0・不変などないのだと

 みょうじなまえの人生について考えると、ひどくつまらないものだと思う。
 特に変わったところのない両親に育てられ、普通に小学校、中学校に通った。高校は親と教師と相談した結果、市内でも有数の進学校に進学して。平凡でなんの変哲もない日々を消化し、成績の上位の方を漂っては進路について頭を悩ませる日々。結局、進級もなにも危うくなることなく卒業して、就職に有利だというのと、社会や会社の成り立ちに興味があったから、市内の公立大学の経営学部に進学した。大学生活も特に面白味もなく、単位だけはきちんと取得して、バイトとサークル生活に勤しむ。サークル内では惚れた腫れたで揉めて、酒を飲めるようになって限界もわからず飲み、馬鹿をやって、たまに目も当てられないくらいのテンションに流されて警察の世話になる一歩手前のできごとなどを起こしていた。小さなできごとはいくつもあったけれど、そんなの誰もが経験していることだと知っている。
 だから、自分は平凡な人間だ、という自負があった。
 人生で一番の出来事と言われると、就職のときのことが頭をよぎる。
 そして就職をきっかけにこれまでの人生の中で最も劇的な変化が起こるとは思ってもいなかったのだ。
 大学三年生の秋に就職活動が解禁され、様々な会社にエントリーを済ませる。

 エントリーシートでお祈りされてしまうものもあるし、二次選考に進めるものもあれば、三次選考まで行ったのに落されるものもある。
 最初は手当たり次第いろいろな企業の企業説明会に応募していたけれど、サークルの先輩に相談をしたら、自分と同じ経営学部から大きめの企業に就職した先輩を紹介してもらえることになった。
 いわゆるOB訪問の約束を取り付けてもらって企業見学まで漕ぎつける。
 事前に聞いた企業名が、国内で有名な飲料メーカー企業だったのには驚いたけれど。事前に企業のHPやビジネス雑誌に載っている記事などもチェックして準備をする。
 OB訪問で先輩に案内されながら、付き添いでいる人事の社員にも事前に準備した質問などを投げかけ、企業への理解度を高めた。
 雰囲気が好きだな、と思ったのでここを第一志望にしてこのまま選考に進めたら、と思っていたところに、OB訪問させて貰った先輩から選考に参加できるけどどうする、と今後の選考に関する連絡が来て。
 すかさず飛びついて次の選考に進ませてもらった。
 OB訪問に行ったおかげか、質問内容などもきちんと答えられた気がする、と思っていたら最終面接で内定を言い渡されたので嬉しかったのを覚えている。
 内定って一つ決まるまでが長くて、一つ決まると他もぽんぽんと決まる、と言っていたサークルの先輩の言う通り、本命の会社以外にもいくつか内定をもらった。
 けれど、内定をもらった会社をすべて比べてみても一番しっくり来たのは第一志望の企業だ。就職後のイメージが明確にできているというか、なんというか。
 なにもかも合致している感があるのがそこだったのだ。この話を同じようにいくつか内定をもらった友人に相談したら、そういう企業があるならそこに行った方がいいでしょ、と冷静なコメントをもらった。その言葉に背中を押されるように内定を承諾して、内定者研修やらなんやらに参加すると、やっぱり自分の感覚は間違えていなかった、と自信を持てたので良かったと思う。就職活動が一段落ついたところで、友人たちと遠方に卒業旅行に行ったり、内定者研修で他の内定者と顔を合わせたり、最後の大学生活を満喫した。
 内定者研修ではどんな部署に行きたいか、などの希望も取られたので、大学での勉強を生かせそうなマーケティング部と記入して。実際、OB訪問で紹介された先輩も経営学部からのマーケティング部だったのだ。
 卒業式を終えて友人たちとの別れを惜しみながら新しい生活に備えた。
 本社の場所が三門市から遠い場所にあるので一人暮らしをすることになり、それと同時に両親は父の実家に引っ込むことにしたらしい。
 三門市にある家は壊して土地は売り払う、という話だった。
 生まれ育った街に自分の居場所がなくなったような疎外感を覚えたのは、自分の胸の内にしまっておく。高校の友人や大学の友人も何人か残っているので、完全に居場所がなくなった訳ではないが、けれど生家がなくなる、というのはどこか胸をざわつかせるものがあった。
 入社日の一週間前に両親より先に三門市を出たけれど、最後に見た街は何も変わらない、いつも通りの街だった。
 子どもの明るい声が聞こえて、老夫婦が笑いながら公園でのどかに過ごしていて、中学生らしき学生がグループで大声で笑う声が聞こえる。そんないつもの光景に、勝手にノスタルジックな感情を覚えた。
 別に二度とこの街に足を踏み入れないわけではない。友人に会いに来たり、いくつか声をかけられている結婚式の予定などもある。だから、近々戻ってきたりするだろうに、ひどく寂しいような、どこか胸に風穴があいてスースーと風が通り抜けているような、冷たいひりつきがあった。なんとなく無性に逃げ出したいような気持ちになって、なにかあるたび逃げ込むようにやってきた家の裏の山にある高台にやって来て。街の一望を見下ろす。西日に照らされている街は慣れ親しんだ街であることには変わりない。

「馬鹿だなぁ」

 ここまで寂しいと思うなんて、と自分で自分を笑ってみる。
 ここが故郷であることは変わりないのに、何をさびしく思う必要があるのか、と奮い立たせて、自分に気合を入れるために頬を両手で叩いた。自分が思っていたよりも強かったようで、思わず痛みで涙目になる。

「痛……」
「あの、おねえさん。大丈夫ですか?」

 横に人がいることに気付いておらず、突然声をかけられて驚きで視線を声の方に向ける。烏のような黒色に鳥の羽のようにぴょこぴょことしている髪の少年が、心配そうな表情を浮かべてなまえを見上げていた。
 年は小学校高学年か中学生くらいだろうか。顔が整っていて学校とかでモテているんだろうな、とどうでもいいことを考えた。自分よりも幾分か低い背にこれから成長期なんだろうな、と更に考えてしまう。

「え、あ、大丈夫! ごめん。変なところ見せたね」
 変なところを年下に見せてしまった、と慌てて取り繕うと少年は会話を続けた。
「泣いているように見えたので」

 その言葉にいい子だな、と内心で関心しながら、こんなにかっこいい子に気を遣って声をかけてもらった情けなさでまた笑えて来る。

「……ありがとう。ちょっと寂しくなっちゃっただけなの」
「もう元気出ましたか?」

 窺うように問われて、ようやくそこで自分の表情筋が仕事をした。目を細めて小さく笑みを浮かべて見せ、少年にお礼を伝える。

「うん。ありがとう。きみと話してたら元気出てきたかも」
「ならよかったです!」

 にぱ、と満面の笑みを返され、つられて更に自分の笑みも深まっていた。
 少年にお礼を告げて家に戻ることにする。
 そろそろまとめた荷物を引っ越し業者が取りに来る時間だ。
 その場を後にしようとすれば、少年が大きく手を振って見送ってくれていて、なんとなく母性を刺激された気がした。

「ああいう息子ほしいわぁ」

 彼氏と別れたばかりだし、なんなら結婚する予定もないけれど。なんとなくいいな、と思ったのだ。ああいう気持ちのいい息子を育てたいな、と年齢にそぐわないことを考える。
 家までの帰路を歩いていると、先ほどまで飲み込まれそうになっていたノスタルジックな気持ちが、どこかへ行ってしまっていた。顔が良い人間ってすごいなぁ、と独り言つ。

