犬飼/ひとりで泣くにはここは寒い

「みらいちゃんはすごい」

 それがなまえの口癖だった。その言葉が何度も何度もなまえの口から飛び出して、鳩原に向けられているのを犬飼は見ている。鳩原未来――今となっては口に出すには少し躊躇を覚える同級生の名前だ。
 犬飼からすれば同級生で同じチームで尊敬できる人間。それが鳩原だった。狙撃手としての技術は、同じ狙撃手である当真を上回るほどだと言われていて、確かに器用な狙撃が鳩原の特徴であり、それに関しては上層部からも一目置かれている。そんな鳩原と女子の中で一番仲がいいのがなまえだった。
 なにをきっかけに仲良くなったのかは犬飼の知るところではないが、気づけば鳩原と行動を共にしているのが目に入り、二宮からもなまえのことを聞かれたことがある。なまえは、射手で出水の次にトリオン量が多いと言われていて、強さ的には加古の下という噂はあるが、本人に真偽を尋ねたものはいなかった。
 どこのチームにも属さないなまえは浮いていて、そんななまえに寄り添えるのは鳩原くらいだったと記憶している。合同の任務では卒なく周囲をフォローしているし、人間性にも特に問題はない。学校での評判もノートなども貸してくれるし普通にイイ奴、というのが同じクラスの荒船からの評価だった。犬飼はそんななまえが鳩原とばかり懇意にしている理由がよくわからなかった。
 よくわからないから、気味が悪いと思うし、気になる。

「やっほ」
「犬飼澄晴」

 話しかけたのは学校の廊下で、もちろん同じ学校ではない鳩原はこの場にいない。ちょうど時刻は昼休みで、喧騒が辺りに広がっているけれど、逆に会話を聞かれることもないので都合がよかった。たまになまえの側にいる荒船も席を外しているようなので、なおさら都合がいい。呼び止めて、廊下の窓枠に凭れながらふたり並んで話をする。目の前をクラスメイトたちが物珍しそうな顔をして通り過ぎていった。なまえがボーダー隊員であることを知っている人間が、そこまで多くないことをこのとき初めて知る。

「なんでフルネームなの」
「なんとなく」
「鳩原には懐いてるのに」
「みらいちゃんはすごいから」
「またそれ?」

 何度目かわからない〝みらいちゃんはすごい〟だ。犬飼の耳にも胼胝ができるほど聞いているから、鳩原本人は犬飼の比ではないほど聞いているだろう。

「みらいちゃんはね、すごいんだよ。わたしには持ってないものをたくさん持ってるの」
「ふぅん。例えば?」
「当真くんにも勝てちゃうほどの狙撃手としての技術の高さでしょ。弟子を取れるほどの人望。あとは二宮隊に入れるほどの器の大きさでしょ」

 指をひとつずつ折っていって、鳩原のいいところを言葉にしていくなまえは、どこか楽しそうだった。お気に入りのおもちゃを紹介するみたいに、口からどんどん鳩原のいいところが出でくる。そのすべてに犬飼が同意できるかと言われたら怪しいところはあるが。少なくとも鳩原に人望はない、と思う。

「だから、みらいちゃんがだいすきなの」
「へぇ」
「それにね、みらいちゃんとわたし、似ているところもあるから」
「そう? そう見えないけど」
「見えている範囲がすべてじゃないよ」

 言い切ったなまえの表情はどこか遠くを見ているように感じた。これは、犬飼に向けられた視線ではない。直感でそう思った。これ以上話していたらよくわからないなにかに飲み込まれそうだ、と思って犬飼は会話を切り上げ、じゃあね、と告げて離れる。なまえからも同じ言葉を返されて彼女の教室に帰っていくなまえの背中をじっと見つめた。そこにはなんの恐れもないのに、先ほど感じたものはなんだったのかよくわからずにいる。
 人間はわからないものに恐怖を抱く生き物だ、という現代文の授業中に教師が言っていた言葉が、ふと想起される。
 ――なまえが言い放った言葉をこのときの犬飼は後々痛感するとは思っていなかった。

