その日は嫌な予感がしていた。朝、目が覚めると嫌な夢を見たわけでもないのに冷や汗をかいていた。じっとりと背中を濡らすそれに言いようのない不快感を抱き、こういう日は良いことが起こらないことをこれまでの経験上で理解している。きっと何かよくないことが起きる気がする。注意しなければ、と気を引き締めて家を出た。
昨日からお母さんも仕事が忙しいようで、家に帰ってきていない。戸締りをしっかりすることとお父さんからのお守りは必ず持って行くように念を押すメールが届いていた。それに了解、と返して学校に向かう。
いつもの信号でひっかかり、ふと空を見上げると快晴なはずなのに気が晴れることはなかった。学校につくと、烏丸くんがひとりで席についていた。いつもなら時枝くんと話してるのに……今日は休みなのかな?わたしの視線に気付いたのか、烏丸くんが視線を上げる。
「おはようみょうじ」
「おはよう。今日時枝くんは?」
「あいつは朝から任務」
「はー…ボーダーも大変だね」
「まぁな」
たわいもない会話をしながら、朝礼のチャイムが鳴り先生が入ってくる。自分の席について、授業の用意をする。なんとも言えない不快感はずっとわたしの身体につきまとっていた。
うわの空のまま授業を受けてしまったけれど、幸いなことに今日は授業中当たらなかった。当たっていてもなんとか答えられはしているとは思う。四時限目の終了を告げるチャイムが鳴り、昼食を持って屋上に向かう。今日は友達とご飯を食べられる日だから、嬉しい。
屋上で昼食をつついていると、空の色が段々歪んでいく。まさか、近界民……?予想は当たったようで、学校放送で地下室に逃げるように指示が出る。
友人と走って地下室に向かって逃げた。いざ地下室に着くとすでに満員近い状態で、二人は入れないと言われたので、友人をその場に置いてわたしは他の地下室に向かうことにした。
「ちょ、なまえ大丈夫なの!?」
「ミキちゃんが走るより、わたしが走った方が早いから。またあとでね!」
「……ッ!気をつけなさいよ!」
「うん!」
友人に背を向けて、校舎の地下室から校庭を通って体育館側にある地下室へ向かって走る。
すると、目の前の空間に黒い穴のようなものが現れ、危機感を感じてそれから距離を取った。穴を見つめていると、中から角をつけた老人と同い年っぽい少年が見えた。そして、老人はわたしを見て笑う。
「見つけましたぞ。金の雛鳥」
「は?あなたたちはなんなの……?」
「お前がそれを知る必要はない。俺たちと共に来てもらう」
「誰があんたたちなんかと……っ!」
なんかやばい奴らだっていうのは理解できた。こいつらを連れて地下室には行けない。どうしたものか。悩んでいると首にかけたいたお守りが服の外に飛び出した。お守りを見た目の前の人達は警戒を強めたのが分かる。
「あれは、玄界のトリガーでは?」
「起動される前に捕えてしまいましょう」
トリガー……?その言葉に違和感を覚えた。どこかで聞いたことがある。どこだっけ?思い出せない。思い出そうと意識をそちらに向けたのが隙になり仇になったのか、気付けば少年の方に後ろに回られ後ろから首を打たれた。意識が落ちていく。わたししんじゃうのかな。
◆ ◇ ◆
――あたしは現実から目を背けていた。四年前の侵攻で三門市は近界民に襲われる。それを食い止めようと旧ボーダー、今のボーダーの前身の組織にあたしは所属していた。でもそれは自分の意思で入っていた訳では無くて、両親が二人とも旧ボーダー時代からのエンジニアだったからだ。それに、あたしは膨大なトリオンとサイドエフェクトを持っていた。
思考受信のサイドエフェクト。所謂思考を読み取る能力だ。
近界民を必死に桐絵や迅と連携して倒していく。けれど、それでも救えない命がたくさんあった。
迅とあたしが到着したときにはもう遅くて、たくさんの人達が近界民のせいで死んでいた。トリオン機関だけを抜き取られた人たちはみんな虫の息だった。そんな人たちの哀しみがあたしの頭の中に響いて、声がどんどん大きくなる。その中で一番大きい声を出している人が、迅に助けを求めていた。お姉さんを助けたい一心で、でもお姉さんは助からないことをあたしも迅も知っている。助けたいのに助けられない。目の前の人の哀しみや怒りの声がどんどん大きくなって、マイナスの感情に心が支配される。
