隠岐/焼いたお餅はおいしくない

隠岐/ガラスの靴を拾ったよの続き

 廊下で騒いでいる男女の声を耳が捉える。しっかりと拾えたのは、隠岐の幼馴染みであるなまえがそこにいたかもしれない。幼馴染み、というほど時間を重ねてないやろ、と一度細井に言われたけれど、幼馴染みの言葉の定義は〝幼いときに親しくしていたこと。また、その人〟と国語辞典に載っていたので、幼い頃だけ親しくしていた場合も適用されると思うと主張した。
 幼稚園が同じで、なんなら年長のクラスの頃にはなまえにべったりだったのだ。小学校が同じじゃないとわかって、どれだけのショックが隠岐を襲ったのか説明するのは難しい。あの頃は世界が終わってまう、くらいの気持ちを抱いていた気がする。
 そんな幼馴染みのなまえと、スカウトされてやってきた三門市で再会するとは思っていなかったけれど。ドラマのように再会して生駒に細井経由でバレると、やっぱり隠岐はモテるなぁ、と感心したように言われたのは困った。水上なんて隠岐の恥ずかしいエピソードとか持ってそうやな、となにか思案した顔で言うので、なまえちゃんに近付かんといてくださいね、と釘を差せば、おーこわ、なんて言葉が返される。
 水上と関わっなまえに隠岐の恥ずかしいエピソードを話されるのは今後のボーダーの活動に影響が出るから本当にやめてほしい。水上が吹聴するとは思っていないが、水上が話した先の生駒と南沢が絶対に吹聴する確信がある。なんで三門市まで来て恥ずかしいエピソード吹聴されなあかんねん。しかも今でこそ隠岐はイケメン、とか言われることが多いけれど、幼少期など内気でずびずび泣いていた男の子だったのだ。そんな過去を掘り返されて吹聴されるなど、悪質にもほどがある。
 尻目でなまえの方を見ると、あはは、と可愛らしい声を上げてクラスメイトのサッカー部の男子と話していた。笑顔が昔と変わらずかわらしいなぁ、と思うと同時に、その笑顔を向けられている男子にもやもやとした感情を抱く。自分にそれを向けてくれたらいいのに、と嫉妬に似た感情だ。隠岐の視線の先を察した上で、斜め前の席に座る細井が声をかけてきた。

「あ、隠岐の彼女、またサッカー部のやつに絡まれてるやん」
「まだ彼女やないし」
「まだ、やってぇ~」

 なまえを視界に捉えたまま何も考えずに放った言葉に、細井がにやにやとして隠岐を見るのでわずかに苛立ちを覚える。はめられた、と思ったのは仕方のないことだ。

「……マリオ性格悪」
「はぁ? 隠岐がちょろいだけやん。人のせいにしな」

 言い返して反撃をするとそれ以上の強い攻撃を返されて、たじたじになる。
 女に逆らうべからず、と言ったのは六歳上に姉がいると言っていた出水だったか。

「でも、なまえちゃんのこと好きなんやろ?」
「それは、そうやけど」

 細井に聞かれて口はもごもごとさせてしまったけれど、誤魔化すことはしなかった。隠岐の頬はわずかに熱を帯びている。もしかしたら赤くなっているかもしれない。

「こっち来てから再会って、どこの少女漫画やねん」
「びっくりよなぁ」

 両手を頭の後ろで組み、自分の椅子の背もたれに重心を乗せて後ろに傾く。ふぅーっと大きな息が自分の口から漏れた。
 我ながら再会したときのことを思い出すと、本当にどこのドラマや少女漫画だ、と言いたくなってしまう。もちろん、再会できたことは素直にとても嬉しい。見知らぬ土地に単身でやってきて、戦ってくれ、と言われて、心細くない、とは言えなかった。結局、故郷が恋しくなって同じ関西圏出身の生駒や水上、細井とつるんでいるのだから、やはり郷愁というのはいくつになっても抱いてしまうものなのだ、と実感する。
 あ、そういえば、と細井が話題を切り替えようとするので、意識を細井の話に向けた。