   §

 鳩原が重要規律に違反した、と聞いたのは、鳩原がすでに近界に飛び立ったあとのことだ。
 最初は二宮からの連絡だった。鳩原に重要規律を違反している容疑がかかっている、という話だったはずで。蓋を開ければ規律は違反しているし、民間人にトリガーを横流ししているし、近界に密航しようとしている、というとんでもない話に発展していた。追手には風間隊が選ばれて、二宮隊は追うことを許されず、容疑者との関係を疑われて本部に待機させられている。
 カチカチ、と壁掛け時計の秒針が鳴る音だけが二宮隊の作戦室に響いていた。
 隊長である二宮は先ほど上層部に呼ばれて会議室に行って席を外している。犬飼と辻と氷見は作戦室で待っているように言われた。外に出ようものなら、きみたちも疑わざるを得ない、と言ったのは、二宮を迎えに来た忍田だった。辻も氷見も不安そうな顔を浮かべていて、変な緊張感が作戦室に走っている。あぁ、嫌だな。早くこんな時間が終わればいいのにと思う。
 なにかの間違いでした、とか、鳩原は巻き込まれただけです、なんてことが起きればいいのに――起こるはずなどないのだろうけれど――とそんな可能性の低いことを考えて気を紛らわせた。
 作戦室のドアが開く音がして、音の方向を見ると浮かない表情を浮かべた二宮が入ってくる姿が目に映る。後ろに鳩原の姿はなく、忍田の姿があったので察してしまった。

「鳩原はすでに近界に密航したあとだった」

 硬い音声で二宮が発した言葉を咀嚼するのに、時間がかかった。鳩原はもうこの世界にいないのだ、と忍田は二宮に続けるように言う。普段戦っているのだから近界民の恐ろしさなどわかっているだろうに、そんな世界に鳩原が行ってしまった。
 現実を受け入れて真っ先に頭を過ったのは、鳩原が仲良くしていたなまえのことで。なまえはこのことを知っているのだろうか。むしろ、一緒に行っている可能性すら浮かんでくる。

「二宮隊には重要規律者を出した罰則として、B級に降格してもらう」
「え、」

 驚きの声を上げたのは辻だったか、氷見だったかわからない。なぜ、自分たちまで罰を受けなければならないのか、とは思ってしまう。
 忍田が申し訳なさそうな表情を浮かべて、理解してくれ、と言葉を続けた。鳩原は、表向きには隊務規定違反でクビになったという扱いにする、と。真実を知っているのは二宮隊と東と木崎だけだから、くれぐれも他言しないように、とも。

「あの、」
「どうした、犬飼」

 おずおずと声を発した犬飼に二宮が反応する。聞いていいものか悩むが聞かず、にもやもやとするよりはいいだろう、と意を決して言葉にした。

「他に姿を消した隊員とかはいないんですか?」
「あぁ、ボーダー内では鳩原だけだ。それがどうした?」
「いえ……」

 鳩原以外に姿を消した隊員はいないと聞いて、ほっと胸を撫で下ろした。少なくともなまえはこの件にかかわっていないということだ。なにかしらの話は聞いているかもしれないが。当事者ではないからそこまでひどい罰則等に合うことはないだろう。なまえも結局犬飼と同じで鳩原に線引きをされてしまった側の人間なのだと理解した。

「お前たちには酷なことをしていると思う。すまない」

 いわば上司である忍田に頭を下げされて犬飼たちはいえ、と返事をすることしかできなかった。

「そもそもは俺があいつの真意を見抜けず引き止められなかったのが原因です。責任は俺にあります」
「二宮さん」

 居なくなった鳩原のことで、犬飼たちが責任を取らなければならないのは納得できないが、二宮が自分に責任があると言ってしまえば、犬飼たちがそれに歯向かうことはしない。
 隊長は二宮なのだから、二宮に従うのが隊員としての道理だ。

「犬飼」

 名前を呼ばれて返事をすれば、二宮がすこし思案してから言った。

「あいつのこと、気にかけておけよ」
「……はい」

 同じことを思っていたらしい二宮の言葉に素直に頷く。なまえは鳩原と一番仲が良かったと言っても過言ではない。普段どこかひとと距離を置いているなまえが、鳩原にはべったりだった。なにか起こらないように見ている必要はある、と犬飼も思っている。鳩原と仲が良かったなまえは二宮隊の作戦室に入り浸っていることも多かったので、全員と顔見知りだ。辻とはほどほどの距離感で関わっていたけれど。
 念のために、と上層部に実施された事情聴取が終わるころには、夜の二十二時を回っていた。

   §

 学校になまえが来ていない、と知ったのは荒船からの連絡を見たからだ。B組とD組では少々距離があるので、気づくのに遅れてしまったのを反省する。荒船は普通に風邪だと思っているらしく、犬飼への連絡が遅くなったらしい。鳩原のことを知っている犬飼からすれば背筋に嫌な汗が流れた。ひとまず二宮に事情を連絡して、学校が終わった途端に学区内を探し回ることにする。今日が非番の日でよかった、と心底思った。
 気もそぞろなまま授業を受けて、ようやく最後の授業が終わり、帰りのショートホームルームも終えて、鞄をひっつかんで下駄箱に向かう。途中クラスの友人に寄り道しないか誘われたが、丁重に断った。
 鳩原の家に向かおうとすれば、携帯電話に二宮から連絡が入っており、鳩原の家にはいなかった、とメッセージが届いている。他になまえが行きそうな場所を思い浮かべては虱潰しに探した。
 いよいよ探す場所がなくなり、頭を抱えているところに見知った人間に声をかけられる。

