音沙汰なしは元気な証拠、と言うけれど、その逆はどうなるのだろうか。少なくとも今まで音沙汰のなかった彼のことはたまに思い出す程度で、なまえの生活の中で大きな比重ではなかった。たまにサッカーのニュースが流れて彼は今どうしているだろうか、とそんなことを考える程度だったのだ。まさか元気じゃない証拠の音沙汰がくることを身を持って体験するとは思っていなかった。
明日日本に帰るから、というメッセージをメールで受け取って、まだ連絡先を消してなかったんだ、とか、知らせが急すぎる、とか思うことはたくさんあって。でも彼がわざわざ連絡してきてくれたことが嬉しくて。急遽職場で有給休暇を取らせてもらい、彼のことを迎えに行くことにした。どの便で帰ってくるかをメッセージアプリで聞くとすんなりと何時着の便、とすぐに返信が返ってくる。この帰国がどういうことを意味しているのかはわからないが、連絡を寄越してくれたことを素直に喜んだ。
休みを取らせてもらった翌日、朝から化粧をして少しおしゃれを意識した。家を出て愛車を走らせて空港に向かう。この愛車は彼が日本にいるときに一緒に選んだもので、思い出がたくさん詰まっているのだ。
そんな愛車を走らせながら、空港に到着してパーキングエリアに車を止める。
昨日指定された時間にゲートに向かってしばらく待つと、彼が姿を現した。どこか仄暗い雰囲気を感じ取り、出国した際との差に驚きが隠せない。なんとかその驚きを無理やり隠しながら彼を出迎える。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
彼の荷物を受け取ろうとしたら静止されて、そのまま運ぶというので荷物を受け取るのをやめた。キャリーケースをガラガラと音を鳴らしながら歩く絵心の隣を歩く。
今すぐにでもどこか暗い表情の絵心に問いかけたかったけれど、人目のある中でそんなことをできる度胸もない。
空港を出てキャリーケースを引く絵心の少し前を歩く。自動車の置き場所をわかっているのはなまえだけだからだ。
空港の入り口から程近い場所に愛車は停めてあった。愛車のトランクを開けてスーツケースを入れるように言う。こちらの言葉に従って絵心はスーツケースをトランクに入れた。トランクにキャリーケースを入れ終わったのを確認してから愛車のドアを開けて運転席に座る。
ぼうっと外で突っ立っている絵心に声をかけて助手席に座るように言った。助手席のドアを開けて助手席に座った絵心の様子を見てみる。手足が狭そうに折り曲げられているのを確認してからそういえば昔はもっとシートが後ろだったことを思い出した。
「シート、後ろにずらしてもいいよ」
「このままでいい」
「そう? ならいいけど」
絵心がシートベルトを締めたのを確認してからブレーキから足を話してエンジンをかける。ゆっくりと発進したのを確認してハンドルを回した。
絵心が日本にいた頃はもう少し覚束ない運転をしていたと思う。
すんなりと手慣れた様子で運転をするこちらを絵心は驚いた、とでも言うように少し目を見開いていた。それに笑みを浮かべながら話しかける。
「上手くなったでしょう」
「すこし驚いた」
「貴方がいない間も仕事とかで運転してましたから」
ふふん、と自信満々に言ってみせると絵心ははあ、とひとつため息をついて窓の外に視線を向けた。
どうやら興味が失せたらしい。
車を走らせること小一時間。都内に戻ってくると車両の数が増えてごちゃごちゃしているのが目に入る。そういえばまだ問うていなかったことを口にした。
「今日はどうするの? ホテルとか取ってるの?」
「取ってないしこれからどこか適当なビジネスホテルでも取る予定。最悪ネカフェでも良いしね」
「長旅で疲れてるでしょうに……。まだ決まってないなら家に来る?」
「いいのか?」
「布団で寝てもらうことにはなるけど」
家には友人が泊まりに来たとき用に客用のふとんを常備させている。クローゼットに入れっぱなしのそれは日干ししていないけれど、帰ってすぐに干せば多少マシにはなるだろう。
「それは全然。飛行機よりは快適だろうし」
絵心の回答からなまえの家に車の進行方向を変える。ふとカーナビで現在時刻を確認すると十三時を示していた。
都心にある自分の自宅に戻る。住んでいるのはオートロック式の七階建てのマンションの二階の角部屋だ。
マンションの借りている駐車場に車を止めてトランクに入れてあったキャリーケースを取り出してもらう。キャリーケースを持って車の外に絵心が出たのを確認しなまえも降りて鍵を締めた。
地下からオートロックを解除してマンションの入り口に入りエレベーターに乗る。この間絵心は何も言わなかったのでなまえもなにか言うことはなかった。
エレベーターが二階に到着して家の前まで移動する。鍵を開けてなまえが先に家に入り続いて絵心が家に入った。中に招き入れる前にキャリーケースの車輪の汚れを落としたいから雑巾でもくれ、と言うので下駄箱に入れてあった雑巾を渡してやる。キャリーケースを寝かせて車輪を拭いているを尻目になまえは洗面所に向かった。手洗いとうがいをしてそれからリビングを通過して寝室に移動する。寝室のクローゼットを開けて客用の布団を取り出し寝室からベランダに出て布団を手すりにかけた。日が照っているので夕方になる頃には湿気はマシになっているだろう。
ベランダからリビングに戻ると手持ち無沙汰な様子の絵心の姿があった。
「ソファに座ってればよかったのに」
「家主の許可なくそこまでできるほど厚かましくはないよ」
「気にしなくていいのに」
絵心と会うときはいつも外か絵心の家だった。この家は絵心と別れてから引っ越してきた場所だ。初めて来た部屋に勝手が分からなかったのだろう。今日はここで過ごしてもらうので洗面所やトイレ、風呂の場所を説明する。昔とはまったく違う部屋を探るように絵心が視線を動かした。
「何か気になることでもあった?」
「お前にしてはシンプルな部屋だと思って」
「そりゃ、わたしもそれなりに稼ぎがありますし、大人になりましたから」
正直実家の自分の部屋のままでもさして不自由はなかった。けれど絵心が渡独して、自分も就職を機に引っ越したのだ。あの部屋に居続けることに対してどこか座りが悪いような気がして。実家の自分の部屋には絵心との思い出がありすぎて辛かったのも大きな理由かもしれない。
