誰にも話したことはないけれど、差し出された手を取って引き止めたらよかった、と後悔に苛まれない日はなかった。
あの日、傑が五条に会ったあと、わたしに会いに来ていたことを知っている人間はいない。ふたりだけの秘密としてずっと胸のうちに秘めている。
任務が終わって硝子と合流しようと思ったところで、傑が目の前にふらりと現れた。そのときにはすでに五条との決別を終えているなんて知らなかったから、わたしは平然と彼と話をして。
普段と変わらなく会話をしていると、徐々に空気がピリついていることに気づいた。表情はいつものように穏やかなのに、目の前の男の雰囲気はなにも穏やかではない。自身にもつられるように緊張感が走る。
「高専を出ようと思うんだ。なまえも非術師は嫌いだろう?なら、私と一緒に行かないか?」
「傑みたいにはなれないからお断り」
「……そうか。いつかまた昔のように非術師たちにひどい扱いを受けても、憎まないと?」
「人間は、非術師も術師も関係なく醜い生き物なんだよ」
「そんなことない。そんなこと、あるはずがない」
「ま、なんでもいいけど。わたしは傑と一緒には行かないよ」
それだけをはっきりと意思表示はすれば、傑は人混みに紛れて視界から姿を消した。そういう術式を使っていたのかもしれない。緊張していた空気が柔んだのが自分でわかる。
一緒にいることが心地よかったのに、あんなことを言われては一緒にいるのも息苦しい。またひとつ居場所を失ったような気分だ。
傑について行かなかったのには、いくつか理由がある。一番大きいところで言えば、彼が非術師と呪術師が同じ人間だと考えていないところだ。わたしからすれば、非術師とか呪術師とか関係なく同じ人間なのだから、醜い人間は醜いし、綺麗な人間は綺麗なのだ。そういう考えに至れない彼を責める気はないけれど、考えが交わることはないだろうと思う。
硝子との待ち合わせ場所に向かうために再び足を進めながら、考えるのは昔のことだ。
五条に初めて会ったとき、なんて綺麗な人間がこの世にいるんだろうと思ったことは未だに鮮明に思い出せる。
何もかも生まれ持った彼はわたしなどとは違って、とても綺麗で、高尚で、この世のものとも思えないほどだった。ただ、高専で同級生として関わるようになってからは、その考えを覆されたけれど。傑と悪巧みをしているときの彼は、少し変わったところはあるけれど普通の青年で。わたしでは想像もつかないような環境に居ただろうに、周囲にフラットに接することのできる態度が羨ましかった。できた人間というのは、こういうひとのことを言うのだと知る。
嫉妬も羨望もあったし――むしろ未だにあるが――、悔しさはなかった。ただ、彼と長年同じ時間を過ごしたことで、諦観も手に入れることはできて。なにもかも違う人間に嫉妬し続けるのは建設的ではないと、大人になるにつれて実感せざるを得ない。
わたしが進路に迷っているとき、周囲はわたしのことなど置いていくように先々を決めていた。硝子は反転術式に活かせるから医師免許をとると言って、五条は風の噂で高専に残り専門分野での教師になることが決まっていると聞いて。わたしはなにになりたい、とかそういうのはなかった。だからそれを夜蛾先生に話したのだ。
「みょうじは本当に特になりたいものはないのか?」
進路相談だ、と午前の授業が終わったところで夜蛾先生に呼び出された。先生の呪骸コレクションが管理されている専用の部屋に呼び出され、夜蛾先生が作ったと言うお弁当を渡される。部屋の中では先日作ったというパンダの呪骸がおむつをつけてハイハイをしていた。パンダであることを除けば普通の赤ちゃんと大差ないなぁ、と思う。
「ないです。ただ呪術界とか呪霊と離れて暮らすことは無理だろうなと思ってはいます」
「そうだな……。お前が一般人になることで支障が出ることは予想がつく」
「だから適当に呪術師でもやるかな、って感じなんですけど」
「だったら、教師になるか?」
「え?」
まさか自分が一ミリも考えていない進路を提案されて、思考がそこで止まる。畳み掛けるように夜蛾先生が言葉を続けた。
「お前は、後輩の面倒見はいいからな」
「専門分野は五条が居るから不要でしょうよ」
「お前に任せたいのは一般教養の方だ」
「はぁ」
なんでそんな突拍子もないことを言ったのか聞けば、今一般教養を教えている年老いた教師はあと五年もすれば田舎に引っ込むとずっと言っていて、後任をさっさと手配してほしいとずっと学園長に告げていたそうだ。
それで、行く先が決まっていなさそうなわたしに白羽の矢が立ったらしい。まさか自分が教師になるなんて、入学したときのわたしは思ってもみないだろう。
促されるまま進路を決めて、一般的な大学に編入し、教育実習に行って教員免許を取った。まるで普通の大学生だな、と思うとおかしくなって笑えてくる。
