ヒュース/蝶の亡骸は標本にしよう

 薄汚れた自分たちの星の空を見上げるたびに思う。他の星では空というものはもっときらきらと輝いていて、それでいてどこか澄んでいるような、心が洗われるような感覚を覚えたのに、どうしてこの星はこんなにも汚れているのだろうか、と。
 ヒュースと出会ったのは、自国の星がアフトクラトルに侵略され、属国にされて、なまえが兵士としてかの国に取り込まれたからだ。自分の主であるベルティストン家のハイレインは、情緒があまりにも未発達すぎるなまえのために、エリン家に一定の年齢になるまで滞在するように言った。反抗する気力も気概もなかったので言われるままにおとなしくエリン家に訪問すれば、ヴィザという名前の老人と同じ年頃のヒュースとがいて、角つきは豊富なトリオンを所持していると教えられ、彼はそういう立場の人間なのだと理解する。
 仲良くなるのはとても時間がかかったと記憶している。自国でも兵士として養成され、属国にされてからも兵士としての訓練しかしていなかったため、感情というものがなかった。すきもきらいもなまえの中に感情として存在していなかったのだ。
 なかったというよりも自我が形成されていなかっただけかもしれないが、それでも自身の考えなど持っていなかったし、持つ必要がなかったのである。
 そんななまえに自我が芽生えるきっかけを与えたのが、エリン家の当主とヒュースだった。

なまえはなにがすきなんだい?」
「わかりません」

 大層やさしい声で問いかけてくれた当主にそんな反応をしていると、当主が大好きなヒュースに噛みつかれた。失礼な態度を取るんじゃない、と。当主はまぁまぁ、なんてヒュースを宥めて特に気分を悪くしたわけでもなさそうだった。それから当主はことあるごとにものや景色を指差してはこれはどうだい、なんて意見を聞いてくるようになり、それに淡々とわかりません、と答えてはヒュースが怒り狂っていたことを覚えている。
 そんな穏やかと言っていいのかわからない時間を過ごしている中で、なまえの中に情緒というものが生まれたのは、ヒュースと出会って五年ほど経過した頃だ。自分ではすききらいの判別がついてはいないけれど、無意識にしていた態度をヒュースが読み取って、すききらいを作っていった。乳料理よりも豆の使った料理が好き、肉よりも魚が好き、トリオンは細部をコントロールするよりも力技で押し切るのが好き。そういったことをヒュースが形作ってくれて、手助けするようにエリン家の当主はいろいろなものを見せたり、選択肢を与えて、なまえという存在が形成させていった。
 意思表示をするようになったのはそれからさらに二年ほどの年月は消費してしまったけれど、それでも当主に初めていやだ、と言ったときに、とても嬉しそうにしていたことが記憶に残っている。
 あれはきらい、これはすきと言えるようになって、世界が大きく変化したかと言えばそうでもないけれど、少しだけ心地のいいものになったように思った。夕飯が肉の日はヒュースの皿に自分の肉を入れて食べさせ、当主に見つかって怒られる、なんてことも少なくない。良好な関係を築けていると思っていた。
 別離というものは準備をする暇など与えることもなく突然だ。
 ずっと放置をしていたハイレインがベルティストン家に戻るように、との通達をエリン家に送ってくると同時に、当主に次回の玄界への遠征にヒュースを出すように、と命令を下した。逆らうことは許されず、なんとも言えない嫌な気分になる。兵士として呼び戻されることはわかっていたので、おそらく近々戦争でも行うのだろう、と当たりをつけた。ヒュースをエリン家から引き離すことに違和感を覚えていると、当主もヒュースも同じことを思っていたようで、三人しかいない食事の場で当主よりハイレインの考えを予想したものを伝えられる。おそらく遠征が失敗すれば当主が次の神の候補にされること。だから、ヒュースはどうか遠征を成功させるように、という内容だった。
 それを聞かせられてどうすればいいのかわからない、と当主に告げれば、なまえは思うままに生きなさい、といつものように穏やかな笑みを浮かべるだけで。自分の君主は目の前にいるひとではなく、ハイレインなのだと再度認識させられた。
 仲間外れなのは、自分だったらしい。元からずっと共にいられる関係ではないのだ、と当主は気付いていたのだ。それでもやさしく接して情操教育までしてくれたことに感謝で頭が下がる。敵になってしまうと知っていたのに、それでもやさしさを与えたくれたことに視界が滲みそうになった。
 

