それを受けとるとレモン味の飴だった。
「先生?」
「駄賃。内緒にしろよ」
「ありがとうございまーす」
「どうも」
手の中に納まったレモン味の飴をスカートのポケットに入れて職員室を出た。教室から来たときと同じように絵心と並んで廊下を歩く。午後の授業が始まる十分前だからか先ほどよりも喧噪は小さくなっていた。
ようやくノートから解放されたので髪の毛を整えにかかる。あっちもこっちもぼさぼさで悲しくなってしまった。
せっかく好きな人と一緒にいるというのに。好きな人からはできるだけかわいいと思われたいのが乙女心というものだ。
隣で袋を開ける音にガリ、と噛み砕く音が続いて聞こえた。隣を見ると絵心が飴をかみ砕きながら食べている姿が目に入る。バリボリと音が引き続き聞こえているので粉々にしているのだろう。
その姿をぼうっと眺めているとこちらからの視線が気になったのか絵心からの瞳がこちらを捉える。
「なに?」
「飴舐めずに食べるんだなぁって」
「まどろっこしいから」
「そ、そっか」
飴を食べることに対してまどろっこしいと考える人がいることに驚いた。自分はじっくり舐めて食べたい派なので。少しするとバリボリという音も聞こえなくなった。食べ終わったらしい。無言が続くかしら、と思っていると絵心から話しかけてきた。
「飴」
「うん?」
「飴、食べないの?」
「じっくり舐めたいから」
「あぁ、それっぽい」
「そ、それっぽい?」
言われた言葉に困惑していると頬に絵心の指が触れてドキリ、と心臓がはねた。なんで絵心が自分の頬に触れているのかわからなくて混乱する。
「食べるの遅そう」
付け足すように髪の毛食べてるよ、と言って髪の毛が払われた。触れてきたのはそういう理由だったのか、と少し残念な気持ちになる。けれどポジティブに考えるのであれば少なくともさっきの瞬間はなまえと絵心のふたりきりの空間だった。喧噪なんて遠くて、周囲に人もいなくて、静かな空間になまえと絵心しかいなかった。それがたまらなく嬉しい。あの瞬間、確実に絵心の瞳には自分しか映っていなかった。
離れていってしまった指先を目で追いながら、ふ、と思い浮かんだことを口にする。
「応援、」
「応援?」
要領を得なかったのか絵心が聞き返してくる。
「サッカー部の応援、行っても、いい、かな……?」
「好きにしたら」
止める権利なんて俺にはないし、と当たり前のことを言う絵心に若干胸が痛んだが振り絞って出した勇気を引っ込めることはしたくなかった。
「場所と日時って」
「顧問に聞いたら教えてくれるんじゃない」
「あ、そっか」
先生に聞いてから行くね、と笑いかけるとどうでもいいようにそう、と言う言葉だけ帰ってきた。こういうところも嫌いじゃないから困る。普通ならこんな態度取られたら心がくじけるかもしれない。しかし、今の自分は恋する乙女なので。これくらいどうってことはなかった。
サッカー部の顧問にサッカー部の応援に行きたいんですけど、と言うと日時と場所はすんなり教えてもらえたので安心する。
なんとなく気になって決勝トーナメントのことを調べると驚いた。
県予選が終わって決勝トーナメントというのだから少数の高校で行うのかと思っていたら四十校で行われるらしい。
決勝トーナメントとは、と考え込んでしまった。
これより多い数だったと想定される県予選って全部で何校で行われていたのか知りたいような、知りたくないような。一旦決勝トーナメントと言えど全国大会にはまだ遠いことは理解できた。
あと何回勝たなきゃいけなんだろう、と日程表を見て見ると五回は勝たなきゃいけないようでと呆気にとられる。
あと五回も勝つってとても途方もないことのように思えたのだ。
試合の日は流石に制服で行く度胸がなくてパーカーにチュールスカートにした。足元は黒のスニーカーで固めてある。
髪も学校のときと違ってお団子にしておいた。これで学校のひとに会ってもぱっと見自分だとは気づかれないだう。会場である高校に到着して観客が固まっている場所になまえも立つ。
