じょうじょうたる海に浮け

 無機質さを感じずにはいられない本部基地内を徘徊すれば、すれ違うC級隊員たちはまるで幽霊を見ているかのような不躾な視線をなまえに向けてきた。それにいつも通り気付かないふりをして基地の中を闊歩する。
 第二次大規模侵攻で近界民との戦闘により大怪我を負って入院し、傷が回復してからは学校もろくにいかずにボーダーに復帰した。入院期間で見舞いに来る人間など上層部と三輪くらいしかいなかったが、それくらいがちょうどいいと思う。同じフロアに入院していた三雲とやらは多くの人が見舞いに訪れていた、と言っていたのはボーダーというだけで共通点があると思い込んでいる看護師からだった。
 復帰記念に個人ランク戦でもするか、と思って訓練室に向かう。その途中にあるお知らせなどが貼られている掲示板に足を止めてなんとなく内容を確認した。すると、信じられないお知らせの文書が自身の目に留まる。気まぐれを起こして目を通そうとなんてするんじゃなかったな、と数分前の自分を恨んだ。相談もなしに勝手に決めたであろう保護者の姿を頭に思い浮かべて、内心でグーパンチを食らわせる。
 目の前に掲げられているお知らせをどうしても信じられなくてじっと見つめた。現実逃避に一度目をそらして空中を見てから、もう一度掲示されている通知文書に目を通す。自身の名前が書かれているその通知文書には、みょうじなまえ隊員明日付で玉狛支部へ異動という文言が書かれていた。

「ほんっとふざけてる」

 思わず柄の悪い声が自分から出てしまったけれど、そんなこと気にしている暇はない。ある意味死活問題が繰り広げられようとしていることしかわからなかった。突然の理不尽が目の前に現れて、それに対する怒りにぐんっと自分の頭に血が上ったのがわかる。そのまま怒りの感情に身を任せて、司令室に文句を言いに行こうと早足でそのまま向かおうとした。

なまえ先輩」
「秀次」

 背後から声をかけられて、足を止めて振り返る。そこには入院期間に唯一見舞いに来ていた三輪の姿が目に映った。驚いた顔をしてこちらを見ていて、その表情から三輪も同じ文書に目を通したのだと理解する。なにか言いたそうにしているけれど、なにを言えばいいのかわからない、とでも言うような表情に内心で苦笑した。止めたいのかそうじゃないのか考えあぐねているのだろう。入院中に見舞いに来てくれた三輪からはどこかすっきりとした印象を受けた。まるで憑き物が落ちたと言われたら納得してしまうような印象を。

「あの、通知」
「今見た。司令部行ってくる」

 またあとでね、なんて言い残して三輪を置いて司令部に向かう。
 入り組んだ道をドカドカと足音を立てながら早歩きで進んでいき、基地の上階にある司令室に到着する頃には自分の息が上がっているのを感じた。運動不足なのを実感せざるを得ないな、と思いながら司令部に不躾に足を踏み入れると、こちらの姿を見るなり司令でありこの部屋の主である城戸が目を細める。

「なんだね、急に」
「用件なんてわかってるでしょう」

 大きなため息をこれ見よがしにふー、と吹かれて、それから入り口すぐにある椅子に腰かけるように言われた。それには従わず立ったまま、思っていることを城戸にぶつけるように吐き出す。怒りがにじみ出ていることなんて百も承知だ。

「なんなの、あれ」
「通知文書の通りだが」
「ふざけてます?」
「あれを撤回するつもりはない」
「玉狛が一番嫌いなこと知ってるよね?」
「……きみの異動には意味がある」
「意味なんてないでしょ。なに? 侵攻のときに近界民にやられたからそれの罰則?」
「そんな意図はない。ただ、今後のために必要なことだと私が判断した」
「必要なんてない!」

 反射的に自分でも驚くほどの大きな声が出た。沸々と煮えたぎっていた怒りがさらに増幅したのを感じる。
 近界民が憎いと知っているのに、許容したのは城戸なのに、そんなことを言うのか。どうしたって彼らと相容れないことはわかりきっているのに、そんな人間がいる支部に行けと言う。それがいやがらせでないと言うのであればなんだと言うのだ。
 近界民を仕留め損ねたことは反省しているが、そもそも相手は黒トリガーだった。ノーマルトリガーでチームを組んでいるわけでもない単体行動をしている自分が勝てるはずなんてなかったのだ。それを理解しているはずなのに、どうして、という気持ちしか湧かない。
 近界民を憎むことを許してくれた城戸だったからこそ、自分がああいう立場になったことを許容したというのに。

「──必要か必要でないかは、私が決めることだ」
「失礼しますッ」

 取り付く島もない淡々とした言い方をされて、反射的に司令室を走って飛び出す。曲がり角で誰かにぶつかったけれど、挨拶もままならないままその場を離れた。こんな場所、一分一秒もいられないと思ったのだ。
 なまえが司令室から出てきてぶつかったのは迅だった。迅はぶつかられたことを気にした様子もなく、彼女が出てきた司令室に入っていく。

「お疲れ様です」
「迅」
「城戸さんよかったの? なまえ、めちゃくちゃ怒ってたけど」
「子どもの癇癪のようなものだ。お前が気にする必要はない、迅」
「お願いした身だから何も言えないけどさ」

 そもそもなまえが玉狛支部に移動したのは迅の案だった。まだ大規模侵攻の傷が残る三門市に新しい近界民の侵攻がある未来が見えたのだ。そして、そのときに見えた嫌な未来の一つが先ほどぶつかった彼女に関係している。なまえがこのまま本部にいるとあまりよろしくない未来が待っているのだ。敵の姿は見えないけれど、敵に捕まって攫われて近界に到着する前に自害する彼女の姿だけが視えた。
 なまえはボーダーという組織内で尖ったポジションにいるけれど、実力は確かなもので、もう少し人が好ければ今頃引く手あまただったことは想像に容易い。それほどまでに戦う才能を持っていると思わされるのだ。トリオンコントロールに始まり円滑に勝つための勝ち筋を描ける発想力。トリオン量も平均よりは多い。逸材であることには変わりないのだ。ただ、城戸派の象徴的なところが人を寄り付かせないだけで。
 実際、城戸派の思想を理解している香取隊の面々などはよくなまえに懐いている。

「……これで彼女は攫われないんだな?」

 城戸は重々しく口を開いて迅に確認する。

「攫われないとは言い切れない。でも、玉狛に置くことで攫われる確率は大幅に下がったよ」

 あと、死んでしまう確率も、と続ければ城戸は安堵の息を吐いた。その姿がなんとなく父親を思わされて、思わず口にした。

「城戸さんって、案外なまえのこと好きだよね」
「一応私が保護者だからな」

 そういう意味じゃないんだけどな、と迅は内心でつぶやきつつも声には出さなかった。城戸がもともと良い人に分類されることは理解しているので、彼女にも心は砕いているだろうと思っていたが当たっていたらしい。
 しかし、三輪以上に近界民は殺す、という思想に染まっているなまえを玉狛支部に異動させるというのは、迅も博打だと思っていた。彼女の苛烈な思想は同じ思想の人間にはさぞ心地いいのだろう。それもあって三輪とああいう関係を築けているのだ。尤も、三輪の周囲はそれを嫌がっているようだけれど。派閥の分布図など作ってしまえば、なまえは城戸の真下にいるような人間だ。
 近界民とはうえ、他者を殺すという思想を隠しもしない彼女は危ない人間に見えるのだろう。実際、迅だって彼女のことは危険思想の人間だと思っていた。城戸にそうではない、と言われて理解はしたけれど納得はしていない。
 迅の心配事に気付いているのかいないのか、城戸はどこか遠くを見ながら言葉を発した。

「そろそろ彼女も大人になるべきなのだろう」
「なれるのかな……」

 どうやったって想像がつかない。なまえが近界民と仲良くなる姿が。空閑と対面させたらどうなるのか今から恐ろしくて仕方がない。そんな心配をする迅を他所に城戸はふっと息を吐いて目元と緩ませた。

「迅たちが思っているよりも彼女の根の部分は存外素直だ」
「そうは見えないけど」
「彼女は復讐を自分の軸に設定することでようやく立てた人間だ。一見苛烈に見えるのも仕方がない」
「弟が目の前で殺されたんだっけ」
「そう聞いている」

 だから秀次と仲がいいんだね、とどこか遠くに思いを馳せているような迅の声に城戸は肯定の返事をした。
 ボーダーの中で家族が亡くなっている隊員は少なくない。迅は三輪と彼の姉が亡くなったときのことを知っているけれど、ほかにもそんな人間がたくさんいる。
 そのたくさんの中の一人がなまえだ。

なまえって弟さん以外の家族は?」
「いない。ご両親も四年前の侵攻で亡くなったと言っていた」

 それもあって城戸が保護者をしているのだと言う。一人の隊員の後見人をするというのは贔屓をしている、と言われても仕方のないことだ。なのになぜなまえだけを家族に迎えたのかはわからなくて、少し考えこんでいると城戸が口を開く。

「彼女は私の〝協力者〟なんだよ、迅」
「〝協力者〟?」
「あぁ、私がこの組織を大きくするために必要だったのが彼女だ。そして、それを理解し納得した上で私の元にいることを受け入れてくれた」
「そっか」

 迅の理解が及ばないところに城戸と彼女の関係性があることはわかった。
 今後のスケジュールを詰めて、玉狛支部に戻ることを伝えると城戸はなまえの異動届を迅に持たせる。林藤支部長に渡しておけ、と言われ、それをおとなしく預かって玉狛支部に戻るために指令室を出た。

 司令室に向かったときのようにわざと大きめの足音を立てて歩き、C級の訓練室の近くの自販機の前を通ろうとするとそこには先ほど別れた三輪の姿が目に入る。こちらには気づいていないのか自販機のボタンを押して缶の飲み物を飲もうとしている──おそらくコーヒーだろう──ところに背後からぶつかりにいった。ドン、と音でもなりそうな勢いで三輪の背中に抱き着けば、抱き着かれた三輪は手に持っていた缶をぶつかられた反動で床に落とす。まだ開けていなかったらしい缶はコロコロと転がった。身体を離して缶を拾って差し出してやれば、三輪は怒鳴ろうとしたけど我慢しています、という雰囲気を醸し出しながら地を這うような声で言う。