 三門市から電車で一時間かかる街に自分はいた。一人暮らしの部屋の鍵を受け取ってから引っ越しを済ませる。すべて終わらせるのに時間はそこまでかからなかった。
 さすが引っ越し業者にあらかたのことを投げただけのことはある。
 引っ越し費用で貯金してあったバイト代の半分が消えてしまったのは痛いけれど。
 家具に、私服からビジネス用のスーツを持ち込み、生活するために必要な日用品などを一式揃える。新社会人としての生活に胸を躍らせながら準備をするのは、なかなかに楽しかった。
 入社式の日は寝坊をすることもなく参加でき、その後行われた三か月間の新人研修も何とか同期たちと乗り越える。
 最後に総括として行ったプレゼンテーションは厳しい指摘も多かったが、そこまで悪くなかったよ、というのが最終的な評価だった。研修最終日は同期たちと飲んで一夜を明かしたけれど、まるで学生時代みたいな馬鹿さ加減があって笑える。こういうところがまだ学生気分、と怒られる原因なんだろうな、と思いつつもやめられそうになかった。
 新人研修を乗り越えたよろこびを同期全員が爆発させている。普段は避けていた日本酒なんかも飲んでしまって悪い酔いして、帰りに同期に迷惑をかけたことは、反省したいところではあるが。
 新人研修を終えた次の出勤日。研修が行われていた部屋へ向かい、同期と一斉に配属先が発表される。
 そして、そこで励むように、という言葉を人事部長からもらって研修部屋を送り出された。あらかじめ言い渡された部署の部屋の前に立つ。目の前には〝広報部〟というプレートが掲げられていた。
 ──そう、希望が通らなかったのである。
 マーケティング部には別の同期が配属されていて羨ましい、と内心でハンカチを噛み締める勢いだった。そこに行きたかったのに、とぼやいても今更配属が変わるわけではないが。自分ともうひとり以外の同期は希望が通っていて羨ましくて死ぬ、というのは今のことを言うんだろう。
 広報部の前でもう入っていいのかな、と思いながら部屋の前で突っ立っていると、背後から年上の男性社員が現れて声をかけてくる。

「きみ、なにをしてるんだい?」
「あっ、今日からお世話になるみょうじなまえです」

 名前を名乗ってよろしくお願いいたします、と続けて告げれば、今日から配属になった新人だと理解されたようで、入りなよ、と言われながら中に招き入れられる。
 部屋の中に入った途端、中に居た十人ほどの社員の視線が自分に集中した。緊張で仰け反りそうになるのを我慢して、胸を張って挨拶をする。

「今日からお世話になります。よろしくお願いいたします、みょうじなまえです」

 自分の名前を再度名乗れば、視線を向けてきていた社員たちが合点がいったらしく、ようこそー、なんて声をかけてくれる。歓迎はされているようなのでほっとした。一人の女性社員が近づいてきて二志麻です、と名を名乗り挨拶をしてくる。

「これからよろしく。あなたの教育を担当します」
「よろしくお願いします」

 同じ部署の全員に挨拶をして特徴と名前を覚えることに専念した。最初に出会った男性は根付という名前で、課長だということが分かった。偉い人に失礼なことをしてないよね、と自分に思わず問いかけてしまう。
 失礼なことはおそらくしていない、はずだ。とっつきにくい雰囲気のある根付にビビりながら、最初の二週間は過ごした。
 本格的に始まった業務─まだ下っ端なので雑務ではあるけれど─に毎日ヒーヒー、と悲鳴を上げながら、OJTの先輩に励まされつつ日々の業務を何とか覚えていく。最初は間違えても大きな問題にならない他部署とのやりとりや電話応対など基礎的なところだ。
 それがだんだんと責任の重くなる他社とのやりとりなどが徐々に増えていった。
 自社商品のPR活動でさまざまな展示会に参加し、顧客や消費者を増やすために様々な戦略を練る。
 新人社員としても少しずつ自分の部署に貢献出来てきているかな、と感じ始めた頃、広報部で新入職員歓迎会として飲み会が開かれた。
 生まれ育った三門市から割と離れた場所に本社がある飲料メーカーの大手企業。
 商品名を聞くと大体の人があぁ、あの会社ね、と伝わるような企業だ。それが弊社である。
 市場のシェアの七割を誇っているだけあって、とても大きな会社であり、同期と直属の部署の先輩や上司の名前しかわからないようなところだが、仕事はやりがいもあったし、まぁまぁな高給取りになれたので文句はない。
 だからそんな弊社でまさか同郷の人に会えるとは思ってもいなかったわけだが。
 会社員として広報部の配属になってからは自社の商品をどうやって消費者に届けるのか、という戦略を考えるのがまぁまぁ楽しかった。OJTの担当である二志麻やほかの先輩は優しいが、その上の課長の根付は厳しい。
 一人立ちし始めた頃、損害にはならないが小さなミスをしてしまった。それを二志麻たちは次は気をつけようね、と声をかけてくれたが、厳しい言葉を投げかけてきたのが根付だ。
 自分が犯した小さなミスが、どんな大きなミスに繋がるのかを淡々と説明され、思わず怒られた衝撃でぽろり、と一筋目から滴を落としてしまうほどだった。自分が悪いことだと理解しているけれど、厳しい言葉に驚いて泣いてしまったのは恥ずかしい記憶として脳内にへばりついている。
 言い訳が許されるのであれば、泣くつもりはなかったのだ。勝手に涙が出てきただけで。けれど、社会人にもなって泣いてしまった自分が恥ずかしくて、あとから自分に対して怒りが沸いてきてしまったけれど。そのあと根付や先輩方に謝罪して、その後再発防止のためにこうしたい、と提案したら受け入れられたので良かった。
 そのことがきっかけでいつの間にか課長である根付と話す回数が増えることになる。だんだんと難しい案件や業務が増え、先輩たちも根付さんに付いた方が、多分スキルアップしやすいと思う、とのことで業務に関する基礎的なところ以外は根付に相談するようになった。
 根付との相性が良かったのか、なまえがどういう意図でこういう戦略を立てたのかなどきちんと説明すれば、どこがおかしいのかなどの細かい指摘をしてくれる。厳しい上司の根付が親しみを覚える上司になったのは、これまでの人生で根付との共通点を多く見つけることができたからかもしれない。

「根付課長も三門市出身って聞いたのですけれど」

 新入社員歓迎会の広報部の飲み会の席で、新入社員の自分は上役たちにビールを注いでいき、最後は根付の番だった。根付はビールを注ぐと一気に半分ほど飲んでしまい、次を注ごうとするとビールはあまり飲まないからもう結構、と断られる。
 断り方も相手が─この場合自分だが─不快になるような断り方じゃなくて、上手いな、と思った。見習いたい、と純粋に思う。そのまま根付は残りのビールを飲み切ってから、食後の皿を回収に来た店員に日本酒をロックで、と言って自分で注文してしまっていた。
 生憎、ビール以外のアルコールは大学時代に死ぬほど浴びたがサワーしかわからない。日本酒も数口であれば人のをもらって飲んだことがあるが、いかんせん好きになれなかった。ジュースと割るといい、などと教えてもらったけれど、最初の印象が悪すぎて出来ずにいる。
 ビールを注げないとなると手持ち無沙汰になって、どの話題を話そうかと思ったときに、先輩から小耳に挟んだ情報を記憶の奥底から引っ張り出した。話題の種になれば、と軽い気持ちで口にする。

