高校を卒業すると同時に甚爾は禪院家という腐った溝川の中のような世界から出ていくことに成功した。気がかりがなくはなかったが、腐った世界にいつまでもいる義理はないと思っていたので心は痛まない。
呪力は持っていないのに呪霊は視える、という特殊体質を上手く使って呪術師を殺すことで生計を立てている。汚い仕事だろうがなんでも行うことに戸惑いを覚えなくなるまで、そう長い時間はかからなかった。初めて殺した術師は甚爾を淘汰し続けた禪院家の人間だったので、余計かもしれない。術師を殺めたときに覚えた爽快感に似たなにかに心地よさを覚え、そのまま依頼されるままに術師の命を奪い続けた。
仕事もそれに伴う収入も安定して入るようになり、でかい金が入ったときは満足いくまで競馬や賭場に行って散財することがルーティンのひとつだ。
今回も零が七つほど並ぶだけの金額を報酬としてもらったのでどのように使うか考えていたとき、甚爾が普段から愛用している携帯電話が震えた。ワンコールしか震えなかったからおそらくメールか何かを受信したのだろう、とあたりをつけて携帯電話を開くと、そこには年の離れた従姉妹からのメールを受信したというメッセージが表示されている。
内容はどこかで近いうちに会いたい、という旨のもので。依頼の入っていない日をピックアップして返信してやると、すぐに彼女からの返信が届いた。希望日は一週間後の土曜日。そこでなら本家から抜け出せるから、いつもの場所で、と書かれていた。
自分から連絡することもなまえから連絡が来ることも普段はあまりない。そんななまえからのメールに不審に思って、首を傾げる。
「なんかあったか?」
その謎が解けたのは約束の日になまえに会ったときのことだ。待ち合わせ場所に選んだいつもの表参道の裏路地にある喫茶店に入り、入り口すぐのカレンダーが目に留まる。そこに書かれている西暦を見て、ようやく合点がいった。
店員に連れと待ち合わせだと伝えると、まだなまえは来ていないようだったので、先に店内の奥まった四人掛け席に通してもらう。上手く撒いてくるとは思うが、禪院家の監視の目が常に彼女にはついているので、甚爾と接触しているところが見つかれば面倒なことになるはずだ。そのため、なるべく接触しているところは見られなくない。
注文してウェイターが持ってきたホットコーヒーに口をつけて飲んでいると、肩で息をした若い女子学生が慌ただしく店内に入ってきた。紺地に白のラインが入り、水色のスカーフが指定のセーラー服を身に着けた女子学生は駆け寄ってきたウェイターに何かを告げると、ウェイターが甚爾の方を手で案内する。
「甚爾」
「なまえか」
名前を呼ばれて、応えるように彼女の名前を呼べば嬉しそうに口元が綻んでいるのが見える。幼いころは会うたびにとうじくん、と呼ぶので口酸っぱく呼び捨てにするように言い聞かせ、小学校の高学年に上がる前にはすんなりと呼び捨てをできるようになっていた。本家に取り込まれてから上品さを身に纏いつつあったなまえの口から年上を呼び捨てにする、という無礼な振る舞いを甚爾の指示によってさせていると思うと楽しくて仕方がない。
最後に会ったのが中学の入学式前くらいだったから、すぐにわからなかった。制服の写真は見せられたから朧気には覚えていたが。自分の半分ほどの身長くらいしかないんじゃないか、と思っていた頃を思うと、もうすっかり女性になりつつある雰囲気に驚く。
甚爾の座る席の向かい側に腰を下ろして、店員にアイスティーを注文しているのを眺めながら、自分が知っている記憶の彼女と今の彼女を比較した。
「急にごめん」
「別に。暇だったからよ。でもここの代金お前が出せよ」
「それはもちろん。……あのさ、甚爾は高専通った?」
「あ?」
「行ってないか。愚問だったわごめん」