「司令には会えたんですか」
「司令室には行ってきたよ」

 コーヒー缶を開けて自販機横のベンチに座る三輪と話しながら、なまえも自販機でいちごミルクのホットを買う。ガコン、という音とともに落ちてきた缶を取り出し口から手に取り、そのままプルタブをカコッと開けた。程よい温かさのいちごミルクを口に運べば、やや薄味になった甘みが舌を刺激する。
 いちごミルクを飲みながらベンチに座る三輪の隣に腰を下ろした。子ども一人くらいなら入れそうな隙間をあけてはいるけれど。今の三輪のすぐ隣に腰を下ろす勇気はどうしてか湧かなかった。

「司令はなんて?」
「必要なことだから異動しろ、だって」

 城戸に言われたことをそのまま伝えると三輪はなんとも形容しがたい表情を浮かべた。わかるよ、自分でもそうなる。いわゆる近界民絶対許さない派の自分が親近界民派の玉狛に異動することが必要だとは思えないのだ。
 なにがどういう理由で必要なのか。はっきりとした説明は期待できそうにないから、自分で考えるしかなかった。けれど、どの角度から考えてみても必要なこととは思えない。

「絶対これ罰則でしょ」
「罰則ですか」

 不思議そうな顔をして思案する三輪に言い切る。

「この間の侵攻で不甲斐なかったから。それで玉狛へ異動って最高のいやがらせよね」
「大丈夫なんですか?」
「…………なるようにしかならないでしょ」

 いっそ玉狛の中でやらかして退隊でもしてやろうかな、なんて吐き捨てるように言えば、三輪にそれだけはやめてください、となだめられる。冗談だからそんなことするわけないじゃん、とさらりと言い返せば、これ見よがしに目の前で息を吐かれた。呆れてます、とでも言いた気だ。

「玉狛に異動するという苦痛は理解できますけど」
「理解できちゃうんだ」
「玉狛はなまえ先輩を悪いようにはしないはずじゃ」
「そうだといいけど」
「まだ全快でもないだろうし、休養に行くくらいの気持ちで行ったらどうですか」
「……えー。近界民がいる基地なんて絶対心休まらないじゃん」
「否定はしませんけど」
「しないんだ」

 でも、と言葉を続けようとする三輪をじっと見る。鋭かった三輪の視線は幾分か柔らかいものになったような気がした。目の下の隈も緩和されているような気もするし。おそらく眠れてはいるのだろう。なんのきっかけでそうなったのかはわからないけれど。大規模侵攻のとき、三輪はなまえと違っていろいろな事情を上層部から聞いているようではあった。いつの間にか自分だけ蚊帳の外に追いやられたような気分だ。
 ボーダーという組織の中でなまえではどうすることもできないほどの変化が訪れているような気がする。その変化の流れに乗ることはできそうにないけれど。
 すっかり冷えた手の中のいちごミルクを飲み切って、ゴミは自販機横のゴミ箱に放り込んだ。

「復帰記念に個人ランク戦でもしてくる」
「無理はしないでください」

 三輪は奈良坂と古寺とここで待ち合わせしているので、と言うのでその場で別れた。C級の訓練室に向かいながら、手頃な対戦相手がいればいいな、なんて思う。

 §

 玉狛支部に異動になる当日はバックレてやろうかなと算段を立てていたところで、前日に城戸から丁寧に釘を差すメッセージが入っていた。サボるな、しばらく寝泊まりも玉狛でするように。寝泊まりできるように制服や普段着、その他必要なものを忘れずに持ち込むようにしなさい、と書かれていた。そのメッセージを確認して、寝泊まりまで玉狛支部でしなきゃいけないだなんて聞いていないんだけど、とキレそうになったのは言うまでもない。
 結局異動当日は足に鉛弾でも食らってるのかというくらい重い足取りのまま正午前に家を出れば、そこには待ち構えるように車の運転席に座っている林藤支部長の姿があった。条件反射でいやな表情を向けてしまったけれど、いつものことなので林藤は気にした素振りは特にない。

「よぉ、今日からよろしくな」
「よろしくしたくないです」
「まーまー、そう言わずに。荷物それだけか?」
「元々物ないんで」
「そうか。じゃ、乗ってくれ」

 渋々で林藤が乗ってきた車の後部座席に乗り込もうとドアを開ければ、そこにはカピバラと幼児がいた。目をきらり、と輝かせて片手をあげこちらに挨拶をしてくる。

「なに、このお子さま」
「りんどうようたろうだ、よろしくしんいり。こっちはらいじん丸だ」
「はぁ」

 かけたまえ、なんて幼児の隣の空いているスペースをぽんぽん、と叩かれたのでおとなしく空いているスペースに座った。衣類を入れたボストンバッグを抱き込むように座れば、林藤陽太郎と名乗った幼児は荷物が少ないな、なんてなまえに視線を向けてくる。

「おれのほうがせんぱいだからな。いうことをきくように」
「はいはい」

 いい加減な返事をしていると、ちゃんときいているのか、と目の前の陽太郎は少し機嫌を損ねたようだ。
 なにやらあーだーこーだ言っている声が聞こえてくるけれど、昨日急遽発生した荷造りとストレスのせいかなかなか眠れなかったせいで急な眠気に襲われた。そのまま眠気に身を委ねて意識を深くに落とす。

「あれ? 寝ちまった?」
「うむ。ねているぞ」

 陽太郎は隣で眠る今日から異動してくるという女の顔を覗きこんだ。そこにはすーすーと穏やかな寝息を立てて眠る姿がある。

「異動が急な話だったから疲れたのかもな。陽太郎も仲良くしてやれよ」
「もちろんだ。でも、こいつこわいやつなんじゃないのか?」
「どうしてそう思う?」
「めがいままであっただれよりもこわい」

 子どもは時に大人よりも聡い生き物だ。的確に彼女のことを言い当てる陽太郎に林藤は内心で笑ってしまった。なまえの異動の提案を迅から聞かされたとき、拒むことはしないが彼女がやっていけるのか心配ではあったのだ。どうしたって相容れない思想の場所に単身で放り込まれるのは苦痛でしかない。城戸にも相談はしたが、なまえの保護者なだけあって獅子が千尋の谷に落とすようなことしか言わなかった。ここらで大人になってもらおう、と言い切ったときはどうしようもない保護者と被保護者だなと思ったのは秘密である。

「そのおねえさんな、この間の侵攻で大けがしてて、まだ完治してないのに任務に行こうとするから預かることになったんだ」
「おさむのほかにいたけがにんというのはこのこのことか」
「そう。それで、元々気難しい子ではあったんだが、この間の侵攻のせいでさらに気難しい子になっちゃったんだ。だから、もしかしたら陽太郎に冷たいことを言うかもしれない。それでも仲良くしてあげてくれると助かる」
「わかった」

 おれはおとなだからそれくらいできる、と胸を張って言い切る陽太郎の気前の良さに林藤は和む。静かに眠る後部座席のなまえを起こさないように林藤は安全かつ静かな運転で車を玉狛支部まで走らせた。

 肩をゆすられる感覚で瞼をゆっくりを押し上げた。視線をさまよわせると肩に触れていたのは林藤だったようで、自分が眠ってしまったいたことを自覚する。

「お、目覚めたか? 玉狛支部についたぞ」
「ついたぞ」

 林藤の言葉を繰り返すように陽太郎も到着を告げてくる。林藤に促されるままに車を降りると目の前に川が広がっていて、川の上にぽつんと建っている玉狛支部が見えた。
 ついに逃げられないところまで来てしまったな、と他人事のように思う。

「さぁ、いくぞ」

 陽太郎が雷神丸に乗ったまま小さな手を差し出してきた。昔、弟に帰るときに差し出された手を重なって頭に過去が過る。おそるおそるその手を取った。自分よりも遥かに高い子ども体温の小さな手に触れ、温かいなぁ、と思っていると陽太郎がじっとこちらを見つめている。

「どうしたの」
「きみはてがつめたいね」
「そうなの。ずっとこうでさ。わたしが冷たい人間だからかもね~」

 おどけながらそう言ってみせれば陽太郎は不思議そうな表情を浮かべ、理解できないという感情を前面に押し出して言った。

「てがつめたいのはこころがあったかいしょうこだといってたぞ」
「……そう」

 なまえ自身も弟に言われたことがある言葉だ。中学に上がったくらいで冷え性になって手足が冷たくなるようになった。それを嘆いていたときに弟も同じことを言ったのだ。そのときは、じゃあ手が温かいひとは心が冷たい人間なの、なんてからかったけれど。
 陽太郎に連れられてそのまま玉狛支部の中を案内される。
 玄関で靴を脱いで廊下を進むと真っ先にみんなで食事を行ったりテレビを見たりするリビングに連れていかれた。ドアを開けるとそこには同じ高校の後輩の姿があって思わず扉を閉めてしまう。

「どうした?」
「いや、ごめん。人がいると思ってなくて」
「きょうのひるごはんはとりまるのとうばんなんだ」
「あ、そうなんだ」

 本部基地とはまったく勝手の違うルールに困ったな、と思いながら一生懸命説明をしてくれてる陽太郎の言葉に耳を傾けた。玉狛支部といえばそうだった、なぜか懐いてくれている香取が好きな烏丸がいたんだった、と今更なことに気付く。香取が異動がわかったときに噛みついてこなかったからすっかり抜け落ちていた。普段は烏丸の周囲にいる女たちが気に食わないともぎゃっているというのに。
 思考を遠くの方に飛ばそうとしたところで、今しがた閉めたばかりのドアがガチャリ、と開けられる。

「早く入ったらどうすか」
「お、おじゃまします」

 ドアの向こうから烏丸が顔を覗かせて中に入るように促される。
 こわごわと部屋の中に足を踏み入れると、そこには食事の準備が済んでいる食卓と烏丸の姿と噂だけは聞いたことがある宇佐美が居た。

「あ! みょうじ先輩いらっしゃったんですね。ここ座ってください」
「お邪魔します……」

 思ったよりも好意的な雰囲気を醸し出す二人に困惑しながら、宇佐美に案内された食卓の席に座る。陽太郎は宇佐美にほかの人を起こしてきて、とお願いされてその場からいなくなった。手をつないでくれていた陽太郎が居なくなって、心もとなさが胸中を襲う。
 完全に昼食の準備を終えたらしい烏丸と宇佐美がそれぞれ右隣と左隣に挟むように座った。まるで捕虜になったような気分だな、と内心で独り言つ。
 ドタバタと騒がしい音が聞こえたかと思うと、頭の上から音が下に降りてきた。バン、と大きな音を鳴らして開けられたドアから現れたのは昔からいると有名な小南と木崎だ。

