ピッピッ、と規則的になる機械音が聴覚を刺激して、意識が引き上げられたような気持ちになる。上げるのも億劫になるほど重たい瞼をうっすらと押し上げれば、視界にはクリーム色の天井が広がっていた。シュコー、と音を鳴らしている鼻から口を覆うように付けられた呼吸器に、わずかなわずらわしさを感じていると、ガラリ、とドアかなにかが開けられた音が耳に届いた。視線を動かすのもつらいし、気力も体力もなく、そのまま目の前に広がる天井を眺めつつぱちぱちと瞬きをすることしかできない。
「なまえ先輩……?」
ドアから人の気配が近づいてきたかと思えば、そこには顔色が悪い三輪の姿が目に入る。目の下に隈があり、顔色は青白いような気がした。最近は顔色が良くなりつつあったのに。覗き込むように顔を近づけてきて、こわれものを触るようにゆっくりと三輪の指先がなまえの頬に触れる。ぬくもりがじんわりと自分の頬に広がった。されるままになっていたけれど、なんとか口を動かして頬に触れる彼の名前を呼んだ。
しゅうじ。
声は音にならなかったが、目の前の三輪は口の動きでこちらの言いたいことを理解したのだろう。一度泣きそうな表情を浮かべてから、すぐにナースコールを押したようだった。状況がいまいち把握できない。あの瞬間近界民に殺されたと思ったけれど、そうじゃなかったのだろうか。心臓は動いていて、かろうじて呼吸をすることができる。苦しさは拭えないけれど。
三輪がナースコールを押して少ししてから、慌ただしい音と共に医師と看護師が現れる。こちらが目を開けている姿を確認するや否や、医師が近づいてきて身体の様々な部分を触り診察をされた。話すことはできないので小さく首を振ることでしか、問診に答えることはできないけれど。診察が終わって、医師は保護者の方に連絡しておきますね、という言葉を残して看護師を連れて病室を出て行った。
医師の診断からひとまず容体が安定するまでは入院することになる、というのは理解できたけれど、そもそも自分がなぜ生き残っているのかが分からなかった。確かにあのときいつもの不具合にぶち当たってしまって、トリオン器官を抜き取られたと思ったのに。
三輪に知っていることを教えてほしい、と思いながらじっと見つめると、彼はこちらの意図を正確に理解したらしく、ベッド脇に置かれた丸椅子に腰かけて口を開いた。
要約すると、トリオン器官は確かに抜き取られていたそうだが、三輪が駆け付けたときにはまだ息があったので、急いでボーダーに運べば、もうひとつ微弱なトリオン器官の反応が残っていたらしい。普段の定期健診では拾うことのできなかったとても微弱なトリオン器官を補強してなんとか命を取り留めることができた、と言う。
そもそも異常がないはずのトリガーで何度も何度も不具合が起こっていた原因はそこだったのでは、というのが鬼怒田の見解だそうで。
本来人間にひとつしかないトリオン器官がふたつあれば、そりゃ不具合も起きるものだ。人間にはトリオン器官がひとつしかない、という前提で作られているのがトリガーなのだから。
死にかけてようやくわかるというのがどこか不思議な気分にさせられるが、納得はできた。生き延びたことも理解できる。
──しかし、それはなまえ自身の望んでいたこととイコールではない。
死にかけたときに感じたあの暗くてあたたかい晴れ晴れとした気持ちに、飲み込まれていたかったのに。生に執着できなくて、三輪のこともわからなくなって、城戸は当初と違う方向に歩きだしているようだし、生きている現状に意味を見出せなかった。
あのときに、死んでしまえていたらよかったのに、なんて。
口に出してしまっていたら、三輪がまたひどい顔をするようになるかもしれない。なまえが死にたがっていたことを彼は知っていたけれど、それを選ばないでいてほしいと思っていたことも知っている。言葉が足りないお互いに内心呆れてため息が出そうになるけれど、おそらく三輪に引き止められても生きていたいと思えなかったのだ。
なまえの世界はあまりにも生きづらい──いや、生きづらくなってしまった。
意識を思考の方に飛ばしていたところで、なまえ先輩、と三輪に呼ばれて意識が現実に戻ってくる。
「城戸司令がこのあといらっしゃるそうなので、俺はもうお暇しますね」
こくり、と頷きを返せば、三輪はまた明日来ます、と言って病室を後にした。
そのあとタイミングよく看護師がやってきて、検温やらなんやらをされ、当分食事流動食になるだろう、と説明を受ける。食事の説明を続ける看護師の話を話半分に聞きつつ、考えるのは自分が生き延びてしまったことへの後ろ暗い気持ちについてだ。やっとこの世から解放されたと──やっと解放されたと思ったのに。また地獄に戻ってきてしまってどうしたものか、と頭を抱えてしまいそうになる。
すぐに家族の元に行けると思っていたのに、そうならなくて哀しいような苦しいようなそんな感情で胸が満たされていた。
城戸が病室にやってきたのは、目が覚めてから数時間経過した面会時間もぎりぎりの夜遅くのことだ。近界民に家族を殺されている自分は、身寄りもなく城戸が保護者になってくれていた。別に籍を動かしているわけでもなく、いわゆる後見人というものになってもらっている。
そのおかげで三者面談や保護者会も城戸がやってくるので、笑ってしまいそうにはなるが。城戸が来ると水上も影浦も渋い顔をするのでとても面白い。村上と穂刈は平気そうな顔をしているけれど。
病室を開けたことで鳴った物音に目を覚まして、近づいてくる城戸を見る。なまえの表情を見るなり、長いため息を吐いたのは見逃さなかった。安堵なのか呆れなのか。おそらく前者なのだろう。この人は怖い顔をしておきながら、根底はどうしようもないほどの善人だと知っていた。少なくともこんな自分の保護者をしているほどには。
「昼過ぎに目を覚ましたと聞いたよ。……よかった」
なにがよかったものか、と声が自由に出せる状態だったなら言い返していたと思う。この人もなまえが死にたがっていることを知っているくせに。生き延びろというのか。それがなまえにとって、どんなにつらいことなのかも知らずに。
他人はすぐに死ぬな、とか生き延びろとか、そんなことを言う。それが本人にとって幸福でない場合でも、だ。そういうものに対して何度反吐が出そうになったかわからない。
内心の苛烈な感情が目に現れてしまっていたのか、城戸はまたため息を吐いた。今度こそ呆れた意味合いのものなのは流石に分かる。
「またきみの容体が落ち着いたら改めて話をしよう。機会を設ける」
城戸からの提案にこくり、と頷きをひとつ返すと、忙しい人なので今日はこれで失礼する、と言って病室を出て行った。その姿を見送り、鼻からふーっと大きな息が漏れ出る。今日はひととの会話をすべて頷きや首を左右に振ることで答えたから疲れてしまった。
消灯の時間に看護師がやってくる前に、疲労のせいか眠りに落ちてしまっていたことに気付いたのは翌日のことだ。
§
回復とリハビリにそれなりの時間を必要としてしまい、ようやく普通の人間らしく動けるようになる頃には、大規模侵攻の日から一ヵ月も経過してしまっていて驚いている。カレンダーが二月の暦になっていて、そういえば学校はどうなっているんだろうか、とようやく日常にも意識が向くようになった。一ヶ月も欠席していれば卒業はもうできないかもしれないし、留年もありえるかもしれない。なまえの見舞いに来るような変わり者の人間は、城戸と三輪とたまに林藤、忍田くらいか。上層部の人間とばかり顔を合わせていると気が滅入ることも少なくはない。
一番見舞いの回数が多い三輪は、ボーダー内の話を聞かせようとはしなかった。ランク戦はどうなっているの、と問いかけても、あんたはそんなこと気にせずに、自分を治すことに集中してくれと怒られる。きっと、なまえが聞くには都合が悪いことが進んでいるのだろう。
──たとえば、近界民がボーダーに入隊してそのままランク戦に参加してる、とか。
三輪は良くも悪くも根っこが素直な人間だ。そのせいで嘘もそこまで得意ではない。
特に、なまえの前では。三輪は嘘を見抜かれることが分かっているから、話題を逸らすと言う手段を取っているのだろう。また自分の世界が生きづらくなっているのだな、と思うと心が暗いなにかに蝕まれているような気分さえしてきた。憎むことを許されたから、そういう態度でいることを求められたから、なまえはボーダー内であんな風に振る舞っていたのに。また自分への風当たりが強くなっているのかもしれないな、と思うと憂鬱でしかない。
ベッド脇で忍田にもらったオレンジを剥いてくれている三輪にねぇ、と話しかける。なんですか、と言いながら視線を合わそうとしない三輪をそのままに話を続けた。
「米屋は秀次がここにいることを知っているの?」
「それは、」
言葉を濁したことですべてを察してしまう。なまえのせいで三輪隊がおかしくはなってほしくなかったから、距離を置いたと言うのに。米屋との三輪に近づかないという約束を破ってしまった。なまえなんて捨て置いておけばいいのに、そうできないのが三輪の甘さでありやさしさだと思う。
「秀次、もう来なくていいよ。どうせ来週には退院だし」
「でも、」
「秀次」
ぴしゃり、と扉を閉めるように自分の世界から三輪を締め出すような冷たい声で三輪の名前を呼ぶ。彼の視線を自分のそれと交わらせる。悪いことをして怒られる子どものような視線で三輪はなまえを見ていた。
「わたし、言ったよね? 〝わたしは秀次と同じようにはなれない〟って」
「そうですけど、でも、」
「近界民を憎いって即答できなくなった秀次は、もうわたしとは違うんだよ」