同じ高校の制服姿の女の子たちの集団があるけれどあれが多分部員の彼女たちの集団なのだろう。
その輪に入るのは難しいので一人どちらの応援かわからない位置を陣取った。
フェンスの向こうでは選手たちがアップをしているところで。自分の高校を応援に来た、という名目だけれど目は絵心だけを捉えている。他の人も見なきゃな、と思いながら視線が吸い寄せられて逸らせる気がしない。
試合が始まるとあとはもう目まぐるしくてなまえの頭で理解できる範疇を超えてしまった。あっちこっちに動くボールを目で追いながらもとにかく絵心の姿だけ目に焼き付けようと彼の姿に集中する。
気付けば試合が終わっていて絵心たちが無事勝利するところは見届けられた。おめでとう、と内心でつぶやいて誰かとなにかをするわけじゃなくその場を離れた。
離れるときに絵心と視線が合った気がするけれど、おそらく気のせいだろう。今のなまえは普段の自分とは雰囲気を変えてあるのでまさか気付かれるとは思えなかった。会場を離れて電車に乗り込む。
普段乗らない路線の電車なのでどこか落ち着かない気持ちになった。そんな気持ちを落ち着かせるために考えるのはさきほどの試合のことで。脳裏に流れる光景は絵心の姿ばかりだった。
普段から絵心のサッカーをしている姿は見ているけれど、なまえが知っている絵心の姿とは全く異なるもので。
真剣勝負になるとあんな風になるんだ、と新たな発見があった。いつもよりも熱があるように思えたのだ。学校では見せることのない熱さがそこにはあった。
翌日学校に行くとサッカー部員のクラスメイトは昨日勝ったことを喜んでいて。決勝トーナメントのことを調べる前だったらおめでとう、と自分も喜んでいたところだろうが、あと四回勝たなきゃ全国に行けないんだよね、と冷静な自分が顔を出す。そこまでしなきゃいけないのだからスポーツって大変だなと思った。
自分の席に着くと先に登校していたらしい絵心がこちらの物音に気付いたのか振り返ってきた。
見つめられてその視線の意味が分からず困惑していると絵心が口を開いた。
「応援」
「ん?」
「応援来てくれたでしょ。ありがとう」
「え、き、気付いたの?」
「気付くも何もクラスメイトの姿くらいわかるよ」
あの変装の一歩手前のような服装だったのに気づいてくれたのか。それに素直に感動した。あと絵心が自分に感心を向けていたことに驚く。なまえのことなどミジンコくらいに思ってそうだと思っていたのだ。
しかし、しっかり隠れられていたと思っていたのにそうじゃなかったことが恥ずかしい。バレているのなら素直に制服で行けばよかった、と悔悟する。変に気合を入れていたことが暴かれたような気分だ。
恥ずかしさを誤魔化すように手でもじもじ手遊びをしていると絵心の視線がそちらに向いた。気まずくなって手を自分の後ろに隠す。絵心の視線が自分に向いていると思うとどうしてか落ち着かない。用件を言い終えたらしい絵心が前を向こうとしたところで待ったをかける。
「昨日の試合、」
「うん?」
「すごくかっこよかった」
「サッカーのことよくわかんないのに?」
「サッカーがよくわかんないけどかっこいいと思ったんだよ」
「どうも」
「あと普段見ることのない絵心くんが見れて面白かった」
「面白かったって」
「絵心くんってわたしの中だとクールな印象しかなかったから。あんなに熱くなる人だったんだなぁって」
「そりゃサッカーならね」
「うん。それだけ情熱注いでるんだなって」
普段の授業とか部活の練習の比じゃなかったね、と話しながら笑いかける。それにどう思ったのかわからないけれど絵心はこちらの言葉に答えることなく前を向いてしまった。話の途中だったのに、と思ったけれどあれ以上話すこともないか、と結論付ける。
改めて昨日の試合を見られてよかったと思う。
絵心のサッカーへの情熱の断片を垣間見えた気がしたからだ。普通に学校生活を送っていたら気付かなかったそれがとても眩いもののように感じる。なまえにない眩しさで焼かれてしまいそうだ。