「でもほら、変わっていないものもあるでしょ?」
そう言ってリビングに置いてある二人掛けのカウチソファに腰を下ろした。ソファには大きめのシャチのぬいぐるみが置かれている。
隣を叩いて座るように促し絵心をソファに座らせた。
「すこしくたびれたんじゃないの、これ」
「味があるって言ってよ」
「はいはい」
まるで離れていた時間が嘘のように彼が隣にいるのがしっくりきている。
ずっとこうしていたように錯覚するのはなまえがあの頃を忘れられていないからだろうか。
─待ってる、とは言わなかった。待ってて、とも言われなかった。
あの日の自分と絵心の関係はそこで一区切りついたはずなのに、今こうして過ごせていることに心嬉しく思う自分がいて。未練がましいなぁと自分で自分を嗤った。
絵心にテレビのリモコンを手渡してなまえはソファから立ち上がる。こちらの様子をうかがっている絵心に声をかけた。
「夕飯、どうする? 買ってきてもいいし、どこか食べに行ってもいいし」
「お前の、」
「うん?」
「お前の作った料理が食べたい」
与えていない選択肢が現れて驚いて目を見開く。まさか海外から帰ってきて真っ先に食べたいのが自分の作った料理だなんて思っても見なかった。
「いいよ。何食べたい?」
「カレーでいいよ」
「〝カレーが良い〟って言ってよね、もう」
メニューが決まったところで冷蔵庫の中を確認する。丁度肉を切らしていたので買いに行かなければならない。ついでにサラダなども作るためにレタスやトマトを買うことにした。
テレビを見ている絵心にひと声掛け、彼を置いて買い物に向かう。
買い物から帰ってくると絵心はソファに凭れて眠っていた。時差ボケもあるだろうし仕方のないことだろう。むしろ先ほどまで会話がスムーズだったことに驚いたものだ。スースー、と寝息を立てている絵心を起こさないよう物音をなるべく立てないようにキッチンに移動する。台所でカレーを作るために買ってきた野菜を取り出して冷蔵庫からも野菜を取り出した。にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、牛肉。それから中辛のカレーのルウを並べる。ひとつずつ材料を切っていった。
材料が切り終わり、厚手の鍋にサラダ油を入れて熱す。続いて玉ねぎをフライパンに入れて炒める。続いて牛肉、じゃがいも、にんじんを入れた。
肉に焼き目がつき玉ねぎがしんなりするまで炒める。
それから水を加え沸騰したら灰汁を取り除いた。灰汁を取り終わると具材がやわらかくなるまで中火で十五分煮込む。
にんじんに竹串を差してやわらかくなっているのを確認してから火を止めた。沸騰がおさまってからルウを割り入れてよく溶かす。再び火をつけて弱火でときどきかき混ぜながらとろみがつくまで十分ほど煮込んで出来上がりだ。
「いい匂いがする」
「おはよう」
眠っていた絵心が起きたようでキッチンまでやってくる。背後から覗き込んでくる姿にいつかの記憶が想起された。
昔もこういう体勢で似たような会話をしたなぁ、と懐かし気持ちになる。
食器棚から皿を取ってきてキッチンに置かれている炊飯器を開けて米を入れ、それからできあがったカレーをかけた。
我ながら美味しそうに出来た思う。
皿を持って行くように告げると食卓まで二人分の皿を持って行った。その姿を見ながらなまえは食器棚からスプーンを二つ取り出しそれを持って食卓に移動する。先に座っている絵心にスプーンを手渡して自分はスプーンを皿に乗せてから机を挟んで反対側の椅子に座った。
両手を合わせていただきます、と挨拶をしてスプーンでカレーと米をすくって口に運ぶ。うん、今日もうまくできた。自分と同じようにカレーと米をすくう絵心をちらりと確認する。口に運んで咀嚼しているのが目に入った。感想を内心でどきどきしながら待っていると絵心がほっとしたように息を吐いた。その姿に不味くはないと思っているはずだが何も言ってくれない絵心に催促をする。
「美味しい?」
「……美味しいよ。昔と変わらず」
昔と変わらない味、と言われて喜べばいいのか悲しめばいいのか。まぁ絵心がそのまま黙々とカレーを食べているのできっと前者で良いのだろう。お互いカレーを食べ終わる頃にはお腹もそれなりに膨れていた。食事を終えて食器を洗おうと立ち上がると絵心が同じように立ち上がってこちらの使っていた皿と絵心が使っていたを持って台所に向かう。どうしたのだろう、と思っているとどうやら食器を代わりに洗うのだという。
「え、明日槍でも振る?」
「お前ときどき失礼だよね」
「ごめんごめん」
おどけて笑うとこれ見よがしにため息を吐かれた。台所で皿を洗っている絵心の様子を食卓で見つめる。随分手慣れた様子に、おー、と声を上げて感心していると皿を洗い終わった絵心にどこに片付けたらいいのか問われた。
炊飯器の隣にある食器乾燥機に入れるようにお願いする。勝手がよくわかっていないから少しわたわたとしている姿を見ていると反射的に笑みを浮かべていた。食卓に戻ってきた絵心が先ほど座っていた椅子に座る。
「今後の話なんだけど」
切り出された話題にそういえばなにも決めていなかったな、といつの間にかあさっての方向に放置していた思考を引き寄せる。
「ビジホでも取る? 別にうちに居てもいいけど」
「しばらく厄介にならせてくれると助かる」
「オッケー。あ、でも」
「でも?」
「食費は自分で持ってほしい」
「それはもちろん」
絵心の話曰くお金はまぁまぁあるらしく自分の食費くらいはきちんと賄うくらいはできる、とのことだ。じゃあビジネスホテルをとってもいい気もするけれど、それはあえて言わなかった。この家に居たいというのは彼の中で何かしらの理由があるのだろう。
共同生活をするにあたりふたつ約束事を決めた。
食費は自分で持つ。
どこか遠くへ出かけるときは連絡を入れる。
これが二人の間で決められたことだ。食費も別に構わないと告げたけれど、寄生したいわけじゃない、というのでその言葉を大人しく受け入れる。光熱費などは折半するのが面倒なのでこちらで負担するという話になった。