なまえの言葉に三輪が息を飲んだのが分かる。自分という人間の核は近界民が憎いという感情だけだ。それだけがあの日から自分をずっと支える原動力だった。三輪も同じような人間だと思ったから、側にいることを選んだのに。そうじゃなくなってしまった三輪と一緒に居ることは望まないし、望めない。自分が苦しくなってしまうのが目に見えているからだ。相容れない思想の人間を交わることの苦痛をずっとずっと抱えて生きていた。だから、そんなつらい思いをしてまで共に在りたいとは思えない。
「お見舞い、いっぱい来てくれてありがとう。もういいよ。明日からは来ないで」
でも今日はオレンジを一緒に食べてから帰ってね、と甘えた声おどけながら言うと、三輪は何とも言えない表情を浮かべながらはい、と小さく返事をした。最後の晩餐みたいだな、と思う。ユダは三輪かなまえかどっちなのだろう、と関係のないことを考えたのは胸の内に留めておいた。きっともう三輪とこうして過ごすことはないだろう、と決心する。
元々決めていたことを引き続き行うだけだ。なにも難しいことはない。三輪とオレンジを分け合って、美味しいねって言いながら食べて、それから他愛もない話をする。窓から夕陽が入り込んで時間が経過していることを告げた。帰りたくなさそうにする三輪に、もう帰りなよ、と声をかけて促す。後ろ髪を引かれているのか、何度もまだ居ても、と抵抗する三輪に荷造りをさせて病室を追い出した。
「なまえ先輩、また」
「秀次、ありがとうね」
帰り際に三輪が言ったまた、という言葉には返事をしなかった。短くはない入院生活の中でなまえの今後は決めたのだ。誰にも何も言わずに、すべて終わらせよう。そう思った。
退院となった日はあいにくの雨で、城戸が予定を調整してくれ病室まで迎えに来てくれている。荷物をボストンバッグに突っ込んでいき、私服に着替えた。病衣以外の服を着るのは、ひどく久しぶりのような気がした。荷造りを終えたことを城戸に告げると、一緒に病室を出てナースステーションにまで挨拶に行く。
お世話になりました、なんて頭を下げて、看護師たちは治ってよかったね、なんて笑った。自分だけが世界から置いていかれているような感覚に陥る。
城戸に並んでナースステーションを後にして病院を出て駐車場に向かった。
車で来たから、と事前に聞いて居たのでまたいつもの愛車だろうか、と見当をつける。
駐車場に向かうと白のセダンが停まっていて、やっぱりこれで来たんだな、と思った。愛車なのだとずいぶん昔に聞いたことを覚えていた自分に少しだけ驚く。促されるまま車の運転席と対角の後部座席に乗り込んでシートベルトをした。後部座席の空いている方に城戸が荷物を置き、それからドアを閉め次は運転席から入ってくる。ふかふかのシートの座り心地は以前乗せてもらったときとなにも変わらなかった。こんな車を所持できる大人と言うのはいいな、と子ども染みた羨ましさが胸の内に顔を出す。
ゆっくりと発進した車が、見慣れなかった道から見慣れた道を通り始めたころに、城戸が口を開いた。
「一応、明日から学校に行けるがどうする? 医師からは無理はしないようにと言われているが」
「行くよ。体育は見学させてもらうけど」
「それがいいだろう」
本題が終わったところで、今度はなまえから城戸にずっと言いたかったことを言おうと話しかけた。
「ねぇ、城戸さん」
「なんだ」
返ってきた返事に少しだけ気まずさを感じながら、思っていることを素直に告げる。
「お願いがあるんだけど」
ずっと考えていたことを運転中の城戸に告げれば、驚いた顔をしてそれから眉間にしわを寄せて考え込んでいるのが分かった。苦悩の表情ってこういう表情を言うのかもしれないな、なんて考えた。しばらく車を走らせてから、城戸が重々しく口を開く。
「……きみはそれで後悔しないのか」
「しないよ。むしろ」
今こうしていることを後悔しているくらい、と笑って言い放ってやれば、城戸が息を吐いた。なまえの意志が固いことはわかっていたのだろう。調整するから待っていなさい、という返事に気をよくしてはあい、と明るい色の声で返事をした。
家の前に車が停まり、荷物を持って降りようとすると城戸に止められる。まだ一応完治したというわけではないのだから、と。そこまでやわではない、と言い返しても、残り少ない保護者らしいことをさせてくれ、と言われてはなにもできなくなる。部屋に荷物を運んでもらって、部屋の中を見渡せばほこりが溜まっていなくて驚いた。驚いた様子を察したらしい城戸が、沢村に手が空いているときに掃除をお願いした、と言うので納得する。別に見られて困るものはなにもないのでありがたいと思った。部屋を後にする城戸を見送り、彼が車に乗り込んで去っていくところをベランダから見送る。車が見えなくなって大きく長いため息がこぼれた。お願いしたことを了承してもらえてよかった、という安堵からだ。
ベランダから部屋の中を見渡し、そのまま腕まくりをして部屋の中を掃除しようと意気込む。
「捨てられるものは今から捨てていかないとね」
自分の発した声がどこか寂しそうだったのはきっと気のせいだ。
§
学校に通うことを再開する頃には、暦が二月になっていた。校舎内ですれ違う多くの人間に訝しげな視線を向けられて鬱陶しいと思う。一ヶ月以上ぶりに登校したのだから仕方ない、と言われたら何も言えなくなるが、それにしても不躾な視線に晒されるのは気分がよろしくない。怪我をしたというのはどこからか伝わっていたようで、心配そうに声をかけてくれる人間もいるが。ボーダー関係の人間は基本的に遠目から様子を窺っているようだった。そんな視線向けなくてももう少しで終わると言うのに。絡みついてくるような視線から逃れるように足早に教室に向かった。途中で三輪の姿が視界の端に入り込んだような気もするけれど、見なかったことにする。
ガラリ、と音を立てて教室の扉を開けるとクラス内が一瞬しん、と静まり返ったけれど気にせずにおはよ、なんて挨拶をした。それにつられたように近くにいたクラスメイトもおはよう、なんて挨拶を返してくる。
自分の席に座れば、前の席の穂刈に久しぶりだな、なんて声をかけられた。
「もう大丈夫なのか、身体は」
「うん。本調子ではないから体育とかは休むけど。これ以上休むと卒業できないしね」
「あれ、今日から復活やったんか」
「水上もおはよ」
いつの間にか来ていたらしい水上が近づいてきて声をかけてくる。何を考えているのかわからない視線が向けられ、居心地が悪いと感じて視線を逸らした。すでに教室に居て寝ていた影浦に近づいて行って影浦おはよー、なんて声をかける。無視されるのはいつものことなので動じることもしない。グースカと寝ている影浦の後頭部をぶすぶすと指で刺していると、村上がそろそろやめてやれ、と注意してきた。
「村上もおはよ~」
「もう大丈夫なのか?」
「うん。学校に通えるくらいには元気になったからね、来た」
「無理はするなよ」
「ありがと。村上はやさしいな~」
はは、褒めても何も出ないぞ、と笑う村上に穏やかな気持ちを抱いていると、チャイムが鳴る前に担任が教室に入ってくる。教壇に立って出席簿を開こうとしたところで出席しているなまえに気づいたらしく、視線を向けられた。今日から出席させます、とちゃんと城戸から連絡がいっているはずなのに、その視線が不可解で頭の中に疑問符が浮かぶ。朝の会は滞りなく行われ、終わって教室を出て行こうとする前に担任に声をかけられた。
「放課後、職員室まで来るように」
「はぁい」
「返事を伸ばすんじゃない」
呆れたようにため息を吐いた担任から視線を動かして前方の黒板を見ようとすると、視界いっぱいに穂刈の顔が広がる。思わずウワァ、と声をあげてしまったのは許してほしい。
「驚くか、そこまで」
「穂刈の顔ってなんか圧があるんだって」
「そういえばいつなんだ? 次に基地に来るのは」
「んー、当分先。本調子じゃないし、防衛任務もしばらくはいいって言われてる」
「そうか」
嘘はなにも吐いていない。なまえが次にボーダーの本部基地に行くのは卒業式の日の夜だ。城戸がそこで調整をできたと連絡してきたので、そこまで行く予定はないし、行きたくもない。
穂刈は荒船や犬飼もなんだかんだ心配していた、と言う。
同級生とはあまり仲良くしていた記憶がないけれど、なまえのことを心配してくれるなんて人が好い人間が多いのだろうな、と思った。どちらも中立的な印象はあるけれど。行く日が分かったら教えてくれ、と言われて困ったように笑った返事をすることしかできなかった。
昼休みになると、香取が教室の後方のドアからおそるおそると言った様子で、中の様子を伺っていたので話かける。三年C組に香取と仲の良い人間はいないと思うので、不思議に思った。
「香取」
「なまえ先輩!」
話しかけるとぱぁ、と顔を明るくしてこちらの左手を彼女の両手で包んでくる。なんだなんだ、と思っていると、香取の後ろには若村も三浦もいて小さくお辞儀をされた。香取の付き添いのように見えるが間違いではないのだろう。何用で教室に来たのかわからず、思いつく彼女の用を口にしてみた。
「B級の隊長会のこととか? 影浦呼ぶ?」
「そうじゃないですっ。ていうかなまえ先輩に会いに来たんですけど」
なまえに会いに来たのだという香取を不思議そうな顔で見ていると、それが納得行かないのか目の前の彼女は頬を膨らませて拗ねているのが分かった。こういう女の子らしいところや自分の感情を包み隠さず態度に出せるところが、この子のいいところだな、とこの場にそぐわないことを思う。
「そっか、ありがとね」