絵心の背中を眺めながら思い耽っていると教室のドアがガラ、と音を立てて開けられた。気だるそうな様子で担任教師が入ってくる。もうそんな時間か、と時間の経過に驚きながら意識を教卓の教師に戻した。
§
決勝トーナメントもすべて応援に行きたかったけれど行けなかった。模試の結果が思うように奮わず、親から冷たい視線を浴びたので諦めて泣く泣く受験勉強を取るしかなかったのだ。机に向かいながら考えるのは絵心の試合はどうなっただろうか、とそんなことばかりで。気もそぞろというのはああいうことを言うのだろう。そんな状態で勉強をしたところで捗るわけがない。
けれど親の目を盗んでなんの関りも持たないサッカー部の応援に行けるほど恋に盲目ではなかったし、図太い神経になることもできなかった。
サッカー部が負けたと聞いたのは決勝トーナメントの決勝戦があった翌日のことだ。
つまり、それは、絵心が負けたということで。国立競技場に立つというサッカー部員なら誰しも見る夢が破れたのだと知った。
絵心が国立競技場に立ちたいと思っていたのかどうかはわからないが。勝手な憶測でしかないけれど、彼に取って場所はそこまで重要じゃない気もする。
部外者の癖にサッカー部が負けてしまったことを残念に思いながら教室で自分の席に着こうとすると前の席に絵心の姿があった。
流石に朝練はなかったのだろうか。いつもと同じようにノートを開いて何かをガリガリと書いている姿が目に入る。またきっと以前見たあのノートにサッカーのことを書いているのだろう。
実際に何が書かれているのか気になりはする。見てもわからないだろうけど。
忙しなく動く腕を背後から見つめながらふ、と視線を上げて教卓の上に掛けられている時計を見た。
あと五分もすれば担任教師がやってくることだろう。視線を戻して目の前の背中をまたじっと見つめる。この熱が伝わればいいのに、と思いつつ、いややっぱり伝わらなくていいや、という気持ちもあった。
相反する気持ちが同時に膨れ上がってなんだか笑えて来てしまう。絵心の背中をまじまじと見ながら今までと変わらないように見えた。負けたからもっとなにか変化があるかと思ったけれど、これまで通り淡々と何かを書いているようで。もしかしたら絵心にとって勝ち負けはどうでもよかったのかもしれない。
絵心に話しかけようかと思ったけれど、流石に負けたんだって? と声をかけるのは無神経すぎる。
じゃあどうすればいいのか、と考えてみるがなにもしないことが最適解な気がした。絵心に向けていた意識を現実へ戻して、一時間目の授業の準備を少し早いがしておくことにする。
教科書と問題集とノート。数学の授業はいつになっても好きになれない。好きになれなくても点数はほどほどに取れているけれど。高校二年生で進学コースが分かれたときに国公立のコースを選んだけれど割と後悔している。私立コースに行った友人から三科目超楽だよ、とささやかれてそれに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてしまうのは許されたいところだ。けれど国公立のコースを選んだからこそ絵心と同じクラスになれているわけだけれど。これで他のクラスだったら好きにすらなっていたかったんだろうな、ともしも話を頭の中に浮かべる。
担任教師がやってきて簡潔に点呼をしてついでに連絡事項を伝えてきたのを聞きながら、やっぱり気付けば絵心の背中を見てしまっていた。
いけない、いけない。
一時間目の教室が遠いからと言ってそそくさを出ていく教師を見送って入れ替わるように数学の教師が入ってくる。
教卓に置きっぱなしにされた出席簿を確認してから視線を教室内で一周されているのが分かった。
欠席者がいないので席は埋まっているし確認する必要があるのかわからないが、出席簿に書かれている名前の順に教師から点呼が行われる。各々自身の名前を呼ばれてはい、と返事をした。
二番目に呼ばれた絵心の名前と彼の返事にどきりと心臓が動く。淡々とはい、と返事をした絵心にやっぱりいつもと変わらないなぁ、と思った。