「あのサッカー部のやつ、なまえちゃんのこと好きやねんて」

 細井の言った言葉に、ぴしり、と身体が固まって目を瞠る。

「え……」
「どうするん、取られるかもしれへんで」

 じっと見つめられてうまく言葉が紡げなくなる。視界の端に映る笑い合う二人の姿をそういう風に見ると、いやだな、とシンプルな感情が頭を過ぎった。というか、細井のそういう情報はどういうところで手に入れているのかとても気になる。隠岐となまえが幼馴染みと知ってから、すごい勢いで彼女への距離を詰めている気がした。細井に詰められているなまえは、細井の関西独特のイントネーションを聞きながら、のほほんと関西弁懐かしいねぇ、なんて笑って言うだけだ。
 幼稚園のときと変わらない空気感が心地いい。幼い時分の隠岐の救世主は、ひとが好いからか友だちが多いようだった。女子グループでつるむということはしないけれど、友だちがいないわけじゃない。ただ、進んで行動を共にする誰かがいないだけで。思い返せば、幼稚園のときも隠岐とセット扱いされていたから周囲に人がいなかっただけで、なまえ単体でいたときは友人が多かったように思う。そのおかげで、隠岐と細井はなまえのやさしさに甘えて三人でつるむことが多いけれど。
 綺麗じゃない感情を抱きながら彼女を見ていると、サッカー部のやつと話を終えたのか、席まで戻ってきた。最近席替えをしたが、窓際の一番後ろは隠岐で、その隣がなまえなまえの前が細井だ。自分のくじ運の良さを有難く思ったのは初めてかもしれない。
 戻ってきて自席に座るなまえに隠岐と細井で声をかける。

「おかえり」
「おかえりぃ」
「ただいま」

 椅子を引いて隠岐の隣の席に座り、次の授業の準備をしているなまえに細井が話を続けた。

「さっき話してたん、サッカー部の子やろ? 仲良いん?」
「わたし、家庭科部じゃない? それでなんだよ。部長同士が付き合ってて。よくサッカー部に差し入れに行くんだ」
「そうなんや」

 細井のアシストのおかげでなぜ仲がいいのか理解はできたけれど、納得はしていない。隠岐だって今からサッカー部に入ったらなまえと話す機会を増やせるわけで。ボーダーに所属している自分をすこし恨んだ。けれど、そのボーダーに所属しなければこうして再会することもできなかったと思うと、やっぱりボーダーに所属していてよかったと思う。きっと、スカウトがなければ三門市を怖いところだな、とか大変なところだな、と遠い街の出来事だと思って終わりだった。幼馴染みのなまえと再会して、ちゃんと防衛任務を頑張ろうと思える程度には、隠岐も扱うのに苦労しない人間である。

「今日はなに持ってくん?」
「今日は焼きチョコレートだよ」
「そんなんでええんや? てっきり蜂蜜漬けのレモンとかやと思った」
「ね。その辺りが定番だよねー。でも、糖分が取れたらいいみたい」

 目の前で会話を繰り広げる二人の会話を聞きながら、なまえがさっきのやつのことを好きだったらどうしよう、とそればかり考えてしまう。せっかく、あんなに好きだった――もちろん幼少期は親愛の意味で――なまえと今のように話せなくなってしまうのはいやだな、と思った。しかし、さっきのサッカー部の男子がなぜ隠岐のことを凝視してくる回数が多いのか、腑に落ちた。彼は彼で隠岐の動向を探っていたのだろう。お互い様ではあるが、ライバル視されていることが推測できた。なんとなく、負けたくないなぁ、と思う。

「ええなぁ。おれもチョコ食べたかったなぁ」

 自分でも思いの外、甘えた声が出た。実家の猫と話すときくらいしかこんな声を出さないような気がする。形振り構っていられないので、仕方がないが。あわよくば余ったものをもらえんかな、と期待して、言うだけ言ってみた。聞いた細井があんた、と言いたげな呆れた視線を向けてくるけれど無視だ。

