柔らかな世界の終わり・後

突然の来訪者というのはまるで台風のようだ、と思う。休日に表参道を歩いていると、面識はないはずの女子高生ふたりに声をかけられた。虎杖くんたちくらいの年代で生徒以外の知り合いはいないはずで。念のため自分の記憶を遡って見てもやっぱり彼女たちと出会った記憶はない。人違いで声をかけられたのだろうか。そんなことを考えていると、目の前の女子高生たちはわたしのことなどお構いなしに話を続けた。

「あなたがなまえ?」
「……どちらさまですか?」

名乗った覚えのない自身のなまえを呼ばれて背筋にぴん、と一本線が通ったような緊張感を覚える。わたしが知らないのに、目の前の彼女たちがわたしを知っているとなると、呪詛師関係だろう。警戒心を緩めないまま、相手方の挙動を寸分も見逃さないように意識を集中させた。

「夏油様が、困ったらあなたに頼れって」
「傑が?」

今の一年生たちが入学してくる前の冬のできごとを思い出す。傑が乙骨くんの呪霊である祈本里香を彼から奪取しようとして失敗し、五条に止めをさされてその生涯を閉じたと聞いた。死体の処理は硝子に頼まなかったそうなので、その後の行方を知っている人間はわたしの周りにはいない。てっきり、五条が彼の家の筋の人間に処理させたのだと思っていた。傑の身体は五千体ほどの呪霊と契約している。その契約をうまく解いてから身体を葬らないと、彼の内に縛りつけられている呪霊によって禍が引き起こされるから、扱いには気をつけなければならなかったはずだ。
美々子と菜々子と名乗った二人を引き連れて個室のあるカフェに入る。事情を聞けば、彼女達は傑が高専時代に起こしたあの事件の際に救い出された少女たちらしい。五条家の筋の葬儀屋に傑の身体が渡る前に奪い去り、自分たちで弔おうとしたそうだ。歳若い目の前の彼女達には難しいだろう、と思って話を聞き続けていると、案の定何者かに傑の身体を持って行かれたのだと言う。

「助けて」
「私達はただ夏油様の身体を綺麗にして私達の手で見送りたかっただけなの」
「傑の身体は今どうなっているの?」
「動いてる」
「動いてる?」

彼女達の言い分によると、何者かが傑の身体を使い操っているらしい。一度傑が取り込んだ呪霊もそのまま使役しているのも確認済みだそうで。一番最悪な展開になったなぁ、と他人事のように思った。

「正体は分かってるの?」
「わからない。でも、夏油様の身体に入っている脳味噌が本体だってことはわかってる」
「で、それをわたしにどうして欲しいって?」
「夏油様が言ってた。なまえの〝神様〟は夏油様でも勝てないって。もし、自分になにかあって、どうしようもなくなったらみょうじなまえを頼りなさいって」

菜々子ちゃんも美々子ちゃんもまっすぐとわたしに力強い視線を向けてくる。最後にとんでもないものを置いていってくれたものだ、と思った。
けれど、やはり夜蛾先生の言っていた通りわたしは自分よりも年下の子に甘い。

「詳しいことを決めよう。また来週、この時間に」

美々子ちゃんとメッセージアプリのアカウントを交換して、その日はそのまま別れた。傑の中を陣取っているものについての調査は彼女達に任せ、互いに進捗があればその都度連絡するという手筈になっている。問題はわたしの方だ。普段の仕事に加えて五条から隠れながら敵のことを調べなければならない。
やることが多くて頭を抱えたくなるけれど、引き受けてしまった自分が悪いので、どうしようもないと納得するしかなかった。

調べ物で寝不足の中、一般教養の授業をしていると、途中で編入してきた虎杖くんが腕をぴんと伸ばして手を挙げた。今は数学の授業中であるが、何かわからなかったのだろうか。