数学の授業は相変わらず難しいな、と思いながら必死に数学の問題を解いていく。教師の解説を聞きながら自分の解答を確認するとケアレスミスが多くて嫌になってしまう。近くの国公立大学の赤本から引っ張ってきたという問題をすらすらと解けない自分が情けない。
目標にしている大学はもうひとつ上のレベルだというのに。このままだと次の模試でまたD判定をもらってしまうかもしれない。そしたら親がまた冷たい目でこちらをみて深い溜息をついてくるのだ。負のスパイラルに入る前にどうにかしたい気持ちがある。渡された問題をせっせと解いて正解と見比べて合っている問題、間違っている問題、と自分の苦手なことを分析していく。やっぱり同じ系統の問題を間違えていることが多いのでそこを重点的に勉強をする必要があるだろう。間違っている問題を洗い出してあとで何度も解けるように付箋にメモを残しておいた。
授業を終えて次の英文の授業に備えようとしたところでねぇ、と前の席から声をかけられる。声をかけてきた主は絵心だ。振り返ってこちらを見る絵心に視線を向けながら返事をする。
「どうしたの」
「さっきの数学、板書追い付かなかったところがあったから見せてほしいんだけど」
「いいよ」
引き出しに入れてしまったノートを取り出してどの箇所か聞いてノートの該当ページを探す。該当ページを見つけてそのページを開いたままノートを渡す。それを受け取った絵心は前を向いて机の上に置いてある彼のノートに書き写しているようだった。
少しするとノートは返されてそれを受けとるとノートの間に個包装のチョコレートが挟まれている。
「絵心くん?」
「お礼」
「大したことじゃないのに」
ノートを借りたくらいで大袈裟な、と笑いつつもらえるものは有難くもらうことにする。丁度絵心と話すタイミングができたしそのまま話を続けさせてもらうことにした。丁度サッカー部の話もしたかったので。今のタイミングなら話を振っても自然だろう。
「そういえばお疲れさま」
そう告げると絵心は視線を明後日の方に逸らした。それから少し時間を置いて言う。
「……全国行けなきゃ意味ないけどね」
「そんなもんなの?」
「そんなもんだよ」
クラス内の喧騒など遠くに行ってしまって絵心と自分しか世界に居ないような感覚に陥る。まるで内緒話をするように少しだけ潜めた言葉のやり取りに特別さを感じているのはなまえだけかもしれないけれど。言うか迷った言葉を舌に乗せる。
「残念だったね」
「残念? なにが?」
残念と思ったことすらない、とでも言うように告げられた言葉に面を食らった。絵心も平常時と変わらないけれど、多少落ち込むことはあるんじゃないか、と思っていただけに驚いてしまう。結果は結果でしかない。その過程は考慮する必要すらないと言われているような気がした。
「結果は結果でしかないよ。あの日の俺が相手に勝てるだけの技量を持ってなかった。それだけの話。だから次はもっと自分のスキルなり思考なりをレベルアップさせるだけ」
「な、なるほど」
絵心の言葉に聞き入るけれど言っていることの半分も理解できていない気がするが、なんとなく言いたいことはわかった気がする。勉強でもできなかったことをできるようにするためのレベルアップは必要で。サッカーもそれと同じなのかもしれない。
「とりあえず、ノートありがと」
「どういたしまして」
話がちょうどひと段落したところで次の授業である英文の教師が教室に入ってきた。絵心も前を向いてなまえも教卓へ意識を向ける。会話はそこで途切れた。
共通テストを終えて緊張から抜け出すことなく国公立の二次試験を終え、気付けば卒業式の日になっていた。年明けから卒業式までの怒涛の日々に記憶があるようなないような。怒涛すぎて一日一日の記憶があやふやになっている。試験日や試験日の前日などは記憶に残っているけれどそれ以外はどこか朧気になっているような、そんな感じだ。
卒業式に向かうために家を出ると桜が開花するにはまだ遠い季節に寂しさを覚える。門出はめでたいことだけれど今はめでたいと思うことができなかった。