 ベルティストン家に戻る日はヒュースが遠征に行く前日のことで、ろくに別れなどもできないだろうな、と思っていると、屋敷を出ていく前日の夜にヒュースが自室を訪ねてきた。準備で忙しいだろうに、時間の合間を縫って来てくれたらしい。扉を開けて迎え入れて、ベッドに座るように案内すれば、ここでいい。挨拶をしに来ただけだ、なんてドアの前から動かずに言われて、寂しさとでもいえばいいのかわからないけれど、おそらくそんな感情が胸に湧き出た。
 ドアの前に突っ立っているヒュースに声をかけながら近付く。出会ったときはこちらの方が身長は高かったのに気づけばヒュースに追い抜かれていた。

「無理しなくていいのに」
「任務を達成したらすぐに戻ってくる」
「待ってる、って言えないけどね」

 視線を合わせながらやりとりを交わす。ふと、彼の視線の方が高いのが悔しいなぁ、と思った。
 これくらい上背があれば、兵士としてできることももっと増えただろうな、なんてことを考える。ヒュースの目の前に立てば、彼が手を掴んできてぎゅっと握られた。

「――いや、言ってくれ。オレは必ず戻ってくる」

 曇りなんて一切ない澄んだ瞳ではっきりと告げられた言葉に、心臓がいつもより大きく脈打った気がする。じっと顔を見ていると、やっぱり男なんだなぁ、と確認して、なまえとは違う生き物なのだなぁ、と性差を勝手に感じ取っていた。

「……戻ってきても、わたしはここに居ないけど」
「君主様に頼もう。オレが戻ってきたら、なまえをエリン家で引き取れるように」
「またハイレインに睨まれるよ」
「今更だろう」

 ハイレインが一度様子を見に来た際に、情緒が発達した姿を見て不満そうにしていたのは知っている。なんなら当主に小言を言っていたことも。あそこまでしろとは言っていない、とかなんとか。ロボットのような兵士が欲しかったなら、エリン家に預けたのがすべての間違いだ、と当主は笑い飛ばしていたけれど。うちはこういう育て方しかしないよ、とも言っていた。
 蝶の楯がつけられている手首を見つめる。使い始めた頃は使いこなすのに難儀していたようなのに、今では当たり前のように使いこなしていた。掴まれていた手を放すようにお願いして、解放された指先でそっと蝶の楯に触れる。触れたことを不思議に思ったのか、ヒュースが手首をわずかに上げた。蝶の楯と彼の手を一緒になまえの両手の中に閉じ込め、引っ張って自分のおでこに祈るように当てる。

「どうか、ご武運を」
なまえも、自分を大事にしろ」
「努力はするよ」

 約束はできないけど、と内心で答える。思っていることは筒抜けらしく、なんとも言えない表情でヒュースがこちらを見ていた。
 夜が明ける前に遠征の準備に戻っていくヒュースの背中を見送って、姿が見なくなったところで自室に戻り、ベッドに寝転がる。目元を手首で覆って、息を大きく吐き出した。

「もう会うこともないんだろうな」

 心臓に穴が開いてそこに隙間風が入ったような感覚を覚えながら、今までの人生を思い返してここまで育ててくれた当主と共に過ごしてくれたヒュースに感謝する。ここまでだ、とそう思った。なまえとエリン家との――ひいてはヒュースとの関係は。
 ハイレインが手元に戻した部下を再び外に出すとは思えなかった。きっと戻ればいいように使われて、最悪使い捨てられるのだろう。兵士というのはそういうものだと生まれ育った国のときに学んだ。
 それでも幸せな時間だったと思う。エリン家に良い待遇で迎えられ育ててもらって、ヒュースと共に過ごせた時間があれば、きっとこれから先どんなに悲惨でもやっていけると思った。それほどまでに、自分の身には余る幸福だったのだ。

 
   §

 
 ハイレインの元に戻れば、予想通り兵士として自国で侵攻してくる他国を退けるだけ生活がそこにはあった。アフトクラトルの神が終わると聞きつけて侵攻してくる他国の兵士の多さには驚いたが、それほどまでにアフトクラトルが危機的状況であるということで、命令に逆らうこともできないなまえは上官の言いなりになって敵をなぎ倒すだけの日々を送る。
 遠征から戻ったハイレインに自分からは何も言わなかったけれど、彼からヒュースのことを聞かせられた。玄界の兵士に捕虜として捕まった、となんの感情もうかがえない声色で告げられ、エリン家の当主が言っていた通りになったな、と自分以外の誰かのことのように思う。そうですか、と言葉を返せば、ハイレインはため息を吐くだけで何も言わなかった。それからまた追加の任務を言い渡してきただけで済んでいる。この虚しい生活がいつ終わるんだろう、なんてことを考える間もなく、ひたすら戦いに身を投じて削られる日々に時間を消費した。
 終わりを告げたのは、アフトクラトルは玄界と同盟を結んだという知らせが国中に広がったときのことだ。それと同時に、しばらく玄界に捕虜として囚われていたヒュースが戻ってきて、エリン家の当主は次の神にならずに済んで、おそらくいわゆるハッピーエンドというやつなのだろう。周囲の兵士は笑っていて、ハイレインもなんとなく穏やかな表情で、エリン家の人間も笑っていて、ヒュースも笑っていた。なまえだけが笑えていないことに気づいた。
 戦争が終われば戦争の後片付けが待っていて、それに勤しんでいるとハイレインに呼び出され、ベルティストン家の屋敷に戻れば、応接間に玄界との仲介役という立場になったヒュースと面会させられる。どういう表情で彼を見ればいいのかわからなかった。なまえは戦うことでしか存在意義を見出せないのに、これからどう生きていけばいいのか。昔、エリン家の当主は思うままに生きなさい、と言ったけれど、思うままって一体何なんだろう、という感情しか浮かばなかった。物心がつくころには兵士だった自分が今更ほかの生き方をできるとは、到底思えないのだ。
 なまえの君主であるハイレインからしばらく休暇を与える、なんて話を突然されて、置いてけぼりを食らっていることだけは理解できる。そこに畳みかけるようにヒュースが少しうれしそうな表情を浮かべて言った。