どこに出かけるかの連絡はこちらからお願いしたことだ。別にどこへ行ってくれても構わないが、急にいなくなったりしたら家を出たのかで出かけたのかわからないので念のため教えてほしいと思う。家を出るときは事前に相談してくれるとは思っているがなにが起きるかはわからないので。急に家を飛び出してサッカーをしに行く未来がないとは言い切れないのだ。
「パソコンは必要だったら勝手に使っていいけど、仕事に関するデータとかあるからそれは触らないでね」
「パソコンなんて触らないよ」
「どうなるかわからないでしょ」
未来のあなたは使いたいと思うかもしれない、と言い切ると絵心はなにかを言おうとして口を噤んだ。
今はまだ何もかも知りたくないだろうけれど、もしかしたらなのかの拍子にサッカーに関することを調べたくなるかもしれない。鳴かず飛ばずで帰ってきて今は気持ちが沈んでいるのかもしれないが。彼は確かに彼なりのロジックを持って挑んだはずなのに海外で大成するのがいかに難しいか今の絵心を見てこそ思う。渡独してからのことはわからないので勝手な想像ではあるけれど。
「日中は好きに過ごしてよ。テレビを見てもいいし、それか見放題の動画のやつは入っているからそれ見てもいいし」
「気が向いたらね」
「なにもしないってそれなりに苦痛だと思うよ」
「そうかい」
必要ない、と言い切る絵心に動画見放題のサービスのアカウントとパスワードを教えておいた。きっとこれから膨大な時間をサッカーから離れて浪費すると思うとすこしだけ憐れんでしまう。虚無というのは時に自分を傷つけるものだ。
絵心とのある意味奇妙な共同生活というのは案外穏やかなものだった。なまえが出張などであまり家にいないことも起因しているかもしれない。出張から帰ってくる度にカップ焼きそばやカップ麺が増えているのがなんとも言えない気持ちにはなるが。一度身体に悪いよ、と言えば今は生活に気を使っていたからこそ反動で今はジャンキーなものを食べたいそうだ。
ジャンキーな生活をするにしても限度があるだろう、と言おうとしたけれどやめておいた。その代わりと言ってはなんだが自分が夕食を買ったり作った際のサラダをお裾分けする。サラダを差し出すといやそうな顔をするが無下にはされない。カップ麺の前にサラダを食べているだけなのでプラスマイナスゼロな気はするが。
結局絵心は動画見放題のサイトをそれなりに利用しているようだった。サッカーのことだけを考えて生きてきたのにそれを失ってしまって心に大きな穴が空いているのは見ていても読み取れる。他の生き方を知らない男がそれに適応できるとは端から思っていなかった。
出張の多い仕事だから家にいないことは多いが、たまに家に帰ると絵心が生活している─主にゴミの面でだが─のでほっと胸を撫で下ろした。帰国してすぐのときなど人を寄せ付けない野生の動物のようであったけれどようやく自分の中で落しどころを見つけたのだろう。サッカーに関するニュースなどは相変わらず避けているようだがそれでも普通の人間として生活しているようなので安心する。このまま少しずつ昔の彼に戻っていってほしいと思った。
穏やかな絵心との生活も慣れて久しくなった頃、仕事で取材の予定が入っていたので日本フットボール連合に足を運んだ。Jリーグで活躍する選手何人かを集めて対談形式の記事を作成することになった。ライターとしてそれに参加し、後々スポーツ雑誌に納品し掲載される予定だ。
インタビューを終えて選手に礼を言ってから取材が終わったことを職員に伝えようとしたところでちょうど見知った姿があった。何度も挨拶を交わしてそれなりに仲良くなってきたと思っている帝襟アンリがそこには居た。
「帝襟さん」
「あ! なまえさん! お疲れ様です。今日も取材ですか?」
「そうなの。また記事の確認をお願いするだろうからよろしくね」
「いつも素敵な記事をありがとうございます」
「いえいえ。それがわたしの仕事なので」
お礼を言われてそれを享受しながら、腕時計を確認するとちょうどお昼になった頃合いだ。帝襟に一緒に昼食でもどうか、と誘ってみるとすんなりとオーケーを貰えた。日本フットボール連盟の近くに美味しいカフェがあるらしくそこに行くことにする。帝襟と二人並んで建物を出てカフェに向かった。
カフェに到着して店員にふたりです、と告げるとすぐに席に案内される。帝襟曰くここのサーモン丼が美味しいらしい。それを聞いてた頼まないわけにはいかない、と思って帝襟のおすすめを注文する。
帝襟はいつもと思考を変えてアボカドとエビのどんぶりを頼んでいた。料理が出てくるまでの間に話すことは決まっている。もちろんお互いの近況やら仕事の話だ。
最近あった取材であった面白いエピソードを話していると帝襟がため息をついた。いつもと違う様子にどうしたのだろう、と思って話題を切り替える。
ため息の原因はわからないけれど年の功はあるのでなにか手伝えることがあるかもしれない。
「大きなため息ついてどうしたんですか?」
「実は探してる人がいて」
「なに関係の人? もしかしたらツテがあるかも」
「サッカー選手なんですけど」
「それは帝襟さんの方が詳しいやつだね? わたしじゃ役に立たないかもしれない」
「それが消息不明なんです」
「えぇ……大丈夫なの、その人」
与えられた情報から察するにろくでもない人間という印象を抱いた。
「帰国してるのまでは情報が掴めてるんですけど」
「なるほど。ダメ元でツテのツテとかにも聞いてみようか? 帝襟さんが掴めない情報なんだったらほんとにダメ元だけど。探している人の名前だけ聞かせてもらっていい?」
「絵心甚八って選手なんですけど」
えごじんぱち。
帝襟が発した言葉を自分でもう一度なぞる。呆気にとられて時間が止まったように感じた。その男、我が家にいるというのは少し憚れる。しかし帝襟は切実に探しているようなので意を決して恐る恐る、といった様子を隠さずに告げた。
「絵心くんなら家にいるよ」
「えっ」
「絵心甚八ならうちでグータラ過ごしています」
「なぜ……?」
「なんというか元彼的なアレです……」
「元彼……。あの人にも彼女いたんですね……」
「えっ、夢壊した? ごめん」
「いえ、人間だったんだなぁと思っただけで……」
帝襟から詳しい話を聞くとどうも日本代表をワールドカップで優勝させたいそうだ。そしてそれには絵心甚八が必要だとも。話された内容になるほど、と納得すると同時にどうかなぁ、と内心でぼやく。今の絵心はある意味腑抜けている状態とも言えて。その状態で帝襟と会っても大丈夫なのだろうか、と心配になる。