慕っている様子を隠さずに態度で示してくれる香取の頭を空いている方の手で数度撫でてやると、喜びを感じ取れるほどかわいらしく笑った。他のボーダー隊員が距離を取っているから、てっきり香取隊にも距離を置かれると思ったけれど、そうじゃないのがすこしだけ嬉しい。
「もう身体大丈夫なんですか?」
「あぁ、まだ激しい運動とかはだめなんだけどね」
「そうですか……無理しないでくださいね」
「ありがとう。香取はなんだかんだいい子だよね~」
孫を見るように生ぬるい視線を向ければ、香取は恥ずかしくなったのかぷんすかとしながら手を放した。
もー、そうやってすぐはぐらかす、と言う香取にへらりをした笑みを向けると、彼女は小さく息を吐く。
「もういいです。なまえ先輩、また任務で」
「香取も三浦も若村もありがとね」
香取の後ろに居る二人にもそう言って手を振ってやると、ふたりとも謙遜するように頭を下げた。香取に従えるだけあってふたりもいい子なんだよな、と感想を抱く。去っていく香取たちの背中を見送って教室に戻ると、じっと影浦がなまえを見ていたのでにこり、と笑みを返した。すぐに視線はそらされてしまう。影浦にはなまえの視線はどのように感じ取られているのか。聞いてみたいけれど聞けないな、と思う。
一日の授業をすべて終えて、帰ろうとしたところで担任から呼ばれていたことを思い出した。あまり気が進まないけれど、荷物を持って渋々職員室に向かえば、待ち構えていた担任が進路相談室に行くぞ、と声をかけてくる。そのまま先を歩く担任について行って進路相談室に到着すると、中に招き入れられた。置かれているパイプ椅子に座るように言われて、座ると担任が進路相談室の窓を開ける。風がそよいだのかカーテンと窓の近くにあった紙の束の一番上の紙が揺れるのが目に入った。
「あー、体調は大丈夫か」
「激しい運動をしなければ」
「そうか。……今日おまえを呼んだのは保護者から連絡があって、卒業後は就職すると言われた」
「その予定です」
「大学に行かなくていいのか?」
目に映る担任もなにかに迷っているのか言葉を選んでいるのが、なんとなくわかってしまった。元々腫れ物を扱うように扱われていたので、今更そういう態度を見せられてもなにも思わないけれど。
「単位足りなくないですか?」
「市大なら、ボーダー推薦が使えるだろう」
なにを今更、と言いたげな表情に、なまえとしてはなにを言っているんだ、言い返したくなった。城戸から詳細は聞いていないのだろう。差し障りのない範囲で話をするしかない。居住まいを正して担任をまっすぐと見る。
「わたし、ボーダーにはもういられないんです。卒業式の日付で退隊することも決まっています」
あ、これオフレコなので誰にも言わないでくださいね、と困ったように笑って告げる。担任は呆気にとられた表情を浮かべていた。
なまえが進学しようとするとボーダー推薦を使うしかないのはわかっているから、それが使えなくなってしまった今、就職をするという道しか残されていないのだ、とはっきり言ってやる。あくまでボーダー推薦は、ボーダーの戦闘員として優秀な人間を組織から放さないための制度だ。まぁ、そういう使われ方をしなかったのが太刀川ではあるが。あれは本来のルートじゃない推薦の使い方だと思っている。
「なぜか聞いてもいいか」
「守秘義務で詳しくは言えませんが、簡潔に言うと戦闘員としての力をわたしは失いました。この間の戦闘で」
だから、保護者とも話して現場から離れることを決めたんです、とはっきり言えば、そんな理由だったと思わなかったらしい担任が何も言えなくなっていた。微弱なトリオン器官しか残っていない自分は二度と換装体になれないし、二度と弧月を振るうことも炸裂弾を放つこともない。戦闘員としてのなまえはあの日に死んでしまったのだ。
城戸の車の中で話したあの日、自分の身体の詳細について聞いた。微弱なトリオン器官が残っていたから生き残ることはできたけれど、戦闘員として適した主に使っていたトリオン器官を抜き取られたため、現状のなまえは戦闘員になることはできない。よくてオペレーターかエンジニアとして残ることしかできないだろう、というのが上層部のつけた結論で。どちらか選べるがどうする、というのが城戸からの提案だったが、なまえはもうボーダーに居られないから外に出ていきたいと告げた。自分が三門市を出ていくことの意味を理解したうえで言っているのか確認されて、それにもちろん、と答えると城戸は林藤たちと相談するから、とその場では話を保留にされたが、あとから出ていくことを許可されたことを電話で告げられる。心は穏やかな気持ちで満たされつつあった。
生まれ変わりたいのだ、と夢物語のように告げた希望を叶えてくれようとする、保護者の城戸には頭が下がる。彼もまたなまえに対して罪悪感を抱いているのかもしれないが。すべてを忘れていちからやり直したい。そうすることでしかなまえはもう生きていけないと脅迫染みたお願いをした自覚はある。それでも、そこまでしなくてはならないほど、今のなまえの世界は生きづらかった。
なんとなくの事情を理解したらしい担任は高卒で就職となると大変だから、と付け焼刃にはなるけれど、高卒者向けのマナー講座なども学校に案内は来ているので、それに行ってはどうかと提案してくる。それはありがたく享受することにして、そういう講座があれば今後も案内してほしいとお願いをした。もちろんそういったことも秘密にしてほしい、とお願いした上で。他のボーダーの面子には戦闘員にもうなれないことを言っていないので、と言えば担任は神妙に頷いて了承してくれた。組織の難しさをわかってくれているのだろう。
担任との話を終えて進路指導室を出ると、三輪がそこにはいた。
どうやら待ち構えていたらしい。
「秀次」
「なまえ先輩が学校に来てるって三浦に聞いて」
「あぁ、同じクラスだったっけ」
「はい」
持ってきていた通学用のリュックを背負いながら歩を進めると、三輪が隣を歩いてくる。一緒に途中までついてくるようだ。放課後の校舎内はとても静かで、窓越しに聞こえる運動部の掛け声だけが耳に届く。
「なまえ先輩は、進路どうするんですか」
「──秀次はどうしてほしい?」
「三門市立に行くんじゃないんですか」
まさか進学しないという選択肢がなまえの中にあることを想定していなかったのか、三輪がたいそう驚いた表情を浮かべた。普段は鋭い目がぱちくり、と開かれていてすこしだけかわいいな、と思う。三輪の質問に肯定も否定もしなかった。そりゃあ普通はボーダー推薦で行けるのだからほかの選択肢があるなんて思わないのだろう。
「そういう秀次は来年どうするの」
「俺はボーダーに就職したいと思ってます」
「へぇ、もったいない」
素直に思ったことを口に出すと、三輪は訝しげな表情を浮かべて視線を向けてくる。なまえの言いたいことがよくわからない、とでも言いた気だ。
「迅だって大学には行っていません」
「それはそうだけど。秀次は頭がいいんだし大学に行ったら?」
もしかしたら、高校三年になる頃にはもしかしたら仇を取り終わっているかもしれないのに。目の前の彼は自分の目先のことしか見えていないように見える。それに、三輪が自ら迅を引き合いに出しているという事実に気付いているのだろうか。昔の彼であれば、絶対に言わなかったと思われること。迅の名前を口にすることすら嫌がっていたはずなのに。
まさか迅を引き合いに出す程度には、三輪の頑なだった思考が緩和されているとは思わなくて、勝手に落胆してしまう。それと同時にもう一緒にいられない、と改めて感じた。彼は足を進めて自分は進められない。生き残らなければよかった。三輪となまえの違いを実感したくなんてなかったのに。あのとき、あの場所で死んでいれば、きっとこんなこと思わなかった。心の拠り所はなくなってしまって、ますます心が死んでいく。どうしてわたしばっかり、という言葉が脳内に浮かんだ。
「なまえ先輩はどうするんですか」
同じ言葉を続ける三輪に二度目ははぐらかすな、と言外に言われていることを理解する。それでも、本当のことを教えるつもりは毛頭ない。
「そもそも卒業できるか怪しいんだよね」
「え」
「もともと卒業できるギリギリの単位しか取ってなかったじゃん? だから、もしかしたら留年かも」
それもあって今後の進路はまだあやふやな感じかな、となんでもないように告げると、三輪は信じられないようなものを見るような視線を向けてきた。いいたいことはわからなくもない。三輪にはそれなりに口酸っぱく言われていた自覚がある。ちゃんと単位取らないとだめですよ、と。けれど、言い訳をさせてほしいとも思う。そもそも大規模侵攻でこんなに大怪我を負う予定ではなかったのだ。それで単位数がずれるのは致し方のないことだと思う。
「救済措置とか……」
「一応追試受けたらギリ卒業って感じかな~。大学は最悪一年遅れで入るかも」
大学に入るとするならば、という前提の言葉は飲み込んだ。三輪はなまえの言葉に納得したのか、いくつかの言葉を飲み込んだようでそのままちゃんと卒業してくださいね、と言って会話を終わらせた。
すると頃合いを見計らっていたかのように背後から米屋が大きな声で三輪の名前を呼ぶ。少し困った表情を浮かべつつ視線を向けてきた三輪に笑みを浮かべて言い放った。
「行ってきなよ、秀次。またね」
「無理しないでくださいね」
「んー」
ひらひらと手を振って米屋の元へ向かう三輪を見送り、昇降口に向かって歩いていく。途中廊下から窓の外を見るとうっすら雲がかかった空が広がっていて、卒業式の日は晴れるのだろうか、などとどうでもいいことを考えた。