しばらく来ていなかった学校にやってきて昇降口で靴を履き替える。久しぶりに使うからかこんな低い位置に自分の靴箱があったっけ、と浦島太郎な気分になった。ローファーを靴箱に入れているところで背後から自分に影が落ちる。視線を上げると誰かの腕が自分の上にあって腕の先を辿ると久しく会っていなかったクラスメイトの姿があった。
「絵心くん」
久しぶりに呼ぶ名前に心が落ち着かなくなる。絵心と話すっていつぶりのことかすぐに思い出せなかった。下手したら三ヶ月くらい話していないんじゃないだろうか。年明けから学校は自由登校になっていたので、学校に来ずに塾にこもりきりだった。だから絵心の姿を見るもの久しぶりで。会話をするのももっと久しぶりだと思う。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶をしながら自分の靴が靴箱に収まったのを見て立ち上がる。絵心との距離が縮まって少しだけ照れた。教室で自分たちの席に座るよりも近い距離。これでドキドキするな、というのは無理な話だ。忙しなく動く喧しい心臓の音を感じながら平然を装う。
朝から好きな人に会えるなんてラッキーだな、と内心で浮かれる。教室に行ったら会えるけれど、それより前に会えるって嬉しいものだ。
「……受験、どうだったの」
こちらの様子を伺いながら問いかけてくる絵心の問いに答えずに疑問を返す。
「絵心くん推薦だったっけ?」
「そうだけど。それで、そっちは?」
「第一志望受かりました」
真顔でピースサインを浮かべて見せると何とも言えない表情を浮かべられた。聞いてきておいてその反応はどうなのだろうか。聞いてきたのは絵心からなのだからもう少し興味を持ってほしいと思う。いや、聞いてきた時点で多少興味はあるのかもしれないが。アフターフォローがなってないというかなんというか。
昇降口をあとにしようとすると絵心が自然を肩を並べて歩いてくる。さっきので会話がひと段落したかと思っていたけれど、そうじゃなかったらしい。
卒業式だからかどこか浮足立っている雰囲気の中、自分の教室を目指して歩いていく。絵心に話題を振ってそれに答えてもらってを繰り返した。
「じゃあ進学先は都内なんだ」
「そっちこそ」
「やりたいことができて親からもなにも言われないのがそこだけだったから。絵心くんが都内は驚いたかも」
「そう?」
「でも強豪なんでしょ? その大学」
「まぁね」
強豪から推薦が来たというのを自分の合格前に聞いていたら嫉妬心を抱いていたことだろう。けれど今は自分も大学生になることが決まっているので。心穏やかに今後の話をすることができる。これで後期までもつれ込んでいたら目も当てられなかっただろう。
「絵心くんはサッカーで食べていくんだねぇ」
「まだ決まった訳じゃないけど」
「サッカー以外できるの? 逆に」
「言い方ひどくない?」
「ごめんごめん。でも本心だから」
学校生活であれだけサッカーに時間をかけている人間がサッカー以外の未来を描いている姿は想像できなかった。いっそサッカーと一蓮托生だと思うくらいだ。
絵心は賢いひとなのでサッカー以外でも生きていけるのかもしれない。けれどサッカー以外の生き方を知らない人、というのがなまえの中の印象なのだ。だからさっきのような言い方になってしまった。
気づけば教室の前にたどり着いていて先に教室に入る絵心の後ろに続いてなまえも中に入る。
それから自分の席に着けば前の席に絵心が腰を下ろした。昇降口からここまでずっと一緒だったことに気づいて内心ですこしだけ照れる。付き合っているカップルってこういう感じなんだろうな、と夢想した。
自分の席に着くとクラスメイトたちに受験が終わったかどうか尋ねられて、それに終わったよー第一志望受かりました、なんて言葉を返す。みんな口々におめでとう、と言ってくれて嬉しくなった。
そもそも受験が終わっていなければここに来ていないけれど。四月から大学生になる人間しかいない空間はいつもよりもふわふわとしているような気がした。