「ちょっと待ってもらってもいい? 本人にこの話してみるから」
「いいんですか?」
「話をするくらいはできるよ」
「本当に助かります」
「お役に立てるかまだわかんないから期待はしないで」
さて今の絵心甚八はサッカーと距離を置いている。そんな彼をサッカーに引き戻すというのはなかなか骨が折れるような気がした。海外サッカーの情報も国内サッカーの情報も見ている気配はない。まるで自分を守るようにサッカーと離れた生活をしている彼をある意味表舞台に引っ張り出すようなものだ。なまえが彼を焚きつけて動くという保証はできない。
「一旦連絡先聞いてもいい? 進捗だけでも伝えるし」
「ありがとうございます。是非お願いします」
お互いスマートフォンを取り出して連絡先を交換する。仕事関係の人の連絡先がまた一つ増えた。帝襟とは食事を終えるとそのままカフェの前で別れる。帰って仕事の記事を作成しないと、と帰宅する見当をつけながら帰路についた。
家に帰ってきて靴を玄関で脱いだらそのまま洗面所に直行する。洗面所で手洗いうがいを済ませてリビングに向かった。リビングに足を踏み入れるとちょうどテレビで映画を見ている絵心と遭遇する。リビングのソファに凭れながらローテーブルにパソコンに置いて寝そべるように映画を見ていた。こちらが帰ってきたのを把握したらしい絵心が驚いた顔を向ける。
「帰ってきたの」
「今日は近場での仕事だったから。そのままでいいよ」
「いいよどくよ」
「食卓にパソコン置いて作業するから大丈夫」
「ならいいけど」
映画を見るのをやめようとする絵心にそのまま映画を見るように促す。ぼうっと映画を見ているらしい絵心を尻目にリビングに置きっぱなしだったパソコンを食卓まで移動させた。パソコンを起動して仕事をできる状態にする。
取材のときに使用していたボイスレコーダーとインタビュー中に書いたメモをを鞄から取り出した。ボイスレコーダーにイヤホンを差してインタビューを聞いていく。今回は次世代を担っていく若手の日本代表を集めて対談形式で行われた。誰に注目しているか、とか、対談相手の印象に残っているプレー、最後に今後の日本代表として抱負をボイスレコーダーとメモを参照して文字起こしをしていく。
仕事がひと段落ついたところで絵心もちょうど映画を見終わったタイミングだったらしい。夕食を絵心の分も作るから買い物に付き合ってほしい、と言うと素直に言うことを聞いたのでよかった。これで拒否されたらどうしようかと思っていたのだ。
絵心を伴って一人で買うには重くて買うのに躊躇する米などを容赦なく購入していく。こういうタイミングでしか重いものは買えないのが正直なところで。買い物を終えて絵心とふたりでエコバッグを持ちながらなんの意味を持たないささいな会話をする。
「映画、なに見てたの?」
「くまが旅行するやつ」
「イギリスの児童文学の?」
「そう、それ」
絵心が見ていたという映画は彼が選ぶとは思えないようだった。
あんなハートフルな映画をみるとは。よほど時間が余っているらしい。なぜその映画を見たのか聞けばおすすめに表示されたからだと言う。ついに動画見放題サイトから心がすさんでいる認識でもされてしまったのだろうか。絵心と児童文学の映画。並べれば並べるほどおかしくて笑いそうになるのを我慢した。
重いものを持ちながら家にふたり揃って帰るのはいつぶりだろうか。絵心が渡独する前は結構頻繁だった気がする。彼の家に行くばかりだったけれど。バランスは悪くない組み合わせだったと思う。絵心は物事を合理的に考えるひとで気付けばなまえもそれに倣うようになっていた。先を行く絵心に自分のペースでついていくのが自分だ。友人にはある意味パズルのピースがハマっているふたり、と思われていたと記憶している。なまえも絵心も無駄が好きではなかった。時間を有効に使いたいのがお互いの信条になっていたのもある。結局その日は絵心に帝襟の件は話せずにいた。今ではない、となんとなく思ってしまったのだ。
ゆるくのんびりとした生活を繰り返す中で一つの転機が訪れた。仕事でパソコンを使用している際、調べものがあって以前の履歴から飛べないかと思って検索履歴を見た。すると絵心がサッカーのニュースを検索しているのが分かったのだ。これは大きな進歩だろう。帝襟には進捗はあまりよろしくない、と伝えては居たけれどここにきてサッカーに再び興味を持っているのだとすればこれを利用しない手はない。
検索内容を見ているとヨーロッパのサッカーリーグの試合結果を見ているようだった。イングランドやフランスなどに目を通しているけれど、特にドイツの記事は多く目を通しているようだ。絵心が海外に行ってからの試合は正直見られていない。見る暇がないのもあるし、引きずるのはよくないと思っていたからだ。だってあの日、あの車の中でなまえと絵心は確かに終わりを迎えたと思っていたから。それがこうやって今何の因果か一緒に暮らしているのだから人生どうなるのかわからない。
正直な話、メッセージが来たことにとても驚いたのだ。メッセージアプリのアドレスを学生時代から変えていなかったからメッセージが届くのは当たり前なのだけれど、それでも送ろうと思ったことに驚いた。過去の女のことなど忘れていると思っていたのに。便りが来て嬉しいか嬉しくないかで言ったら嬉しい。とても、嬉しい。けれど、終わらせたはずの恋がまた熱を灯して。結局昇華したと思っていた恋は昇華されていなくて自分の胸に燻っていたことがわかってしまった。
それがひどく滑稽だと思ったのだ。
未練たらしく絵心のことを忘れられていなかったことを自嘲する。
誰かとお付き合いをしていたなら、戻ってくると聞いて空港まで迎えに行ってもそこで終了していただろう。なんなら迎えにすら行かなかったかもしれない。思い出の車を捨てきれなかった時点でなまえの負けなのだろう。
車を買い替えるタイミングは二度あった。
ひとつめはひとり暮らしを始めたとき。都内の駐車場付きのマンションとなると結構値が張る。それでも愛車を手放す気にはなれなくて。出版社で下積みを積んでいたときなど今より生活に余裕がなかったので食費を切り詰めて暮らしたものだ。ひもじい思いをしながら車の維持費を捻出していたのだから今思うと懐かしい。