「え!? もう来てたの!?」
「小南遅いよー。レイジさんは夜勤明けなのに大丈夫?」
「問題ない。あまり寝ていても良くないしな」

 居心地の悪さを覚えながらじっとしていると、もう一度ドアが開いてまた誰かやってきたのを理解する。ドアの向こうから現れたのは白髪の小さな少年と陽太郎で。どうやら陽太郎が彼を連れてきたらしい。
 各々が食卓の席に座って、ひと席空いているな、と思っていると車を車庫に入れてきたらしい林藤がタイミングよく戻ってきた。埋まっていなかった席がすべて埋まって、自分以外が全員玉狛の人間だと思うと居心地の悪さがさらに悪化したように感じる。許されるのなら今すぐこの場から逃げ出したい。許されないからしないけれど。

「じゃあ、飯の前に紹介する。昨日も言ったし、みんな知ってるだろうけど本部から異動してきたうちの新しい隊員のみょうじなまえだ」
 自己紹介して、と指示されて名前とポジションだけを名乗る。よろしくしなくていい、と言外で伝えるためによろしくお願いします、とは言わなかった。いっそ嫌われて追い出されたいという気持ちしか頭に思い浮かばない。
 こちらの自己紹介が終わると改めて玉狛の隊員が自己紹介をする。主に料理を担当している木崎に、玉狛第一のエースの小南、元太刀川隊の烏丸。そして最後に白髪の少年が名乗った。

「空閑遊真デス」
「…………ドーモ」

 こいつが近界民か、という視線を隠しもせず向ける。どうやってボーダーに入り込んだのかはわからないが、我が物顔でこの場にいることに苛立ちを覚えた。近界民と同じ空気を吸うだけでも反吐が出そうになるというのに。

「あと他に中学生で三雲修と雨取千佳がいる」
「そうですか」

 今この場にいない二人はこちらの人間だと聞いている。三輪に近界民のことを問い詰めたのは、入院期間に見舞いに来たときだ。一切の情報は城戸によって聞かされていなかったし、友人らしい友人もいないから情報源は三輪くらいしかいない。その三輪も近界民の情報を与えることを躊躇していたようだったけれど。ひとまず外見情報だけは教えてもらうことに成功していた。

「こいつ、まだ先日の侵攻の傷が完治してないらしいから、任務とかもなしでうちで主に療養させることになってる」
「え!? 大丈夫なの!?」
みょうじ先輩だったんですね、修以外の大怪我負った隊員って」
「大丈夫なのか?」

 林藤が余計なことを言ったせいで心配気な視線がなまえに集中する。なまえが怪我をしていようがなにをしていようが、この人たちには関係ないだろうに、と他人事のように思った。
 冷ややかになっていく内心を隠しながらへらり、と上辺だけで笑ってなんでもないように告げる。

「もう大体治っているから大丈夫です。任務だって平気だって言っているのに、城戸司令が完治するまで動くなというもので」
「せんぱい、つまんないウソつくね」
「なにが?」
「遊真くんは嘘を見抜くサイドエフェクトを持っているんですよ」

 サイドエフェクト持ちだという情報は知らなかった。それに、嘘を見抜くなんて厄介でしかない。玉狛支部に居たくない理由ばかり増えていくような気がする。

「わたしがここに異動になった理由なんて、わたしが一番知りたいよ」

 昨日からずっと考えていたことをそのまま吐き出せば、空閑はそうか、と感情のうかがえない返事を返すだけだった。
 なんとも言えない空気が食卓に流れて、こうなることが予想できたから玉狛になんて来たくなかったのに、と思っていると、空気に耐えられなくなったらしい小南が場を無理やり明るくして昼食が冷めるし食べましょ、と言うので皆一斉に食事に手を付けた。
 烏丸が用意したらしいおにぎりと焼きそばを口に運べば、自分が普段作っているものよりも美味しいと素直に思う。黙々と料理を口に運んでいると視線を感じた。烏丸がなまえをじっと見ていたのに気づいたので声をかける。

「なに」
「味はどうかと思って」
「美味しいんじゃないの」
「そうですか。ありがとうございます」

 褒めたつもりはなかったけれど、礼を言われて肩透かしでも食らったような気分だ。にこやかな視線を小南や宇佐美からも向けられて落ち着かない。
 周囲の視線から意識を向けたくなくて、別のことを脳内で考える。よくよく考えたら、烏丸の手料理を食べたことを香取に言ったらまた大暴れしそうだな、と思った。香取は気がキツイとか言われるけれど、自分の感情に素直なだけだと思っている。怒りも呆れもすべて素直に外に吐き出せる人間なのだ。そうできるのは周囲との関係をうまく築けているからこそだとは思うが。彼女のそういうところは羨ましいと思う。自分もそういう人間になれたらよかったのに、と思わなくもない。そうしたら今頃こんな風にはなっていなかったかも、なんて意味もないことを考える。
 小南が空気を換えたおかげで昼食の場は穏やかなものとなって終わった。自身は話しかけられない限り特に発言等は行っていないが。
 食後に宇佐美に連れられて二階に上がり、自分が使う部屋に案内される。案内された部屋の中には窓が一つとワードローブとベッド、勉強机と椅子があるだけだった。簡素な部屋だな、と思うと同時に自分の部屋もこんな感じだったかもしれない、と思い直す。
 物は多くなくていい、というのがなまえの信条だ。なにか新しく買うのであればなにかを捨てるようにしている。そうすることで物が増えることはない。
 宇佐美がトイレの場所やお風呂場の場所、洗濯はどうするかなどのあらかたの説明を終わらせると、また修くんと千佳ちゃんが来たら呼ぶね、と言い残して部屋をあとにする。そのまま持ってきたボストンバッグの中身をワードローブの中に片付けていく。
 制服がしわにならないようにハンガーにかけて、裾を引っ張って伸ばした。いつまでここで生活することになるんだか、とふーっと長い溜息が出る。せめて玉狛暮らしはやめさせてほしい、と思った。居づらい場所にいるのは命令であれば我慢するけれど、眠る場所くらいは自分の安心できる場所でさせてほしいのだ。
 持参したものを片付け終わり気疲れからか疲労感が襲って来たので、そのままベッドに倒れこむ。おひさまの香りがしたことでわざわざ準備をしてくれたことを理解した。なまえの母も天気のいい日によく家族全員の布団を外に干してくれていたのを思い出す。久しく嗅がなかった香りに懐かしさと寂しさが胸を通り過ぎた。

 陽太郎に起こされてなまえがいつの間にか眠ってしまっていたことに気付く。目の前に陽太郎の顔が広がっていたのを寝ぼけた頭は弟が起こしに来てくれたのだと錯覚した。そのせいでなまえの口からずっと発することのなかった弟の名前を呼んでしまったのだ。
 すぐに我に返って陽太郎に謝罪する。

「ごめん、陽太郎。間違えた」
「それはだれだ?」

 間違えて名前を呼んでしまったのを反省しながら、陽太郎は間違えられただけなので非はない、と自身に言い聞かせて渋々弟の名前だよ、と告げる。

「おとうとがいたのか」
「うん。もういないけどね」

 最初の侵攻でなくなったから、と告げれば陽太郎はそうか、とだけ言ってそれ以上は触れてこなかった。

「おさむとちかちゃんかがきたから、しおりちゃんがよんできてって」
「そう。わざわざありがとうね、陽太郎」

 一緒に行こう、と手を差し出してきた陽太郎の手を自分の手で包む。ここに来てからもうずっと思い出していなかったことを思い出すな、と思った。
 部屋を出て階段を降り昼食を食べたリビングに向かうと、先ほどはいなかった中学生くらいの男女の姿がソファに座っているのが目に入る。彼らが三雲と雨取なのだろう、と見当をつけた。真面目そうな装いの二人を見ていると、己の中の庇護欲が掻き立てられているような気分になる。

「あっ」

 こちらの姿に気付いたらしい雨取が立ち上がってお辞儀をする。それにつられるように三雲も同じように立ち上がってお辞儀をした。そんな二人に座って、と言いながらなまえもソファに腰を掛ける。膝の上にはなぜか当たり前のように陽太郎が乗っていたけれど。
 名前とポジションを名乗ると、二人も同じように名前とポジションと中学名を教えてくれた。素直そうな二人の姿に自分の醜さを自覚せざるを得なくて息苦しいと思う。さん付けで呼ぼうとする二人に烏丸たちと同じように先輩呼びをするようにお願いをした。

みょうじ先輩は万能手なんですか?」
「万能手ってほど極めてないけれど、メインは弧月と拳銃型の通常弾を使ってるね」
「三輪先輩みたいなスタイルってことですか」
「まぁ、そんなとこ」

 もともと、太刀川に勝てない三輪を勝たせるためにふたりで試行錯誤して確立したのが今のスタイルだ。
 三雲は貪欲なのかいろいろな質問を投げかけてくる。なまえに本部でよくない噂が流れていたことは知っているだろうに。
 なにかを得るために怖気づいたりしない人間は眩しいと思う。そのまっすぐさは武器であり凶器だ。
 質問にある程度答え終わったところで、三雲と雨取と空閑はB級ランク戦の作戦を立てるので、とトレーニング室に行くためにリビングを出ていった。
 また手持無沙汰だな、と思って陽太郎を膝に乗せたままソファでぼうっとしていると木崎に声をかけられる。

「屋上に洗濯ものを干してあるから取り込んでもらって構わないか」
「え~……」
「その間に夕飯を作っておく。陽太郎と二人でやってくれ」
「いこう」

 本当は断ってしまいたかったが、陽太郎に手を差し出されると断れなかった。こんな幼い子を邪険にできるほど冷酷な人間にはなれない。
 ランドリー室により洗濯物を入れるかごを取ってから階段を上って扉を開けて屋上に向かう。屋上に到着すると、先客がいることに気付く。夜が始まろうとしている空を背景に青のジャージに胡散臭い表情。見慣れた嫌いな人間がそこにはいた。

「あれ、二人してどうしたの」
「じん。せんたくものをとりこみにきたんだ」
「陽太郎とは仲良さそうだね」

 話すほど滲み出る胡散臭さに自分の眉間にしわがよったのがわかる。
 なまえの表情も見えているだろうに、迅は気にした様子もなく陽太郎と話を進めていた。
 三輪となまえが嫌いなランキングを作ったら上位に食い込んでくる迅の姿を疑いの目を隠さずに見る。相変わらずなにも読めない表情に疑いのが強まった。この未来を読んでいたの、なんて聞ければよかったけれど、会話をすることすら億劫だ。木崎に頼まれた洗濯物を持ってきていたかごに適当に畳んで入れていく。きちんと畳むのはリビングに戻ってからでいいだろう。