「そうだけど。きみもかね?」
「はい。六頴館高校出身です」
「奇遇だね、私もだ」

 そこまで同じとは思わなくて、思わず目を丸々とさせて根付を見てしまう。すると、タイミングが良いのか悪いのか根付が注文した日本酒のロックがやってきた。
 それを店員から受け取りながら、根付に差し出せば、空になっだビールジョッキを交換するように差し出してくる。
 空のジョッキを受け取り、店員に渡している間に根付は日本酒を少々飲んでいた。酒に酔ってほろ酔い状態なのか、気分が良くなったらしい根付は高校時代のことを意気揚々と話し始める。一番面白かったのは、根付の担任をしていた教師が自分の代では校長になっていたことだ。
 三門市生まれ、三門市育ち、六頴館高等学校卒業、三門市立三門大学経営学部卒業。それが話してみて分かった上司である根付との共通点だ。こんなに一致することがあるだろうか、と驚いて見開いてしまうほどである。
 それらの話題を足掛かりにさまざまな話をしていると、根付は先日自分が提出した企画書の話をし始めた。

「あの企画、悪くはないよ。もう一歩なところではあるけれど」
「やっぱりそうですか…………」
「きみ、元々広報部志望だったっけ」
「いえ、どちらかと言うとマーケティング部の方が本命でした」
「……そういうときは嘘でも広報部が一番です、と言うものだよ」
「これからはそう言いますね!」

 あっけからんと敢えて空気が読めない人間のように振る舞って言い切ってみせると、目の前で根付が大きなため息を吐いた。それからぼやくように、まぁ性格は広報部向きかな、と聞こえたのでにっこりと作り笑いする上で最高に値する満面の笑みを返しておく。

 社会人になって二年目に入り、仕事にも慣れ始めてそろそろ後輩などのフォローもしなきゃいけない立場になって、責任が結構増えたなぁ、と感じ始めていた頃だ。根付と自分の相性が、それなりによかったのを部長が見逃さなかった関係は、ずっと続いていて。
 OJTの途中から根付の下で同じプロジェクトや業務にかかわることが多かった。
 広報のいろはは根付から学んだと言っても過言ではない。新人向けでない知識やテクニックもいろいろなものを与えられたと思う。
 相手をやり込める方法とか、人心掌握術とか、人の心にするりと潜り込む方法とか。
 常にこちらの発信したものを相手がどう受け取ったのか予測を立て、結果と予測はどうずれていたのか理解しなさい、と言うのが根付の口癖だった。
 広報と言うのは人間を相手にしているからこそ、最低限の礼儀や思いやりも忘れるな、とも加えて言う。
 独りよがりの企画は成長しないし、何の結果も利益も生み出せない。自分ひとりで完結しない仕事だからこそ、広報という仕事は面白いのだ、とそういう風に言い切っていたし、自分もいろいろなことを教わってそう思った。
 小さな仕事から大きな仕事までをひとつずつ丁寧に向き合い、自分が欲しい結果をすこしずつに得られるようになると、根付と二人でサシで飲んだ。
 自分たちの会社の商品用のウェブサイトを刷新するということで、委託業者で打ち合わせをした帰りだった。
 委託業者を出る頃には終業時刻の十五分前で一度戻っても良かったが、根付が部長に電話して、この時間なので直帰します、と伝えているのが聞こえたのだ。
 意図せず少し早い仕事の上がりに嬉しくなり内心で喜んでいると、電話を終えた根付が飽きれた顔でなまえを見る。

「もう少し取り繕った方がいいよ」
「はっ、そんなに顔に出てました?」
「あからさまにねぇ」

 しみじみとした様子で言われたので、反省の色を見せつつすみませぇん、と戯けて見せると根付が問いかけてくる。

「きみ、このあと予定はある?」
「ないです。普通に家に帰ろうとしてました」
「じゃあ飲みに付き合ってくれない?」
「承知しました。ご相伴に預かります」

 連れて行かれたのは出先だった駅から数駅自社の最寄りに近付いた駅で、繁華街として有名な駅だった。自分もよく同期たちと飲みに行く駅で、飲食店が多岐にわたっているのは知っている。
 先に改札を出た根付のあとに続くように少し後ろを歩いてついていけば、迷いなく進んでいく根付は入る店を決めていたようだった。
 せっせとあとを追っていく中で、駅から徒歩で十分くらい離れた場所にある店の前で根付が足を止める。つられて自分も足を止めると、根付がここだよ、と声をかけてきて先に中に入っていった。

「女将、二人だけど空いてる?」
「あら、根付さんいらっしゃい……って、あらあらまぁまぁ若い可愛らしいお嬢さんまで連れてきて! 珍しいですね」
「今面倒を見ている部下なんだ」

 店の女将らしき人間に紹介されて、社会人として頭を下げお辞儀をすれば女将もお辞儀を返してくれた。恰幅のいい体型で和服姿の女将は付き合いが長いのだと根付から説明を受ける。
 根付が若い頃に当時の上司に連れてこられた店で、女将もその当時から見習いとして店に居たので旧知の仲、というやつらしい。
 女将が落ち着いて話したいでしょうから、と根付と自分を奥の座敷の小部屋に通してくれた。確かにこぢんまりとした空間は居心地の良さを演出されている気がする。
 掘り炬燵になっている座敷で卓袱台を挟むように向かい合って座れば、さきほどの女将がおしぼりを二人分持ってきた。それを受け取り手を拭き、続いて根付に差し出されたお品書きを受け取る。どれも美味しそうで悩んでいるところで、根付が女将に生一つ、と告げていたのでに便乗して自分の分の生ビールも追加してもらった。
 ビールを待ちながらメニュー表を眺めつつ引き続き悩んでいると、根付に好き嫌いを確認される。
 特に好き嫌いはないと言うと、根付がメニュー表の名前を指差しながらどういう内容なのか教えてくれた。様々な説明を聞いた上で、根付がおすすめだといった品を五品ほど頼むことにする。
 待っていた生ビールを持って現れた女将から中サイズのジョッキを受け取り、それから決めてあったメニューを注文した。女将が去ってから根付と互いのジョッキを持ち上げ、飲み口をカチンと合わせ、お疲れ様でした、と言いながらジョッキの中のビールを煽る。
 ぷはーっ、とよく居酒屋で耳にする声を自分が発していることに社会人になったなぁ、と感慨深さを覚えていたところに根付が唐突に話を始めた。

「きみは勘がいいよね。物事に対する」
「そうですか?」

 突然の褒め言葉に頭に疑問符を浮かべつつ自然な態度で聞き返した。

「頭の回転も速いし、先々のことも想像できる頭がある。それはとてもいいことだ」
「ありがとうございます。でも、根付課長の教えを忠実に守っているだけですよ、わたしは」
「それができる素直さがいいんだよ。頭でっかちになることがない」

 やたら褒めてくれるな、と思いつつも謙遜せずに素直に褒め言葉を受け取って礼を言う。先日根付と一緒にとあるプロジェクトに参画していたが、そこで自分より三年先輩のマーケティング部の先輩が頭でっかちなことばかり言っていたことを思い出した。
 よほど頭に来ていたらしい。
 けれど、その相手を扱き下ろしたりせず、自分の評価を上げてくれているところに、根付の人柄の良さのようなものを感じた。
 あいつはだめだ、こいつはだめだ、と一括りに言い切ってしまうことは簡単だ。けれど、それをすることのない根付の人柄に自分は惚れこんでいた。理想の上司であり、こういう人に出会えた幸運さを誇りに思う。

「きみはどうかその素直さを捨てずに、仕事に励んでほしいね」
「はい、そうします」

 否定することなく褒められた言葉を受け取って、自分の美点を再認識する。他者─ましてや上司に褒められる点というのは得難いものであり、自信を持つことのできる点だ。これからも大事にしていきたいと思うし、大事にしなければならないと思う。
 まるで中の様子を伺っていたようなタイミングで、女将が注文した料理をいくつか持ってきてくれた。蓮根まんじゅうを二つに出汁巻き卵、揚げ出し豆腐の芋かけだ。蓮根まんじゅうは蓮根がお饅頭のようにこねられていて、大根のすりおろしと出汁がかかっている。口に運ぶと中はもっちりとしていて、外はカリッとしていた。不思議な食感に目を白黒とさせていると、その光景が面白かったのか女将と根付が笑みを浮かべる。