米屋や出水、三浦と合流して穏やかに笑って楽しそうになにかを話している姿は、なまえでは彼に与えることができなかったもので。独りよがりに付き合わせていた自覚はあるけれど、こうも見せつけられるとそれなりに堪える。
嗚呼、三輪はなまえを置いて先に進んでいく。それがひどくさびしくて、ひどくかなしい。
§
部屋の中の整理をして捨てられるものはすべてごみの日に出した。だんだんと殺風景になっていく部屋におかしくなって笑い声がこみ上げる。断捨離をしていると案外物が出てきて驚いたものだ。
部屋の奥から人に借りた本やらCDやらが出てきたので、それらは城戸にお願いしてボーダー経由で返してもらうことにする。
三輪が部屋に訪れることはなく、やってくるのは片づけを手伝おうと城戸がたまにやってくる程度で。だんだんと自分がいた気配が薄れていっているな、と思う。このまま薄れて最初からいなかったみたいになれたらいいのに、とつぶやけば、城戸がそれは難しい話だろう、と苦笑を浮かべた。
洋服も大半を捨ててしまったのでなまえの荷物は段ボール二つに収まる程度の量だった。卒業式が執り行われる明日に記憶封印措置を受けて、それから城戸に荷物と一緒に新天地に運んでもらう手筈になっている。
新天地は三門市からとても遠い土地にあって、一度だけ部屋を見に行くために城戸と唐沢を伴って訪れた。就職先が唐沢の知り合いの会社なので、保護者の城戸と唐沢の二人がついてきてくれたのだ。就職先の会社から電車を乗り継いで十五分のところにあるワンルームの小さな部屋。それがすべてを終わらせたあとのなまえの城だ。徒歩五分の所にスーパーマーケットがあって、十分歩くとホームセンターがある、治安のよさそうな街だった。
急に近界民が襲ってくるようなことがない、とても平和な街。なまえはみんな──特に三輪を裏切ってこの街に逃げるのだ、と思うと罪悪感がわかないわけではない。けれど、もう戦闘員としての能力が失われて、自分の手で近界民を滅ぼすことができない。
そんな人生に意味などないのだ。
城戸や忍田はオペレーターやエンジニアはどうか、と何度も引き留めるように提案してきたけれど、戦えない自分に価値を見出すことはできなかった。なまえは弟の仇を取るためにボーダーに入って戦闘員になったのだから。その根底が揺らいでしまった今、残っている意味を感じられなかった。だから、もう逃がしてほしい、と。もう疲れたから逃げ出させてほしい、と城戸にお願いをしたのである。
願いは聞き届けられて、なまえは卒業式の日の夜に遠い街に行くことが決まっていた。三門市のことも、トリガーのことも、近界民のことも、ボーダーのことも忘れて、普通の人間として生きる。そうすることでしか自分を守れそうになかった。事前の記憶封印措置のカウンセリングで、残る記憶は一度目の大規模侵攻があったときのこと、家族はなくなっていること、保護者は城戸であり就職先は保護者の知り合いである唐沢に口利きをしてもらったというものだけだ。
学校生活なども記憶に残るが過ごした人間が顔が見えないぼんやりとした存在ににすり替えられて、嘘の記憶が生きる。
記憶封印措置を受け終わったあとのなまえは、第一次大規模侵攻で家族を亡くし、そのまま三門市で生きてきたけれど保護者の勧めもあって遠い土地に上京してきた女の子になるはずだ。本来の自分との乖離が激しすぎて笑えて来てしまうけれど。
ボーダーや三門市から離れることを鬼怒田は心配していたらしいが、先日の検査結果で常人並みの平凡なトリオン器官しか残っていないことで、その心配もなくなったという。前のままのなまえであれば三門市から出してもらえなかったのだろうな、と思った。
身辺整理をしつつ考えに更けっているとスマートフォンのアラームが鳴る。いくら学校が自由登校だとしても遅刻するのはよろしくない。きちんと最後まで学校生活を真面目に過ごすように、と城戸に言われているのもある。
「あ、やば。もうこんな時間」
制服に着替え身支度を整え、スクールバッグをひっつかんですっかりすっきりとしてしまった部屋を出ていく。
気持ち早歩きで歩いて学校に向かえば、校門の手前で香取や三浦と遭遇した。二人に手を振って挨拶をすると、先月のように駆け寄ってきてくれる。自分には人望なんてものはないと思っていただけに、感慨深さを覚えた。彼女たちのことも明日の夜には忘れてしまうのだなぁ、と思うと申し訳ないと思う。
「なまえ先輩おはようございますっ」
「香取も三浦もおはよ~」
「いよいよ明日ですね、卒業式」
「ほんと、時間の経過って早いよねぇ」
他愛もない言葉の応酬をしながら歩いていると、そういえば、と珍しく三浦が口を自分から開いた。
「みょうじ先輩追試はクリアできたんですか?」
「だからここにいるんだよ」
やる気になればできる女だからね、わたし、と自信満々の表情を浮かべて三浦に言い切ると、なにが面白いのかおかしそうにふはっと笑った。それを香取がすかさず諫める。
「雄太なに失礼なこと言ってんの!」
「ごめんって葉子ちゃん。三輪がなまえ先輩卒業できたのかな、って心配してましたよ」
「まじ? ごめーん。忙しくてすっかり連絡するの忘れてたわ。でもちゃんとわたし明日で卒業しますので」
「えー、留年してくれてもよかったんですよ」
「香取、そんなことになったらわたしが城戸さんの雷を食らう」
なまえの保護者が城戸であることを思い出したらしい香取が、ちゃんと卒業できてよかったですね、なんて怯えた声で言う。それが面白くてふふっ、と笑い声をあげると、香取と三浦が不思議そうな顔でこちらを見てきた。香取たちの反応に訝しげな視線を返すと、二人は顔を見合わせて言う。
「なに」
「先輩、笑うとかわいいですよね」
「急になに。褒めてもなにも出せないよ、香取」
「お世辞じゃないですって」
「いつもより柔らかい雰囲気でしたよ」
香取の言葉に三浦まで褒めるような言葉を添えてくるので驚いた。
柔らかい雰囲気、というのは久しぶりに言われた気がする。弟が生きていた頃は、優しいいいお姉ちゃんね、と近所のおばさんによく言われたものだ。懐かしさが胸の中を通り過ぎて、なんとも形容しがたい感情を覚える。
「なにはともあれ、卒業できるならなによりです」
「明日またおめでとうって言わせてください」
「二人ともありがとうね」
二人と別れてのんびりとした足取りで自分のクラスの昇降口に足を進めていると、ちょうど上履きに履き替えている影浦の姿が目に留まる。そのまま近づいて行き自身の靴箱を開けて上靴に履き替えようとすれば、影浦がおい、と声をかけてきた。珍しいこともあるもんだ、と思いつつ、上靴とスニーカーを入れ替える手を止めずになあに、と返事をする。
「なんだ、その感情」
「なにが?」
「薄ら寒いモンぶつけてきてんじゃねーよ」
「へぇ、薄ら寒いんだ。これ」
指摘された感情はきっとなまえがこの街を出ていくと決めた日から持っている感情たちだろう。
寂寞とか、苛立ちとか、負い目とか、絶望とか。
あと──ほんの少しの後悔とか。
それを読み取られてしまったのだろう、と推測する。影浦のサイドエフェクトが明確に感情が伝わらないものでよかったと思う。もし言語でこの感情が読み取られていたら、明日の計画がどこかから漏れてしまっていただろうから。知ったところで影浦がなにかしてくるとは思えないけれど、念には念を、だ。
影浦はじっとこちらを見て言葉を放つ。
「別に、生き残ったならいいことじゃねぇか」
ドクン、と自分の心臓が大きく跳ねのが分かった。何も答えられずにいると、影浦はあからさまに大きなため息を吐いて先行く、と言い残して昇降口を後にした。教室に向かおうと階段を上がったところで、小荒井に捕まっているのが見えたけれど。
言われたことを自分の中で反芻しては吐き気を覚える。
なまえがずっと求めていたことがようやく叶うと思ったのに、それをくじかれて〝いいこと〟なんて。なまえはずっとずっとはらわたが煮えくりかえりそうだと言うのに。あのままこの世界からいなくなれることだけが、救いだった。すくなくともなまえにとっては。生きているからいいだの、死んでいるからわるいだの、そんなことはなまえには一切関係ない。なまえとしては生きていることが間違いで、あのまま死ぬことが正しかった。それだけの話だ。
思考に没頭しているといつの間にか教室に到着していて、自分の席に向かう。前の席の穂刈はまだ来ていないようで、そのまま椅子を引いて着席した。やることもないので頬杖をついて窓の外を見やる。薄い雲が広がっている空は快晴の日よりもすこし暗いように感じた。
「おはようさん」
「水上おはよ~」
声をかけられて振り返るとふたつ後ろの席の水上に挨拶をされる。気だるげな雰囲気がいつも通りだな、と思っていると、水上がなまえの姿を見ながらしみじみと言った。
「おまえ、卒業できたんやなぁ」
「ね~。わたしもびっくりぃ」
「思ってもないことを」
「そっちこそ」
水上と軽口の叩き合いをしていると、今しがたやってきたらしい村上が挨拶をしてくる。教室にいるなまえの姿に驚いたのか目を見開いている姿が見えた。あんたたち全員失礼なんだけど、と毒づけば、日頃からああいう生活態度の人間に言われたくない、と文句が飛んでくる。やる気を出せば追試くらい余裕で切り抜けられますし、とドヤ、と自信満々に言い切ってやった。
「身を滅ぼさないようにな。自信過剰で」
「穂刈」
背後からのそっと現れた会話が聞こえていたらしい穂刈に忠告を受ける。追試を通過して卒業できるのだから、自信過剰でもなんでもなく事実だ。火事場の馬鹿力と言われてしまえばそれまでだけれど。