「孝ちゃんも欲しいの?」
「そりゃ欲しいわ」
「んー、でも人数分の材料しかないんだよね」

 なまえの解答にへこんでいると、あからさまに落ち込んだ姿を見せる。すると、さすがに見兼ねた細井に頭をぺしん、と叩かれた。地味に痛い。おれも食べたかったぁ、とぼやいていると、あ、そうだ、と彼女が思いついたような声を上げる。

「今度の調理実習、カップケーキ作りだし、孝ちゃんにあげる」
「ぜんぶ?」
「もちろん全部」

 しょうがないな、という声が聞こえてきそうななまえの笑みに、やったー、と喜んでいると、大袈裟だな、となまえが笑った。一度隠岐の前からいなくなったにも関わらず、ずっと記憶に残っていたなまえからもらえるのならなんでもほしいし、もらえるだけ欲しい。欲張り、貪欲、せこい、と指摘する細井の声は聞こえないふりをする。

 調理実習はチョコの話をした翌週の水曜日に行われた。朝から心が弾んでいて自分でもご機嫌なのが分かる。ボーダーが借り上げている寮の自室を出ると、ちょうど同じタイミングで水上も外に出ていた。おはようございます、なんて隠岐から声をかければ、水上がおはようさん、と言いながら隠岐の顔をじっと見て、なにかを読み取ったのか会話を続ける。

「隠岐、今日はえらい機嫌ええやん」
「調理実習なんですよ、今日」
「ふーん」

 聞いてきておきながら返事は簡素なもので、内心で苦笑いを浮かべる。隠岐は今日という日を指折り数えて、ずっとずーっと首を長くして待っていたのだ。なまえからのお菓子を約束された、とてもとてもうれしい日。そんな日に上機嫌でいるな、という方が無理な話である。
 どこか気怠い雰囲気を纏ったまま歩く水上の隣を歩きながら、話題は明日に行われるB級ランク戦のことだ。王子隊と弓場隊との三つ巴の予定で、やり慣れた相手というのは作戦を立てても定型通りの展開になりがちなのであまり意味を為さないが、やり慣れた相手だからこそ出し抜いてやりたいとも思う。奇抜な作戦に関しては一歳下の南沢が案外いいアイデアを出したりする。次のランク戦は生駒隊にマップの選択権があるので、なにかしてやりたいですね、と水上とあれこれ話した。
 高校の正門が遠くに見え始めた頃に、学校に向かって歩いていく三門第一の生徒で視界が溢れる。おそらく校舎の方から野球部かなにかの掛け声も聞こえてきた。朝から元気やなぁ、とつぶやけば、水上の耳がそれを拾っていて、ジイさんみたいなこと言ってんなぁ、と呆れられる。
 言い返そうとしたところで、背中越しに呼ばれて間髪入れずに振り返った。
 そこには隠岐の幼馴染みのなまえの姿があって、手には調理実習で使う一式が入っているのかオレンジの花柄のサブバッグを持っている。

「おはよ、孝ちゃん」
「おん、おはようなまえちゃん」
「隠岐、どちらさん?」

 隠岐のことをあだ名――しかも下の名前の――でなまえの存在を水上が見逃すはずもなく、彼女と隠岐の会話に割り込むように入ってきた。彼女は隠岐の隣に居た水上のイントネーションからすべてを察したらしい。あぁ、と納得したような表情を浮かべる。

「真織ちゃんとかと同じ感じのひと?」
「ん、そぉ」
「隠岐くん? 先輩に紹介してくれる気はないんか?」
「えー……」

 以前なまえから隠岐の恥ずかしい過去を聞くと豪語していたから、正直紹介はしたくない、というのが隠岐の本音だ。どこからどこまで話されてしまうのかわかったものじゃない。紹介を渋っている隠岐の内心など気づきもしない彼女は、人当たりのする笑みを浮かべて水上に一礼する。

「初めまして、孝ちゃ――隠岐くん、のクラスメイトです」
「名前は?」
みょうじなまえです」

 水上に聞かれてなまえはすんなりとフルネームを名乗った。その名を聞いた途端に水上がにやり、と一瞬笑って隠岐を見てから、いつもの表情に戻していたのが目に入る。嫌な予感で背筋にたらり、と汗が伝ったような気がした。こうなりそうだったから、会わせたくなかってんけどなぁ、と内心でぼやく。目の前でにこやかに行われる交流にめまいに似た感覚を覚えた。