「無視ってひどくない?」
「迅のこと嫌いだから」
「知ってる」

 へらり、と笑いながらこちらの暴言を肯定する迅にさらに苛立ちを覚える。洗濯物をさっさとすべてかごに放り込んでしまって、迅が視界に入らないところに行きたいと思った。すべての洗濯物を取り込み終わり陽太郎を置いてリビングに戻ろうとすると、陽太郎は迅を置いて一緒に戻ると言う。迅ってお子さまにも人望ないのかもしれないな、と思った。

「遊真と仲良くしてあげて」
「誰が仲良くするか」

 あの白髪の近界民と仲良くしろだなんて気分が悪い。なまえが了承するとは思ってなかったらしく、気が向いたらでいいよ、なんて言葉が続く。
 それに返事はせずに陽太郎を連れてリビングに戻っていった。
 リビングに洗濯物を入れたかごを持って戻るとドアを開けた途端、揚げ物をあげているのかパチパチと油がはねる音が聞こえる。ドアが開いた音でなまえと陽太郎が戻ってきたのに気づいたらしい木崎に礼を言われた。

「助かった。ありがとう」
「いえ、」
「つぎはこれをたたむんだぞ」
「はいはい」

 ソファの脇にかごを置いて陽太郎と二人並んでソファに腰かけ、かごに入れた衣類を畳んでいく。畳み方は陽太郎が丁寧に教えてくれた。すべての洗濯物をたたみ終わったところで、三雲たちの作戦を立てるのに付き合っていたらしい宇佐美が現れる。洗濯物を畳んだことに対する礼を述べてきて、別に、なんて言葉を返すとそのまま流れるように洗濯物をしまう場所まで案内された。この棚にはフェイスタオル、この棚にはバスタオル、シーツはここに、なんて説明を受ける。自分でも使うことになるだろうから覚えてくださいね、なんて言葉を添えられた。
 宇佐美からの日用品の場所の説明を受け終わってから二人揃ってリビングに戻ると、食卓に夕飯が並んでいるのが目に入る。
 メニューはどうやらから揚げとサラダと卵焼きとみそ汁とご飯が並んでいた。ほかほかと湯気の上がるから揚げは出来立てのようで、普段あまり空腹を感じない自身のお腹がグーっと音を鳴らす。恥ずかしくなって思わず手でお腹を覆った。宇佐美からのにやにやとした視線を感じで強くない力で彼女の頭にチョップを落とす。
 食卓の席は固定ではないらしく、どこでも好きなところに座るように木崎に言われたので、キッチンから一番近い右端の席を陣取った。空いている左側の席は陽太郎が座り、そのさらに隣には宇佐美が座る。
 残っている空いている席はどうなるんだろう、と思っていると、なまえの向かい側に木崎が座りその隣にはトレーニング室から戻ってきていた小南が座り、そのさらに隣には烏丸が座った。あとからやってきた三雲たちは空いている誕生日席にそれぞれ座っていく。
 いただきます、と全員一斉に挨拶をしてから各々端を料理に伸ばした。なまえはみそ汁を一口飲んでから、続いてサラダを食べて、そのあとにから揚げを口に運ぶ。どの料理もできたてで美味しいと思った。他人の手料理を食べるのなんていつぶりかわからない。一人暮らしをしていたときも適当に作っていただけなので。出会った頃の三輪に雑炊ばかり食べているのを見つかったときは、もっと人間らしいものを食べてください、と怒られたのを思い出す。尤も、三輪も食生活が健全だったかと問われると怪しかった時期だ。

「美味いか」

 ぼうっと過去に思いを馳せていると、突然目の前に座る木崎に話しかけられた。驚いたまま返事をする。

「あ、はい」
「そうか」

 会話を続ける気もこちらからはないけれど、長く続かなかった。隣で口元をべしょべしょにする陽太郎の介助をしながら食事をする宇佐美を尻目に見ながら、ぱくぱくと息がつく間もないくらい忙しなく口を動かして目の前の料理を食べていく。
 みそ汁とご飯を食べきり、お腹もある程度満たされたと感じたところで食事を終わらせた。食べ過ぎると胃がもたれるのは昔からのことである。

「代わる。ご飯食べたら?」

 宇佐美にこちらから声をかけると、驚いているのか宇佐美は目をとても大きく見開いた。それからすぐに我に返ったのか、え、え、と戸惑っている姿が見受けられる。

「陽太郎見るの代わる。もうお腹いっぱいだし」
みょうじ先輩、いいんですか?」
「全然食べてないでしょ」

 落ち着いて食べなよ、と声をかけてから、フォークで食事を進めている隣の陽太郎に視線を落とした。

「陽太郎、口汚れてるよ」
「うむ、すまない」

 布巾布巾、とつぶやいていると烏丸が台所から取ってきたらしい布巾を差し出してきた。それを受け取って口元を汚す陽太郎の口を拭う。マイペースに食事をする陽太郎を眺めながら、定期的に汚れたところを拭いてやった。もうずいぶん昔のことを思い出す。弟が小さいときもこういうことしてあげたな、と。

「……みょうじ先輩、手慣れてますね」
「あぁ、弟がいたから」

 世話をするのはそれなりに慣れてる、とぶっきらぼうに告げる。いたから、という過去形の言葉を正確に理解したらしい周囲が息をのんだ。三門市にいたら家族がいない人間など少なくないことだろうに。
 陽太郎の食事の見守りが終わると、またみんなトレーニング室に戻っていった。陽太郎は食後は雷神丸と遊ぶのがいつものことらしく、ソファに座りながら雷神丸を撫でてテレビを見ている。
 食後の食器洗いは当番だという宇佐美が洗っていた。手伝おうか、と声をかけても、先輩の当番は明日以降に組み込んでおいたので気にしないでください、なんて言われて手伝いは断られた。目の前で流れる子ども向けアニメの面白さはよくわからないけれど、今はこういう番組をしているんだなぁ、と思う。そういえば、とふと思い浮かんだことを宇佐美に投げかけた。

「そういえば迅が居なかったね。夕方に屋上で見たけど」
「あぁ、迅さんは夕飯一緒に食べたり食べなかったりなので」
「ふぅん」
「多分お得意の暗躍でもしてるんじゃないですかね」

 あぁ、あの胡散臭いやつね、と納得の声を上げると宇佐美が楽しそうに笑った。なにが面白くて笑っているのかはよくわからないけれど。
 穏やかな時間が流れているような気がして、居心地が悪い。

 §

 強制的に玉狛支部に身を置くようになって、居心地の悪さはわずかに軽減されたように感じた。陽太郎が子どもながらになまえに気を遣ってくれているのがよくわかる。他の同年代の面子もこちらが触れてくれるな、という雰囲気を出せば近づいてくることはなかった。それだけはありがたいと思う。玉狛支部に異動して最初の一週間は支部の自室でぼうっと過ごしていると、暇を持て余したらいし陽太郎がやってきては彼の遊び相手になった。
 かくれんぼをしたり、絵本を読んだり、散歩に行ったり。弟がまだ小さかったときに遊んだことを陽太郎ともやった。なまえも学校に行く気にならず家の中のこと──洗濯などが主だけれど──をしていると、三雲や雨取が気を遣って手伝ってくれようとすることもある。玉狛支部に来て改めて実感したのは、なまえは年下の人間に弱いということだ。特に、弟が亡くなったときの年齢より下の年齢の子には。その中でも空閑のことは相変わらず好きになれないけれど。近界民というのはなまえにとってアレルゲン物質のようなもので、どうしても受け入れられなかった。それを咎めるわけでもなく、距離を取っている状況に理解を示してくれている周囲には感謝しかない。
 陽太郎はたまに地下にある部屋に向かって食事を持っていくことがあるが、そこには近づかないようにと林藤と木崎には言われている。なまえでも特に用があるわけでも疑問に感じているわけでもないので、近づく予定はまったくないが。なにか隠したいことでもあるのだろう。隠しごとを暴くという行為は一見正義感を満たされる行為ではあるけれど、暴かれる側にとってはひどい暴力でしかない。そういう暴力には興味がないのだ。

「そういえば、がっこうにはいかないのか?」

 夕飯の席で陽太郎が隣に座ることが当たり前になりつつあり、小南のカレーも自分の口に馴染み始めた頃、陽太郎が突然疑問を投げた。言われてから気が付いたけれど、確かにそろそろ登校しないとやばいかもしれないことに気付く。主に単位という点において。

「ちょっと待って。あんた学校に籍あったの?」
「あるけど」

 小南は普段あまり同年代に敬語を使わないという話を聞いて、そこからタメで話すようには言っていた。ボーダーの在籍歴としては小南の方が断然長いのだからお好きにどうぞ、と言うと速攻で敬語をやめていたのだ。なまえから提案したことなので構わないが、遠慮がないなと思ったことは黙っておく。
 食卓で夕飯を共にしていた木崎と小南と宇佐美と空閑はとても驚いたのか、ぽかんと口を開けてなまえを見ていた。我に真っ先に返ったらしい小南が口を開く。

「なんで黙ってたの!?」
「聞かれなかったから」

 誰もなにも言わないな、と思ってはいたけれど、どうやらずっと玉狛支部内にいるから小南たちは高校を中退したのだと思ったらしかった。一高内でももともと卒業単位が怪しいひと、として有名だったと同じ高校の烏丸が言っていたらしい。

「学校行きなさいよ!」
「え~……。まぁ、でもそろそろ行かなきゃ卒業できないか」

 冷静に必要単位数を思い浮かべながら取得済みの単位を指折り数えていると、そろそろ登校しないと確かに割とやばい。
 明日からはおとなしく行くかぁ、とぼやいていると、視線を感じてその先を追うと空閑がなまえを見ていた。視線が交わってなんとか眉を顰めそうになるのを我慢する。

みょうじ先輩は学校好きじゃないのか?」
「…………あんまりね」

 感情の窺えない眼を向けながら質問をしてくる空閑にそう答えると、ふーん、と興味がなさそうな返事をされる。聞いてきたのは空閑だというのに興味を失くすのが早い。もしかしたらこれも彼のサイドエフェクトには嘘判定されているのかもしれないが。
 ボーダーに入った頃、ちょうど高校受験前でこのまま受験せずにフリーターになるのもありか、なんてことを考えていた。それに待ったをかけたのは保護者となった城戸である。高校に興味がないと言えばせめて高校を卒業するまではしなさい、と宥められた。高校に卒業しておくだけで人生の選択肢が増えるから、と。その保護者の言葉に従ってボーダー推薦で三門第一高校に入学したのである。