ふたつめは前の彼氏に結婚を申し込まれたとき。妙齢というのもあって前に付き合っていた彼氏とは結婚も視野に入れていた。けれど、彼の転勤が決まって仕事が好きな自分を捨てられなかったのだ。仕事にやりがいを見出し始めたころで。今まで積んだキャリアを捨てられないと思ってしまったのだ。二年付き合った彼には最後かわいくない女、という言葉ももらっている。自分でもその通りだと思う。女としての幸せを棒に振ってでも仕事にしがみついてしまった。それを後悔したことはないけれど。
大学を卒業して最初に入ったのは出版社だった。最初は婦人誌の担当だったけれど、産休に入る社員がいるからとスポーツ誌に異動になって。サッカーがメインの雑誌ではなくどちらかというといろんなスポーツが取り上げられている雑誌だった。そこでインタビュアーをやることになり、それの評判が大層良くて実績を積んでからフリーになったのだ。気付けば野球にバレーに体操にバスケ。ありとあらゆるスポーツに関わることになった。もちろん、サッカーだって含まれている。ある意味捨てたはずのものと縁があるなんて面白いな、と思いながらサッカー選手のインタビューをしたことは今でも覚えていた。
細々と繋がっていたいとがこうして絵心と再び繋がるのだから、縁の巡り合わせはよくわからない。捨てていなかったことが絵心を引き寄せてしまったのか、絵心に自分が引き寄せられてしまったのか。どちらなのかわからないが、今一緒にいることが事実だ。
スポーツの「ス」の字もしたことがないのに気付けば、スポーツライターとしてそれなりになっていたことを知って絵心はどう思っただろうか。絵心が海外へ行ってからは本当に一度も音沙汰がなかった。
こちらから時季の挨拶を送ったことは数度あるけれど、それも返信が来なかったので送らなくなったのだ。
なんなら携帯電話を買い替えたんだろうな、と思っていた。それかなまえのアドレスが削除されているか。無視をされていると思うとやはり悲しくなってしまうのでそう思いこむことにしていたのだ。
パソコンの履歴を閉じて自分の探していたページを検索するとすぐに表示された。次の仕事相手について調べる必要がある。次の仕事の下準備をしていると外に出ていたらしい絵心が帰ってきた。
「あれ、帰ってたの」
「今日は打ち合わせだけだったから」
「ふぅん」
「そういえば甚八はわたしの仕事って知ってるの?」
「ライターでしょ」
「知ってたんだ」
「ドイツに居た頃見せられた日本の雑誌の記事になまえが載ってた」
「同姓同名だったかもしれないじゃない」
「なんとなくお前だなって思ったけど。文章の雰囲気が」
「そんな色出てたかな?」
数年前の記事と言えば今ほどうまくできなくて実力不足も否めなかった時期だ。そんな時期の記事を見られていたのだと思うと恥ずかしい。もう昔の話とは言え。
「まぁあとは勘だけど」
「それで当たってるんだからすごいわ」
絵心の勘の良さに感心していると絵心がソファに座り、慣れた手つきでテレビの電源を入れて動画見放題サービスを起動させた。
今日はエイリアンが地球に侵略してくる映画を見るらしい。
視線をテレビから動かさずに絵心が言う。
「結構驚いたよね」
「え?」
言葉の真意が見えないので聞き返した。
「スポーツなんてしたことないって言ってたでしょ」
「それでなんでスポーツライターをやってるのかって?」
「そう」
「そういう星のめぐりだったのよ」
「星のめぐり?」
そういえば絵心にはスポーツライターになるに至った経緯を教えていなかった。出版社でたらいまわしにされた記憶を思い起こしながら今の自分になった経緯を説明する。自分でも数奇な人生だと思う。
ライターとして関わる同業者はだいたいみんな何かのスポーツの経験者だ。
その中でなまえは正直浮いていると言っても過言ではない。
仕事を始めた当初などは各競技のルールなども曖昧で苦笑いを浮かべられたこともある。
それが悔しいのとどんな仕事が来ても大丈夫なように、ありとあらゆるスポーツに精通しようと情報収集を怠らないようにしているのだ。
近々フェンシング選手の取材も入る予定なので早速ルールや界隈の情報などを収集しているところで。今度の取材も円滑に済むようにする努力は怠らない。
「文章書くのは上手かったよね」
「そう?」
「高校のときよく県のコンクールで賞もらってたでしょ」
そういえばそうだったな、と言われてようやく思い出した。文章を書くことは昔から嫌いじゃなくて。
高校のときなどは現代文の授業で作文を作るとそれを全員まとめて県のコンクールに応募させられていた。
真面目に書いていた人間も不真面目に書いていた人間もまとめて応募させていた先生はなかなかの強者だったと今になると思う。
そんなコンクールに応募したなまえの作文は賞に入ることが多くて。
その経験が生かされているのかわからないが大学でもレポートでも論文でも褒められることが多かった。
「だから、おかしくはないなって」
「それは……褒められてるの? わたし」
「好きに受け取ったら」
「じゃあ褒められたと思うことにする」
絵心が素直になまえを褒めてくることなど滅多にないのでこの機会を有難く受け止めることにする。
サッカーのニュースをチェックするようになった絵心の動向をネットの履歴から追ってみると、ヨーロッパのリーグだけでなく日本のサッカーもチェックするようになったようだ。渡航した選手だけでなく国内のリーグにも目を向けているのだから今の日本サッカーに思うところもあるのかもしれない。絵心は日本で大成できなかった人間だし、海外でも大成できなかった人間だ。記憶に残るようなプレイヤーではなかった。華々しいものを持っていないのだ。
でも、それは絵心に能力がないという話ではない。誰よりも自分の使い方も周りの使い方も知っている人間を他にいないと思う。
なにかのタイミングで日本サッカーと関わることができれば、日本サッカー自体もっと変わることができるはずだ。サッカー界は輝かしい世界だ。日本人が海外に渡ることも当たり前になった。けれど、もっと上に行けるだけのポテンシャルがあるような気がしてならない。ただライターとして関わっているだけの身が何を言うのか、と思われるかもしれないが。