「美味しいです」
「それ、一応この店のメインだから」
「看板メニューなんですよ」

 二人の補足を聞きながら今まで食べたことのない料理に舌鼓を打つ。一〇〇パーセント蓮根を使用しているという事実にさらに驚いた。
 他のも食べなさい、と根付に促されて出汁巻き卵を箸でつまむと、その時点でふわふわとした触感がある。絶対美味しいやつじゃん、と思いながらこれも食べた。口に放り込まれた出汁巻き卵は予想通りふわふわとしていて、噛むたびにじんわりとやさしい味の出汁が出てきて美味しい。
 口の中でもぐもぐと噛むたびに口の中に出汁と卵のおいしさが広がる。そして最後に揚げ出し豆腐の芋かけだ。揚げ出し豆腐に大根のすりおろしが乗っているのはよくあるけれど、ここの店は長芋をすりおろしてかけているのだと言う。それも口に運べば、衣のついた香ばしい揚げ出し豆腐に、とろりとした長芋の食感が同時に口内に広がった。長芋って合うのかな、と思っていたけれどマッチしていてこれもまた美味しい。というようりも、美味しくないものがない。おかげでビールも飲み進んでしまう。
 あれもこれもある程度食べ終わったところで、ジョッキの残り少なかったビールを飲み切った。
 はーっ、と息を吐きながらジョッキを机の上に置く。どことなくなにかをやり切ったような感覚があって、視線を根付に向けると満足そうに笑っているのが目に入った。

「……部下の食べてる姿を見て楽しいですか?」
「楽しいよ。きみ、食いっぷりが見ていて気持ちがいいし」
「えぇ~それ褒めてるんですか?」
「褒めているつもりだけどねぇ」

 続いて女将が残りの料理を持ってきた。紫蘇揚げの盛り合わせとチキン南蛮だ。紫蘇揚げは納豆と山芋とエビがそれぞれ紫蘇と一緒に揚げられた天ぷらで。揚げたてなのかどちらもほかほかと湯気が上がっており、香りも食欲を刺激されて、さっき少しお腹いっぱいになったかも、と思っていたのがどこかに行ってしまった。
 チキン南蛮も揚げられた鶏の胸肉のフライに玉ねぎと卵とピクルスの混ぜられたタルタルソースがかかっている。どちらも美味しいそうで、どちらから手を付けよう、と思っていると紫蘇の方を先にどうぞ、と女将に勧められた。空いたグラスを持ちながら女将に次の飲み物どうします? と聞かれたので、さっきと同じもので、と答える。
 サワーなども挑戦したい気はするけれど、上司である根付がいる手前、冒険をする気はなかった。
 タレに紫蘇と山芋の天ぷらをつけて食べると、シャリ、という食感と共にあっさりとした味わいを感じる。続いて納豆と紫蘇の天ぷらを食べれば、先ほどよりもネバッとした触感と爽やかな味が感じられて、不思議な感覚を抱く。

「どうだい?」
「美味しいんですけど……なんというか、想像していなかった味と言いますか……」
「そうかもね。あと普通の納豆に紫蘇入れても美味しいらしいよ。私はしたことないけれど」
「そうなんですか?」
「女将が言ってた」
「へぇ~」

 紫蘇って自炊だとあんまり買わないんだよな、なんて思いながら、次はチキン南蛮を口に運んだ。
 こっちは居酒屋とかで食べるものに味が近い気がするけれど、マヨネーズの風味に違和感があった。
 なんだろう、と首をかしげていると、隣でいつの間にか注文していた日本酒を飲み始めた根付が声をかけてくる。

「どうしたの」
「マヨネーズが……。なにか入ってます?」
「あぁ、少しウスターソースが入ってるとかなんとか聞いたことがあるね」
「ウスターソース! なるほど」

 そう言われたウスターソースっぽい風味があるような気がする。手が込んでいる料理ばかりで自分では絶対にやらないな、と思っていると、根付にグラスが空いていることを指摘された。

「うわ、本当だ。いつの間に……」
「食べながらぐびぐび飲んでたよ、きみ」
「そうでしたっけ?」

 思い返しても食べ物が美味しかった記憶しかないので、いつの間に飲んだんだ、という驚きしかない。ビール以外の好きなもの飲んでいいよ、と言われるけれど、ちゃんぽんした翌日にひどい目に遭った記憶しかないので遠慮した。

「お酒強そうなのに」
「飲んでる当日は平気なんですけど、いかんせん翌日のしっぺ返しが……」
「あぁ、そういうタイプね」

 大学のときなんて何度二日酔いの頭痛に苦しまされたか。少なくとも両手では足りない。ここらで大人しくソフトドリンクにします、と宣言してウーロン茶を頼もうと女将を呼ぶ。女将にウーロン茶ひとつ、と告げるとお酒はもういいの? と聞かれて、飲みたい気持ちが顔を出したけれど泣く泣く我慢した。上司との飲みで醜態をさらすわけにもいかないので。キャパシティーを超え始めると陽気度が上がって馴れ馴れしくなる、というのが大学時代の飲み会で判明しているのだ。
 根付からの現状の評価がいい分、評価が下がるような真似はしたくなかった。酒癖悪いよね、きみ、なんて言われたら、凹んで凹みすぎて地面に穴が空くかもしれない。
 勧められるままに料理を頼み、ノンアルコールドリンクを飲んで、仕事の話をする。社会人らしい飲み会だなぁ、と実感する。上司と仕事の話をサシでするってなんかかっこいい。口にはできないけれど。
 揚げ物などを頼んで、腹が八分目を超えそうなのでそこでストップをかけた。気分よく話していた根付はもういいの? と先ほどのお酒のときのように聞いてくるけれど、遠慮する。これ以上飲んだら帰ってから戻してしまうような気がしているのだ。
 料理のオーダーが止まったからか、女将もまたもういいの?〆に入る? なんて問いかけてくる。
 〆の雑炊はメニューを見たときから、食べたいと思っていたので量を少なめで、とお願いして最後にそれだけ食べることにした。
 注文してからしばらくして女将が持ってきた野菜たっぷりの雑炊の入った茶碗が、目の前にコトリ、と置かれる。出汁のいい香りとじっくり煮込まれたのか柔らかそうなお米に、卵、白菜、えのき、刻みねぎが入っていて美味しそうだ。さっき一度減退したはずの食欲が刺激される。茶碗と一緒に置かれた蓮華を手に持って、雑炊をひとすくいして口に運んだ。熱さで口の中でハフハフ、としてしまうが、味わって食べると、柔らかい野菜と米にやさしい出汁の味が浸み込んでいるのが分かった。やさしい味わいにホッと力が抜けるような感覚がある。

「お、おいしい~」
「この店に来たらこれで〆るのが定番だからねぇ」
「実家の雑炊よりもっともっと美味しいんですけど、どこかホッとする味で……」
「やだ、嬉しい感想」

 素直な感想を伝えただけなのに、嬉しそうに笑ってくれる女将にこちらまで嬉しくなった。
 最後の〆の雑炊を味わって食べ、それから少し休憩して店を出る。
 当たり前のように会計で財布を出して二人分払ってくれる根付に礼を告げた。最初は財布を出そうとしたけれど、十歳近く年下の部下に出させるほど落ちぶれていない、と言われて、それ以来財布を出すのは辞めたのだ。根付からは、いつか自分に直属の部下ができたときに、同じように奢ってあげられるだけの余裕を持てるように仕事に励みなさい、と言われた。その言葉に甘えているのだ。十年後の自分が部下の分を奢れるような人間になれるように頑張ろう、と心に決めているのだから。
 平凡だけれど、描いた未来想像図に少しでも近づいていけるように、仕事などを頑張る日々は、嫌いではないと思った。