教師になって早数年。なぜか教員室のわたしのデスクの位置は五条の左隣だった。硝子や夜蛾先生みたいに自分専用の部屋が欲しかったな、と思うのは贅沢だろうか。夕日に染まる教員室で明日の授業の準備をしようとプリントの準備をしていると、左側ではギコギコと背もたれが折れる一歩手前くらいまで撓っていた。もちろん五条の重さで、だ。昔は身長は高いけれどどこか薄い五条と身体はがっしりしているけれど背は五条より低い傑だったのに。今では五条もあのころよりは筋肉をつけたんじゃないか、と側から見ていても思う。
「みょうじは先生になりたかったわけでもないのによくここに残ったよね」
自分が手持ち無沙汰になったらしい五条は、こちらの作業などお構いなしに話しかけてきた。邪魔しないでほしい、という言葉を飲み込んだ。さっさと相手をしてしまって飽きさせてしまった方が早い。
「ほかにやりたいこともなかったし。夜蛾先生がやってみたら?って」
「でもそのためにわざわざ一般教養教えるために高校の国英数の教員免許取ってたじゃん」
「必要ならそれくらいやるよ。硝子みたいに医師免許取るよりは楽だし」
「ふーん」
質問に答え終わったところで五条がわたしへの興味をなくしたらしい。また暇つぶしに使われないように、さっさと手の中の仕事を終わらせる。
ひと段落ついたところで、五条が無言で一枚の書類を手渡してきた。それを受け取れば、ここ数日わたしたちの界隈では話題になっている少年の顔写真となまえが目に入る。滅多にお目にかかれない特級被呪者だ。
「みょうじも一般教養で関わることになるだろうから目を通しておけって。学長が」
「はいはい。写真だと幸薄そうだけど、無害っぽいのにね」
「それはオマエもでしょ」
「そうかなー」
乙骨憂太という少年に会ってしまえば、共鳴してしまいそうで怖いな、と思う。同じような境遇とは言えないけれど、この子とわたしには共通点があった。不用意に近づかないようにしないといけないかもしれない。
「くれぐれも気をつけなよ」
「重々承知していますよ、五条先生」
五条がわたしに忠告してくるなんて珍しいこともあるものだ。自分の中に巣喰う〝あれ〟を抑えらきれないわたしが悪いんだろうけれど。
乙骨くんが転入してきて、しばらく校内は騒がしかった。少しずつ呪力を操れるようになってはいるそうだけれど、わたしは一般教養の面でしか生徒たちには関わらない。担当の授業では乙骨くんは真面目に受けてくれているし、頭も悪くはないと思う。課題を遅れて提出してくることもないし、普通に良い子だ。
わたしがのんびりと授業の準備や事務処理をしていると、教員室の扉が開いた。今は授業中で誰か来ることなどないはずなのに、と思っていると、目の前に懐かしい姿が見える。目の前の姿に呪力も残穢も感じないのはなぜだろうか。
「やぁ、なまえ」
「随分懐かしい顔だね」
「まさか君までここに留まっているとは思わなかったよ」
「そう?」
おそらく、目の前の傑は実体ではないのだろう。実体が伴っていれば五条が今すぐここに来るはずだ。
「そういう術なの?これは」
「まぁ、そんなところさ。それよりも、君はあの頃から気持ちは変わってないか?」
「えぇ」
いつか聞かれた問いかけを思い出す。考えは変わらないし、変える気もない。
「今度こそ私の手を取ってほしいと思ったんだけれど」
「それも、いいかもね――なんていうわけないでしょ」
式神を喚び出して傑を襲わせるけれど、式神の攻撃は目の前の姿を通り抜けた。やっぱり実体はここにはいないらしい。靄が散ってまた元の傑の姿に戻る。
「君は難儀だな」
「傑ほどじゃないよ」
「抜け出したいと思っているだろうに。その身に降りかかった呪いのせいでそれすらも叶わない」
「別に不満はないからいいの」
「悟の側に居られるからかい?」
「――さぁ、どうでしょう」
誰かに言ったことも態度で示した覚えもない自信があるから、動揺はない。傑なら――なんなら硝子も――勘付いているかもしれないな、とずっと思ってはいた。
雛鳥が一番最初に見たものを親鳥を認識する刷り込みのような一目惚れだ。綺麗だと思う感情に恋情が混じっていることに気づいたのは、三年生を終えてからのことだったけれど。
嫉妬と羨望と、恋情と。それがわたしが五条にずっと抱き続けている感情だという自覚はあった。
「傑。わたしは、あのときあなたの手を掴んで離さなければよかった、と今でも思っているよ」
「なまえ。私は君に感謝しているんだよ。あのときあの問いかけをしてくれて。考える良いきっかけになった」
「そう」
自分たちはもう交わることはないのだと理解できた。次からは容赦なく攻撃を向けることができる。
「これから乙骨憂太に会いに行くんだ。君も、気が変わったらおいで」
「行かないよ」
しっかり意思を持ってそう告げると、傑の姿は残念そうな表情を浮かべて、目の前から霧散した。やっぱりなにかの術式だったらしい。
数十分後、学長から準一級以上の術師は正面ロータリーに集まるように連絡が入ったので、傑の本体が現れたのだろう。この身体に刻み込まれた呪いで騒動の渦中に行くことはないだろうけれど、また周囲が騒がしくなりそうだ、と思った。