「はい虎杖くん。質問?」
「ここの数式がよくわからなくて」
「あー、じゃあもう一度説明するね」

伏黒くんと釘崎さんを見ると先へ先へと問題集を進めているようだったので、虎杖くんに向かって説明をする。前の高校とは進み具合に差があるようだし、丁寧に説明しないと単元が進んだ未来の彼が困ってしまうのは想像に容易い。板書に質問された数式を書いて分解し、よりわかりやすく書いた。そこまできてようやく疑問符を頭上に浮かべていた彼も理解したらしい。

「もう大丈夫そう?」
「うん、ありがと先生」

そのあとの虎杖くんは早かった。先ほどまで進みの遅かった問題集もさくさくと進めていき、気づけば伏黒くんと釘崎さんに追いついていた。若い子というのは理解力が早くて羨ましさを覚える。もうすぐ三十路という年齢に近づけば近づくほど、理解力や頭の回転が鈍くなっているような気がしてならない。
今日の授業のノルマが終わってしまい、次はどうしようか、と言っていると、虎杖くんがなんとはなしに口にした。

なまえ先生って腹の底が見えないよなー」

ひやりと冷たい何かが背中を通ったような気がする。すぐにバレないように取り繕って、惚けて見せる。

「そう?多分何も考えてないだけだよ」
「本当に?」
「ホントウに」

じっと綺麗な眼に見つめられるとドギマギしてしまう――ドギマギの種類が違うだろうけれど――ので、躱すように大人の笑みを浮かべた。高専に来る子はみんなどこかしら聡い部分がある。それは先天的なものなのか、環境的なものなのかわからないけれど。こういうことがある度に、やはり呪術師を目指す人間というのはどこか歪なのだなぁ、と思うのだ。

授業をして、美々子ちゃんたちを打ち合わせをして、授業をして、調べ物をして、という生活を繰り返す。身体が疲弊しているなぁ、と感じることが多くなった頃、五条に高専内で声をかけられた。てっきり授業をしているもんだと思っていたから、不意を突かれて動揺しそうになる。

みょうじ、最近何してる?」
「五条には関係ないよ」
「前に言ってたこと?」
「前?」

問いかけられて最初はどのことかわからなかったが、少しして金を貯めるためにここにいるという話を指しているのだと気づいた。

「そうそう。もうすぐね、お金が貯まりそうなの」
「金なんて貯めたところでどこに行くのさ。傑に誘われてもどこにも行かなかったくせに」
「秘密」
「はー?ナメてる?」
「うそ。そんなに凄まないでよ。ちょっとの間、ここから離れたいと思っただけだよ」
「ふぅん」

わたしが答えた内容では不満が残っているようではあるけれど、話題をを変えられたのでこの話は気が済んだらしい。不貞腐れるように頬杖をついている五条はわたしになど視線を向けることもなく話を進めた。

「今更だけどさ。……好きだった?傑のこと」
「んー……どうだろう。五条のことよりは、好きだったかもね」

なんてね、という言葉は喉元に閉じ込めた。そもそも傑と五条ではわたしが向けている感情の種類が違うことに、この人は一生気づかないんだろうなぁ、と思う。本心を話せるはずもないので当たり障りのない回答を返しておいた。

「そっか」

それだけを言い残すと五条は目の前から姿を消した。転移でもしたのだろう。残り香しか残らない隣の空間に寂しさを感じたような気がしたけれど、気のせいだと蓋をすることにした。

美々子ちゃんからの連絡で相手の狙いの本質は分からないけれど、大体の今後の計画は掴めたという連絡があった。打ち合わせをするために表参道にある以前打ち合わせに使った店に行けば、二人はもうすでに到着していて。個室に引っ込んで情報の共有をする。
相手は五条悟を封じ込めてその間にこの世界を支配しようとしているのだという。そしてその五条を封じ込める作戦が行われるのがハロウィンだと。相手の詳しい術式が読めない以上、わたしの奥の手の力技でいくしか方法はなさそうだった。