呪力を全く持っていないということをかなり昔に話していたはずなのに、そんな質問が飛んでくるというのは喧嘩を売られている、ということか?と思考を飛躍させる。
どうやら話したいのはそういうことらしい。
「お前今いくつだっけ」
「十五になった」
「あぁ、進路か」
「そうそう」
なまえが言うには現在は私学の中高一貫校の中等部に通っているらしい。そして、この次は当たり前のように呪術高専の願書――しかも記入済み――を渡されたそうで。それに違和感を覚えて、甚爾に話したかったようだ。
「十種影法術が使えるんだから、本家の老害どもがお前を高専以外に行かせるとは思えねぇけどな」
「やっぱ?」
「んで?お前はなにが嫌なわけ?」
「なんか、このままで本当にいいのかなぁって」
漠然とした感情を述べられても正直述べられた側のこちらが困る。思春期特有の悩みなのかもしれないが。そういう次元とは違うところで生きてきた自身には理解し難いのが本音だ。禪院家の操り人形である自覚があるのだろう。だから人生の岐路に立たされているこのタイミングで疑問が浮かぶのだと考えた。
「禪院家の言う通りにやればお前の親父さんは喜ぶとは思うけど。術式を持ってることを願ってたから」
「んんん、」
唸りながらいつの間にか持ってこられていたアイスティーを口に含む姿が、小学生の頃にいちごみるくのブリックパックジュースを与えたときの姿と重なる。
「なんかさ、漫然と暮らしている今に、気持ち悪さが消えないんだよね」
おそらく、禪院家の異常さを肌で感じているのだろう。あそこの異常さに気づける人間はそこまで多くない。幼少期から異常を常識として刷り込まれるから、それがおかしいと気づけないのだ。あの家で普通に流されるままに生きていると。
「甚爾はあの家を出たでしょ?後悔してない?」
答えはわかりきっているだろうに、それでも聞いてくるということは言葉を音にしてほしいということなのかもしれない。
「するわけねぇだろばーか。いっそ清々しい気分だわ」
「そっかぁ」
アイスティーのストローを口に咥えて甘噛みをしながら、羨ましそうな視線を向けていることに彼女は気づいているのだろうか。
「まぁ、でも、最悪高専卒業してから俺みたいに家を出ればいいんじゃね?」
「なるほど、その手があった!」
現状では最適解であろう提案をしてやると、納得したらしく目を輝かせた。中学を卒業しただけの身で禪院家に歯向かうのは世迷言だ、と相手にされずに終わるのが目に見えている。それならばいっそ、高専におとなしく入学し、術師としての立場を確立させてから家を出た方が、いくらかやり方があるはずだ。
これで高専を出てからも禪院家に留まるならそれまでだし、今言っているように家を出るようになれば甚爾にとっては最高に気分がいい展開になる。丹精込めて閉じ込めてきた十種影法術の使い手を自分たちのせいで外に逃がしてしまうようなことになれば、意趣返しとしては文句のつけようがない。
今後の落としどころを見つけたらしいなまえはにこにこと笑いながら、ウェイターを呼んでミルクレープを追加注文している。その姿は普通の女子中学生のようでどこか微笑ましい。そういえば、とふと思い出したことを口にする。
「お前さ、」
「ん?なに?」
「叔父さ――親父さんとは連絡取ってんのか?」
「直接は取ってないよ。月に一度手紙が来るくらい」
「ふぅん」
コーヒーカップを持ち上げてカップのふちに口が触れ、中のコーヒーを一口含む。未だに経過はよくないということだろうか。彼の嫁が死んでだいぶ時間が経っているというのに、まだ娘に意識がいっていないことを不思議に思う。
「甚爾のおかげですっきりした。ありがと」
「どーいたしまして」
目の前で笑顔を浮かべるなまえを見て善行をしたような気分になったが、禪院家にとってはただの悪行でしかない自覚はあった。これから彼女の世界がどう動いていくのか、興味が湧いているのは隠しておくことにする。