C組のボーダー隊員組であーだこーだと言い合っていると、自分の教室に向かおうとしたらしい当真と国近がとても驚いた顔をしてなまえたちを見ていた。
「なんでいるの!?」
「カンニングかぁ?」
「誰がだ、おい。十八歳組馬鹿筆頭二人より元々賢いわ」
「そうだっけ~?」
茶化してくる馬鹿二人に向かって左手の中指を立ててあっかんべー、としてやると、行儀が悪いぞ、と村上に立てた中指を逆折りにされた。めちゃくちゃ痛い。人間が本来曲げる方向と逆方向に折られたときの痛みは半端がなかった。
「痛っったぁ……」
「容赦なくて笑う」
「行儀が悪いからつい……」
無害な顔してやること残酷だわ、と吐き捨てれば、聞こえないふりをされて穂刈と明日の任務のことに話題を移していた。
興味がそがれてそのあとは自分の席に戻り、上体を机に投げ出して腕を枕にする。担任が来たら起こして、と穂刈に言い残して眠りについた。
昨日の部屋の整理を結局ほぼ夜通しで行ってしまったので、あまり眠れてはいない。少しでも回復しようと意識を頭の奥の方に落としていった。
朝会の時間帯になって担任が教室に訪れた音で目を覚ますと、ちょうど穂刈がなまえの頭にチョップを落とそうとしているところだった。
「それ痛いやつじゃないの」
「あるか? 問題が」
「あるわ。さっき村上に指逆折りされて痛がってたんですけど」
「そうだったか……?」
何も見ていませんでした、とでも言いたげな表情を浮かべる穂刈にイラっとした。しかし、こういうやり取りすら忘れてしまうのだと思うと、少しくらいは愛おしいと思えなくもない。こんな面倒なクラスメイトを直接的にハブられなかっただけマシだろう。ある意味我関せずというか、器の大きいボーダー隊員が多くてよかったと改めて感じた。
担任が朝会で、クラス全員で卒業できることを嬉しく思う、と告げたときこちらをちらり、と見たので、危なかったのはなまえだけだったのだろう。最後まで担任の胃をきりきりとさせてしまったことは申し訳ないと思った。そんな中、追試やらビジネスマナー講座やらの段取りを組んでくれたことを有難く思う。
流石に追試で合格しないと卒業も就職もないから城戸に報告したときは安堵の息を吐いていたものだ。
卒業式を明日に控えて、今日は卒業式の予行練習が行われる。それとついでに在校生からの追い出し会があるらしい。面倒だな、と思いながらいつものようにサボる元気もなかった。連絡事項を朝会で伝え終わった担任に引率されながら、名前の順に並んで体育館へ向かう。何の因果か名前の順だとなまえの二つ前が穂刈でその次に水上、その後ろになまえでさらにその後ろに村上の四人連続でボーダー隊員が続くのだ。
影浦だけいつも離れているのがどことなく笑える。
教室から体育館へ向かう途中、渡り廊下で春なのに冷たい風が吹いてスカートがあおられた。反射的にスカートの裾を押さえてめくれないようにする。もう三月だというのにまだまだ寒い季節だな、と思った。
体育館の手前で担任に待ったをかけられて、そこで再度整列を整えられる。体育館の入り口から聞こえる音楽がかすかに聞こえてきた。曲名は思い出せないけれど、大昔に弟に聞いた気がする。中からマイク越しに卒業生の入場です、という声が聞こえて、それに合わせてA組から順番に中に入っていった。しばらくするとC組の番になったので、前の人間と等間隔を開けながら早すぎず遅すぎないペースで体育館に足を踏み入れる。名前の順の前の水上について行きながら、在校生の方に視線を向けると香取の鮮やかな髪色を見つけて目が留まった。なまえの視線に気づいたのか香取が嬉しそうに笑う。
続いて視線を二年の方に向けると若村の姿を見つけた。隣のクラスメイトの男子──おそらくボーダー隊員じゃない──と小声で何か話しているようだ。ここまで来たなら最後は三浦を見つけたいな、と思って視線をさまよわせると、三浦の姿を見つけることはできたけれど、その隣の姿まで目に留まる。まっすぐに伸びた髪の毛を見るのは先日以来だな、なんて思いながらすぐに視線をそらした。にこやかに会話をしている姿に三浦の人の好さがうかがえるような気がする。
あらかじめ在校生によって並べられたパイプ椅子の前に順番に並んでいき、クラス全員が並び終わると担任は出て座るようにジェスチャーをした。大きな音を立てないように座る。これから退屈な時間だなぁ、とぼんやりとしながら時間を浪費することにした。
卒業式の予行練習から身内しか面白くないであろう追い出し会のムービーの上映まで終わって、ようやくひと段落ついたな、と思う頃には体育館の壁に掛けられている時計の針は十二時前を指していた。
ようやく体育館から自由退場になり、あくびを噛み殺しながらパイプ椅子から立ち上がって体育館の外を目指す。今日の予定はこれだけなのでまた家に帰って最後の片づけを済ませたいと思った。あとはゴミ捨てをするだけだけれど。部屋の中をすべて捨ててしまって、今日の夜は城戸の家に戻る予定だ。なまえがいない間にボーダーの事務職員が部屋の引き払い手続きはしてくれるらしい。帰宅後の予定の算段を立てながら歩いていると、渡り廊下に差し掛かったところでみょうじ先輩、と名前を呼ばれた。聞こえた声が珍しいな、と思いつつ振り返ると、そこには前髪をカチューシャで止めた米屋の姿がある。
「みょうじ先輩」
「米屋じゃん久しぶり~」
「久しぶりっす」
あいさつのあと、あの、とかその、とか口をもごもごとさせているので、胸の内のわずらわしさを隠しながら話しやすいように話を促してやる。
「何か言いたいことあるんじゃないの?」
「すみませんっしたっ」
がばっと勢いよく頭を下げられる。突然の後輩の最敬礼になんだなんだ、と困惑した。周囲の目も若干痛い気がする。別に告白の現場とかないんですけど。見るな見るな。
後輩に頭を下げさせている先輩という構図にしか見えないし、居心地の悪さを覚えて米屋に頭をあげるように言った。そのまま話し出そうとする米屋にストップをかけて場所を移そう、と提案する。場所を移動させてくれたら話を聞いてあげるから、と言葉を添えて。
米屋と共に中庭に移動して備え付けられているベンチに二人並んで腰をかける。なまえと米屋の間には二人くらい座れそうなスペースが開いているけれど。
「で、話って?」
きっと米屋からの話しを待つとまたもごもごと話しづらそうにするかも、と思ってなまえから口火を切る。
「すんませんでした」
「なにが? わたしは別に米屋に謝られるようなことしてないよ」
「でも、オレがみょうじ先輩に秀次と離れてほしいってけしかけたでしょ」
「そうだったっけ? でも、米屋が言ってこなくてもきっとそのうち離れてたよ」
変わったじゃない、秀次。
そうはっきりと言葉に出してみるとやっぱり絶望のような、置いて行かれてしまったもの悲しさのようなものを覚える。それをなんとかやり過ごして米屋を見た。
「あんたたちが求めてたのは今の秀次でしょ。わたしはね、違うの。だから、遅かれ早かれこうなっていたと思うよ」
あんたの言葉がなかったとしても、という意味を言外に含んで言い切る。
米屋はなまえの言葉をどう受け取ったのかわからないが、申し訳なさそうにもう一度すみませんでした、とベンチに腰かけたまま頭を下げた。こちらとしてはむしろあそこで三輪と離れていてよかったなと思っていたくらいだ。どうしたって、自分と三輪はあのままでは居られなかった。変化する前の三輪とならばずっと一緒にいられたかもしれない。けれど現実はもう変わってしまった三輪しかいないのだ。
なまえのことなど置いて行ってしまった三輪しか、この世界にはいない。
「みょうじ先輩、あんなことお願いしたオレがいうのもなんだけどさ。仲直りしてやってよ」
秀次のやつ、先輩と離れてからもずっと先輩のこと考えているよ、とそんなことを言い出す。
「……………………気が向いたらね」
前向きな返事をすると米屋は嬉しそうにしてありがとう、と最後にもう一度だけ頭を下げて教室に戻っていった。その背中を見つめながら、残酷なことを平気でしている自分に笑いがこみ上げてくるのを無理やり内心で殺した。ここが学校でなければ声を出して笑っていたかもしれない。
明日の夜にはこの街から出ていくというのに仲直りもなにもない。彼らはそれを知らない。いなくなることを誰かに告げるつもりはないし、このまま誰にも何も言わずに消える予定しかない。
「あんたたちみたいになれたらよかったのにね」
誰にも拾われることのない声は、とても暗くてとても寂しそうで可哀想だと自分でも思った。
教室に戻ると担任が明日の話をして、それから解散、と号令をかけたので挨拶をする。
教室で別れを惜しみ始めるクラスメイトを尻目にそそくさを教室を出ていき、早足で昇降口に向かって靴を履き替えた。そのままの勢いで速攻で帰路につく。
住んでいるアパートの前に到着するとちょうど城戸も到着したところのようで、白のセダンが停まっていた。車に駆け寄っていくと、城戸が車から降りてくる。
「城戸さん。お疲れ様です」
「学校は無事終わったかね」
「流石にサボってないよ」
荷物はもうまとめてあるから、と告げて城戸の前を歩いて自分の家に向かう。二階の右から二つ目の部屋。ずいぶん長く住んだ城とも今日でおさらばだ。
部屋の中に城戸を迎え入れ、段ボール二つを指さして持っていくのはこれだけだよ、と告げる。
すると何とも言えなさそうな表情を浮かべて重々しく口を開いた。
「これだけか」
「うん。大半捨ててしまったから」
また引っ越してから必要なものは買うよ、と平然と言えば、そうか、と言いたいことをあえて言わないようにしているような返事をされた。思い出が詰まっているものはなにも要らないのだ。教科書とか、制服とか、食器とか、愛読していた本とか、好きだったCDやDVDとか。
