「いっけな~い! 遅刻、遅刻」
「ついに頭沸いたか?」
朝食の準備をしている二宮の隣でそんなことを言っていると、鋭い言葉が投げつけられる。悪ふざけをしているなまえの隣で二宮はダイニングテーブルに、彼が作ったできたてのフレンチトーストと小鉢に入ったサラダ、マグカップに入ったポタージュを並べていた。
自分の役目だと言わんばかりに、なまえは食器棚からスープ用のスプーンとフォーク、ナイフをそれぞれ二本ずつ用意する。一セットを二宮の定位置にすでに並べられた食器の一番手前に置いて、なまえの定位置にも同じように食器を置いた。
家主よりも勝手知ったる、と言った様子でキッチンに立ちコーヒーメーカーを使って、コーヒーが出来上がっているのを待っている二宮の姿は、学科で一番の人気――身内調べ――なだけはあり、映えている。ちなみにコーヒーメーカーは、去年の誕生日に何が欲しいか諏訪に聞かれて答えたところ、ひとつ上の先輩たちでカンパして買ってくれたらしい。おかげで非常に愛着が湧いており、家に居るときであれば一日に五杯ほど飲むこともざらにある。使用率は明らかに二宮の方が高いだろうが。
「で?」
「ん?」
「さっきの意味不明なセリフはなんなんだ」
「あぁ、昨日友達に見せられたアニメに出てきてたくだり」
「しょうもない」
ふう、と大きなため息をこれみよがしに吐かれた。一度くらいは声に出したい日本語だと思ったのに、二宮にとってはそうでないらしい。
レポートをひとりで書き進めるにはつらさを感じるので、学科の友人に誘われるままに彼女の部屋に行けば、作業のBGMとしてアニメが再生されていた。うっかり見入って最初のヒロインのセリフを覚えたが、二宮には不評だったのでもう二度と言わないだろう。
「そもそも、なにが遅刻だ。一限までまだ二時間半もあるだろ」
「そこはほら、なんていうか、そういうもんじゃん?」
「くだらないことを言っている暇があったら、明日までのレポートをさっさと仕上げろよ」
「もう九割書き上がってますう。あとはまとめるだけですう」
「いつもそこで躓く女がなに言っているんだか」
言葉の応酬をしながらテーブルを挟んで向き合いように座り、二宮の差し出してきた出来上がったコーヒーを受け取った。並べられた食事の脇に邪魔にならないように置く。なまえがブラックコーヒーを飲んで、二宮がカフェラテを飲んだ。
学食などで二宮と共にいると驚かれるが、彼の方が子ども舌だと言える。
なまえはブラックコーヒーも飲めば、ビールなども美味しく飲める人間であり、二宮はその逆をいくのだ。諏訪などからはお前たちは見た目と中身逆だろ、とよく小言を言われている。いただきます、とふたりで声を重ねて目の前の食事にありついた。
こうして二宮となまえは同じ卓を囲んでそれなりの頻度で食事をするようになったきっかけはなんだったか。記憶が正しければ、二十歳になった記念に二宮、太刀川、加古、自分の四人で初めて酒を飲んだときのことだと思う。ひとり暮らしをしているなまえの家に集まって、各々気になる酒を買い込んで飲み会をした。太刀川と加古は案外酒に強かったらしくけろり、としていて、そのまま日付変更線を跨ぐ前に帰ろうとしたが、酔いつぶれた二宮の扱いに困ったわけだ。太刀川は二宮を家まで送ることを拒否し、加古はそもそも論外でいっそ外に捨て置けば、と言い出す始末だった。一応、良心が痛んだのでそのまま家に泊まらせることにした。なにもやましいこともないので、まぁ、いいだろう、と。
翌日にいい香りがしてベッドから起き上がると、二日酔いもなく頭はクリアだった。そして徐々に覚醒しつつある頭が、先ほど嗅覚で捕まえたいい香りを再度認識する。香りの方に誘われるままにキッチンに向かえば、二宮が食パンの入った袋を開けていつ用意したのかわからない卵の入った深皿に、パンを浸していた。