「おー、隠岐とマリオから噂はかねがね」
「孝ちゃんと真織ちゃんと同じチームの先輩ですか?」
「おん。水上敏志言うねん、よろしゅう」
「水上先輩はー……大阪っぽいですね?」
「正解や」

 なまえが気づかないまま水上の誘導尋問に答えてしまう前に、早くこの場を去りたいなぁ、と思っていると、背後から細井がやってきてなまえに抱き着いた。全然羨ましいとか思ってない。思ってないったら思っていない。朝から細井からの体当たりのような抱き着きにもきゃっきゃ、とかわいい声を上げながら応えているなまえの姿を見ているだけで、多幸感が胸を占める。あわよくば細井のポジションに自分が居られたらもっと幸せだと思うけれど。
 そのまま細井は教室に早々と向かうためか、なまえを連れ去っていってしまった。
 それに慌てて付いて行こうとすると、水上が嫌な笑みを浮かべて言う。

「命拾いしたなぁ、隠岐」
「ほんま、水上先輩はなまえちゃんに近付くん禁止!」
「へーへー」

 さっさと行かな追いつかれへんで、となまえと細井が走って行った方向を右の親指で差した。水上に最後にほんまにだめですからね、と念を押してから二人のあとを追う。
 男子と女子の足なのでなんとか昇降口の付近で二人には追いつけた。ゼーゼー、と若干乱れた息を整えながら、楽しそうに話しているなまえと細井に近づいていく。自分たちのクラスの下駄箱に向かって、そのまま上履きと外靴を履き替えた。上履きにかかとを入れるためにつま先をトントン、と床に叩きながら二人に向けて文句を言う。

「二人して置いていくなんてひどいやん」
「隠岐が歩くん遅いんやろ」
「ごめんごめん」

 おざなりな謝罪におもうところがあったので、そのままなまえのおでこに優しくチョップを落とした。隠岐の突然の行動に目を大きく見開いて、おでこを抑えながら彼女は驚いた声色を隠さずに問いかけてくる。

「え、孝ちゃんそんなに怒った?」
「怒ったわぁ」
「嘘つけ」

 細井の鋭いツッコミにつられて、ははっと笑いつつ怒ってへんよ、となまえがおでこを抑えている手を外し、無防備になったおでこにデコピンをする。

「地味に痛いんだけど」
「これでチャラにしたるから、な?」
「はいはい、置いて行ってごめんね」
「えぇよ」

 なまえと細井と並びながら教室に向かうために下駄箱を後にして教室までの道を歩いていく。話すのは今日の授業のことで、もちろん調理実習の話にも触れた。楽しみやな、と隠岐がウキウキとした様子を隠さずに言うと、なまえは不思議そうに孝ちゃん甘いの好きだったっけ、と疑問を口に出す。

「んー、めちゃめちゃ得意ではないけど、それなりに好きやで」
「ふぅん。昔は和菓子とかの方が喜んでたよね」

 最中とか羊羹とか、と記憶を思い出しているのか右上に視線を向けつつ話すなまえに、せやなぁ、と返事をした。元々、隠岐の母がケーキの生クリームなどそこまで得意なひとではなかったこと。隠岐の実家の近くに父方の祖父母が住んでいたこと。
 それらを理由に幼少期の隠岐にとってのお菓子はいわゆる〝和菓子〟がメインだったのだ。なまえはそんな隠岐の家に遊びに来ることが多く、よく一緒に和菓子をつまんでいた。なまえの記憶に確かに存在している自分との思い出に嬉しくなって頬が緩む。よほどだらしがない顔をしてしまっていたのか、どすっと細井の肘が隠岐の脇に入れられた。