「おれは、学校楽しいけどね」
「そりゃ、」

 あんたはそうでしょうよ、という言葉は飲み込んだ。空閑はおそらく近界民であることも周囲にばれていないだろうし、三雲と同じクラスだと言っていたので隊長からのフォローも厚いのだろう。
 どういう人間が周囲にいるというだけで空閑は恵まれているのだ。羨ましくともなんともないけれど。
 とりあえず明日からきちんと登校するように、と木崎に言われたので、はーい、と素直に返事をする。せっかくあと二か月くらいで卒業できるのでそれを捨てるつもりはない。
 のほほんとした空気に切り替わったことで、食事を再開してなまえは陽太郎の食事の介助に意識を向けた。

 玉狛支部から直接三週間ぶりの高校にやってくると、周囲から不審そうな視線を向けられるのに気付く。さては基地と同じように死んだ噂でも流れたか、なんてあたりをつけながら、校門とくぐって昇降口にまっすぐ向かった。昇降口に到着すると、自身のクラスの靴箱の反対側にある靴箱の前に北添の姿が目に入る。こちらから声をかけるのもな、と思ってそのまま自分の靴箱の前に立って下履きと上履きを履き替えていると声をかけられた。

「あれ、今日から登校?」
「あぁ、うん、そう」

 そのままなぜか教室まで一緒に行く流れになり、いろいろなことを聞かれた。大規模侵攻で怪我をしたのは知っていたけれど、今日までなにをしていたのか、とか。玉狛支部に異動になっていたけれどその後どうか、とか。

「玉狛に異動してから姿見なくなったから逃げ出したんじゃ、みたいな噂流れてたよ」
「あぁ~その手があったか」

 左の手のひらを右の掌外沿で打つ。玉狛支部に異動してから逃げ出せばよかったのか、しくった、とつぶやいていると、ゾエさん余計なこと言っちゃった……? と困った表情を浮かべる北添の姿に微笑んでやった。

「さて、どうでしょう」
「忘れて忘れて」
「はいはい」

 北添と肩を並べて歩いていても周囲からの視線は自分に突き刺さっているのがよくわかる。言いたいことがあるなら面と向かって言ってこればいいのに。なんで言わないんだか。結局、なまえのこの現状が変わることはないのだろう。卒業まで我慢すれば、あとは好きにしていいと城戸が言っていたのであと一ヶ月弱我慢すればいい話だ。
 階段を上がって三階に到着し、少し歩けばB組の教室の前に通りかかる。そこで北添には別れを告げてそのまま自分のクラスであるC組の教室に入って行った。教室の扉は開いていたのでそのまま足を踏み入れると、教室内が一瞬静まりかえり緊張感に似たなにかが走る。
 幽霊でも現れたと思ってんのかな、と他人事のように考えた。
 座っている座席のクラスメイトの様子が少し変わっているように見受けられたので、廊下側の一番前に座っている女子に話しかける。

「席替えした?」
「あ、あぁ、う、うん」
「わたしの席どこ?」
「ま、窓際の、一番後ろ、だよ」
「ありがと~」

 窓際の一番後ろの席ということは掃除用具入れの前だろう。席について机の引き出しの中を確認すると、置きっぱなしにされているノートの名前はなまえのものだった。提出していた数学とライティングと化学と古文のノートや配布されたであろうプリントが入っている。それを整理してから持ってきていたスクールバッグにプリント類を入れて、入れ替えるようにペンケースを取り出して机の上に置いた。
 変な空気になっている教室を無視してぼうっと外の景色を眺める。晴天の中漂う雲を見ながら今日のスケジュールを頭の中で立てた。朝食を食べているときに木崎から帰りに夕飯の食材を買ってきてほしいとお願いをされているので、スーパーに寄らなければならない。メッセージアプリの連絡先は交換済みで、アプリ内で玉狛支部のグループも作成した。そこに烏丸からでも連絡が入るのだろう。今日の夕飯担当は烏丸なので。
 学校を終えてからのことに思いを馳せてれば目の前の席の椅子にどかっと誰かが座る音が聞こえた。視線を動かさずに窓を眺めていると頭をパシンと叩かれる。

「いったぁ~」
「急に休んでんじゃねーよ」
「なに、今の前の席影浦なの」
「おー」
「だる」
「刺してくんじゃねーぞ」
「はいはい」

 目の前に座っている影浦に刺すほどに抱く感情なんてない。影浦はこちらが置かれている状況を理解しているから、滅多に近寄ってこない。なまえに近寄ってくると感情の流れ弾に合うからだろう。前後の席になんてなって大丈夫だろうか、と勝手な心配を影浦から視線をそらして思った。
 あとから登校してきたらしい水上や穂刈、村上はこちらの顔を見るなり影浦と同じように近づいてきてチョップを落としてくる。これ以上バカになったらどうしてくれるんだ、とぼやくと元々アホやろ、と水上に言われたのでなにも言えなくなってしまった。水上の頭の良さは正直学年でも上から数えた方が早いくらいなのは知っている。
 なまえは良くも悪くも中間を位置取るくらいの成績しか取っていないので、言い返せるはずがなかった。
 朝のホームルームを告げるチャイムが鳴ると同時に担任が教室に入ってくる。担任はボーダーから──というより林藤支部長かもしれない──連絡が行っていたようで、こちらを見ても驚いた表情を浮かべることはない。久しぶりに全員揃ったな、なんて教室を見渡して言う担任の視線が自分で止まって、それから笑みを向けられた。これはなまえに向かって言っているのだろう。受験を控えている生徒にはねぎらいを、就職が決まっている生徒には今後の学校生活の過ごし方を説いてから、最後に結ぶように担任は言った。

「卒業まであと一ヶ月と少し、悔いがないようにな」

 これほど自分に響かない言葉もないな、とぼうっと担任を見る。学校生活は楽しかったか、と問われるとはいともいいえとも言えない。行事などもあまり積極的に参加しなかったし、ボーダー隊員から距離を置かれることが多く、それが起因して普通のクラスメイトにも距離を置かれる三年間だったな、と思った。おそらく少し前の自分であれば楽しかったな、と思えたかもしれない。
 三輪が出会った頃のままで居てくれて、今も変わらずにいてくれていたら、悪くない三年間だったなと思っただろう。
 そうはいかないのが現実の悲しいところだけれど。
 空閑遊真という存在が悪いというつもりはないけれど、これまでああいう振る舞いをしてきた自分が今更三輪のように軟化したり、なんなら玉狛支部の人間のようにはなれないのだ。それをするには時間が経過しすぎてしまったし、始まりからすべて可笑しかったと思わざるを得ない。そんなに近界民を憎んでどうするの、とボーダーに入隊してすぐに聞いてきたのは誰だったか。迅だったかもしれないし、嵐山だったかもしれない。三輪を除いてその他の人間と会話した記憶はない。
 三輪がああなってしまってなまえ自身でも考えなかったわけじゃない。近界民を憎まずにいられたら、とか。せめて周囲をはねつけていなかったら、とか。周囲に羨ましさを覚える度、過去の自分が忘れるなとでもいうようにあの日の夢を見る。目の前でトリオン器官を抜き取られてしまった虫の息の弟の姿とそれを助けられなかった自分を。
 自分の不甲斐なさを思い出しては身につまされる思いに飲み込まれそうになる。あのときああしていなければ。あのときこうしていれば。たらればなんて考えても仕方がないけれど、考えてしまうのだ。なんとかそれらをやり過ごして、一限目の現代文の教師が教室に入ってきたところで意識を切り替える。

 昼休みになると穂刈たちに一緒に中庭で飯でも食うか、と言われたけれど、それを断って購買に行ってパンを買ってから屋上向かった。二月の寒空の下、屋上で昼食を食べようとする人間なんていないだろう、と意気揚々に歩いて屋上に到着する。錆びて重たくなった扉を開けるとギィィっと耳に不快さを与える音を立てた。扉の向こうには晴れて澄んでいる空が広がっているけれど、冷たい風が頬を撫でたのがわかる。

「あ~さむっ」

 ぼやきながら屋上に足を進めて扉は閉めた。冬だから誰もいない屋上は誰からの視線も感じなくて息がしやすい。
 周囲の視線が煩わしくて、まるで針の筵の上を歩いているような気分だった。ようやくの解放感にはーっと大きな息を吐きだし、口元から白い吐息が出ているのが見えて外の寒さを実感した。
 人っ子ひとりいない屋上でフェンスに持たれながら地べたに腰を下ろす。持ってきていたブリックパックのいちごミルクと購買で買った焼きそばパンを口に運んだ。最近は玉狛で陽太郎がいる手前、健康的な食事を強制的にさせられていたので違和感を覚える。昔はこういう昼食しか取っていなかったんだけどな、と内心で自分に呆れてしまった。なんだかんだすっかり玉狛に染まっているような気がしてならない。
 近界民と和解したつもりはないし、ほかの隊員とも進んで仲良くしたいとは思わない。
 けれど、幼い陽太郎にそういう態度を取るのはお門違いだし、心が痛むのでできなかった。ある意味彼はいい緩衝材なのだろう。
 寒い寒いと思いながら食事をしていると、スマートフォンは震えたので制服のスカートのポケットから取り出した。通知画面を見るとメッセージアプリに烏丸からの買い物リストが届いていたようだ。内容を確認するために通知をタップして、メッセージアプリの玉狛のグループ画面を開く。そこには烏丸から海老とグリーンピースとチャーシューと長葱をお願いします、とメッセージが届いていた。何をどれだけかも明記してくれているので、助かるな、と思っていると追加でメッセージが連投される。買い物に行くなら一高近くのスーパーが十パーセントオフの日なのでそこで買ってください、とまで書かれていた。烏丸は主婦なのか、と疑問を抱きつつ送られてきたメッセージに了解、とひとこと返答する。
 用が終わったスマートフォンを制服のスカートのポケットに戻して、それから焼きそばパンの残りを食べ切った。いちごミルクも残りわずかになっていたので、飲み干したらトイレに寄ってから教室戻ろう、と算段をつける。ズゴゴゴ、と行儀が悪い音を立てながらいちごミルクを飲んでいると、目の前に影が落ちた。視線をあげるとそこには首に真っ赤なマフラーを巻いた三輪の姿がある。なぜか頬が赤く染まっていて、ついでに息が上がっているようだけれど。

「あれ、秀次じゃん。久しぶり~」
「お久しぶりです。……なんでこんなところで食べてるんですか」
「人目がないから」

 けろり、と当たり前のように告げると、大きなため息を吐かれた。このため息の吐き方は知ってる。呆れているときにしてくるやつだ。なんの用で屋上まで探しに来たのかわからない三輪はそのまま隣に腰を下ろす。寒いだろうにやめれば、と言えば、話が終わったら帰ります、と言い返された。

「で? 話って?」
「玉狛はどうですか」
「別に」
「居づらさとか」
「そんなのどこにいてもあるじゃん」
「そうですけど、それでも。仲間扱いされてないとか」
「仲間だのなんだのくだんないね」
「先輩」