「にのみやおはよぉ」
「まずは顔を洗って歯を磨いてこい」
後ろから覗き込むように近づけば、実家の母のような返答がされる。なまえの母はもっとかわいらしい女性ではあるが。こんなごつい男と一緒にするのは母に申し訳ない。
言われるままおとなしく洗面所に向かって洗顔と歯磨きを済ませる。それらを終えて戻るころにはダイニングテーブルに朝食が並べられていた。フレンチトーストにスープに野菜ジュースとコーヒー。朝から甘いものにありつける喜びを噛みしめながら、二宮にお礼を言って席に着いた。愛飲しているのはコーヒーだが、朝から甘いものを食べるのは平気であるし、むしろ好んでいる。諏訪に甘党なのかそうじゃないのかはっきりしろ、と言われたが、どちらも好きなのだから放って置いてほしい。
基本的にひとが遊びに来たときに冷蔵庫の中身は好きにしていい、と公言しているので、彼が勝手に料理をしているのはなにも思わないが、なぜフレンチトーストなのか。
「なんでフレンチトースト?」
「……おまえこういうの好きだろ」
本意ではない、という空気をありありと醸し出しながら、二宮が先にカフェラテの入ったマグカップに口を付けたので、同じようにコーヒーの入ったマグカップに口を付けた。ほどよい苦みと酸味で頭がさらにすっきりする。やはり目覚めの一杯ブラックコーヒーに限る、と再確認した。
「あと、」
「んあ?」
「おまえの冷蔵庫の中身でできそうなものがこれくらいしかなかった」
「あー、最近冷蔵庫の中充実させてなかったかも。レポート忙しかったし」
「食事くらいはちゃんとしたらどうなんだ」
「へーへー。ニノママはうるさいですねぇ」
「誰がママだ。二度とレポート見せねぇぞ」
「すみませんでしたわたしが悪かったです許して」
二宮のレポートと言えば、太刀川は喉から手が出るほど欲しいものだ。ちなみに本人が言っていたので確かな情報のはず。なまえもたまに借りたりするが、本当にわかりやすくて友人界隈でも好評である。加古は死んでも借りない、と言っていたけれど。それは加古自身が勉強をできるから言えることだ。
機嫌をこれ以上損ねさせないように下手に出る。それはもう圧倒的に下はわたしですよ、と言わんばかりに。二宮のレポートが借りられなくなったら死んでしまうのだ。主に第二外国語の単位が。
「さっさと食べろよ」
「はぁい」
促されるままに目の前の自分好みの味のフレンチトーストの美味しさを感じながら頬張った。
どこぞの誰かさんに指摘された通り、レポートのまとめ部分が終わらず気分転換に大学の学食にやってくると、先輩方に見張られながらうめき声を上げている太刀川を見つけた。太刀川の頭に拳を落としている風間に手招きをされて近づいていくと、太刀川の向かい側に座るように促される。
「じゃ、あとは頼んだ」
「え」
席についたと同時にそれだけを言い残して風間はどこかへ行ってしまった。太刀川とふたりっきりにされてどうしろと、と思いつつ、呻いている彼の手元のレポートを見る。今日提出のレポートがまだ一枚目の半分しか埋まっていないのがわかった。関わり合いたくないなぁ、と思いながら、自分のレポートを机の上に取り出す。
「手伝ってくんねぇの」
「わたしも明日提出のレポートやばいからムリー」
「はぁ、使えねぇ」
「うるさいわ」
向かい合ったままお互いレポートをやっていると、集中力が切れたらしい太刀川が話しかけてくる。レポートしろ。
「おまえさぁ、二宮に飯作らせてるってまじ?」
「ご飯っていうかフレンチトーストね」
「フレンチトーストぉ? んな洒落たもん作らせてんのか」
「別に食パンからだし普通じゃない?」
「そうかぁ?」
二宮のフレンチトーストの作り方は卵と牛乳と砂糖で卵液を作り、六枚切りの食パンをそれに浸す。そのあと長時間浸ける時間はないので電子レンジにかけて、液がしみこんでいるのを確認したらバターを溶かしたフライパンで火を通す、という至ってシンプルなものだ。トッピングはメープルシロップがなまえのおすすめである。