    §

 根付とのコンビが定着して二年目を目前とした年のことだ。そろそろ独り立ちしてよね、なんて冗談を言われながら、広報部としての立ち回りも考え方も自分の中で落し込めた頃合いだったと思う。
 完全に部内で根付とニコイチ扱いされるようになったけれど、そろそろ本当に根付とのコンビを解消して下の後輩と組ませるかも、と部長に匂わされてもいた。
 自分主導で動くことは多かったけれど、根付やほかの先輩のフォローも厚く、なんとかやっていた現状に変化がもたらされそうだ。
 自信二割、不安八割が自分の心境としては正直なところである。どうやったって十年も勤めている根付に、たかが二年勤めているだけの自分が届かないのは当たり前で。まだ根付のすべてを吸収できないないし、まだまだこれから吸収したいものもある。それなのに離れなければならないのが落ち着かなかった。一人になった自分はやっていけるのだろか、先輩たちのように後輩のフォローができるのだろうか、と不安に思わないわけがないのだ。自分はまだペーペーの新人に少し毛が生えた程度という自覚があるからこそ。

 同じような業種のメーカーや企業が集まって行われた展示会で、自社製品をPRしたり、同業他社の製品を見て自社製品と比較したり、と広報部としての仕事をしていた。主担当はOJTで世話になった二志麻と彼女の後輩で。
 自分と根付はヘルプで参加することになったイベントだ。展示会というのは仲睦まじい企業同士のやりとりもあるけれど、一部仲が良くない企業なんかもある。基本前者だが、まれに後者もいるのだ。
 大体後者に分類されるのはいわゆる〝やり方が汚い〟企業ではあるけれど。
 自身が初めて参加した展示会で根付に真っ先に指導されたのは、距離を置くべき企業と親密にしてよい企業の見分け方だった。生産サイドに無理難題を言って価格を下げるような企業とは付き合うべからず。それが根付の教えのひとつだ。価格は安ければ安いほどいいが、そこに労働力が度外視されているものは適正価格ではない。そういう企業はいつか潰れてしまう、とも言っていた。実際、初めて参加したときによくなさそう、と思った企業のいくつかは確かに姿を消していたのだ。思わずなるほど~! と頷いてしまった。
 展示会の仕事を終えて、終了時刻が遅かったこともあり、直帰する。同じ路線の先輩と後輩と別れ、根付に誘われていつもの店に行くことになった。すでに予約済みだと言うのだから、いつの間に予約したんだか。スマートさに感心せざるを得ない。

「そういえば、女将腰やったんだって」
「え!? 大丈夫なんですか?」
「重いもの運ぼうとしてぎっくり腰だってさ」
「若くてもなるって言いますもんね……。わたしも気をつけないと」
「まぁ、うちの製品、ダースとかだと重いからね」
「製品部の人の筋肉隆々な姿見てると、筋肉って必要なんだなって思いますもん」
「わかる」

 並んで駅に向かいながら、そんなささいな会話をしていたところに、街頭のビジョンが緊急速報です、と緊張感のあるアナウンスと共に画が切り替わった。
 はじめはなんだなんだ、と思って見ていたけれど、アナウンサーから発せられる三門市、という言葉に足が止まる。
 隣を歩いていた根付を見ると、同じように視線が街頭ビジョンに釘付けになっていた。
 そこにはずいぶん昔に見慣れた風景が、見慣れたものとかけ離れたものになっている。
 その画がずっと映し出されていた。思わず息を呑む。
 ──ひどい光景だ、と思った。
 テレビで繰り返し流れる故郷の街。今までの人生で歴史の教科書でくらいしか見たことのない、瓦礫まみれになった見知った街に胸が痛む。切り替わっては映っていく景色すべてが、知っているものだ。あの公園があった場所、実家の近く、高校の近くのショッピングモール、習い事に通うために通った商店街。すべてすべて見覚えしかないもので。
 そんな故郷の光景を見ているのが、上司の根付一緒にいるときだなんて、何の因果だろうか。根付も光景から視線をそらさないまま、だんだんひどい顔になっていくのが見えた。だって自分たちの生まれ育った場所が、見るも無残な姿になっていたのに、何も感じずにいるなんてできない。

「根付課長、」
「きみのご両親は?」
「うちはわたしが独り立ちしてから、父の実家がある田舎に戻っているので……。課長は?」
「うちも家族は三門市から離れている」

 お互いの親族が巻き込まれていないことにほっと胸を撫で下ろす。
 けれど、親族はいなくても友人や先輩、後輩、恩師などはあの街にいるのだ。これから飲む気分になんかならないだろう、ということで根付に今日は帰宅するように言われた。根付も女将に事情を話したら帰宅するから、と言うのでその言葉に甘える。

 電車を乗り継いで家にまっすぐ帰った。帰りに夕飯などの食料を買う元気などなく、家に直行だ。家に到着して慌ただしくドアを開け、急いでテレビを点けるためにローテーブルに置いてあるリモコンを掴む。テレビの電源ボタンを押し、電源が点いたのを確認して、リモコンでチャンネルを替えた。
 どこも三門市のニュースを取り扱っているけれど、ライブ放送と書かれているものにチャンネルを合わせた。着っぱなしだったスーツを脱いでブラウスを洗濯籠に突っ込む。洗濯はあとでいいだろう。
 念のため両親や親戚に連絡を取り、それから街にそのまま住んでいるはずの友人たちにメッセージを送った。
 すぐに返事が返ってくる子もいれば、返ってこない子もいて。返事が返ってこない子たちの理由は、翌日に放送された被害者の名前一覧で知ることになった。知っている名前がちらほらと流れていく液晶を眺めていると、無意識に涙が出る。
 何度もノートを貸してくれたクラスメイトの彼女。
 家業を継ぐから、と笑いながら専門学校に進学して蕎麦屋になったクラスメイトの彼。
 三門市役所に受かったの、と笑っていた高校も同じで大学でも同じゼミだった彼女。
 大学のサークルで仲が良かった友達の彼氏で後輩の彼。
 連絡がつかなかったいろんなひとが亡くなったことを知った。自分のすぐ身近の人はみんな無事だったけれど、怪我を負っている。思い出しかない街はボロボロで。
 あったはずのものがなくなるのってこんなに呆気のないものなのか、と絶望に似た黒くて冷たい感情に飲まれそうになった。
 戦争が真っただ中じゃないご時世のはずなのに、友人の半数近くが亡くなり、残りの半分もけがを負ったり家を失くしたりしている。あの街を出た自分にはできるとなど何もないけれど、それでも悲しみで胸が潰れそうになった。
 親族が亡くなった訳じゃないから、次の日からも仕事に行かなくちゃ行けなくて、それでも気はそぞろになってしまっている。仕事に集中しきれていないのが、自分でもわかった。何度もらしくないミスを連発して、先輩や根付に怒られたものだ。
 一日の仕事をやっとの思いで終え、帰ってきて真っ先にテレビを点けると、そこには三門市の様子がずっと映されている。それからボーダーという存在が表れたことを知った。詳細はわからないけれど、今回の街を襲ってきたモノと対抗するための組織であるということは、理解できた気がする。会見を見ている限り、若い人間しかいないことになにかがつっかえたような気がしたけれど。
 三門市ではないところに住んでいる自分は、なんでもないように世界が回っていて仕事に追われる日々だ。毎日毎日同じ業務をこなすだけ。でも心のどこかで三門市のことを考えている。このままで本当にいいんだろうかって。
 なにかできることが、自分にもあるんじゃないか、とか。今からでもいいからボランティアなどに出向くべきなんじゃないか、とか。少なくとも地理に関しては理があるのだから。

