コツコツとローファーを鳴らして朝日を背に歩けば、目の前に寮が見えた。ガラケーの時計を確認すると、時刻は五時十五分。この時間であれば流石に面倒くさいあの男も起きていないだろう。しれっと女子寮に入ってベッドで一時間ほど眠ればいつも通り硝子ちゃんが起こしに来てくれるはず。そんな見当をつけながら寮に向かって足を進めれば、男子寮の窓がひとつ開いていた。だれの部屋だか知らないけど無用心だなぁ、などと他人事のように考える。シャワーとかは出先で浴びてきたからパジャマに着替えて眠ればあとは完璧だ。
寮まであと五メールくらい近づいたとき、開いていた窓からひょっこりと顔を出してる人間が目に映る。――最悪。
その人間は窓から顔を出してニヤニヤとした笑みを浮かべながらわたしを見ていた。この時間なら寝てるだろうしバレないと思ったのに。予想が外れた。内心いらいらとしながら舌打ちを一つして、さっさと女子寮の中に入ろうとしたところで声をかけられる。
「よぉ、朝帰り女。昨日はどこのホテルだったんだ?」
「どこだろうと五条には関係ないでしょ」
「はっそりゃそーだ」
口を開けば人の神経を逆撫でするようなことしか言わない同級生はこれで呪術師としては一流なのだから、呪術界は狂っていると思う。わたしの家系は五条家の末端の末端の末端で、傍流と言えば聞こえが良いけれど、実質は五条家にしがみついているだけの卑しいところだ。
五条とは幼少期に数度同い年の子どもとして一緒に遊ぶように命じられて、遊んだことがある程度で。高専に来て彼特有のその眼を見るまで存在を忘れていた、と言っても過言ではない。
そのせいか、五条は滅多矢鱈に絡んでくるのだ。わたしの素行の悪さが原因のひとつである自覚はあるけれど。
「今度はどんなおっさん相手だったわけ」
「四十代のジジイ」
「うへぇ、よくやる。毎週毎週よくできるよな、見知らぬおっさんとなんか」
「自分で選んでやってるんだから、あんたにとやかく言われる謂われはないわよ」
「へーへー。昔はあんなに可愛かったのに」
「うるさい」
会話を切り上げてそのまま寮に入り、女子寮の自分の部屋に向かっていく。今までの自分だどうだったかなんてもう思い出すことすらできない。
部屋に戻って隣の部屋の硝子の迷惑にならないように静かにドアを開閉する。そのままパジャマに着替えて、ベッドに潜り込んだ。
わたしの術式は呪霊や呪力を取り込むことで始まる。それを知ったのは六歳の頃で、叔父が使役していた呪霊の犬に舌を舐められた。すると、呪霊が目の前から忽然と消えたのだ。それを見ていた父と母は驚いて、わたしを宗家に連れて行かれた。久しぶりにやってきた宗家は相変わらず人がいるのかいないのかわからない雰囲気で。この場所が昔からあまり好きではない。
ほかの呪霊師みてもらい結果として分かったのは、わたしの呪術は粘膜接触で触れた呪霊や人間の呪力を吸収できるというものだった。
そこからはもう口にするのもおぞましいほどの地獄で。どうして生きているのかわからないと思っていた時期もあるし、このまま死んでしまいたいと思っていた時期もあった。
けれど、自死を選んで自分の息の根を止めようとすればするほど、取り込んだ呪霊がそれを阻止する。
中学生にあがるときにはなにもかも諦めた。用意される異性と粘膜接触をし続けて、だんだんとこころが蝕まれて行き、せめて自分が選んだ人間と粘膜接触を行うことで自分のこころを守るしかなくなってしまったのだ。
毎週寮を抜け出して――と言っても事情は話してあるし、外出許可も貰っている――呪霊を補充する。相手は年配の異性が結構な割合を占めていた。ああいう人間ほど誰かから恨みを買っていて、呪霊に取り憑かれやすい。気持ち悪いジジイとの接触は不快でしかないが、こうやってしか生きていけないところまで来ている。
呪霊を取り込むのを辞めれば、今まで取り込んだ呪霊に飲み込まれて身体を乗っ取られかねないのだ。そうすれば自分が家に殺されかねない。
「なまえー?」
コンコン、とドアをノックする音に起こされて目を開ける。壁にかけてある時計を確認すれば六時半。おそらく硝子が起こしに来てくれたのだろう。ベッドから起き上がりパジャマからジャージに着替えて、ドアから顔を出せば予想通りの人物がそこには立っていた。
「硝子ーおはよぉ」