そのためには絵心と帝襟を邂逅させる必要がある。あるけれど、双方にとっていい方向に向かってほしい、とも思うのだ。
そのためには性急な行動はとるべきではない。絵心の様子を仔細に観察して良いタイミングを見定める。きっと今帝襟を紹介してもはぐらかされて終わると思うのだ。
絵心と帝襟を会わせてなまえと絵心の関係が変わることは想像に容易い。サッカーを愛する二人が見せる世界を見てみたい。
そう言えば笑われるだろうか。
それこそ夢を見ている、とからかわれるワールドカップ優勝すらできてしまうんじゃないか、とそう思ってしまうのだ。何度目になるかわからない帝襟との食事に出かける。午前に取材が一本入っていて、午後はカフェでゆっくり作業する予定だ。なのでお昼の時間には余裕がある。ちょうど午前の仕事が日本フットボール連盟の近くを通る予定だったので誘いの連絡を入れたのだ。いつもは女子っぽさ全開のカフェに行くけれど今日は趣向を変えて居酒屋がやっているランチに誘うことにした。サラダというよりもがっつり揚げ物の店は身体に悪いだろうが、たまにはいいだろう。
昼休憩がうまく抜けられなかったという詫びのメッセージがスマートフォンに届いていた。
それを見ながら先に店に入ることにした。メッセージを送ることも忘れない。
店の中に入ってあとでもう一人来ることを伝えると二人掛けのテーブル席に通された。帝襟が来るのを待ちながらニュースサイトをチェックする。
バスケで有名な選手がNBAに移籍するというニュースが一番頭に来ていた。それをタップして内容を確認する。
有名チームに移籍するらしいその選手は一度だけ取材をしたことがある。物腰の柔らかい人でファンが多くいることが納得の選手だった。
これは移籍に伴った特集でまた取材が入るかもしれないな、と思う。また情報収集をしなくてはならない。
ニュースに目を通している途中で店員に案内されたらしい帝襟が席にやってきた。
「お待たせしましたっ。すみませんっ」
「全然大丈夫ですよ。むしろ忙しいところに誘っちゃってすみません」
「いえ! ランチに行けるのはとても嬉しいので! 気軽に誘ってください」
「迷惑になっていないのならいいんだけど」
二人そろったところで店員がやってきたのでランチセットをそれぞれ頼む。なまえはアジフライ定食で帝襟はとんかつ定食だった。
注文し終えると入れ替わるようにやってきた別の店員に水を渡される。それを受け取って一口飲んだ。自分の喉が渇いていることに水を飲んでから気付いた。
「何見てたんですか?」
帝襟に問いかけられたのでそれに答える。
「スポーツニュース」
「サッカーでなにかありましたっけ?」
「サッカーはないよ。バスケだね」
「バスケか~っ」
サッカーは特に目新しいニュースもないから仕方ないか、とため息を吐く帝襟を見る。サッカーの直近のニュースと言えば先週のワールドカップ予選のニュースくらいだろう。
「監督変わるとかないの?」
「あっても教えませんよ」
「それもそうか」
ただの一ライターであるなまえが掴んでいい情報ではない。掴む気もないけれど。
料理を待っている間に話す話題はさまざまだ。上司の悪口からおすすめのデパ地下の総菜までなんでもござれである。
丁度先日会ったバレーボール選手の素敵だったところを話している途中で注文していた定食がやってきた。それを受け取って両手を合わせていただきます、と挨拶をする。帝襟も同じようにいただきます、と言っている姿が目に入った。箸でアジフライを崩して一口大に分けて食べる。あっさりとしたポン酢の味とさくさくとした衣の食感が口の中に広がった。美味しくて頬が落ちそうになる。いつもと趣向を変えたのは正解だったようだ。目の前でとんかつ定食を食べる帝襟も美味しそうに食べているのに一安心する。
「美味しい?」
「はい! よく見つけましたね、ここ。いつもと系統違くないですか?」
「インタビューの仕事をしたときに教えてくれた人がいてね」
「……また連絡先もらったり、とか?」
「すごい。なんでわかるの?」
いいお店があって、と勧められたのがこの店だけれど、最初は一緒に食事でもどうですか、と誘われたのだ。それに機会があれば、と答えて連絡先の書かれた名刺は名刺入れに放置してある。こういうことは一度や二度ではなかったので気にしていないけれど。何度も仕事をしてそのたびにお誘いをしてくれる人もいる。絵心と再会する前であれば食事くらいは行っていただろうけれど、今はそれすらない。
「勿体ないですよ~! なんで絵心さんと暮らしてるんですか?」
「なりゆき……?」
「なりゆきで男女は一緒に暮らしません。ましてや久しぶりに会った人ですよね?」
「でもこうなっちゃってるしねぇ」
「そこが不思議でなりません」
不思議でならない、と言われてもそういう風になってしまったので仕方がないのだ。彼が帰ってくる前に結婚でもしていたらこうなっていなかっただろう。けれど、実際は結婚もせずにひとりでいたわけで。言い訳がましくそういう星回りだったので、ということしかできない。
「久しぶりに元彼と暮らすってどんな気分なんですか?」
これはただの興味なんですけど、と前置きをされた問いについて考える。元彼と暮らす。字面だけ見れば自分も絵心もとんでもなくクズにみえてくるのだから愉快だ。
「どんな気分って言うか、〝そこにいるなぁ〟って感じ」
「……抽象的ですね」
「だって本当にそうなんだもの。セックスするわけでもないし。本当にただの同居人」
「ただの同居人に操は立てないと思うんですけどね……」
「まぁ、それはそれ、これはこれ、なので」
普通に彼氏の立場だったら元彼と暮らしている女は願い下げだろう。そうなるのが目に見えているので操を立てているように見えるだけだ。あとから面倒くさくなるのが嫌で予防線を張っているのである。だからそこに大した意味はない。
帝襟が顔を寄せてきて内緒話をするように耳に口を寄せた。
「そういう気分になったりしないんですか?」
「それ小声で聞く必要あった?」
「一応恥じらいって必要じゃないですか」
「それもそうか……」
「で、どうなんですか?」
興味津々に聞いてくる姿に若さを感じた。まだ青いというかなんというか。
「まぁ、まったくないとは言わないかなぁ。女でもムラムラすることはあるしね」