 侵攻が起こってから二週間ほど経過した頃、根付に個人的に呼び出された。
 誰も来ない小会議室に二人きりで話がしたい、と昼休みに呼ばれ、根付の後ろについていけば、広報部のフロアにある小会議室に到着する。
 小会議室に入るなり根付が、椅子に座るように言った。まるで年に一度部長と行う面談みたいだな、と思いながら椅子に座る。すると、根付はテーブルを挟んで反対側に座った。ますます上司面談みたいだな、と思う。それから、根付はまっすぐとなまえを見つめて、今月末で退職するということを告げてきた。

「え」

 突然の言葉に頭の中がぐちゃぐちゃになっているのが分かる。ただでさえ業務のことと、三門市のことでいつもよりも混雑している脳内に、根付の退職というまた一つ混雑を悪化させる話題が加わった。

「まだまだきみを広報として育てたかったんだがねぇ」
「待って、ください。この後どうされるんですか……?」

 勝手に話を進める根付に待ったをかけて、縋るように問いかければ、根付が息をふーっと吐いて、それから少しだけ言いづらそうになまえに視線を向ける。

「〝界境防衛組織ボーダー〟は、わかるかい?」
「名前だけは。テレビで見ました」
「そこで新しくメディア対策室を作るそうだ。そこの室長に、と高校時代の先輩に声をかけられてね」
「……ボーダーに入るんですか」
「そういうことだ」

 ここ最近ずっと根付が忙しそうにしているとは思っていた。けれど、まさか退職を予定しているとは思わなかったのだ。引き継ぎがあるから忙しそうにしていたのだ、と自分の中で疑問になっていた点と点が繋がって線になる。そしてそれと同時に天啓を受けたかのように、自分の頭の中が明るく開けていくのを感じた。

「きみには私のノウハウはすべて教え切ったと思う。これからはひとりでも─」
「わたしもボーダー入ります」
「ちょっと、何を言っているんだね」
「わたしも! 三門市でできることをしたいんです!」

 視野が狭窄していると言われるかもしれない。けれど、三門市のためになにかしたくて仕方のなかった自分の目の前に、先日のボーダーとかいう組織に入ろうとしている根付が居る。これはもう自分もボーダーに入るしかないと思った。誰になんと言われても、自分の今この瞬間の判断が最適解だと思えて仕方がないのだ。
 根付に詳細を聞けばメディア対策室とやらはまだ試験的なもので、根付しか職員はいないらしい。それならば、自分もつれて行ってほしいと告げる。
 根付のやり方を一番わかっていること。
 根付の補助を自分以外の誰かが、自分より上手くできるとは思えないこと。三門市のことを考えてなにかしたい、とずっと思っていたこと。それらを告げれば、根付は呆れたように長い息を吐いた。ボーダーに入隊する確約はできないこと。
 最後は根付が折れて、追いかけてくるのはいいけれど、きちんと正規の手順で退職をしなさい、と促されたので大人しくそれに従う。
 早速退職願を作って三ヶ月後には辞められるように動くことを決めた。いそいそと算段をつけて、準備を始めた自分を見て根付は言う。

「きみのバイタリティを舐めていたよ」
「そうですよ。こう、と決めたら一直線ですからね、わたし」

 そうだったそうだった、と頷く根付は、ボーダーに入れるよう勧誘してきた先輩には、話を通しておく、と約束してくれた。
 自分の会社を退職してから形だけの入職試験と面接を受け、根付が勧誘してきた先輩というのが、会見で目立っていた顔に傷のある厳しい表情の人だとは思わなかったけれど。
 事前に履歴書なども提出しておくから作っておくように、と根付に言われ、久しぶりに履歴書を購入して作成する。履歴書を作成するにあたって自分の人生を振り返ると、なんらおかしいところのない、平凡な内容だなぁ、と思った。

 退職の手続きを始めると、部長や先輩方には何度も引き留められた。根付という広報部の根のような人間がいなくなることは、とても痛手なのに自分までいなくなられては困る、と。将来は根付の後釜に考えていたから余計に、と言われて。そういうポジションになるんだろうな、とはじわじわと感じていたけれど、まさか実際にそうだとは思っていなかった。部長には自分も生まれ故郷のために何かしたいのです、という理由を前面的に押し出して退職の意志は固いことを告げる。なまえの意志が固いことを理解すると、部長は後任を他所の部署から急遽手配してくれることになった。
 その後任者に自分のすべてを授けてから辞めなさい、と言われたので、マニュアルなどはすでに着手していることを告げる。すると、困ったように笑った。

「きみのやり方って本当根付くんそっくり」
「一番弟子ですから、わたし」
「そうだった。それを見越してきみを根付くんの下につけたんだったよ」

 根付とニコイチだったのはやはり部長の策略だったようで。相性がいいとは思っていたけれど、ここまで相性いいとこんなことになっちゃうんだねぇ、なんて感慨深そうに呟く。根付に心酔はしているけれど、根付がいるから追いかけるわけではない、とぼやくように言った。やってることは心酔している人間のそれだよ、と苦笑を返されたのは納得がいかないけれど。
 引継ぎは結局当初の予定通り三ヶ月かかった。前倒しできれば、と思ったけれどそこまで甘くはないらしい。後任者は一から百まで全部残していけぇ! とうめきながら自分についてきていた。
 頭の回転が早いことと人柄が素直そうだったので、引継ぎ内容を遵守してくれたら問題なく業務をこなせるよ、と太鼓判を押す。実際素直な人間だったので良かったと思う。
 退職に当たって広報部以外の周囲は面白おかしく、自分が根付を追って同業他社に就職した、とか言われているようだった。
 砂をかけている自覚はあるが、ボーダーとやらとメーカーが絡むことはないと思う。絡むようなことがあったら、土下座することもいとわないけれど。
 なんとか二年勤めた会社を退職して、親には一言三門市に戻る、と連絡を入れた。そのあと罵詈雑言の電話が何度か来たけれど、そんなものは突っぱねる。
 ボーダーという組織のことは、まだ理解しきれていないけれど、これからの三門市のことを考えるときっとそこにいるのが一番だと思ったのだ。
 面接の日程が根付から連絡が入って、それは転居予定日の翌日だった。日がないので、改めてボーダーという組織から開示されている情報と、今後起こりそうなこと、自分の能力が生かせそうなことを書き出して、面接の大まかなストーリーを作り上げる。ボーダーという組織は、子どもが戦闘に携わる、というのを見て、衝撃を受けたけれど。よくよく考えればわかることだ。おそらく子どもでなければならない理由があるのだろう。そこから導き出されることや、現在の三門市の状況から未来の三門市の状況それぞれで、想定されることを頭の中で思考をこねくり回した。書き出して、時間を置いてから齟齬がないかを確認する。問題はなさそうだったので、これで挑むぞ、と意気込んですぐに面接で引っ張り出せるようにキーワードを暗記した。

 会社から近かった一人暮らしの部屋を引き払って、それから三門市に引っ越す。
 物件はなんと根付が探してくれたのだ。探しに行く暇もないでしょ、という言葉に甘えて代わりに見繕ってもらった。ボーダーとやらの基地から徒歩二十分の鉄筋コンクリート造のアパート。ちなみに三階建て。そこが自分の次の城だ。
 家の鍵をもらいに行くとき、本当に越してくるんですか? と賃貸会社に再三確認されたのは面白かった。よほど出ていく人間が多いのだろう。おかげで賃料が破格だったのでとても助かっているが。
 大手企業だけあって退職金がそれなりにあり、半年くらいならなんとか暮らせそうだ。それと家に在ったものをすべて持ち込んでいる。スーツなども必要なときが来るかもしれない。引っ越しも一日で落ち着かせ、三門市に転入届を出して─ここでも何度も本当に引っ越してくるんですか? と聞かれ─、ようやく三門市の市民に戻ったところで、ボーダーとやらに入隊試験を受けに行った。
 家から二十分歩いて見えてきたボーダーとやらの基地を眺める。約束の時間まで十五分あったので、基地の周囲を一周してみた。