「あれ? 犬飼なにしてんだ」
「当真」
「そういや、お前らなまえのこと探してんだっけ」
「うん、そう。当真知らない?」
「見てはねぇけど。そういやなまえの家には行ったか?」
「行ったけど」
「今の家じゃなくて、危険区域にある方の家」

 言われて昔の鳩原との会話を思い出した。
 なまえも三年前の大規模侵攻のせいで引っ越しをせざるを得なくて、思い出の詰まった家を手放した、ということを聞いている。そんな人間、ボーダーの中では当たり前にいるからすっかり抜け落ちていた。
 住所を知っているらしい当真から聞き出して、急いで危険区域に向かう。トリオン体だったからここまで走ってもつらくないだろうが、何分生身のまま走っているので汗で制服のシャツが濡れるのが分かった。ブレザーは途中で脱ぎ捨てて、スクールバッグに突っ込んである。
 気づけば夕方から夜に移り変わろうとしている空に変わっていた。暗くなる前に、と思って、走り続けて当真に聞いた住所の場所付近に行けば、目当ての人間のうずくまっている姿が目に入る。
 近づいていって、瓦礫の上で小さな子どものように横たわるなまえのすぐそばに犬飼も腰を下ろした。走ったことで頬に集まった熱を覚ますために、自分の右手で頬をあおった。なまえちゃん、と名前を呼ぶ。

「犬飼澄晴」
「またその呼び方? 五月って言ってもまだまだ寒いんだから、家に帰ろうよ。風邪引くよ」
「みらいちゃんが、どこにもいないの。家ももぬけの殻だった。犬飼なら知ってる?」
「残念。俺も知らない」
「そっか」

 ふてくされた表情を浮かべたまま蹲るのをやめないなまえの腕を引いて、無理やり身体を起こさせる。泣いていたらしく、涙の跡が残っているし、目元が真っ赤になっていた。本当の事情を話すことができない犬飼は、なまえに寄り添うことしかできない。
 せめて気が済むまで一緒に居て、なまえを家に送り届けるのが犬飼の役目だと勝手に思った。
 犬飼となまえの間に沈黙が長い間流れる。それに終止符を打ったのはなまえだった。

「みらいちゃんね、わたしだけに教えてくれたんだよ」
「なにを?」
「弟を探すためにボーダーに入ったんだって。わたしと一緒だと思ったの」
「きみも誰か探してるの」
「うん、そう。おねえちゃん」
「おねえさん居たんだ。確かに妹っぽいもんね」
「おねえちゃんね、わたしの目の前で見たこともない近界民に攫われて、そのまま門に吸い込まれていったの」
「うん」
「だから、一緒に遠征行って家族探そうねって、約束して、た、のに」

 ――どうしていなくなったの。どうしてわたしを置いていったの、みらいちゃん。
 その言葉に応えることはできなかった。応えを求めていないと感じたからだ。犬飼の目の前でぽろぽろと涙を流すなまえの顔を、制服のズボンのポケットから出した自分のハンカチで拭ってやる。

「ここは寒いよ。とりあえず帰ろう?」
「……うん」

 先に立ち上がって、手を差し出せば素直に犬飼の手を取った。ぐいっと力を入れて立ち上がらせて、服についている砂埃を払う。
 片手をつないだまま危険区域の外に向かって足を進めた。ポケットから携帯電話を取り出して二宮になまえを見つけました戻ります、と連絡を入れておく。
 なまえの歩くペースに合わせてぼとぼとを歩いていると、危険区域から出るあたりで犬飼のすこし後ろを歩くなまえが口を開いた。

「犬飼澄晴はさみしくないの」
「よくわかんないや」
「そう、」

 泣けなくてかわいそうだね、と笑って穏やかな表情を浮かべているなまえに、当分の間は大丈夫そうだ、と安心する。

「またさみしくなったり、泣きたくなったら、おれのところへおいでよ」
「なんで?」
「きみの次に鳩原と仲良かったし」
「なにそれ意味わかんないね」

 おどけて言ってみせると、なまえはもう大丈夫、もう頼らないよ、といつもの調子を取り戻していた。裏切られたもの同士、傷をなめ合えると思ったのに残念、という言葉は飲み込んでおく。