「そういうときに身近に元とはいえ彼氏がいるわけじゃないですか。利用する……は言い方が悪いですけど、協力してもらう的な……」
「ないわー」
「ないんですか」
こちらの回答に驚いた顔をする帝襟に苦笑いを向けてしまう。
「付き合ってた時代もそんなに頻繁にしていたわけじゃないしね。あのひとサッカーに一辺倒過ぎて他のことが普通の人以下だから」
「そこまで言います……?」
「あ、夢壊した? ごめんね」
「いや、元々夢は見ていないので……」
「ならいいけど」
このやりとりこの間もした気がするな、と過去のやり取りを頭の中で思い出す。いつのことだったか。
「良くも悪くも淡白なんだよね、あのひと」
「へぇ」
「だからあの人と寝ることはないと思うわ」
「じゃあ他の人と付き合うことが……?」
「それはご縁があればって感じ。てか帝襟さんめちゃくちゃ他人推してくるね」
「絵心さんのプレイスタイルとかロジックは好きですけど、人間性はそこまでなので」
「言うね~」
本人がこの場に居ないから言いたい放題だ。まぁ、なまえは聞かれても微塵も困らないけれど。
帝襟は絵心じゃなくて他の人と自分に付き合っていてほしいようだ。これで絵心と復縁したりしたらどうするのだろうか、とすこし心配になる。
話が一段落ついたところでランチを食べていた店を後にする。そのまま店の前で解散となった。
§
帝襟には絵心には詳細を伝えずいきなり会った方がいい、と提案してふたりが会うための機会を作ることにした。
日時を指定されて場所も知っているところを指定される。それに了承の返事を返せば帝襟から再度よろしくお願いいたします、とメッセージが返ってきた。
翌日、相変わらずさまざまな種類の映画をリビングのテレビで見ている絵心の背中越しに声をかける。
「会わせたい人がいるのだけれど」
事前に言うと逃げる可能性があるので予定通り帝襟のことは隠して紹介したい人がいる、とだけ告げた。
「誰?」
「会ったらわかるから」
「まぁお前が頼んでくるなら会うけどさ」
絵心からの信頼は失われていないのだと思うと結構気分が良い。これから失われる可能性があるが。渋々と言った様子を隠さずに絵心を家から連れ出すことに成功した。
紹介にはなまえも立ち会うということを絵心と帝襟の二人にそれぞれ伝えてある。蓋を開けると時間に制約がある帝襟の都合がいい時間に合わせる形にはなったのだけれど。
帝襟に指定された場所はいつかのカフェだった。人が少ない時間帯を狙ってランチの終わり際に行くと人がまばらで。あとから連れが来ます、と告げてると店員に四人席に通されたのでそこに座る。席に着くなり絵心は興味が惹かれたのかメニュー表を開いて中を眺めていた。あとで余裕があったら注文してみてもいいかもしれない。そんな余裕があれば、だが。
約束していた時間の五分前に帝襟はやってきた。スーツ姿に今日が正式な場所であることを理解した。
目を見開く絵心を尻目に帝襟を呼ぶと店員が自分たちの席まで案内する。絵心と自分が隣に座って、机を挟んで反対側に帝襟が座った。座るや否や名刺を絵心に差し出す帝襟を見る。二人がどんな会話をするのか予想することはできなかった。
「日本フットボール連盟の帝襟アンリです」
まっすぐドストレートに名前を名乗ったのは帝襟だった。絵心はそれにどうも、と返すだけで。そんな彼の腕を左腕で小突く。ちゃんとしなさい、と言うと絵心は渋々自己紹介をした。
「絵心甚八」
「存じております。今日は彼女を利用して申し訳ございません。こうでもしないとお話しできないと思ったので」
「あぁそう」
呆れた、とでも言うように大きなため息を吐く絵心に多少の申し訳なさは覚えるけれど何も言わないでいた。すると絵心から恨めしいとでも形容できるぼやきが発される。
「計ったな」
「こうでもしないと会わないでしょう」
今度はこちらがこれ見よがしにため息を吐くと帝襟がそれでですね、と話を続ける。
「絵心さんには世界一のストライカーを作ってほしいんです」
こちら提案書です、と提示されたのは先日なまえが聞いた内容と同じものだった。青い監獄─ブルーロックというものを作ってそこで若い選手を集めてトレーニングを受けてもらって世界一のストライカーと生み出したいのだ、という。聞けば聞くほど突拍子もないことだな、と思った。これを実行しようとする帝襟の胆力には瞠目する。
絵心はその場で判断はできないから、と言うので一度話は持ち帰ることになった。
帝襟と別れて家まで絵心とふたり並んで歩く。なにも言ってこない絵心を不思議に思っていた矢先、家に到着するなり絵心が不機嫌さをにじませてソファに寝転がった。なまえは食卓の椅子に座る。
家まで怒るのを我慢していたらしい。あそこで感情を爆発させない当たり理性が仕事をしている人だな、と思う。
あー、と唸ったかと思えば恨めしそうにこちらを見ていた。それに気づいていないふりをして視線の意味を尋ねる。
「どうしたの」
「よく言う。全部仕組んでたんでしょ」
「ご名答」
「俺がサッカーやるなんて思ったの?」
「欧州サッカーの情報を漁ってる痕跡を見つけたからね。サッカーと関わる気は多少あるんだろうなって」
「……履歴消しておけばよかった」
履歴を消すというを忘れた絵心の落ち度だろう。履歴をチェックしないとは言っていないし、共有のパソコンな時点でいろんなものが筒抜けだと思った方がいい。
「で、どうするの? 帝襟さんの提案」
「俺には荷が重い」
「そう? わたしはあなたの見つけた今までのロジックがあればできそうだと思うけど」
「荒唐無稽すぎでしょ」
「あなたが渡独することを見送ったわたしにそれ言う?」
あの頃の希望に満ち溢れていた絵心を知っていれば荒唐無稽もくそもない。あのとき周囲は考え直せと言われていたあのときの方がよっぽど荒唐無稽だ。けれど絵心を信じて海外でも通じると思ったからこそこちらも気持ちよく見送ったのだ。
帝襟に貰った提案書をぺらぺらとめくっては閉じる。しっかり読み込んでみればいいのに今までサッカーと距離をおいていたからか躊躇いがあるのだろう。
赴くままにすればいいのに、と思ったけれど胸の内に留めておいた。
絵心が資料をローテーブルに放り投げてテレビの電源を入れて動画見放題のサービスを起動する。
家を出る前に見ようとしていたものがあるのか迷いのなく映画を選んでいた。