「おぉ~。でかい……」

 なにでできているのかはわからないが、まるでSF映画でよく見かける要塞のような印象を受けた。入り口らしきところに到着すると、時計は約束の時刻五分前だ。根付が迎えに来てくれる約束だったので、ぼうっとスマートフォンをいじりながら根付を待つ。

「待たせたね」
「お疲れ様です。根付課長」
「もう課長じゃないよ」
「あ、そうだった。うっかりうっかり」

 てへ、とかわいらしくとぼけて見せると、頭を軽くぺちん、と叩かれた。基地の中に招き入れられて、それからこれから会う人の説明をされる。面接をするのはこの基地で一番偉い本部司令というポジションの人らしい。

「初っ端でボス戦ですか。燃えますね」
「きみなら問題ないと思うけれど、失礼のないように」
「もちろん。わかってますよ」

 わたし、根付課長の一番弟子ですから、とドヤ顔を晒せば、呆れたように息を吐かれた。なんでだ。面接が行われる部屋に向かいながら、基地内で自分が入隊したら主に出入りするフロアについて説明された。
 これ入隊ほぼ確定しているのでは。口にはしなかったけれど、なんとなくそんな空気が感じ取られた。
 前を歩く根付が足を止めて、つられて自分も足を止める。根付がドア横の呼び鈴を押して中からどうぞ、と声が聞こえてきた。この声、前の会見で聞いた声だな、と記憶を呼び起こす。
 中に入るように根付に言われて、足を踏み入れた。そこには会見で見た顔に傷のある男性が居て、この人がこのボーダーという組織の最高責任者だったのか、と記憶と情報をすり合わせる。名前を名乗ってから、時間を取ってもらった礼を述べた。

「本日は貴重なお時間をいただきましてありがとうございます」
「根付くんがどうしても、と言うのでね」
「前職でもそうでしたが、根付さんは素晴らしい上司だとひしひし感じております」

 かけなさい、と言われて、男性の正面に置かれた椅子を手で案内される。それに従って失礼します、と一言添えて腰を下ろした。なまえが椅子に座ったのを見届けて、目の前の男性が口を開いた。本部司令の城戸、と名乗られて、そこでようやく目の前の男性の名前を教えられる。
 内心で城戸さん、城戸さん、と復唱して自分の記憶に刷り込んだ。城戸は時間もないのか早速面接らしく質問を投げかけてくる。

「さて、早速だが。前職は根付くんと同じだと聞いたが」
「はい。新卒採用で入社し、満二年になるところでした」
「おそらく俸給なども高い大手メーカーを辞めてまで、ボーダーに入ろうと思った理由を聞かせてもらえるかね」
「根付さんからお聞きかもしれないのですが、わたしは三門市生まれ三門市育ちです。六頴館高等学校を卒業し、三門市立大学の経営学部を卒業しました」
「そのあたりは事前に提出してもらったもので、把握している」

 前置きは結構、と言外に言われていることを理解した。単刀直入に素直にボーダーという組織に入りたい理由を説明する。

「生まれ育った街があのようになってしまい、わたしはあの日からずっと何かできないか考えていました。それこそ前職の業務中も。ボランティアに行くことや三門市役所をの試験を受験することも考えました。けれど、それらでは自分が貢献したい分野での活動が難しいと思います。なによりも、経歴として広報部しか経験しておりませんので」
「役所などでも広報に似た仕事はあると思うが」
「わたしがやりたいのは市のPRではありません。もっと直接的な部分にかかわり、貢献したいと感じました。そしてそこに、根付さんが退職しボーダーという組織に入るというのを聞きました。そのときに、思ったのです」
「なにを思ったのか聞かせてもらえるだろうか」
「ボーダーという組織を外側から見たとき、最初は自分も異様だと感じました。主に子どもが戦っていることに対して」

 けれど、と話を続ける。大人が戦えないからこその子どもの彼らを頼るわけで。そこにはボーダー内での正当性があってやっていることだと、それを一般の人に分かってもらう必要があるのではないか、と思ったことを。

「確かに、今は侵攻の被害で混乱が続いているから、指摘はあまりないが」
「けれど、おそらく安定して住めるようになったりしたら、今後出てきますよね? 所謂アンチという存在が」
「……それは我々も懸念していることだ」
「だからこそ、根付さんを呼ばれたのだと思います」
「それは否定しない。だが、それがきみを入隊させることと関係ないと思うが」
「根付さんの補佐にどうですか? あの人は物事を俯瞰して見てますし、先々のことも描いた通りに状況を動かせます。けれど、言葉が足りないところもあります。わたしは、あの人に一年半ついて回った経験から、言葉がないところも補足可能です。それに、」
「それに?」
「もし今後、子どもたちをPRの一環で衆人環視の前に晒すようなことがあれば、彼らが相談しやすい大人、というのも必要かと」
「ほう」
「城戸さんや根付さんでは、子どもたちも相談しづらいのではないでしょうか。そういう子どもに大人と関わる際の立ち回り方を教えることはできます」
「なるほど。根付くんの言う通り、よく考えて来ているのは理解できた」

 城戸は、厳しい目を向けたまま問いかけてくる。

「広報としての仕事を期待はしていないんだな? その場合は希望に添えないが」
「ボーダーの─ひいては子どもたちのためになにかできるのなら、これ以上の希望はないです。メディア対策室所属は譲れませんけど、それ以外のことだってなんでもやってみせます」
 自信を持って言い切って見せると、城戸は大きなため息を一つ吐いた。それから、ふっと口角を上げて小さく笑う。
「──きみの入隊を許可しよう」
「ありがとうございます」

 椅子から立ち上がって礼を告げると、このあと一応ボーダーの組織としての入隊試験があるからそれを受けるように言われた。
 それは合否とは関係ないとも。ボーダーという組織に関わるうえで必要なことだそうなので、了承した。
 城戸がどこかに内線を入れ、少しすると根付が現れる。試験を受ける部屋は別になるそうなので、どうやら迎えに来てくれたらしい。

「根付くんの弟子というだけあって、彼女はきみによく似ているな」
「そこまで似ていないと思うんですけどねぇ。よく言われます」

 最後にもう一度城戸に礼を言うと、明日から出勤するように、と言葉をもらい、面接していた部屋を出た。出て少し歩いたところで根付に頭を小突かれる。

「まぁ、きみが落ちるとは思っていないけれど。流石だねぇ」
「師匠がいいものですから」
「よく言う。これから入隊試験だっけか、さっき通ったフロアの近くに専用の部屋があるから移動しよう」
「了解です」

 先を迷いなく歩いていく根付についていきながら、施設内を覚えるために視線をうろちょろとさせる。施設としてはかなり大きい部類だけれど、その割にひとが少ないのが気になった。
 根付がある部屋の前で足を止めた、と思ったら、なんら変わったところのない小さな部屋に案内される。
 中は椅子と机が二組置いてあって、高校のときの進路指導室みたいだな、と思いながら手前の椅子に腰を下ろした。
 筆記用具を出すように言われたので、持っていたカバンから筆箱を取り出す。根付が勝手知ったる、と言った様子で、部屋の隅に置かれた引き出しから、試験冊子を出して机に置いた。