「マリオ痛いわぁ」
「さっきデコピンかましとった仕返しや」
「マリオにはしてへんやん」
「敵討ちですぅ」

 はっきりとそう言い切った細井に感動したらしいなまえが、真織ちゃんすきー、なんて言いながらハグをしていた。久しぶりに女子の結託を直で受けてしまって困ってしまう。
 三人でじゃれ合いながら教室に入ると、例のサッカー部の視線と視線がかち合った。にっこり、と余裕のある笑みを浮かべてやると、向こうが先に視線を逸らしたので勝った、と思った。
 教室の奥の自分たちの席につきながら、三時間目と四時間目の調理実習楽しみやなぁ、と笑う。同意するようにそうだね、と笑ってくれるなまえに癒された。

 いつもより若干ふわふわとした心境のまま一時間目の化学と二時間目のリーディングを終えると、細井となまえと一緒に教室を出た。持ち物で必要だったのは、エプロンと三角巾とマスクとランチョンマット、布巾の五点だ。それらを入れてある愛用している洋服屋の布製のショッパーを持って家庭科室まで向かう。三・四時間目の調理実習の班は名前の順で固定されていたので、なまえとも細井とも同じ班にはなれなかった。
 前方の調理実習台に隠岐が座るなり、同じ班の女子たちが話しかけてくる。圧が強いなぁ、なんて内心思いながらそれらをいなして、調理実習に集中した。これが終われば隠岐はなまえから彼女のカップケーキをもらえるのだから、それまでの辛抱である。アプローチしつつ実習をこなす女子たちの器用さに謎の感動を覚えつつ、ときたま後ろの実習台にいるなまえに視線を向けた。なまえの班には例の隠岐のライバルのサッカー部が居て、悔しい気持ちが頭の中を占拠する。なんでおまえが一緒の班やねん、ずるいやろ、と口からついて出そうになったのをなんとか理性で抑えつけた。
 長い長い楽しくない時間を耐え抜いて、自分たちで作ったカップケーキを食べても良いし、誰かににあげてもいい、と言われた瞬間に、隠岐の周りに何人かの女子が囲うように集まる。隠岐くんカップケーキ好きなんでしょ、朝みょうじさんに言ってたもんね、なんて言いながら、差し出されるカップケーキを断ろうとすれば、押しの強い女子たちは隠岐の腕にカップケーキを押し付けて逃げた。あとを追って返すのも面倒だし、それをきっかけになにか言われるのもいやだな、と思ってひとまず受け取る。
 あとで水上先輩とかイコさんに押し付けたろ、と見当をつけた。生駒に関しては女子からのカップケーキだと言えば、最初は渋るだろうが隠岐が困ってるんです、と言えば受け取ってくれるだろう。なんだかんだ、後輩に甘い先輩たちなのだ。
 調理実習が終わると同時に昼休みになって、教室に戻る途中で隠岐がなまえを捕まえる。楽しみにしていたカップケーキがようやくもらえると、喜んで彼女に話かけると、申し訳なさそうな顔をして慈悲のない宣告をされる。

「ごめん。孝ちゃんたくさんもらってたから、ぜんぶ自分で食べちゃった」
「な、なんで……」

 思わず情けない声が出るし、声も震えていたと思う。先週からずっと楽しみにしていたというのに。こんなことがあるのか、といるのかいないのかもわからない神様を恨む。隠岐が食べたかったのはなまえの手作りのカップケーキだけだったのに。

「ま、また今度作ってくるから! ごめん!」

 逃げるように去っていくなまえの背中を隠岐は見ていることしかできなかった。

   §

 隠岐から逃げるようにやってきた屋上に着けば、先に行くようにお願いしていた細井の姿があった。細井の顔を見てほっとなまえが安堵の息を吐いたのが分かる。隠岐が楽しみにしていたのを知っていたのに、彼にカップケーキを渡さなかった自分の情けなさに笑えて来た。細井の隣に腰を下ろして、手に持っていたオレンジの花柄のサブバックの中を漁る。エプロンで隠すように入れてあったカップケーキを取り出した。この場で食べてしまおう、とかわいらしくラッピングしたそれを開けようとしたところで、細井が待ったをかける。