地球を侵略せんとする宇宙人と人類の三日間の攻防が描かれているアメリカのSF映画を選びそれがテレビ画面から流れてくる。
それから視線を逸らさずにいる絵心に声をかけた。
「いいの?」
「未練なんてないよ」
「うそばっかり」
「本当だよ」
「あの日あなたが叶えられなかった夢を誰かに託すのもひとつの手だと思うけどね」
捉えようによっては侮辱に値するかもしれない。
けれど、うだうだと未練を長引かせるよりはどういう形であれ終わりがあればいいと思ったのだ。
きちんとした終わりがあればきっと今後の過ごし方も変わるだろう。
「自分が叶えられなかったことを誰かに叶えさせて俺になにが残るっていうの」
「少なくとも満足感は得られるんじゃない?」
「なんだそれ。結局形はなにも残らないよ」
「それこそ帝襟さんの案に乗って世界一のストライカーを作ってワールドカップに優勝すれば、形は残るんじゃないかしら」
「ああいえばこういう」
「あなたこそいい加減踏ん切りをつけたら?」
なまえと絵心の間にわずかな緊張感が走った。
お互い理性的ではあるので喧嘩になる前に終わることが多いけれど、たまにこうやってお互いが引かない状態で空気が悪くなることはある。
別に揉めたいわけではないのではぁ、と息を吐き出しながらこちらが折れた。
座っていた食卓の椅子から立ちが立ってソファまで移動する。テーブルに放り投げられていた提案書を手に取って寝転がったままの絵心の胸にそれを置いた。
「サッカーなしで生きていけるの?」
「……生きていけたらどんなによかったか」
「もう一度だけでいいからサッカーに賭けてみたら?」
「これでダメだったら目も当てられないけどね」
「どうしようもなくなったら帰ってきていいから」
「言ったね?」
自分を犠牲にサッカーをしているときが一番生き生きとしている彼になまえができることと言えば帰れる場所を作ってあげるくらいで。元彼だからという理由で家に滞在することを許しているわけじゃないことには気づいてほしい。それを分かっているんだか分かっていないんだか。
流している映画をそのままに絵心は寝転がっていたソファのから移動し食卓の椅子に座って提案書を読み込むことにしたらしい。
存在意義のなくなった映画を止めようかとも思ったけれど、代わりに自分が続きを見ることにした。
絵心の検討の結果は後日帝襟から感謝の言葉を数えきれないほどもらったので言うまでもない。
毎日毎日帝襟からの提案書を読みながら、帝襟から送られてきているらしい映像に目を通していた。
提案書の中身の詳細は聞いていないけれど、帝襟と絵心の話を聞くに高校生のストライカーを三〇〇人集めてその中で一番を決めるらしい。
概要を聞いただけでぶっ飛んでいる企画だな、と思った。これをしようとする絵心も帝襟もいい意味で頭がイカれている。絵心の後ろを通過するときに見ている映像が目に入った。あれ、この子、見たことがある。
「吉良涼介?」
「知ってるの?」
「この子の居るサッカー部の監督にインタビューをしたことならあるよ。そのときに選手から一言もらうってコーナーがあったからそこでちらっと話したくらいだけど」
「ふーん」
「何、彼も呼んでるの?」
「一応ね。ブルーロックには合わないだろうけど」
「そうなの?」
「うん」
絵心が言っているのだから何かしら引っかかるところがあるのだろう。
日本の未来の至宝とか言われているのにな。それでも絵心の基準を満たさないと思ったら容赦なく落とされるらしい。
お気の毒に、ともう関わることのない吉良を憐れんだ。
ストライカーを三〇〇人と言っても有象無象を集めているわけではなく、一定の基準があるらしい。
それを全部映像に収めに行っている帝襟の労力を思うと涙が出る。絵心なんかと関わったばかりに……、と思ったけれど帝襟は自分から積極的にかかわってきた人間だから涙を流す必要などなかったと思い直した。
サッカー一色になり始めている絵心を見ながら夕飯の準備をすることにする。今日はクリームシチューの予定だ。
急に食べたくなったので急遽材料を買ってきた。
シチューのルーが自分の記憶よりも高くなっていることに驚いたものだ。いつのまにこんな価格に、となった。
一人だとシチューなどしないので余計だろう。
一人でシチューを何人前も作るよりデパ地下で一人分のシチューを買った方が経済的だ。
「今日の夕飯何?」
「クリームシチュー」
「初めて食べるな」
「そういえば甚八には振舞ったことがなかったね」
付き合っているときに料理を振る舞うのは数えるほどだったので、レパートリーの中に入っていないシチューを作るという選択肢はなかった。
実家でたまに作っていた程度なので身近なものではなかったのだ。
キッチンでシチューを作る準備をしながらダイニングのテーブルでパソコンから視線を逸らさない絵心を盗み見する。
どこか楽し気に見えるのは自分が都合よく解釈しているだけだろうか。
少なくともこの家に来たときよりも生気があるのだから絵心と帝襟を出会わせてよかった、と心底思ったのだ。
青い監獄が出来上がって人が入れるようになると絵心は青い監獄に行くことになった。どうも世界一のストライカー候補を四六時中監視するためとのことで。
話だけ聞いているととても疲れそうな仕事だと感じる。
絵心と帝襟の破天荒さに振り回される高校生たちが大変だな、と思いながら二人が掲げている夢が叶う瞬間はなまえだって見たい。
だから彼の背中を押す。
我が家に来たときの荷物を事前に青い監獄に送ってしまって絵心は身一つで青い監獄に行くのが見て取れた。
家を出る彼を見送りに玄関までいけば靴を履きながら声をかけられる。
「いってくる」
「いってらっしゃい」
「連絡はするから」
「……待ってるね」
「うん、待ってて」
自信満々だったあの日の絵心が戻ってきたようで安心する。
あの日交わせなかった約束を結び直したような気分だ。
どうやら連絡もくれるらしいのであの頃とは違って確かな関係が継続しているのだと実感した。
待っていることしかできないけれど、何の約束もなかったあの日々とまったく違う。
絵心がどういう風に日本サッカー界に激震を走らせるのか観客のひとりとして楽しみにしている。
願わくば、彼の築き上げてきたものが無駄にならないことを祈ることしかできない。