「これを三十分で解くように」
「了解です。根付課長は?」
「一旦席を外すよ。あとでまた来る」
「分かりました」

 パタン、と音を立ててドアが閉まる。目の前の試験用紙に意識を集中させた。まずは試験冊子の全容を把握しよう、と冊子に目を通す。内容としては、四則計算や文章問題。中学生あたりなら簡単に解けそうな内容だ。もしかしたら、子どもの隊員に受けさせるものだろうか、と勝手に想像する。さすがに中学生レベルの問題が解けない、ということはなく、すらすらと解答欄に答えを埋めていった。
 十五分もすればすべて解答し終わり、手持ち無沙汰でどうしよう、と思っていると、まるでどこかで見ていたかのように、根付が再び姿を現す。

「解けた?」
「解けました」
「じゃあ回収するよ」

 解答欄が埋まった試験冊子を丸ごと回収された。中を眺めながら流石に間違えないか、とつぶやく根付に話かけた。

「子どもの隊員向けかなんかですか? これ」
「まぁ、そんなところだね。詳しいことは明日以降に全部説明するから、今日はもう帰っていいそうだよ」
「分かりました」

 ちょうどまだ街の中を徘徊できていないから、帰宅がてら街を散歩しよう、と当たりをつける。根付に基地の外まで見送られて、明日は午前八時半にまたこの入り口に来るように、と言われた。それに了承して、また明日からお願いします、と言葉を残してボーダーの基地を後にする。
 帰路にまっすぐ着くことなく、自分の記憶と現状の三門市の状況の齟齬を把握するために、街の中を練り歩いた。一区画まるまる目も当てられない状態の場所もあれば、被害の少ない箇所もあり、市内に住んでいる人間でも温度差がありそうだな、と思った。
 今は復興するために必死で見えていないものもあるだろう。けれど、人は余裕ができるようになると違う面に目を向けるもので。
 そうした視線の先にあるものを相手にしなければならない、と考えると自分の身が引き締まる思いだ。。

 ボーダーに正式に入隊し、メディア対策室の職員となった。出勤初日はスーツに身を包んで、ボーダーの基地の前で根付と落ち合う。根付が手続きをして基地内に入った。昨日も見た光景だけれど、入り口は普通の企業のように見えるな、と思う。それから指紋認証を登録するから、と真っ先に基地にお奥まった場所にある開発室とやらに連れていかれた。そこでまず最初行ったのは秘密保持契約書を交わすことで。鬼怒田と名乗った開発室室長はなまえを見るなり、これ見よがしにため息を吐いた。

「今日からお世話になります。メディア対策室のみょうじなまえです」
「聞いている。根付室長の部下だろう」

 一般人をさらに加入させるなんて、城戸司令はなにを考えてるんだか、とぼやいたのが聞こえる。
 思わず、かちん、と頭に来たが、笑みを崩さないように頬に力が入った。
 鬼怒田が差し出してきた契約書に目を通して、内容を確認すると要は一般市民に露呈していない情報は外で口にするべからず、というものだった。
 前職でも秘密保持契約書はあったので、何も気にせずに署名と捺印をする。
 けれど、そのあとに湯水のごとく提示された情報に目を白黒とさせた。
 基本情報が網羅されているという冊子を読む。
 近界民にトリオンに換装体に、トリガーにベイルアウト。攻撃手に銃手。
 これまで耳馴染みにない単語ばかりで覚えられるだろうか、と背中に冷や汗が流れた。
 トリオン器官が大人になるにつれ衰えるため、主戦力が子どもになるというのは納得しかなかったけれど。
 このご時世で子どもしか戦えないなんてそんなことあるのだろうか、と少し疑っていたのを反省したいところだ。

「ボーダーってすごい組織ですねぇ」
「おまえは黙ってこの端末に指紋を登録しろ」

 差し出された端末に指先と手のひらの静脈の指紋を登録された。
 それから鬼怒田が一度奥に下がり、少しして戻ってきたと思えば、そこにはさっきの冊子に書かれていたトリガーに似ているものを持っている。

「それがトリガーってやつですか?」
「そうだ。おまえのは戦闘用ではなく、いわば基地に入るための鍵だがな」
「なるほど。換装体にはならないってことですね」
「そういうことだ。おまえの指紋に反応して起動するようにはなっている。くれぐれも落とすなよ」
「大丈夫です。要は普通の会社で言うところの入館証ってことですか?」
「そうだ」

 トリガーを受け取って、落とさないように手でしっかりと持つ。重さは見た目ほどあまり感じなかった。大人の手でも手のひらから少し余るかな、というサイズ感だ。
 鬼怒田は自分のような一般人が入隊することを快くは思っていないらしい。そんなのは自分の知ったことではないが。開発室と広報室でどれだけのかかわりがあるのかはわからないが、あまりかかわらないとありがたいな、と内心でぼやいた。
 開発室で受けるべき説明を受け、基地に入るためのデータ登録も終わり、待っていた根付が移動するよ、と声をかけてきたのでそのあとに続く。開発室を出る前に最後に鬼怒田に一礼し、失礼しました、と声をかけてから部屋を出た。
 根付の隣を歩きながら、質問を投げかける。

「これからどこに向かうんですか?」
「我々の城だよ」

 意味ありげに笑みを浮かべて笑う根付に、疑問符を頭上に浮かべて視線を向けた。

「〝城〟……?」

 開発室よりも基地の入り口に近いフロアに到着すると、三つに区切られている区画のうちの一つの前で根付が足を止める。同じように足を止めると、扉にはプレートが付いていた。

「ここが……」
「〝メディア対策室〟だ。我々の城だろう?」
「確かに」

 このフロアの一区画という狭い場所が、根付と自分の新しい城だと。前職の広報部の半分以下のスぺースしかなくて、本当に自分と根付しかいないのだな、と再確認する。
 区画の中に足を踏み入れると、パーティションで分けられた部屋で、よくみるオフィス用の机と椅子が二セット置かれていた。キャビネットは二人にしては多めの数用意されている。奥にあるデスクが根付のもので、入り口に近いデスクが自分のもののようだ。
 椅子に腰かけて、パソコンなども午後には到着するそうなので、最初はそれのセッティングをするように、と指示を受けた。
 設定書も開発室から事前にもらってきていたようで、冊子を渡される。

「あぁ、そうだ。あとこれ」
「はい?」

 ついでのように差し出されたものを見ると、そこには袋に入った根付が来ているものと同じ制服が入っていた。

「これ」
「ボーダーの制服だよ。正規職員しか着られない」
「根付課長と一緒のやつですか……?」
「そうそう。あと鬼怒田室長と城戸司令も着てたでしょ」

 サイズはMかLしかないのでMを手配した、と言われた。早速受け取って封を切り、スーツのジャケットを脱いで、ボーダーのジャケットを羽織る。ちゃんとしたボーダー隊員になれたのだなぁ、と感無量になった。

「それらしく見えるんじゃない?」
「これでわたしも正式な! ボーダー隊員ってやつですね!」
「まぁ、どちらかというと事務方だから職員の方があってるけどね」

 厳密な話は今求めてないんで大丈夫です、と文句を言えば、あーはいはい、と聞き流された。相変わらず自分への接し方が雑だな、と思うけれど、それすらも心地よくなってしまっているので末期だ。

「改めて、よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします。これからもついていきますよ」

 手を差し出されて、握手を求められてるのだとわかり、それに答えるように自分の手を重ねてぎゅっと握る。

「あ、あと言い忘れてた」
「なんですか?」
「〝課長〟じゃなくて〝室長〟だから。間違えないように」

 うっかりして今までの呼んでしまっていたことに気付いた。すみません、と悪気なく謝る。
 そして、ここから自分のボーダー生活が始まるのだ、とこれから待っているものへのワクワク感というか、予感のようななにかに胸を躍らせた。