「で、相変わらずなわけ? お前ら」
「そうねぇ」
太刀川が言わんとしていることはわかる。不健全なようで健全な関係性を築いている自覚はあるし、加古にも指摘されていた。付き合うならさっさと付き合え、となんなら諏訪にまで言われる。相手がなまえのことをどう思っているかわからないのに、付き合うもくそもないだろ、と思った。
家で共に過ごすことが多いから、嫌われていない、はず。普段愛想がどこかに行っている彼の真意を推し量ることなどそもそも無理だ。
「そもそもさ、二宮に好きとかいう感情ある? 焼肉とジンジャエールにしか適用されないやつじゃない? それ」
「さすがに失礼すぎだろ」
あと、これ本人後ろで聞いてるからな、と言われて、振り返ると威圧感満載な二宮に見られていた。死んだ、と思ったが、なぜかそのまま太刀川となまえの前を通り過ぎていく。過ぎ去る背中を見送り見えなくなったところでテーブルに突っ伏した。
「ぜってぇ脈なしじゃんか!」
「あ、レポート終わったお先~」
「裏切りかよくそが」
「キレてんなぁ。まぁ、なんとかなるって」
がんばれ、と言葉だけ残して太刀川まで去っていった。用がなくなったらすぐに居なくなるボーダー男子が多いのは気のせいだろうか。学科の男子ならまだもう少し付き合ってくれるのに。
周囲にお似合いだよね、と言われることはまあまあある。ただ、それを二宮は肯定も否定もしない。そのせいでなまえも肯定も否定もできなくなった。
あやふやなまま関係でいるのは楽だけど、こういうときに、苦しい。
逃げられたあの日から数日経ってから、二宮がふらりと家にやってきた。いつもは事前に何日に行く、と連絡が入るのにそれもない。二宮が来ない間に食パンを食べきってしまったので、明日の朝用に買いに行かなきゃいけなかったな、と思ったけれど、それは不要な考えだったらしい。
なぜなら、二宮が食パンをほかの食材と一緒に持ってきた。食パンはちゃんと六枚切りだったのに驚いた。そういうの頓着しなさそうだと思っていたから。
中に入るように促すといつものようにずかずか入り込んでくるかと思ったが、玄関で靴も脱がずに立っている。
いつもと様子が違うからすこし不気味だ。沈黙が自分と二宮の間に走って気まずい。どうしたもんか、と考えていると、二宮が口火を切った。
「気のない女の家に来るほど、酔狂じゃないつもりだが」
「え、」
いきなりの発言に困惑するが先日の話の続きだと見当をつける。いつもの調子で話し始める目の前の男の姿に甘いもなにも感じなくて、一体何の話をされているんだ、と思わなくもない。
「なんのためにおまえの朝飯作ってやっていると思ってる」
「え、え、なに。二宮わたしのことすきなの。え……」
「他人のために労力を使うほど暇じゃない」
「それは知ってる……」
そういうタイプじゃないのは重々承知している。相手にしたくない人間に冷たいのは彼の普段の態度でよく理解していた。まぁ、つまり、そういうことなのだろう。はっきり言わないのは許してあげましょう、と声に出すと、頬をきゅーっとつねられた。痛いな、おい。いつも通りの空気に戻ったのでおとなしく入りなよ、と部屋に招き入れる。食パンを受け取って、キッチンに向かって食パンの定位置にしているトースターの隣に置いた。
我が物顔でダイニングテーブルの席に座っている二宮に声をかける。
「コーヒー淹れようか?」
「あぁ、頼む」
隣に二宮がいるとしっくりくるなぁ、と感じた。
のちのち加古からの密告で分かったことだが、なぜ朝食がフレンチトーストだったかというと、二宮が泊まっていったあの日に酔ったなまえが朝はフレンチトーストを食べたい、と言っていたらしい。
それは記憶にございません。