 咎めるような声に気分が急降下した。自分の眉間にしわが寄っているのも感じられるので、おそらく不機嫌さがよくわかるだろう。

「わたし、これからも誰ともつるむ気はないよ」

 もちろん秀次とも、という言葉は飲み込んだ。彼はこちらのカテゴリーの中から出てしまったことに気付いていなさそうで、それがどこかおかしかった。

「あと、迅に変なことされてませんか」
「そういえば玉狛に来てから迅に会ったの一回だけだわ」

 あの人普段からいないんだよね、と言うと、そうですか、と安心したような顔をした。いつの間にか三輪の表情が昔より穏やかになっていることに気付く。包丁みたいだった雰囲気がカトラリーのナイフくらいには柔らかくなったような気がした。
 話している途中で三輪のスマートフォンが音を鳴らして、確認するように促せば米屋から連絡が入った、と言う。はやく行ってやりなよ、と急かせば、三輪は困ったことがあれば連絡してほしい、と言い残して屋上をあとにした。その背中を見送りながら、錆びた扉が閉まる音が聞こえてから小さな声で吐き出す。

「秀次に頼ることはもうないよ」

 なまえ以外、誰にも聞こえないそのつぶやきは空気に溶けて消えた。

 §

 三雲が学校帰りに空閑とともに玉狛支部にやってくると、最近異動でやってきたみょうじ先輩が買ってきたものを冷蔵庫に入れている姿が目に入る。もともとあまりいい意味で有名じゃないその先輩が玉狛支部に異動になる、と聞いてきたときは大丈夫なんだろうか、と心を砕いた。近界民を絶対許さない派の象徴的なソロ隊員。どこか先日争った三輪と似た雰囲気があると思ったことのある先輩だ。そんな先輩が近界民である空閑と同じ支部に勤務、と言われると戦々恐々してしまうのも仕方のないことだろう。陽太郎と食材を片付けている姿を尻目に空閑と二人でトレーニング室に向かった。

「思ったよりこわくないよな、みょうじ先輩」

 廊下を歩いている途中で空閑が三雲に話しかけてきた。空閑が言ったことはずっと三雲自身も考えていたことである。

「あ、あぁ。というよりもむしろ、」
「むしろ?」

 空閑の言葉に同意をしながら浮かんだ考えを口に出すか躊躇したけれど、隣を歩く空閑の視線は続きを促しているのが分かった。

みょうじ先輩、そんなに悪い人だとは思えないんだ」
「それはわかる」

 陽太郎への接し方を見てから三雲たちへの接し方を見ていると、確かに大きな差がある──というよりも距離を置かれていると感じることも少なくはないが、それを不快に思ったことは一度もない。向こうも譲歩して今の距離感を保ってくれているような気がするのだ。

「近界民が嫌いなのはほんとうだろうけど、それで攻撃してくるわけでもないしな」
「そうなんだよ。本部だと結構物騒な噂が流れていたから、拍子抜けというか……」
「へぇ」

 三雲が本部で聞いた噂は近界民であれば問答無用すべて壊す、というものだったり、昔人型の近界民を平気な顔して殺していた、とか。そんなあまりよくないイメージのものばかりだ。それが先入観にあったせいで、陽太郎に接しているときの彼女を見ていると違和感を覚える。

「まぁ、噂は噂ってことなんだろ」
「なるほどな」

 空閑の言うことも一理ある、と思った。噂と言うのは婉曲して広まりやすい。実際三雲も風間との件の広まり方でそれは実感している。

「もう少し仲良くなれたらいいんだが」
「修と千佳は大丈夫だろ。あの人嫌いなのは近界民だけっぽいし」

 発言の内容になにとも言えない感情を抱いて三雲は聞くことしかできなかった。確かに、三雲の勘違いでなければなまえは年下に優しい感じがするのだ。意識を先輩から目の前のB級ランク戦に向ける。次の戦いでもより多くの点を取らなくてはならないな、と三雲は内心で意気込んだ。

烏丸が作った夕食の五目チャーハンを食べている途中で、防衛任務だから、と玉狛第一の面子と宇佐美は出かけて行った。玉狛支部に残されたのは空閑と陽太郎と自分だけで。林藤は司令部に行っているし、三雲は太刀川隊の訓練室に行き、雨取は狙撃手の訓練に行くと言っていた。近界民に幼児にアンチ近界民派の自分。混沌とした場だな、と思うが口にはしなかった。
 チャーハンを食べ終わってから食器を洗うからシンクの洗い桶に浸けておくように空閑と陽太郎に告げる。さすがに少人数しかいないので食器を洗うくらいのことは自分でしようと思った。任務に出かけられるわけもなく、ただの穀潰しになっている自覚はあるので。

「空閑、陽太郎お風呂に入れてくれる?」
「わかった」
「え、きょうはゆうまとはいるのか?」
「わたしは洗い物と洗濯物の取り込みがあるからね。また明日一緒に入ろう」
「……わかった」

 納得できてなさそうな気配は感じるけれど、空閑に連れていかれて陽太郎は浴室に向かった。二人が居なくなってから目の前の洗い桶に入っているたくさんの食器を順番に洗剤で洗い、それから水で濯いで水を切り食器乾燥機に入れていく。
 ここにいない玉狛第一・玉狛第二の面子が使っていた食器まで残されているので、洗い終わるにはなかなかの時間がかかった。
 ようやく全部の食器を洗い終わるころには疲れたせいかふーっと息が漏れる。空閑に陽太郎のお風呂を代わってもらったのは正解だったな、と自分の判断が正解だったのを再確認した。五分ほど休憩をしてから、意気込んで次は洗濯物を取り込むために屋上に向かう。ランドリー室によってかごを持ってきてそのまま屋上までの階段を上った。
 屋上の扉を開けると取り込まれていない洗濯物が視界に入る。そういえば玉狛支部の屋上は高校の屋上よりも扉が軽いし、錆びてもいないな、と思った。高校の屋上もこういうのになればいいのに、なんて考えるけれど、どうせあと一ヶ月と少ししかいないのだから、考えても仕方ないか、と結論を出す。
 洗濯竿にかけっぱなしになっているシーツやタオル、Tシャツやジャージなどかごの中に入れていった。

みょうじ先輩」
「空閑」

 名前を呼ばれて振り返るとまだ髪に湿っている空閑が姿を現した。ちゃんと髪乾かしたら、と言えば、シゼンカンソウでだいじょうぶ、と言うので放っておく。本人がそう言うのであれば自己責任だ。
 これが陽太郎だったら無理やりにでも髪の毛を乾かしているところだけれど。

「ようたろうはおふろ入れおわったよ」
「ありがとう」
「取り込むの手伝う」
「どーも」

 各々で近くにある洗濯物から順番にかごに入れていく。昨日から晴天のお知らせがあったせいか、洗濯物がいつもより多い気がした。ここ最近曇天の空が続いていたから仕方ないのかもしれないけれど。
 洗濯物を取り込みながら空閑が話しかけてくる。耳は空閑の言葉に傾けながら、洗濯物を取り込む手は止めない。

「[suename]先輩はさ、なんで近界民は憎いの? わるいひとには見えないのに」
「ちがうよ、近界民が憎いんじゃなくて自分が憎いんだけ。自分のことを殺したいくらいには」
「自分を?」

 不思議そうに眼をまんまるとする空閑を見て、たくさんの後悔とすこしの憎しみを込めた声で話しを続けた。
 あの日の景色も気候も臭いも弟の姿も、何もかも未だに鮮明に思い出すことができる。

「…………弟がね、目の前で死んだの。四年前の侵攻で。トリオン器官を強制的に抜き取られて、それで即死できてたらよかったんだろうけど、あの子は息が残っていた。泣きながらずっとあの子はわたしに言ったわ。姉ちゃん、助けてって」
「おとうとは?」
「死んだよ。最後まで泣いてた。そんなあの子を助けられなかった自分が死ぬほど嫌いだし、殺してやりたいくらい」
「そっか。それで近界民が嫌いなんだ」
「それもあるね」

 こんな重たい話、三輪にしかしてこなかったけれど、これで空閑がすこしでも傷ついてくれたらそれで下がる溜飲もあるかもしれない、と思った。利己的でひどい人間だと自分のことを嗤いたくなる。

「それはおれもわかる」

 まさか共感されると思っていなくて、今度はこちらが驚きで見開く番だった。空閑はなまえが聞いていなくてもお構いなし、とでもいうように話を続ける。空閑も自分のせいで目の前で父がなくなったことを話し、そして、父が目の前で黒トリガーになったことも話した。空閑の話を聞くと確かにお互い似たような境遇だったのかもしれない。それでも、現状以外の接し方をする気はないけれど。
 同じような傷を持っていても完全に一致をしているわけではない。なまえと全く同じ境遇なのは三輪だけなのだ。

「あ、そうだ」
「うん?」

 三輪のことが頭をかすめたついでに空閑にお願いをひとつする。了承してくれるかわからないが、お願いをするくらいは許してほしい。三輪は本来とてもやさしい人間なのだから。

「秀次は根がいい子だから、仲良くしてあげて」
「向こうはおれのこと苦手そうだけど」
「まだ自分の中で折り合いがついていないだけだと思う」
「まぁ、ほどほどに仲良くする」
「うん」

 了承の言葉をもらえて安心する。空閑はきっと周囲に好かれるタイプというか一目置かれるタイプの人間だ。これからも周囲に気にかけられるだろうから、そんな存在と険悪というのはあまりよくないだろう。今後の三輪隊の立場にも影響があるかもしれない。なまえは一人でふらふらとしているからいいけれど、三輪は隊長だ。周囲のことも考えて振舞うことをそろそろ覚えてほしいと思う。

「さっき、三輪先輩は根がいい子って言ってたけどみょうじ先輩はちがうの?」
「どうでしょう」
「ウソはついてなさそうだけど、ホントでもなさそう」
「……遥か昔のわたしはいい子だったかもね」
「ふぅん。あ、先輩とは仲良くしなくていいの?」
「要らな~い」

 最後にお道化た調子で行ってくる空閑にこちらもお道化た調子で返す。近界民と仲良くする気はさらさらないよ、とはっきりと告げれば、空閑も不敵に笑って知ってる、とだけ返事をした。ちょうど取り込みが終わったところで、二人で顔を見合わせて小さく笑いながらかごをもってリビングに戻っていく。階段を下りてリビングにつくと、テレビを見終わったらしい陽太郎と空閑となまえで洗濯物を畳んだ。
 まさか自分が近界民と肩を並べて洗濯物を取り込んだり畳んだりするだなんて思ってもみなかったな、と思っていると、空閑がまたなにか思い浮かんだのか話しかけてくる。