みんなどこの大学に行くんだ、なんて話をする子もいれば、卒業式後のクラス会の話をする子もいる。
クラス会は近くのボウリングで遊ぶことが決定していてなまえも参加する予定だ。ちらりと前の席の絵心の背中を見ると相変わらず何かを書いているようだった。卒業式の日も隙間時間にサッカーに関することをしているのは賞賛に値する。
懐かしいチャイムの音が鳴ると同時に担任教師が教室に入ってきた。
そこにはすでに涙目になっている担任の姿があって。その姿にクラス中でクスクス、と笑いが起こった。お調子者のクラスメイトが先生泣くの早いって~! と茶化して場の空気を和ませる。
すぐに体育館で式が執り行われるのでそのまま廊下に名前の順に並ぶように言われた。廊下に出て並ぼうとすると前方に大きな背が見える。こうして見ると絵心の背中って大きいし高いんだなぁ、と今更なことを思った。猫背の背中を担任に叩かれている姿が目に入る。卒業式くらい背筋を伸ばせ、とでも言われているのかもしれない。名前の順に並び終わって担任が先頭を歩くのでその後ろに順々についていく。
教室から体育館の間に渡り廊下がある。窓も何もない吹きさらしのそこを通るだけで冷たい風が頬を撫でた。
冷たさに震えあがりながら列を乱さないように歩いていく。
体育館に到着すると保護者、在校生、来賓の姿が目に入った。みんな一様に卒業生である自分たちを見ていた。
これから最後の学校行事が行われるのだと思うと感慨深い。歩みを進めているとパイプ椅子が並べられているところに到着して前から順番にパイプ椅子の前に立ち、全員が席に立つまでは腰を下ろさない。
名前の順の最後のクラスメイトが席についたところで担任より腰を下ろすように指示が降りてそれに従う。
小さすぎず大きすぎない厳かな音楽が鳴る中、パイプ椅子に座って他のクラスの入場を待った。
卒業式は滞りなく終わったが、それなりに涙ぐんでしまったのは許されたいと思う。生徒会長の答辞で涙腺が刺激されてダメだった。何人かは泣いていたのか涙をすする音がしていてなまえもつられそうになったくらいだ。
式を終えて教室に戻って来て自分の席に座れば、何人も泣きそうになっていて自分は泣くものか、と堪える。担任の姿を見ると目も当てられないくらいぼろぼろと涙を流していて見ているこっちが冷静になってきて。もらい泣きするパターンじゃなくてよかったと安堵した。
担任からの最後の挨拶をしてから、生徒一人ひとり順番に教卓に立って挨拶をしていく。順番は前の席から順番にだった。話すことは人によってまちまちだった。ただみんな共通して言うことは将来の夢についてだった。大学という一つの未来を確実にしたことで具体席を帯びてきた将来の夢の話を聞くのは面白い。こうなりたいからここに行く、という明確なビジョンがその人の中にあることを理解してそれに納得する。
いよいよ絵心の挨拶の番になって目の前で椅子の引く音が聞こえた。視線を向けると教卓に移動して堂々と立っている姿がある。なにを言うのか、と今か今かと待っていると絵心が口を開いた。
「大学行ってサッカーします。以上」
「ってそれだけ?」
すかさず担任からツッコミが入る。
「それだけですけど」
「もっとこう、サッカー選手になります、とか。海外でプレーする選手になります、とか」
「じゃあそれで」
「絵心は最後まで絵心だなぁ」
「はぁ」
やる気のない言葉に担任もクラスメイトも絵心らしいな、と苦笑いを浮かべていた。自分も絵心らしいな、と笑みを浮かべてしまう。
絵心の挨拶が終わって次はなまえの番だ。
席に戻ってきた絵心と入れ替わるように自分の席を立って教卓へと向かう。こういう場はそこまで得意ではないが最後くらいはちゃんとしよう、と意気込む。
教卓に立ってクラス全部の視線が自分に集中したのが分かった。
緊張で震えそうになる喉をなんとか抑え込んで他のクラスメイトと同じように将来の展望を口にする。