「おはよ、なまえ。ひどい顔色」
「よく眠れなかったから」
「無理しないようにね」
「うん」
廊下に出て自分の部屋に鍵をかける。硝子に手を引かれるまま洗面所に連れていかれた。洗面所に備え付けられている鏡を見ると、確かにひどい顔色だ。白すぎて血色がないのが丸分かりだった。
「うわ、やば」
「だから言ったでしょ」
隣の洗面台を使っていた硝子が呆れながら言う。その顔色のまま外に出るのはやばいから軽く化粧したら?と言われてそうする、と言葉を返した。
食堂に向かう硝子と別れて一旦自室に戻る。さすがにジャージの中に化粧道具は入れていなかった。
自室に戻りメイクボックスを引っ張り出して、ベッドに腰掛ける。もちろん鏡を引っ張り出すのも忘れない。硝子にもう少し部屋をきれいにしたら?と小言を言われるけれど、週末寮から抜け出しているから掃除をする暇がないのが実際のところだ。
化粧を施した自分の顔を見て、よし、とひとつ頷く。ファンデーションとチークと眉毛だけ描いたナチュラルメイクで切り上げた。
週末に街を闊歩してジジイ共をひっかけるときは、もう少し派手なメイクをしているのでどこか違和感がある。
顔色の悪さがなくなったので先に言っている硝子に合流するために食堂に向かうことにした。
「あ、おかえり」
「ただいま。今日の日替わりメニュー何だった?」
「パスタサラダ」
「まじ?さっさと取ってこよ」
食堂に到着すれば硝子がいつもの場所を陣取ってくれていた。そこに腰を下ろす前に彼女に声をかける。彼女が食べているトレーを覗き込めばいつも通り和に偏った食事だった。わたしは硝子と違って洋に偏ったものが好きだ。
高専の食堂は朝はバイキング形式で、昼と夜は定食形式になる。朝は好きなものを好きなだけ食べられるから好きだった。
トレイをとってフォークとスプーンを置き、そのまま料理の並ぶテーブルに向かう。硝子の言っていた通りパスタサラダがあって思わずテンションが上がった。
「朝からよくそんなハイカロリーなもんよく食べられるよな」
「五条まじでうるさい」
「おはよう、なまえ」
「あ、おはよう。夏油」
パスタサラダを乗せた皿をトレイに置き、その隣テーブルにあるバケットも手に取る。あとはスープとヨーグルトがあれば上出来だろう。そう思っていたところで背後から声をかけられて、思わず肩が跳ねた。声の方向を見れば五条と夏油の姿が目に入る。
夏油へのあいさつだけ済ませて、先に食べている硝子の元に戻って食事を取ろうと取ってもらっていた席に腰を下ろした。さっさと食べて部屋に戻ろう、と料理に手を付けていると隣で椅子の引く音が聞こえる。視線を向ければさっき無視した五条と夏油の姿があった。違う席で食べてくれないかなほんと。
硝子と今日の授業の確認をしながら順調に食事を進めていけば、トレイに残るのはヨーグルトだけになっていた。それも平らげて席を立って自室に戻ることを硝子に告げる。硝子はこのあと一服するだろうから、いつも先に行くことになっていた。
「わたしもう行くわ」
「あ、俺ももう行く」
わたしが席を立つと同時に五条も席を立ち、後ろに続いて来る。夏油とゆっくり食べればいいのに。後ろをちょこまかとついてくるのは本当にやめてほしい。
寮までの道を歩いていると、五条がわたしを追い越して進行を阻むように目の前で足を止める。つられて同じように足を止めるしかない。
「ほんとやめたらいいのに。そういうこと」
なんでもないことのように言われたひとことに、大層短い怒りの導火線に火が付いた。それから頭にカッと熱が集まる。
「うるっさいッ。あんたにだけは言われたくない!」
自分らしくない大きな声が出た。この世界で選ばれた人間になにがわかるっていうんだ。わたしが、いつも、どんな気持ちで、いると――。
これ以上自分の醜態を晒したくなくて目の前の五条を追い越して早足で寮に戻ろうとする。
「もう行く。邪魔しないで」
「おい、なまえ、」
追い越しざまに手首を掴まれて一瞬動きを止められたけれど、それを振りほどいた。
「あんたなんかには絶対わたしの気持ちなんてわからない」
捨てるように言葉を吐けば、そのあと五条は追ってはこなかった。
絶対、絶対、わからない。あの一族で宝物のように扱われていたあんただけには。できるものならわたしだってこんな汚い術式を身に付けたくなかった。