「つらくないの?」

 その言葉に、先ほどの会話の続きであることを理解した。きっと近界民や自分を憎んでいてつらくないの、と聞いているのだろう。その言葉にまっすぐと空閑を見つめて言い返した。

「わたしが今までの人生で一番つらかったのは、弟が助けてと伸ばしてきた手になにもしてやれず、そのまま目の前で死なせてしまったことだけだよ」

 そう、と寂しげな色の返事をされるけれど、きっと空閑なら少しはわかるんじゃないかな、と自分にとって都合のいいことを考えた。

 空閑と程よい距離感を確定できたと実感し始める頃、後出しのように捕虜の近界民であるヒュースの話を聞かされたときは、玉狛支部を真剣に出て行ってしまおうと、と思った。陽太郎と玉狛第二組に引き留められたので不承不承に残ったけれど。しばらくの間はヒュースに近づかない生活を送ったのは言うまでもない。
 玉狛第二がB級ランク戦五日目夜の部に出るというのと、玉狛第一が急遽防衛任務になった、というので自室にこもってベッドに横になっていた。最近はヒュースと顔を合わせたくなくて部屋にこもっているか屋上でぼうっとしているときが多い。空閑のことは若干許容できつつあると思うが、ヒュースはまた別の話だ。なんならなまえはヒュースの仲間に殺されかけたのだから。それを受け入れられる三雲の器の大きさに関心と呆れを抱きながら、自分は空閑以上にヒュースに対して距離を取ることでしか自己防衛できそうになかった。空閑は三門市を襲わなかったから許せるけれど、ヒュースは三門市を襲った明確な敵だ。
 たとえ仲間に置いて行かれたといっても、襲った事実に変わりはない。そこを割り切れるほど大人にもなれないのだ。ここで大人になれるような人間だったら最初から一人狼のピエロなんてしていない。
 不貞腐れるようにベッドで眠っていたけれど、ふと目が覚めてお手洗いに向かう。寝る前にお茶を飲みすぎたのかもしれないな、なんて思っていつつトイレで用を済ませて部屋に戻ろうとすると、二つの部屋のドアが開いていた。陽太郎とヒュースが使用している部屋だ。それぞれ中を覗きこむとそこはもぬけの殻だった。雷神丸の姿さえ見当たらない。

「あぁ、もう……っ!」

 小さな子どもが近界民とはいえ高校生くらいの男と二人で外に出るなんて。変質者に遭遇していたりしていないか心配になって、自室に戻りジャージの上着を羽織りながら焦って部屋を飛び出した。なにかあったときなにもできないという状況だけは、嫌なのだ。あの日からそれだけはしないようにしている。

「どこに行ったのよ……」

 サンダルに乱雑に足を通して基地の施錠のカギをひっつかむ。基地の戸締まりをしつつどこに探しに行くか思考を巡らせた。
 いつ二人が居なくなったのかそこから考えないと。寝起きの頭なのでうまく考えがまとまらない気がする。
 とりあえずよく行く商店街の方に行くべきか、とあたりとつけて走り出そうとしたところで、ここ最近久しく見ていなかった姿に呼び止められた。

「ストーップ」
「迅」

 迅の背中越しに陽太郎とヒュースと雷神丸がいて、陽太郎に駆け寄って抱きしめる。寒空の下、外にいたらしく身体が冷えていると思った。温めるためになまえの着てきた上着を陽太郎に着せる。

「よかった……」
「しんぱいかけてすまない」
「本当に、心配したよ」

 せめて出ていくときに一声言ってほしかった、と告げれば陽太郎は反省したのか、つぎはちゃんという、と言うので今回は見逃すことにした。

「迅が連れ戻してきたの?」
「そんなとこ」
「そう」

 陽太郎を腕に抱いたまま迅に問いかけるとすんなりと肯定される。視えていたのだろうか。こういうとき、迅のサイドエフェクトが便利なのはすこしだけ羨ましいと思う。

「まぁ、間に合ってよかったよ」
「本当に。陽太郎が無事でよかった」

 視線をそらされながら言われたことに同意のうなずきを返すと、そうじゃないんだけどな、とぼやく迅の言葉は聞こえていなかった。

 まだ夜も深い時間だから寝よう、と陽太郎に提案して、陽太郎がいっしょにねよう、と言うのでそれに了承する。陽太郎を抱いたまま基地の中に戻ろうとすれば、ヒュースが入り口で足を止めているのが見えた。

「入らないの」
「おまえはオレが嫌いだろう」
「あぁ、そうだね」
「オレは迅と約束をしたから、これからもしばらくここにいるぞ」
「……そう」

 そうするのは勝手にしたらいい、と言いつつ、先に基地の中に入っていた迅をひと睨みするのを忘れない。

「陽太郎に迷惑をかけないで。わたしからはそれだけだよ」
「わかった」

 なにがヒュースの納得に繋がったのかはわからないが、腑には落ちたようだ。
 ヒュースを基地の中に迎え入れて、陽太郎を抱いたまま雷神丸を伴って自室に戻る、と迅に告げる。あとのことは迅がいいようにするだろう、と決めつけて自室のある二階までの階段を上った。

 ヒュースと陽太郎による夜間の逃走騒動は小南などほかの隊員にも共有され、お叱りを受けているのを見守る。それから、なまえの知らないところでヒュースがボーダーに入隊することが決まった、と聞かされた。また近界民がボーダー内に増えることに対して、いやだな、という感情を隠さずに表情に出す。小南が文句を言ってきているのが聞こえるが、聞こえないふりをしておいた。
 なまえと陽太郎、雷神丸、林藤支部長以外の人間が出払っていて、陽太郎も雷神丸といっしょに昼寝をしているときのことだ。初めての夕飯担当にいろいろ頭を悩ませていると、いつの間にか部屋から降りてきていたらしい林藤に話しかけられる。

「少しは考え変わったか?」
「まさか、全然。そんなこと最初から期待してなかったでしょ。林藤支部長も城戸さんも」
「バレてたか」

 おどけた表情を浮かべつつも内心では何を考えているのか悟らせないまま、林藤が言葉を続けて問いかけてくる。

「ヒュースが憎いか?」
「当たり前でしょ。でも、」
「でも?」
「彼が〝クローニン〟であるのなら、すこしは我慢できるかもね」
「そうかい」

 ここが精一杯の譲歩のラインだと林藤に告げると、林藤も言外の意味をしっかり受け取ってくれたようで、まぁそこが現状の妥協点だろうな、と言う。これ以上の歩み寄りはしません、とはっきり言い切れば、そこまでしてるだけえらいさ、と謎に褒められて名状しがたい気分になった。

 §

 玉狛支部で暮らすようになって表情が柔らかくなった気がする、と言われたのは一度や二度どころの話ではない。自分ではそこまで意識していないけれど、周囲からだとそういう風に見えるらしい。だからどうした、というのが本音だが。

「おまえ明日のランク戦観に来るんか?」

 水上に声をかけられたのは、陽太郎とヒュースが夜に徘徊していた日の翌日のことだった。今まで任務の話をしてもランク戦の話はしなかったのに、急にランク戦の話を持ち出されて困惑する。ランク戦など今まで数えるほどしか観ていないし、自分の組織内のポジション上あまり観に行く気にならなかった。なんなら三輪隊がA級に上がったときが最後の観戦かもしれない。内容はあとでログを確認すればいいし、リアルタイム観戦にこだわりはなかった。どうせなら任務を入れられる方が気楽だと思っていたくらいである。

「なに、急に」
「いや、最近玉狛の連中と仲良さそうやから」
「まぁ、玉狛で生活してるし仕方ないよね」

 さすがに世話になっているのに買い出しやら家事を手伝えません、とは言えないし、学校帰りに買い出しとなると、大体昼休みに材料の連絡がスマートフォンに届いたり、たまたま購買で会った烏丸にその場で頼まれたりするのだ。
 一度、香取と購買でたまたま会って、話している最中に烏丸に呼び止められたことがある。その日は夕食当番を代わってほしい、と言う用件だったが。烏丸との会話中は顔を真っ赤にして石のように固まっていた香取が、烏丸がその場から去った途端に肩を掴んできて激しく揺らしてきた。言葉にならないことをいいながらもぎゃっている姿を見たのは、その時が初めてだったので面を食らったのはよく覚えている。
 支部所属なのは知っていたけれど、住んでいるとまでは思わなかったらしい。
 興奮半分、泣きそうになっているのが半分の表情で烏丸に好意なんてありませんよね、と震えた声で言われたときは笑ってしまったけれど。

「香取、本当に烏丸のこと好きなんだね~」
「そういう話は今してないんですよ! で!? どうなんですか!?」
「ただの同じ支部の同僚なだけだって」
「言いましたね!? あとから好きになったとかナシですよ! 絶対!」
「ナイナイ。安心しな」

 こちらの答えに満足したらしい香取はいつもの調子を取り戻して懐いてきていた。現金な子だなぁ、と思ったけれど言葉にはしない。
 そういった玉狛の面子とのやり取りが増えているからか、玉狛支部と和解したなんて言われているのだ。こっちは和解をしたつもりはない。妥協はしたが。
 話を戻して、水上がどうしてそんなことを言ってきたのか考える。そういえばここ数日、三雲が夜遅くまでどこかのチームのログを見ていたことを思い出した。そこには赤と黒の隊服と、真っ黒でどこか上品さを感じる隊服が映っていた気がする。

「あー、そういえば、次生駒隊と王子隊となんだっけ?」
「そうそう」
「うちの子たちがログ見てたわ~」
「ほー。どんな作戦立ててた?」
「言うわけないじゃん」
「なんや、つまらん」

 つまらんくて結構、と水上に言葉を返す。そもそも彼らになまえは基本的に触らないようにしているし──三雲が意見を求めてきたときは答えてはいるが──、知っていたとしても敵に教えるわけがない。いくら玉狛嫌いでもそこまで落ちぶれてはいないつもりだ。
 口を割る気がないとわかったらしい水上はとっとと話題を変える。水上のこういう切り替えが早いところは嫌いじゃない。取捨選択がうまい、というのはこういう人間のことを指すんだろうな、と思ったのは一度ではない。