「大学に行ってずっとやりたかった分野の勉強に励みます。このクラスで最後一年過ごせてよかったですありがとうございました」
「お前も簡素だなぁ」
「はは」
担任からの言葉に乾いた笑いを返すとそれがウケたのかクラスメイトの何人かが笑っていた。場が白けなかったのでよしとしよう。席に戻っていけば絵心からなにか言いた気な視線を向けられたのでそれににこり、と笑みを返した。なまえの後ろの席の子が続いて教卓へと向かっていったのでその背中を見送る。
クラス全体の挨拶が終わって担任からもう一度最後に締めの挨拶をもらって解散となった。各自一旦家に帰ってあとで午後からクラス会を行うボウリング場へと集まる算段となっている。
教室で卒業アルバムにメッセージを書き合ったり、記念写真を撮り合って最後の思い出作りをした。気付けば教室には絵心の姿がなくてクラスメイトに聞けばさっき教室を出ていったと言われる。慌てて卒業アルバムと油性マジックを持って教室を後にした。このタイミングを逃したら永遠に話せないだろうから、卒業アルバムに一言書いてもらいたかったのに。
廊下を走りながら昇降口へと向かう。途中教師に怒られる声が聞こえたけれど、ごめんなさい、と謝りながらも足を緩めることはしなかった。昇降口に到着すると絵心がちょうど靴を履き替えているところで、すかさずその背中に声をかける。
「絵心くんっ」
「うわ、なに」
「卒業、アルバムっ、に、一言、書いてほし、く、て」
ゼェハァと上がっている息のまま卒業アルバムと油性マジックを差し出せば、少しだけ考える素振りをしてから受け取ってもらえた。その場で絵心がしゃがみこんだ。それから膝に卒業アルバムのフリーページを開く。油性マジックの蓋を開けてフリーページの空いている場所にさらさらとメッセージを書いてくれていた。メッセージはすぐに書き終わったようで卒業アルバムを閉じる。それから立ち上がって卒業アルバムとペンを一緒に返された。メッセージはあとで確認するしかないようだ。
「あ、ありがとう。嬉しい」
「別に」
卒業アルバムを受け取ってそれを胸に抱く。今この瞬間から卒業アルバムがとても大切なものになった。
当初の目的を果たしたのでその場を後にしようとしたところで声をかけられる。絵心に視線を向けるとこちらをじっと見つめていた。
「ずっと言おうと思ってたけど、」
その言葉に期待してしまったのは仕方のないことだと思う。
突然の前置きになにを言われるんだ、と若干の期待を胸に抱きながら身構える。絵心はなんでもないようにさらりと宣った。
「もっと自分に自信持てば?」
「え?」
「いつも俯いてて自信なさそうだなって。上向くことを覚えてもいいんじゃない?」
指摘されるまで気にしたことなどなかった。
自信が持てないのは生まれてこの方のことだけれど、俯きがちというのは気付いていなかったかもしれない。
絵心が何を思って指摘してくれたのかはわからない。けれど言わずにはいられなかったのだろうか。それとも最後の会話になるから親切心からなのか。
「そしたら絡まれたりしなくなると思うけど」
「あ、うん。そう、だよね」
本心などわかることもできないので指摘をそのまま受け入れることしかできない。
自信をなさそうに見えるようにする、というのが具体的にどうしたらいいのかはわからないが、明日から心がけようと思う。
しかし、もしかして、という思いは粉々に砕け散った。
自分だって思いを伝える度胸もないくせに相手には何か言われたい。なんて傲慢なことだったのだ。
絵心と自分はただのクラスメイトでしかないというのに。勝手に自分が彼の特別になれていたら、なんてひどい妄想をしていた。
痛すぎて目も当てられないくらいだ。
用を終えた、とでも言うように絵心はそのまま昇降口を後にしようとする。大きな声でその背中に言葉を投げかける。
「絵心くん! またね!」
こちらへの返事は言葉では返ってこなかったけれど手をあげて答えてくれた。
今度こそ去っていく背中をじっと見つめることしかできない。
もう二度と会うことはないのだろう。そんな気がした。