「それ、隠岐にやらんの」
「もうたくさんもらってるみたいだし、迷惑かなって」

 実習が一段落するなり、クラスの半分くらいの女子に囲まれていた隠岐の姿にもやもやとした感情を覚えて、急にカップケーキを渡したくない、と思ってしまったのだ。なまえがお菓子を渡さなくても、彼に渡したいと思う人はごまんといるんだ、と理解してしまった。ただの幼馴染みなだけのなまえが、隠岐に上げたがっている女の子たちを押しのけてまで渡したいという気持ちはない。元々、どうしてあそこまでお菓子に執着しているのかもわからなかったのだ。なぜか澱んでいく自分の気持ちを感じとりながら、このカップケーキは存在しなかったことにしよう、とすぐに食べてしまいたかった。

「誰かにあげるん?」
「ううん。いまここで食べちゃうよ」

 焦燥感に似たなにかに襲われているのを自覚する。
 自覚したところで、それを解消する方法が見つけられなくて、困ってしまう。そんななまえのことには気づいていないであろう細井が提案をした。

「ほんなら、」
「うん?」
「ウチにちょうだい」
「真織ちゃんがもらってくれるの?」

 思ってもいなかった提案に驚いてしまう。もし、細井がこの手元に残っているカップケーキをもらってくれるのなら、うれしいと思った。救われたような、そんな気持ちになる。

「うん、てか、ウチのと交換しようや」
「え、いいの? 嬉しいなぁ」

 行き場のなかったカップケーキが細井の手元に行って、細井の手元にあったそれを受け取る。なまえの手元から自分の作ったカップケーキがなくなって安心した。細井に食べてもらえるのなら、と思うととても穏やかな気持ちになる。さっきまでの自分の感情はどこかささくれだっていたような気がして、落ち着かなかった。細井から受け取ったカップケーキのラッピングを開けて、出来立てからそこまで時間が経過していないから、どこかあたたかさが残っているカップケーキを口に運ぶ。きちんと混ぜ合わせられたのが分かる食感とほどよい甘さが味覚を刺激して、美味しさに頬が緩んだ。細井もこの場で食べるのかと思いきや、今日は夜にボーダーの訓練があるから、その前の間食にさせてもらうわ、と笑った。

「冷めても美味しいといいんだけど」
「あんたの作ったもんやねんから、美味しいって」
「そうだといいなぁ」

 もらったカップケーキを食べきって、何度も細井に美味しかったよ、と感想を告げる。普段自分が作り手側だから分かることだが、作ったものに対して感想を言ってもらえるというのはとても嬉しいことなのだ。細井のカップケーキを褒めちぎっていると、もうええ、と恥ずかしくなったらしい細井に口元を手で押さえられた。こういうところがかわいらしいなぁ、と思う。普段はテキパキとしていてしっかり者な彼女が、照れている姿にほっこりとあたたかいなにかを覚えた。細井のおかげでさっきまで澱んでいた気持ちもどこかに行ってしまったように思う。

「真織ちゃん」
「うん?」
「ありがとう」
「急になんやの、変な子やなぁ」
「ごめんなぁ」

 昔も上手く使いこなせなかった関西弁のイントネーションで謝れば、慣れんことしな、と怒られた。昼休みが終わるまで細井とぐだぐだと午後の授業の文句を言ったり、昨日見たドラマの話をしながら屋上で時間を過ごす。いつもの昼休みであれば、隠岐もいたけれどなんとなく、顔を合わせづらかった。

   §

 午前中の浮ついた気分から一転、地獄のどん底まで落とされたような気分のまま午後の授業を過ごした。放課後は家庭科部の活動がないから、と帰宅していくなまえのことをいつも通りの皮を被ったまま校門まで見送って、隠岐は重い足取りでボーダーの本部基地に向かう。細井と一緒に行こうかと思ったけれど、隠岐の落ち込みようを見てさらに追い打ちをかけられたら死んでしまう、と思って先に作戦室行ってる、とメッセージだけメッセージアプリに送って置いてきた。
 基地に到着してそのまままっすぐ作戦室に向かう。狙撃手の合同訓練まであと二時間ほどあるので、気は乗らないが作戦室で課題でもしよう、とこのあとの予定を算段した。
 作戦室に到着してから隊服の換装体になり、備え付けている丸テーブルについて英語の問題集をこなしていると、作戦室のドアが開いて置いてきた細井が姿を見せる。隠岐を見るなり呆れたように大きなため息を吐いた。それからスクールバックをがさごそと漁ってから、何かの物体を取り出す。見えたのはカップケーキで、隠岐は真っ先に作ったのを食べきらずに持ってきたのだろうか、と思ったところで、細井が声を発した。