事前のカウンセリングで遠くの土地に引っ越すことを考慮して、強めの措置をするとは聞いている。三門市内にいたら重ね掛けをすることも可能だけれど、重ね掛けのために何度もボーダーに戻ってきては意味がない。すべてをそぎ落としたくてなまえは遠い土地に行くのだから。
段ボールを持って部屋の外に出る城戸のサポートをしながら、車のところまで戻っていく。城戸が後部座席に段ボールを運んでいる間に自分の部屋の前に戻って最後に念のため中を確認した。部屋中をぐるり、と見回して何も残っていないことを確認する。カーテンも、お気に入りのカラーボックスも、三輪と何度も夜を共にしたベッドもなにもかも捨てた。物がなにひとつない部屋は入居してきた日のことが想起される。あの日も、こんな風に物がなかったな、と思った。
感傷を切り上げてそのまま車で待っているであろう城戸のもとに戻る。
「お待たせしました」
「もういいのかね」
「えぇ」
思い残すことはもうないよ、とはっきりと言い切れば城戸はそうか、とだけ言って運転席に乗り込んだ。なまえも同じように助手席に乗り込む。
シートに座ってシートベルトを着用したのを確認すると、城戸はエンジンをかけて車を発車させた。流れていく景色を見る。こういう景色も忘れるのかな、覚えてるのかな、なんてことを考えていると、運転中の城戸に話しかけられた。
「本当に、後悔しないんだな?」
「何度も聞かないでよ。……もう、疲れちゃったの。最後までやり通せなくてごめんなさい」
「構わない。最初に酷なことをお願いしたのはこちらだ」
「ありがとう。わたしの無茶なわがままを聞いてくれて」
「これでも私はきみの保護者だからな」
うん、と小さな返事をすることしかできなかった。
§
城戸の家で目覚める朝というのは変な緊張感があって、予定よりもかなり早い時間に目を覚ましてしまった。寝る前に枕脇に置いたスマートフォンで時間を確認するとまだ朝の五時でまだ寝られるじゃん、と思いながら、そのまま客用布団から抜け出して歯を磨くために洗面所に向かう。歯を磨き終わってテレビでも見ようかな、と思って食卓に向かうと書き置きが残されていた。夜間に緊急連絡があったので基地に戻る、と書かれている。鍵は記憶封印措置の前に返してくれ、とも。朝食は冷蔵庫の中のものを好きに食べていい、というのは昨日家にやってきたときに言われている。
あまり使われていなさそうなテレビの電源を食卓に置かれていたリモコンで入れた。早朝のニュース番組がもう放送されていて、それを眺める。
お天気お姉さんが今日は快晴です、なんて言っているのが聞こえたので、よかった、とほっと息を吐いた。
ニュース番組をそのままおざなりに流しながら、冷蔵庫の中を物色する。ジャムは見つけたので、食卓にあった食パンと一緒に食べる方向でいいか、と決めて食器棚から皿を一枚とスプーンを一本拝借した。食卓の椅子に座り朝食の材料を並べる。
トースターで焼くのも面倒だし、と思ってそのままスプーンで多めにジャムを掬って、生の食パンにぺたぺたと塗り込んだ。多すぎたような気もするけれど、それくらいで怒る城戸ではないので構わないだろう。怒られたらそのときはそのときだ。
視線をテレビに向けながらちまちまとパンを食べながら、朝ご飯を食べたのなんていつぶりだったかな、と自分のだめさ加減を再認識する。食パンを食べ終わってからは持ってきていた制服に着替え──これも後で城戸に処分してもらう予定だ──、集合時間のぎりぎりに到着する時間を逆算してテレビを見つつ時間を潰す。
ちょうどいい頃合いの時間になったところで、家の中の戸締まりを確認して、食卓に置かれていた鍵を拝借して城戸の家をあとにした。昨日までの自宅からより城戸の家からの方が高校まで遠いんだよな、と思いながらのろのろとしたペースで歩いていく。時折スマートフォンで時間を見てはギリギリに到着するかどうか試算した。遅刻なんてしようものなら城戸にとても怒られるのはわかっているので、さすがにそれをする気はない。ギリギリに到着すれば在校生に絡まれることはないだろう、という予測の上で学校に向かっている。
今までかかわりのなかった人間に急に卒業するから、と絡まれることは好きではない。でも人間というのはそういうイベント事になるとテンションがハイになってそういうことをやりがちなのだ。苦痛しかない空間にはなるべく短時間しか滞在していたくない。
計算に計算を重ねて、学校の門に到着するころには集合時間の七分前だった。我ながらいい感じではないだろうか、と内心で計画通りにことが運んで笑いそうになる。
片付けに入ろうとしていた運営の生徒会の女子生徒に声をかけて、今来たんだ、と言えば慌てて卒業生用の造花を胸元につけられた。寝坊しちゃってこんなに遅い到着になっちゃったごめんね、と謝れば、間に合ってよかったですね、と眩しさ全開の笑顔を向けられる。急いで教室向かってくださいと続けて別の男子生徒に急かされたので、足早に昇降口へ向かって靴を履き替えたあと教室に気持ち早めに向かった。
教室に到着するところでちょうど担任と遭遇して、呆れた、とでも言いた気な担任に出席簿で頭を優しく叩かれる。
「卒業式だってのにお前は……」
「ごめんって。引っ越しの準備したら寝るの遅くなっちゃったんですよ。ギリ間に合ったからいいじゃん」
「遅刻しなくてよかったよ。……いつ発つんだ?」
「明後日にも」
「そうか。がんばれよ」
「最後いろいろ面倒見てくれてありがとう、先生」
「おー感謝しろ感謝しろ」
へらへらと笑いながら礼を告げると担任もふざけた言い方で返事をする。担任より先に教室に滑り込んで、続けざまに担任が入ってきた。急いで自分の席に座ろうと移動すると、穂刈の席の横を通ったときに小突かれる。こういうやり取りをするのも今日で最後か、と内心でつぶやいた。
朝の挨拶をして出欠を取られ、担任の簡単な挨拶が始まる。また式が終わってからみんなに告げるけれど、と前置きをしてから今日という日をみんなで迎えられてうれしい、と昨日言っていた言葉を繰り返した。
担任の挨拶が終わるとちょうど移動する時間になり、昨日の予行練習と同じように廊下に名前の順に並んで、体育館へと向かう。渡り廊下に差し掛かると昨日とは違う雲一つない晴れ渡った空が広がり、暖かい空気が頬を撫でた。今日は暖かくてよかったな、と思う。
体育館へ順番に入っていき、昨日と同じようにパイプ椅子の前に並んでクラス全員並び終わると、昨日同様に担任の合図と同時に着席した。
予行練習とは打って変わって来賓や校長のいる空間はどこか緊張感というか厳かな雰囲気が流れている。荘厳なクラシックの曲にそれに合わせた静かな空間。これが学生生活の最後か、と噛み締める。
在校生と卒業生が共に校歌を歌うところで、在校生と卒業生が向かい合った。そのときに三輪の姿が見え、昨日の光景が思い出され鼻の奥がつんとする。なんだか目元まで熱を持ってきたような感覚があった。感動している人間に紛れて、なまえの瞳からも一筋の涙が流れたような気がする。
卒業式というイベントが可もなく不可もなく終わって、そのまま退場の案内に合わせてクラス毎に退場した。退場する道中、香取隊の三人がお辞儀してくれたのが見える。三浦の隣にいた三輪はいいたいことがあるんだろうな、と思わせる表情をなまえに向けていた。このまま会話をせずにすべて終わらせたい、と思ってもだめなのだろうな。昨日の米屋の手前もあるし。逃げ切る方法を考えながら、教室に戻っていった。
教室に戻るなり水上がからかうように声をかけてくる。
「おまえ泣いとったやろ」
「さて、どうでしょう」
「そういう感情あったんやな」
「うるさ~」
まぁ、水上は泣いていた気配が微塵もないのでそういう感情なさそうだね、とお道化て見せると頭をパシンと叩かれた。
担任からの最後の挨拶の前に、クラス全員でひとこと言っていこう、ということになり、言うこともないのでおざなりに今までお世話になりました、と簡単な挨拶で済ませる。周囲は泣いているクラスメイトから涙をこらせているクラスメイトまで幅広かった。ボーダー隊員勢で泣いているのは穂刈と村上くらいだったけれど。影浦も水上も簡潔に済ませていたので、自分だけが浮くということはなかった。
締めの担任の挨拶を聞く。いろいろ迷惑かけたなぁ、とか反省することもそれなりにあるけれど、生徒思いのいい先生だったと思った。それで最後の最後で助かったのは事実なので。
「いつでも母校に遊びに来ていいからな」
優しい顔をしてそう言い放つ担任の言葉に苦笑を浮かべてしまう。なまえがこの土地に来ることは二度とないことをわかっているからだ。
お前ら大好きだぞ、というアイドルみたいな挨拶で終わった担任の挨拶に笑ってしまった。担任の挨拶の後は自由解散ということで、クラスメイトの大半は一旦帰って十五時頃に再集合してボウリングやカラオケに行く予定を立てているようだ。自分は任務があるから、と嘘をついて不参加にさせてもらっている。ほかの面子もボーダーがあるから、と断っていた。そういえば城戸がきみには直接関係がないことだけれど、と前置きをしてから遠征試験を今回は長期的に行うと言っていた話を思い出す。そんな忙しい時期にこの街を出ようとしていることを申し訳ない、と言えば、私がやりたくてきみを送るのだから気にするな、と諭された。
教室を出ようとすると村上と穂刈に捕まって、そのままドナドナよろしく昇降口を経由して──靴も履き替えさせられた──、グラウンドに連行される。そのまま一年から三年までのボーダー隊員が固まっているのが見えて、逃げ出したい衝動にかられた。それを読まれたのか影浦に頭をがしりと捕まれる。痛い痛い。