「短期間ではあるが、一緒に玄界に行かないか?」

 まったく予想をしていなかった方向からの提案に思わず思考が止まったが、口をついて出た言葉は否定的なものだった。

「いやよあんな怖いところ」
「美味しいものがたくさんあるんだ。なまえにも食べさせてやりたい」
「ヒュース、変わったね」

 心底そう思う。捕虜になってしまっている間に、玄界に染まってしまったのだろうか。目の前にいるひとが自分の知っているヒュースだとはどうしても思えなかった。国のために戦おうね、当主のために戦おうね、とお互い言い合っていた時間はなんだったのだろう、とぼうっと思う。あの頃はもう彼の中で消え去ってしまったのだろうか。嗚呼、自分だけが取り残されているのが分かって気持ち悪い。

「素敵なものが多くあるから、なまえにも見てほしかっただけなんだ」
「わたしは、玄界になんて行かない。兵士だから平和な世界なんて望んでない」

 はっきりと強い感情をこめて告げると、ヒュースは口を噤んだ。なんで、みんなそんな急に仲直りしましょう、そうしましょう、なんて笑っていられるの、と声に出せばハイレインは呆れたように息を吐いた。
 これは知っている。見当はずれなことを言ってしまったことに対する注意だ。

「いつまでおまえは子どものつもりなんだ」
「そんな風に育てたのは、利用したのは、誰よ」
「俺が悪かったんだろうな」
「とにかく、わたしは玄界になんて行かないから!」

 応接間にそれ以上居たくなくて、それだけを言い放ち部屋を飛び出して、離れにあるなまえの部屋に戻った。心配してミラが様子を見に来たけれど、誰も来ないで、と部屋の中から大声を出して追い返す。ベッドに寝転がって頭から掛け布団をかぶり、籠城する兵士のようにじっと動かずに居た。
 どのくらいの時間が経過したかはわからないが、しばらくして自室のドアが二度ノックされる。返事をせずに無視していると、外からヒュースの声がした。

「急に悪かったな、あんなこと言って」

 返事はしなかった。ヒュースはそのままそこにいるらしく、返事もしないのに話を続ける。玄界で驚いたところをまるでおとぎ話を聞かせるように、紡いでいった。どうしてもヒュースの声に反応して耳を傾けてしまう自分がいて、いやになる。遠心力で動く乗り物の話や、おいしいと思った食べ物の話。どういったものがあって、どういうひとがいて、どういう世界があったか。だんだんと夢物語を聞いている気分になっていく。話がひと段落したところでコツン、とドアになにかが当たった音がした。

「玄界に行こうってもう言わないから、せめて顔は見せてくれないか」

 まだ言ってほしい言葉を言ってもらえてないから、とヒュースは言う。今更なにを言ってほしいと言うのか。嫌々ドアに近づいて行って、鍵を開けて顔半分ほどの隙間をあけた。隙間から外を見るとヒュースが穏やかな目でこちらを見ている。なにか言わなきゃ、と思っても口がはくはくと動くだけで、声は出ない。どうしよう、と思っていると、彼から声をかけてきた。

「ただいまって言ってもいいか」
「…………お、おかえり」

 そういえば、待つ待たないの話をしたことを思い出す。捕虜として囚われた時点でもう二度と会えないと思っていたから、すっかり記憶から消し去ってしまっていた。ようやくヒュースが戻ってきたことを理解して、目に水分の膜が張っていくのが感じられる。視界がどんどんぼやけて、彼の姿もうまく視認できない。

「いきててよかった」

 自分の声が震えていたけれど、それだけは言いたくなった。もう、会えないと思っていたから。

「悪かった」

 ヒュースは彼の君主のような穏やかな笑みを浮かべていた。