「じゃあ、五条を封じ込めるタイミングで傑の偽物を襲うということで、いい?場合によっては傑の身体は塵ひとつ残らない可能性もあるけど」
「いい。夏油様の身体をあんなやつに使われるくらいなら、葬ってしまった方が夏油様も喜ぶと思う」
「わかった」

傑の身体を取り戻す算段を立てて、あとは当日を待つだけになった。うまくいけばいいけれど、うまくいかなかった場合のことも考慮はしている。そっちもうまくいくかどうかわからないけれど。

「ハロウィンで死んじゃうかもな、わたし」

口に出してみれば頭の中に恐怖が過ったけれど、そのほかに安堵も過った。わたしはようやく終わりを迎えられるのかもしれない。それはそれでいい、と思うのだ。願わくは、若人たちが死なないことだけを。五条は放っておいても生き延びそうだし放って置く。硝子は夜蛾先生が護衛でもするだろう。

その日は予定通りハロウィンにやってきた。敵の張った五条をお引き出すための帳が降りてくる前に渋谷駅に潜り込む。傑の呪力を感じる方向を歩いていけば、だんだんと非術師たちが混乱している現場に遭遇した。混沌としているこの空間でどう様子を見るか。悩ましいところではあるが、傑の身体を探すためには混乱に巻き込まれた一般人のふりをするのが確実だろう。昨日の間に禊は済ませてきたので、〝神様〟の力は問題なく使えるはずだ。
紛れ込んで目の前で呪霊にやられて死んでしまった人たちに内心で謝罪をする。助けられなくてごめんなさい、と。美々子ちゃんと菜々子ちゃんのことがなければわたしはきっと高専校内で後方支援をしていただろうな、と思う。
五条の呪力を感じたところで、傑の呪力も同様に感じた。そろそろ獄門疆に五条を封じ込める頃合いなのだろう。二人のやりとりが見える位置を陣取り、目の前の光景に集中した。美々子ちゃんたちから話を聞いていなければ、自身も傑が生きていると勘違いしてしまうところだったろう。
傑の偽物の狙い通り、傑の肉体を使ったことで五条が獄門彊に囚われ、封じ込められようとしていた。五条の声に傑の身体が反応して、身体を操っている存在に抵抗している。
今がチャンスだと思ったのは間違いじゃないはずだ。脳が身体にしている支配は完璧じゃないということだと直感で思った。言葉の応酬をする二人の前に飛び出し、あらかじめ降ろしてあった神様だった呪霊に傑の肉体を攻撃させる。
獄門彊に閉じ込められようとしている五条と目が合い、なまえを呼ばれた。いつもはみょうじ呼びなのに、なんでこういうときばっかりそういうことするんだろう。笑って五条に告げてやる。

「じゃあね、五条。傑より好きなんてうそだよ」
なまえ!」

五条が何度もわたしの名前を呼んで逃げろ、と叫んでいたが、抵抗も虚しく獄門彊に閉じ込められた。この場にいるのは傑の身体を乗っ取っているやつとわたしだけ。

みょうじなまえか。まさか君が出てくるとは思わなかった。しかも、神落としをした呪霊を使ってまで」
「人に頼まれてね。傑の身体から出て行ってくれない?」
「断る、と言えば?」
「力比べのシーソゲームになる、」

よ、と最後の一文字は音にならなかった。背中からなにかに刺されたと思って自分の身体を見下ろせば、心臓のあたりから誰かの腕が伸びている。続いて背後から声がした。

「残念でした」

最後の力を振り絞って振り返れば、顔に継ぎ接ぎが入った男がいる。以前、軽く話に聞いていた呪霊がここに居たらしい。盲点だった。痛みを感じるよりも前に意識が遠ざかる。わたしの身体を好きにしていいから、あとはよろしくね、と神様に心の中でお願いをした。あとはなるようになればいいと思う。どうせわたしの生涯はここで終わるのだ。