「おめー、まだそんなこと考えてンのかよ」
「卒業でセンチメンタルになってるだけだよ」
「ほんとかよ」
なぜ連れて来られたのか分からなくて困惑していると、いつの間にか三輪が隣に立っていた。前のような距離感に懐かしさを感じながら、やっぱりここから逃げ出したいと思わずにはいられない。話したいことなんてこちらにはないのに。
「なまえ先輩」
「久しぶりだね、秀次」
「ご卒業おめでとうございます」
おずおずと小さな花束を差し出されて、それを受け取る。出会った頃に好きだと話していたスイートピーが主に使われている花束だった。ほかの三年生も何かしらの花束を受け取っていて、なまえに渡せる人間が三輪しかいなかったから渡してきたのだろう。
「ありがとう。かわいい花だね」
「前に、好きだと言ってたでしょう」
覚えててくれたんだ、と笑みを浮かべて告げると、三輪はほっと息を吐いていた。
今の自分はうまく笑えているだろうか。ちゃんと卒業生らしく振舞えているのかわからなかった。このあとこの街の記憶を全部捨てようとしているのに、それを誰も悟りませんように、と願いながら表面を取り繕う。
「なまえ先輩、どこかで話せませんか」
「ごめん、今日は一日予定が入ってて。このあとも城戸指令に呼ばれてるんだ。また後日でいい?」
「わかりました」
米屋が言っていた〝仲直り〟とやらのことなのだろうな、と見当をつける。今日を乗り越えたら、もう会うことないのだ。ここにいる面子とは。なんとか逃げ切りたい、とそればかりを考える。
この場を仕切っているらしい小荒井と奥寺と佐鳥がみんなで写真撮りましょ、なんて無邪気に笑って提案した。
自分がいた証なんて残らなくていいのに。
一応往生際が悪いけれど、写真に写るの苦手だから、と抵抗しても受け入れられることはなかった。しぶしぶなるべく見切れる最後列の端っこに行こうとすると、先輩は主役でしょ、と出水に見つかって最前列にしゃがまされる。それでもなるべく見切れられるように一番端を陣取ったけれど。
小荒井がどこかから捕まえてきたボーダー隊員じゃない男子生徒に、スマートフォンを渡して、そのままボーダー隊員全員で数枚写真を撮らされる。最初からいなかったみたいになりたかったのにな、とため息が思わずこぼれた。
なんとか全体写真だけで終わらせてもらって、個々で撮る分は拒否させてもらう。周りだって嫌われ者の自分との思い出なんて残したくないはずだ。それなのにこういうことをイベントだから、と強行してくる姿勢に反吐が出る。
最低限の付き合いはしたので勘弁してくれ、と告げて、そのままスクールバッグをつかんで学校をあとにした。向かうはボーダーの本部基地だ。
ボーダーの本部基地までに向かう道はいつもと同じルートを選んで、目の前に広がる景色を見納める。野良猫がいたり、誰かが書いた落書きがあったり。目に馴染んだ光景はどこまで自分の中に残るのだろうか。
城戸の家から学校までの道を歩いたときのように、学校からボーダーの本部基地までの道のりものろのろと歩いていった。途中にある慰霊碑で足を止める。第一次大規模侵攻のときに亡くなった人間の名前が刻み込まれている石碑を見つめた。なまえの家族の名前がどこにあるのかは知っている。慰霊碑の背面に回って自分の腰のあたりに書かれている自分の家族の名前をなぞった。
「ごめんね、ここから離れるね。仇、討てなくてごめん」
家族の名前におでこを当ててしばらくじっとする。祈るように、許しを請うように、言い訳を胸の内で語った。もうがんばれなくなっちゃった、ごめんね、と何度も謝る。それしかなまえにはできないから。
どのくらい慰霊碑のところにいたのかわからないが、日が傾き始めたのを感じてボーダーの本部基地に向かう。ほかに行きたい場所はないから、お別れはさっきので終わりだ。
基地に到着すると、そのまま記憶封印措置を行っている開発室の奥の区域に向かう。基本的に立ち入り禁止となっている区域だ。しれっとそこに入っていくと、事前に指定されていた部屋の前にカウンセリングをしてくれた職員が立っていた。
「遅くなってすみません」
「まだ時間には早いから大丈夫。行きましょう」
先導するように前を歩く職員についていきながら奥へ奥へと進んでいく。これからなまえはすべてを忘れるのだ。
連れていかれた部屋はどこか取調室を思わせるような構成になっていて、窓越しに鬼怒田や城戸の姿があるのが見える。部屋の中に備え付けられている椅子に座るように指示されて、そこにおとなしく座った。
鬼怒田が最後に何か言いたいことは、と窓の向こうからマイクを通して問いかけてくる。その言葉に甘えて昨日からずっと思っていたことを口にした。
「城戸さん、今までありがとうございました」
まっすぐ城戸の目を見て言い切ると、表情を変えることもなく淡々とした返事が返ってくる。
「……きみがこれからも私の保護下の人間であることには変わりない」
「それでも、言っておきたかったの」
たとえ自己満足だとしても。城戸に擁護されていたから、今までああいう行動ができていたという自覚はあるのだ。それにこれからも迷惑をかけることは変わりがない。たとえ遠い土地に行ってしまっても、緊急連絡先などは城戸のままなのだから。今のみょうじなまえとしての最後の挨拶を終えて満足する。もう大丈夫です、と鬼怒田に告げると記憶封印措置の前段階が始まった。職員から問いかけられる内容に答えていきながら、だんだんと意識が朦朧としてくるのに身を委ねる。ここが自分の終着点だ。
次目覚めたときにはすべてを忘れていることだろう。心地良さを覚えながらそのまま落ちていくような気分になった。
目の前で深い眠りについていたなまえが目を覚ました。窓越しの部屋に城戸の姿を見つけるなり、見慣れた彼女よりもかなり柔らかい表情を浮かべる。それに違和感を覚えつつも、おそらく本来の彼女はこういう人間だったのだろう、とあたりをつけた。
「あれ? 城戸さん……わたし、どうしてここに」
「卒業式のあとに鍵を返しに来てくれたのを忘れたのか?」
「あぁ! そうでしたそうでした。これから移動するんでしたよね」
「あぁ、夜間に移動する方が高速料金も節約できる。あと唐沢くんも付き添ってくれるそうだ」
「唐沢さんまで? 就職先まで口利きしていただいたのに申し訳ないです……」
「気にしなくていい。駐車場に車を置いてある。あとそこの職員から車のカギを預けてあるので受け取って先に向かっていてくれるか」
「わかりました。お待ちしていますね」
中にいる職員からあらかじめ渡してあった城戸の車のカギを預かり、そのまま職員と一緒に部屋の外へ出ていった。念のため職員にはどの隊員にも見つからないルートで駐車場へ行くように指示してある。
なまえと職員の姿が見えなくなってから、鬼怒田に質問を投げかけた。
「措置は」
「問題ないかと。記憶が混濁している様子も見受けられませんでしたしな」
「わかった。私と唐沢くんは彼女のことを送ってくる。後のことは頼んだ」
「しかし……ああいう子でしたかね、彼女」
「本来の彼女はああいう子だったんだろう」
穏やかで、人がよさそうで、人好きされそうな雰囲気。慈愛という言葉がもしかしたら似合うかもしれない。そんな人間を食いつぶしてきたことを見せつけられて、罪悪感を抱かないわけじゃないのだ。
家族を亡くしてからの彼女は少し前の三輪と同じように、とても鋭いナイフのようなものだった。それはおそらくなまえの自己防衛の果てに生み出されたもので、自分を守るために近界民を憎まなければ、くじけそうだったのだろう。
「誰か職員に任せてもよかったと思いますけどな、見送りは」
「彼女の一番尊い時間を大人の都合で食いつぶしてきた代償は払わなければならない。それがせめてもの彼女への罪滅ぼしだろう」
「そうですか」
城戸は彼女のいわゆる青春時代、というものを自分が過ごしたときのそれを重ねる度に胸が痛んだ。なまえは平気そうにしていたけれど、今回のことがあってやはりどこかすり減ってしまうものがあったのだろう。
後処理は鬼怒田に任せてそのまま記憶封印措置室を出ていった。端末を起動させて通知を確認すると、唐沢から合流しました、とメッセージが入っている。すぐに向かう、と返信して端末をスラックスのポケットに戻した。
なまえが城戸の犠牲者であることを戒めのように反芻する。以前のなまえを忘れてはならないし、忘れるつもりはない。二人で過ごしたけっして少なくはない時間を覚えているのはもう城戸だけなのだ。すべてから解き放たれたなまえはこれから眩い時間を過ごすのだろう。中学時代も高校時代も経験することができなかった時間を過ごしてほしいと切に願った。
§
三輪が閉鎖環境試験の前日に本部基地に行くと、オペレーターの月見より司令である城戸が呼んでいると告げられ、作戦室を出て司令室に向かった。ちょうど三輪自身も用があったのでよかった、と思う。
昨日なまえに送ったメールが、何らかの理由で相手に届かなかった場合に自動的に送信元に返送されるメッセージとして返って来たのだ。念のため周囲の隊員にも確認してもらったが、全員同じメッセージが返ってきたのは確認している。考えられる可能性はなまえが機種変更したのに誰にも連絡をしていない、というものだ。おそらく保護者である城戸にはさすがに連絡しているだろうから、聞いてくるように言ってきたのは一つ上の先輩たちだった。先日撮った画像を共有したいし、とも言っていたと思う。