「んじゃ帰りに寄り道しようや」
「え、なに急に」
「なんとなく」

 水上と放課後に出かけたことは何度かある。なんの因果か、水上とは三年間同じクラスで、なんなら名前の順の都合で一学期は必ず前後の席になるのだ。だから他のクラスメイトたちよりも気安い関係だと言えなくもない。出かけるときは大体本屋に行きたいんだよね、というとじゃあ俺も、という感じでつるむ。
 事前に約束はしないし、行き当たりばったりだ。
 んじゃ、放課後逃げんなよ、と言いながら水上は廊下側の一番後ろにある彼の席に戻っていった。
 眠たい授業をなんとか乗り越え帰る準備をしつつスマートフォンをポケットから取り出す。メッセージアプリを起動させて、玉狛支部のグループのトークに帰るのが遅くなりそうだから、夕飯いりません、と入力した。すぐに既読がついてすぐに宇佐美から了解、とかわいらしいうさぎのスタンプが送られてくる。これで夕飯不要の旨は誰かには伝わっているから大丈夫だろう、と思い、スカートのポケットにスマートフォンを戻した。

「準備できたか?」
「んー」
「んじゃ行くか」

 帰る準備が整ったらしい水上がリュックを背中に背負ってなまえの元にやってきた。なまえもスクールバッグを肩から掛けて、帰る態勢を整える。
 二人で肩を並べて歩いていて昇降口に向かっている途中、たまたま会った隠岐や細井にさようなら、と挨拶をされた。水上のついでだろうが、礼儀正しい子たちだな、と思う。基本的に他人と距離を置く学校生活をしてきたから、こういう普通の対応をされると少々戸惑った。隊長の生駒が愉快らしいから、人が好い子が集まっているのだろう。その中で、なぜ水上がこんなに性格が悪いのかは理解ができないけれど。

「生駒隊って優しい後輩多いよね」
「まぁ、ややこしくはないわな」
「でしょ。水上が性格悪いからその反動?」
「しばくぞ」

 こっわ、と肩をすくませていると、容赦なくチョップを落とされた。穂刈といい、水上といい他人の頭にチョップを落とそうとするのか。理解に苦しむ。これ以上馬鹿になったらどうしてくれるんだ。
 教室から昇降口に到着し、靴を履き替えているところで声をかけられた。聞き覚えのある声に振り返ると、先ほどグループのトークに既読はついて居なかった烏丸の姿がある。

「あれ、烏丸どうしたの」
「先輩、今日ご飯支部で食べないんすか?」
「うん、ごめん。でも木崎さんの肉じゃがは食べたいから、わたしの分タッパーにでも入れておいて」
「了解です。帰る時間わかったら支部長に連絡してくださいね、陽太郎が心配するんで」
「はいは~い」

 一応陽太郎がお風呂に入るまでには帰りたい、と思っているけれど、最近のお子さまはいつ寝てしまうかわからないから、はっきりとは言わなかった。

「すっかり〝玉狛の人間〟って感じやなぁ」
「なにが」

 感情の読めない視線を向けられ、まるで蛇に睨まれた蛙のような緊張感が走る。まるで勝手に非難されているような気分になるのは、自分の性格がゆがんでいるからかもしれない。

「ちょっと前のおまえやったらあり得へんなって」
「そうね」

 多少の変化が起きていることは否定しない。けれど、なまえの心情としては陽太郎と三雲や雨取がいるから懐柔されざるを得ないというか。自分が年下に強く出れるほど冷酷になれないのが残念なところである。
 昇降口で靴を履き替え終わり、そのまま水上がすこし先を歩くのに置いて行かれないようについて行った。気怠そうに歩くわりに足が長いからなのか、水上に追いつくためにはそれなりに早歩きしないといけないのがつらいところだ。穂刈もそうだが、身長が高いやつは全員足が短くなればいいのに、と思わなくはない。
 校門から高校を出て、そのまま水上とよく本屋に向かうときに使う道を歩く。こちらが早歩きのせいで息が上がっていることに気付いたらしい水上がようやく足を進める速度を緩めた。やっとの思いで水上の隣に並ぶと馬鹿にしたような視線を向けつつ鼻で笑われる。

「お前、足でも縮んだか?」
「は? 病み上がりなだけだわ」
「すまんすまん」
「というか、どこに付き合わされるの、わたし」
「着いてからのお楽しみ」

 まぁ、悪いようにはせんから着いて来い、というのでおとなしく従う。見慣れた景色を進んでいけば、水上は見慣れた商店街の本屋の前で足を止めた。中に入る、と声をかけられて同じように中に入る。
 随分本屋には来ていなかった──というよりも、そもそも大規模侵攻以降は入院生活と玉狛支部での療養であまり外に出ていなかったのだ。買い出しで外に出ても玉狛支部から商店街はそれなりに距離があるので利用していなかった。陽太郎が同伴することも多いので、あまり支部から離れないようにしている。迷子になったりしたときに困るので。
 本屋の中に入ると、内装は大きく変わってはいないが、陳列の配置がところどころ変わっているように思う。いつの間に変わったのだろうか、なんて考えながら本屋の中をぶらぶらとした。読んでいた本の最新刊などが新刊の棚に並んでいるのを見て、時間の流れを猛烈に感じる。自分がいかに普段の生活と離れていたのかを実感した。
 ぼーっと店内を眺めていると、背後から硬いなにかで頭を叩かれる。振り返ると本を買い終わったらしい水上の姿があった。手に紙袋を持っているのでそれで頭を叩かれたらしい。何回人の頭を叩いてくるんだこいつは。

「待たせた」
「いいけど。水上はわたしの頭を叩かないと死ぬの?」
「いや? 全然」
「じゃあ叩くな」
「なんか叩きたくなるんよなぁ」

 そんな気分で叩かないでほしい、とぶつくさと言っていると、移動するで、と本屋の外に出る。自分の買い物に付き合わせたかっただけらしい。本当になぜ今日誘われたのかわからず困っていると、本屋を出てすぐのところにある喫茶店に連れていかれた。外観だけでいつも気になって入れなかった喫茶店に先に入っていく水上のあとに続く。
 カランカラン、とドアが開いたことで備え付けられているベルが鳴った。内心ドキドキとしながら店内に足を踏み入れると、店主がお好きな席へ、と案内してくれる。水上はどうも、なんて返事をしながら店内でも光を感じやすい窓の近くの二人席に座った。水上が座った反対側の席に座るように言われて、促されるまま腰を下ろす。お冷とメニューを持って来た店主がお決まりになったらお声がけください、と言葉を残してカウンターに戻っていった。

「水上ここよく来るの?」
「たまーに、な」
「ふぅん」
「俺はブレンドにするけど、おまえは?」
「カフェラテにしとく」
「おー」
「サイドメニューは、あとで飯食いに行くからええか」
「え、これで終わりじゃないの?」
「むしろこの後がメインイベントやろ」
「詳細を聞いてるわけでもないのにメインもくそもないっての」

 こちらの文句には取り合わず、水上はカウンターの店主にブレンドといちごミルク、と勝手に注文していた。別にいいんだけど、先ほどのメインイベントやらが気になる。それについて問いかけてもあとでわかるって、とはぐらかされてばかりだ。
 ブレンドコーヒーとカフェラテがやってきて目の前に置かれる。
 ガムシロップを一つ分湯気の立っているコーヒーカップに入れた。普段からいちごミルクなどを飲んでいる人間だから、やっぱり甘さが欲しいのだ。よく混ぜたカフェラテの入っているカップを口元に運び流し込む。程よい甘さが舌を刺激してほっとした心持ちになった。

「ずっと聞きたかってんけどさ」
「なに」

 じっ、と視線を逸らさずにまっすぐと見つめられる。同じように見つめ返して会話の先を促せば、水上は口を開いた。

「しんどないんか、おまえ」
「なにが」
「俺は、おまえとそれなりの時間過ごした自負がある」
「そうだね」

 三輪以外で一番時間を過ごしているのは確かに水上だろう。三年間同じクラスだったのは伊達ではない。きっとこちらの変化にも気づいているんじゃないか、という疑いはあった。元々べらぼうに賢い人間なので。そんな水上が復帰してからなにも言ってこなかったことは、こちらに大した興味がないからだろう、と思っていたけれど、そうではなかったらしい。

「元々難儀な女やな、とは思っとった。けど、最近のおまえには違和感がある」

 そう思われるのも仕方のないことだろう。水上はこうなってからのなまえのことしか知らない。元々の家族構成しか知らないだろう。そんな水上が今の自分に違和感を覚えることはある意味正常だと思った。けれど、元々弟の世話をしていたことなどを知ってる人間からすれば、年下をきっかけに丸め込まれているということは気付く。三輪も薄々気付いているかもしれない。ある意味学校生活を主にかかわっている水上たちでは気付かない面である。年下に弱くて、年下にはやさしくしてしまう性分なのだ。

「大人になっただけだよ。大人になれ、と大人たちが言ったから」
「さよか」

 おまえがそれでええならええけど、とちょうどいい距離感を保った返事をされる。そう、大人になりなさい、と言われているのだ。城戸に直接言われたことはないけれど、そういうことなのだろうと思う。林藤も妥協点を見つけた自分を褒めてきたので、すべてを許す必要はないけれど、許すべきところは許せ、とそういう話なのだ。〇か一〇〇で決めるんじゃなくて、三○でも五○でもいいからもう少し心を大きく持て、と。
 話がひと段落してからはくだらない話をして──主に生駒の話だ──、自分のカフェラテも水上のブレンドコーヒーも飲み終わったところで、水上がスマートフォンを確認した。

「そろそろええ頃合いやな、行くぞ」
「はいはい」

 テーブル席から立ち上がって、財布を取り出そうとすると、これくらい奢ったるわ、と水上がまとめて会計を済ませてしまった。別に頼んでないのにな、と思っていると店を出てまた商店街の中を歩いていく。さっき奢ってもらった分は明日にでもお金を返そう、と決めた。なまえだって同じくらい稼いでるので。水上のあとをついていくと、とある店の前で足を止めた。店の看板を見上げて、店名を確認すると何とも言えない気持ちになる。ここに本当に入るの、と問いかける前に水上が慣れた手つきで引き戸の入り口を開けた。

「カゲ~、連れてきたで」
「え、ちょ、みずかみ」

 入りづらくて入り口でもたもたしていると、中からクラスメイトのもじゃもじゃ頭が顔を見せた。黒のTシャツに彼の苗字が書かれていて、ここが彼──影浦の家であることを理解する。影浦に店内に招き入れられて後ろをついていくと見慣れた人間が何人かいて、テーブル席を二つ七人で埋めていた。ああ、今すぐ帰りたい、と思う。案内された席に嫌々ながらに座ると、メニューを犬飼に渡されておすすめの説明をされた。どうしてこの場に自分がいるのかわからないし、夕食を玉狛支部で陽太郎たちと一緒に食べたほうがマシだったな、と真っ先に思ったのは言うまでもない。