近界民の脅威を何とか皆で退けたけれど、街への被害は甚大で。そんな状況で聞こえてくるのはやっぱり哀しみ、怒り、苦しみなどの感情ばかり。あたしたちは何のために訓練してきたんだろうか。こんなにつらい思いをして何になるんだろうか。
毎日マイナスな感情にひきずられて、あたしは疲れてしまった。
「ねぇ、城戸さん、お父さん、お母さん」
あたしもうつらいよ。戦いたくないよ。哀しい声ばかり聞こえてくるの。あたしたちは三門氏の人々を救うために頑張ったのに、哀しい声しか聞こえないの。どうしたらいいのかわからない。こんな声もう聞きたくないよ。
大人たちはあたしの願いを叶えてくれた。記憶を操作して、トリオンも封印して普通の人になれるようにしてくれる。嬉しくて、でもその代わり桐絵や迅のことは忘れてしまうよ、と言われた。この苦しみから救われるならなんでも良かった。あの頃のあたしは本当に自分勝手で、自分のこと以外何も考えられない子どもだったのだ。
記憶操作のことが桐絵たちにばれると、二人とも哀しそうな顔をしていた。哀しいっていう感情も一緒に伝わってくる。それから、桐絵は怒った。
「あたしのことを忘れてまで、普通になりたいの?!」
桐絵の怒りが真っ直ぐあたしに向かってきて辛い。桐絵みたいにあたしは強くなれなかったよ。この能力と上手く付き合えそうにないよ。
「ごめんね、桐絵。今のあたしじゃ耐えられそうにない」
素直に自分の気持ちを吐き出した。このつらさはきっと桐絵には分からない。
「でもきっといつか思い出すから、だから、」
今だけ、許して――。
そういうと桐絵は泣きながらどこかに行ってしまった。残されたのはあたしと迅で。迅も哀しそうな顔を浮かべていた。迅だって未来視のサイドエフェクトで辛い思いをしているのは知っていた。でもあたしはやっぱり耐えられそうにないから、だから逃げる。
「ごめんね、迅にばっかりつらい思いさせて」
「いいよ。この未来も見えてたから。それに――」
お前はきっと戻ってくるよ。自分の意思とはまた関係のないところで。そういう未来がおれには見えてる。そう言って笑う迅から伝わってくる感情は穏やかなものだった。
「やだなぁ。できればずっと普通の人として暮らしたい」
「それはだいぶ可能性の低い未来だなぁ」
あたしも迅も笑っていた。きっといつか、迅の言う通りになるんだろうなって思いながら。
大人たちに連れられてラボに行く。そしてそこでお父さんたちが哀しそうにしながら、あたしに記憶操作の機械を取り付けた。次に目覚めたとき、今のあたしは居なくなっているはず。普通の女の子のみょうじなまえが生まれ、わたしは逃げ出したのだ。つらい現実から。
◆ ◇ ◆
次に目を覚ますと、目の前に烏丸くんや見知らぬ人がたくさんいた。その中に緑の服を着た女の子がこちらを見て怒りを露わにしていた。その女の子を見たとき、ぼやけて見えていたたくさんの情報が脳内に溢れだした。そうだ、この人はあたしの――、
「あんたたち!なまえを放しなさい!!」
「せっかくの金の雛鳥を放すわけがないだろう」
自分が目の前の近界民のトリガーで捕えられていることは理解できた。あたしのトリガーは首にかかったままで。おそらく起動しなかったから使えないものだと思われたんだろう。気絶させられていたからか、上手く言葉が発せないけれど目の前の人の名を呼んだ。聞こえるだろうか。
「桐絵、」
「っ!なまえ!」
ちゃんと聞こえたみたいでよかった。桐絵の驚いた顔、久しぶりに見たなぁ。
「おや、お目覚めですかな?」
「えぇ、周りが騒がしくて起きたわ」
近界民の老人はあたしを見てどうしようか考えているのか分かった。このまま捕えられているわけにもいかない。自分のトリガーが手に触れていなくても使える仕様でよかった。あたしは少年に聞こえないように呟いた。
「トリガー、起動」