「ここになまえちゃんの作ったカップケーキがあります」
「マリオちゃん?」
「今日の、調理実習で、作った、カップケーキや」

 手に持っているカップケーキをこれ見よがしに隠岐に見せてくる。なんで、どうして、なまえは食べてしまったと言っていたのに、と混乱しながらも視線は、細井の持っているそれに釘付けだった。そんな隠岐に追い打ちをかけるように、細井が言う。

「美味しいんやろうなぁ」
「マリオ様」
「ま、ウチがもらったもんやけど」
「マリオ様お願いします譲ってください」

 椅子から立ち上がって最敬礼をしながら懇願する。こんなに深く頭を下げたのは、親に三門市に行きたい、と言ったときくらいかもしれない。隠岐の気持ちが伝わったのかわからないが、細井が隠岐の顔面に向かってカップケーキを投げつけてくる。顔に当たる寸前にパシッと手で掴んだ。
 先週から隠岐が心待ちにしていたものが、自身の手の中にあるのだと思うと嬉しくて泣いてしまいそうだと思う。

「なんでマリオがこれ持ってるん」
なまえちゃんが自分で食べようとしてたから、ウチのと交換してもらった。あんた、一生ウチに感謝しいや」
「する。めちゃめちゃする。マリオのこと崇め奉るわ」
「そこまでせんでええ」

 ぱちん、と頭を叩かれる。トリオン体なのでまったく痛くはないけれど。急いた気持ちでカップケーキのラッピングを開けて、はぐはぐと口に運んでいく。普段からお菓子作りをしているだけあって、隠岐が作ったものよりも断然美味しいと感じた。食べながら、浮かんだ疑問を口にする。

「なんで、くれへんだんやろ。約束しとったのに」

 細井がさきほどと同じようにため息を吐いた。呆れています、と言外に言われているような気がする。気のせいでなければ。

「あんたがもうたくさんもらってるのみたから、迷惑やろうって言うてたよ」
「おれは、なまえちゃんのやから欲しかったのに」

 いじけながらそう言えば、細井が若干苛立ちの色を滲ませた声で話しを続ける。

「ウチは知っとるけど、なまえちゃんにはそれが伝わっとらんのやろ。ほんまに、しゃんとしぃや。あいつに取られんで」
「それはいやや」
「ウチに言わんとなまえちゃんに言いや」
「わかっとるし……」

 どう伝えればいいのだろう、と思うけれど、そもそもなまえに対しての感情が、隠岐の中で明確に定まっていなかった。好きは好きだけれど、どういう好きなのか。懐かしいひととまた会えて嬉しいという感情が大きすぎて、それ以外の好意の種類がよくわからなくなっていた。好意の根底にあるものが純粋なもの過ぎて、人間の欲について考えるのに違和感がある。好きだから一緒に居たい、だから彼女になってほしい、と思っているけれど、それにキスしたいだのセックスしたいだの欲が明確にあるのか、と言われると怪しい。
 うーん、うーん、と頭を悩ませていると、気づけば狙撃手の合同訓練が始まる時間が近づいてしまい、一度そこで考えることを切り上げた。

 調理実習の日以降、彼女はどこか隠岐に対してよそよそしい気がする。細井がいるときであれば、隠岐もそこに居てもいつも通りだけれど、細井が居なくて隠岐と二人きりになるとなにかしらの理由を付けてその場から離れて行ってしまう。
 細井に頼んで理由を聞いても、よそよそしい態度を取っているなまえ本人もよくわかっていないらしい。一週間くらい経過しても態度が軟化する気配がなく、どうしたものか、と悩むことしかできなかった。せめて戻りたいのに、と思ってもどうすることもできなくて頭打ちの状態だ。
 掃除当番も終わって、さて帰る準備をして細井とボーダーに向かうか、と思った矢先にごみ捨てに行っていた細井が焦った様子で教室に戻ってきた。隠岐を見つけるなり近寄って胸倉につかみかかられる。