来ることに慣れている司令部に顔を出せば、城戸がいくつかの本やCD、DVDを三輪に差し出してきた。どれもなまえの部屋にあったのを覚えているものばかりで。これは水上に借りた本で、こっちは穂刈に借りたCDなんて教えてくれたのが記憶に残っている。
「これは……?」
三輪の目的である用件ではなく目の前のものを理解しようと疑問を声に出した。もしかしたら震えていてかもしれない。いや、そんな、まさか。
「みょうじ隊員はこの街を出ていった」
「この街を、」
「三門市にはもういないのだよ、三輪隊員」
城戸の話に耳を傾けてなんとか必死に理解しようと考えを巡らせる。なまえが数日前に三門市から出ていったこと。その際に連絡手段も何もかも捨てていったこと。ボーダーの隊員が彼女と連絡を取る手段は何もないこと。だから彼女のことはそうっとしておくこと。
つらつらと並べられていくいくつもの知らなかったことに狼狽えそうになる。
卒業式周辺の日、違和感がなかったわけではなかった。今までのなまえなら無理にでも逃げ切っていたであろう集合写真とか。三浦が先輩って笑うとかわいいよね、と言っていたこととか。仲直りに応じると言っていたこととか。話をしようとすると後日にしてくれ、と言ってきたこととか。ちぐはぐとしたなにかはいくらでもあったのに、見逃してしまっていたことを理解させられる。
「記憶封印措置、は」
「施してある。きみの知っている彼女はもういないと思った方がいい」
それほどまでに変わっていたから、と言われて、めまいのようなものが自身に起こっているような気がした。まるでまっすぐ歩くことが困難とでも言うような。
忘れていた、というべきか、気付かないふりをしていた、と言うべきか。三輪は生き残ったことを絶望していたことも知っている。最期になるはずだった言葉も聞いている。それでも、三輪がいれば生きることを選んでくれるんじゃないか、という思い込みがあった。なまえがとても弱い人間だと知っている年齢が近い人間は三輪だけだったのに。
「あの人は、なんで、」
記憶封印措置なんて選んだんですか、と声になったかどうかはわからなかった。
口は確かにそう動いたはずだけれど、自分の声が耳に届いていない感覚がある。
「……もう疲れてしまった、と。そう言っていた」
「戦うことに疲れたんですか……?」
あんなに戦うことでアイデンティティを保っていた彼女がそれを捨てるとは思えなかった。
「戦闘員としての水準を保てないことが決定打だったようだ。オペレーターやエンジニアも薦めたけれど、それでは意味がないようだった」
あくまで仇は自分自身で討ちたかったのだろう。三輪はなまえがもういないことを周知すると同時に、なまえが返しそびれたこの本やCD類を各隊員に返してもらいたい、というのが城戸からの命令だった。それらを受け取ると腕の中がずっしりと重くなったように感じる。最後に聞きたいことがあって城戸に問いかけた。
「あの、部屋は」
なまえの住んでいた彼女の城はどうなったんですか、と聞けば、城戸はもう引き払ってある、と淡々と告げた。わかりました、と返事をする。さらになんとか震えそうになる声を抑えて、用件了解しました、と頼まれたことを了承して司令室を後にした。
これからなまえがいない事実をいろんな人間に触れ回らなくちゃならないと思うと、憂鬱な気分でしかない。どうして相談してもらえなかったのか、とか。どうして三輪にすら黙って行ってしまったのか、とか。思うことはとめどなく溢れてくる。
思い出をすべて捨ててしまってでも、この街を出たかったのだと思うと胸が押しつぶされそうな思いだ。三輪は三輪だけはなまえの味方で居たいと思っていたのに、伝わっていなかったらしい。
今の三輪に理解できていることは彼女がもうこの街のどこにもいないということだけで。それに伴う絶望に飲まれそうになるのをなんとか耐えるしかなかった。
§
あのあと三輪の一つ上の年代を中心になまえのことを説明して回ると、みんななんとも言えない表情を浮かべたことを覚えている。怒っていたのは香取隊の面子くらいか。最初は寂しがったり怒ったりしていた人間もだんだんとなまえのことを忘れて、まるで最初からいなかったと錯覚してしまいそうになる。でも、そうなる度に小荒井の提案で撮った卒業式の写真を眺めて、彼女が存在していたことを再確認した。なまえはこういうことすら嫌がって写真を撮ることを拒否していたのかもしれない。
なまえがいなくなってから三年が経過した。長かったような気もするし、短かったような気もする。
時間の経過はよくも悪くも変化を呼んだ。
三輪の周囲の変化は、近界民との争いも大国であるアフトクラトルと友好条約を結んだことで、わずかではあるが三門市やボーダーは落ち着いたように思う。その甲斐もあって三輪は大学優先でシフトを組むように、とお達しがされたほどだ。そんな大学の夏休み、フィールドワークで三門市から遠い土地にやってきた。三門市のことなど詳細は知ることのない人たちで溢れかえっている街。平和、と形容することがふさわしい街だと思った。
この街から見える地層が特殊なもので、希望者はその調査の合宿に参加することができる。そのフィールドワークは入っているゼミで毎年行われているもので、三泊四日で旅館に泊まって行われるそれに参加しようと思ったのは気分転換もあったかもしれない。普段のフィールドワークは断っている三輪が参加する、と告げたことで教授がとても驚いていた顔をしたのは記憶に残っていた。旅館に到着して荷物を置き、夜までは自由時間なので一人で街の中を散策する。ちなみに男子生徒は大部屋に全員まとめて放り込まれたので、三輪以外のメンバーは大部屋でトランプをするとかなんとか言っていた。
制服を身にまとったどこかの会社の若い女性二人が、きゃらきゃらと声をあげながら笑いあっている姿が視界に入る。
その声がどこか懐かしいような気がして視線を向けると──息が止まった。連動するように目も大きく見開かれていることだろう。
衝動のままに駆け寄っていってその手を掴んだ。
「なまえせん……ぱい……っ」
走ったせいで切れる息をこらえながら三輪は目の前の懐かしい彼女に声をかける。三輪のことを思い出してまた名前を呼んでくれるんじゃないか、と淡い希望を抱いていた。
目の前の彼女の姿を記憶に書き込むように見つめる。いなくなったときよりも少し髪が伸びただろうか。大人っぽくなっているのは間違いなかった。
「えっと……どこかでお会いしましたか……?」
彼女の口から飛び出した言葉に目の前が真っ暗になる。姿を消したと聞いたとき想像できなかったわけじゃない。けれど、きっと、とありもしない希望を抱いていた。記憶封印措置はしていないんじゃないかって。特にこの人のことに関しては、城戸が三輪に嘘を吐くはずないのに。
「す、みません。知り合いに似ていたので……。人違いでした」
「そうですか。いえいえ、気にしないでくださいね。似ている人がいるなんて初めて言われました」
三輪の装いを見て目の前の彼女は学生さんですか、と問いかけてくる。それにはい、と返事をすると、そのまま他愛もない会話をした。三門市から来たことを三輪が告げると、なまえはわたしも昔住んでいたんです、なんて遠い昔の記憶をなぞっているかのように穏やかな笑みを浮かべて言う。
「こんな辺鄙な土地、来る機会もないでしょう。楽しんでくださいね」
「ありがとうございます……」
友人らしき女性と手を振ってその場をあとにする背中を見送った。なまえがすべて忘れることを選んでしまうほど、弱い人間だと知っていたのに。自分だけは特別、なんて思い上がりをどうしてできたのだろうか。いっそ笑ってしまいそうだ。
けれど穏やかに友人と笑いあっている姿を見ると、しあわせそうで。きっと今のなまえはしあわせなのだろう。三門市にいたときの苦しみとは無縁に過ごしていると思うと、今更あの頃のことを思い出してほしいとは言えなかった。自分を置いてしあわせになっていることを哀しいとは思わなかったことに驚く。
どうかしあわせに、健やかに、穏やかに過ごしてほしい、と思いながら三輪は宿泊している旅館に戻っていった。
旅館に戻った三輪が最初に出会ったのは温泉浴場に行っていたゼミの教授だ。よほど三輪が変な表情をしていたのか、教授は不思議そうなかおをして三輪に手招きをしつつ声をかけてくる。
「三輪くん。ちょっと僕に付き合ってもらってもいいかな」
「はい」
教授は三輪を旅館の景観がきれいに見えると噂のロビーの待合場所に連れてきて、向かい側に腰かけるように言われ、それに従う。
「体調でも悪いのかい?」
もしそうなら、今からでも帰宅してもいいよ、と穏やかなやさしい声と表情で告げてくる。それにどう答えたらいいのか三輪はわからなかった。なまえに会ったことで脳内がぐちゃぐちゃになってしまっている。口をはくはくとさせていると、教授が表情を変えないまま言った。
「誰かに話して楽になるのであれば、その聞く相手が僕で構わないのなら、聞くこともできるけれど」
そこまで言われてようやく三輪は言語化ができないこの感情を吐露する気になった。
昔別れてしまった大事な人がこの街にいたこと。言葉を交わしたこと。大事な人は自分のことなどすっかり忘れてしまっていたこと。そのせいで自分の感情がおかしくなっていることを説明した。
すると、そうかそうか、と頷きながら教授は三輪に指摘をひとつする。
「その人に忘れられていたことが寂しかったんだね」
そうかもしれません、という返事は言葉に詰まって声にならなかった。自分はなまえに忘れられたことがただ寂しかったのだ、と数年ぶりに感情の落し所を見つけた気がした。