「ドアホ!」
「え、ちょ、マリオ急になに」
なまえちゃんがサッカー部のやつに告白されとる」

 自分が驚いているのが表情筋の動きから自覚できた。すぐに頭を切り替えて、細井を問い詰める。

「場所は」
「校舎裏の焼却炉のとこ! さっさと行き!」

 細井に送り出されて全力疾走で教えてもらった焼却炉に向かう。走りながら、隠岐がなまえとの距離が開いてしまっている間に、やられた。真っ先にやられた、と思ったのだ。教室からすこし遠い場所に、くそっ、と思うけれど、普段から任務でも使っている足を信じて最短距離で向かった。こういうとき、グラスホッパーが使えたらめっちゃ楽やのに、なんてどうしようもないことを思う。
 歩いてなら八分ほどかかる校舎裏の焼却炉に三分で到着すると、ちょうど彼女と例のサッカー部の男子が話しているところが視界に入った。隠岐の足音が大きかったらしく、二人の視線が隠岐に向く。告白がどうなったのかわからなくて、隠岐は言葉を発せなかった。じっとふたりを焦った表情で見つめることしかできなくて、情けないなと思う。息を整える間もなく肩が息を整えるために上下に動いた。

「孝ちゃん」

 久しぶりに呼ばれた自分の名前に隠岐の右目からほろり、と滴が流れた。そのままなまえに近づいて行って、後ろから抱き着いてなまえの右肩に顔を埋める。幼稚園の頃、お遊戯会でどうしても彼女と同じ役になりたくて、先生に駄々を捏ねたときも同じ体勢だったな、と思い出した。黙ってなまえに抱き着いたままでいると、彼女は隠岐をそのままに目の前のサッカー部の男子に話しかけた。

「ごめんね。告白してくれたのは嬉しいけど、わたし今誰かとお付き合いするとか考えてないんだ。孝ちゃんのお世話してたいから」
「そっか。聞いてくれてありがとうな」
「ううん。こっちこそありがとう」

 サッカー部の男子は納得したのか、そのままその場を去っていった。なまえから見えなくなったところで、抱き着いていた彼女の手に隠岐の身体を引きはがされる。隠岐の両目からぽろぽろと涙が流れていた。
 なまえは隠岐の一番大事なひとで、ずっと一緒にいてほしかったひとで、誰にも取られたくない人だ。隠岐の元に居てくれるのなら、どんな情けない手も使ってしまえる程度には。

「孝ちゃん」

 引きはがされた身体をなまえの正面に置かれた。向き合う隠岐の情けない顔を見て、彼女は困ったように笑って、両腕を広げる。なまえの意図を都合よく理解して、隠岐は正面から彼女の身体に抱き着き、彼女の右肩にまた顔を埋める。

「おれの方が、絶対に好きやもん。絶対に、ここにいるやつらより好きになったの先やもん」

 拗ねたような声でなまえにだけ聞こえる小さな声で言うと、彼女はふふ、と笑い声をあげた。

「そうだろうねぇ」

 この学校で孝ちゃん以上に付き合いのある人なんていないよ、とはっきり言い切る彼女の言葉に嬉しくなって涙が引っ込んだ。

「孝ちゃん、相変わらず泣き虫やなぁ」
「今が特別なだけやし」

 下手ななまえの関西弁を注意する余裕もなく、ずび、と鼻を鳴らしながらなまえの肩に埋めていた顔を上げると、頭をぽんぽんと優しく撫でられた。昔の温もりに似たそれに胸がきゅうっとなると同時に、なまえを腕の中に強く閉じ込める。

「なぁ、おれと付き合って」
「いいよ」

 すんなりともらえた承諾の返事に、幼いころの念願が叶った幸せな気持ちで、隠岐の胸中は満たされていた。
 彼女とずっと一緒に居られる以上の幸福なんてないのだ。